『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』Hiroshima mon amour (Argos Films, Como Films, Daiei Motion Picture Company LTD et Pathe Overseas Productions'59.6.10)*86min, B/W*日本公開昭和34年6月20日
[ 解説 ] 日本で公開中止になりかけた「夜と霧」の監督アラン・レネが、はじめて監督した、日仏合作のかたちの劇映画。日本ロケにやってきた、戦時中ドイツ人を恋人に持ったフランス女優と、広島の日本人技師との一日の恋が描かれる。原作・脚色はマルグリット・デュラス。撮影を仏側サッシャ・ヴィエルニー、日本側を高橋通夫が担当している。音楽はジョヴァンニ・フスコとジョルジュ・ドルリューの共同。主要出演者は仏側の新人エマニュエル・リヴァと、日本側の岡田英次のみである。製作ジャック・アンドレフェーと永田雅一。
[ あらすじ ] 薄闇。男女が抱きあう。彼女(エマニュエル・リヴァ)がつぶやく、《私、広島で何もかも見たわ》彼(岡田英次)が答える、《君は何も見ちゃいない》病院、被爆者の顔、苦しみの図、あの影、焼けた石。博物館のきのこ雲の模型。平和広場。記念アーチ。橋や川。《何も見ちゃいない》午前四時だ。彼はあの時、夏休みで広島にいなかった。彼女は映画出演でパリから広島へきた。その前はイヨンヌ県のヌベールにいた。二人は偶然知り合った。彼は建築技師だ。彼女は広島の映画で看護婦に扮していた。《あしたの今頃、フランスへ発つの》二人はホテルの彼女の室を出た。《ヌベールで気が狂ったことがあるの》彼女が歩きながらいう。――病院の前で、彼女の映画のロケが行われる。彼は彼女を探す。女は木蔭で休んでいた。撮影隊はデモ行進を撮った。二人はデモを眺める。彼にさそわれ、女は男の家へ行く。妻は留守だ。《私だって夫と幸福よ》二人は抱きあう。彼女が戦争中に愛した男(ベルナール・フレッソン)はドイツ人だった。《そして、彼は死んだの》その時、彼女は今日の女になり始めたのだろう。出発まで十六時間しかない。女は悲痛な顔で室を見廻す。もう夕暮だ。――川べりの喫茶店に二人がいる。女の意識のなかで、彼と、ドイツ人の恋人がひとつになる。恋人が死んだあと、女は突然叫びだす。父(ピエール・バルボー)に地下室に閉じこめられる。地下で彼女は二十の誕生日を迎えた。永遠が過ぎる。何も覚えてはいない。《私はあなたが好きで気が狂いそうなの》髪の毛は徐々にのびた。若い男達が彼女を丸坊主にしたのだ。彼女の死んだ恋はフランスの敵なのだ。《怖いわ》女はふるえだす、《あれだけの愛情を忘れてしまうのは》ロワール河の橋で彼とあい一緒に出発するはずだった。着いた時、まだ彼は息があった。庭の誰かに撃たれたのだ。女は死骸のそばに一昼夜とどまった。その夜、ヌベールは解放された。――ある日、母(ステラ・ダサス)が彼女を夜のうちパリへ発たせてくれた。翌々日パリに着くと、広島の名がすべての新聞に出ていた。その名は平和を意味していた。《あれから十四年も経ったのね》彼女は目覚めたようにいう。ヌベールの話は夫にも話さなかった。《頭に剃刀をあてられると、人間の愚かさをはっきり知らされるものね。私はあの時間を生きたかったの》夜は更けてい、二人は店を出た。彼は別れたくなかった。――彼女はホテルへ帰ったが、涙を流している。洗面台に顔を沈める。《私は今夜あの異邦人と共にあなたを裏切ったの。……私はあなたを忘れて行く。私を見て》彼女はホテルを走るように出た。彼を求めて川の店の前まで行く。彼が暗闇から近づく。《広島に残らない?》《もちろん残るわ》彼女は広島の街々をさまよう。彼がついていく。雨が降りだした。《残ることはできない?》《よく判っているくせに。別れることより不可能よ》雨がやみ、彼女は明るい駅の待合室へ入っていく。彼はもう争おうとしない。彼女がすでに失われてしまったことを知っているのだ。《私が忘れていたヌベールよ、私は今夜おまえに会いたい》彼女は彼をみつめる。《この男の恋があの愚かしいヌベールの地下室の私にまでやってきたのだわ》地下のナイト・クラブでは、彼はすでに遠くにいるように見えた。――彼女はホテルの室へ帰る。彼が入ってきた。二人は向きあったまま立ちつくす。広島はまだ眠っていた。女は急に目をおおってうめく。暗い悲嘆の声だ。彼は歩み寄り、女を烈しく抱く。彼女は叫んだ。《私はあなたのこと忘れるわ。もう忘れてしまったわ。私が忘れていくのを見て。私を見て》明け方の駅前広場ではもうネオンが消えた。
――このあらすじは会話を多く引用していながらもっとも決定的で映画の焦点を結ぶ結末の台詞を落としています。映画のラストシーンはそれまで名前のなかった二人が最後の別れに相対して、男が「僕の名前はヒロシマだ。……そして君の名前はヌベールだ」と決して交わることのない戦争体験とその体験の懸隔、映画全編に渡って二人が直面してきた戦後15年近くが経過した歴史の風化と、生きている人間にとって不可抗力な記憶の忘却への無力を痛切に切り取っており、忘れ難い印象を残します。本作は次作『去年マリエンバートで』と同様、登場人物に名前がなく、しかもたまたまナイト・クラブで居合わせた客の男、ベンチで挟んで座った老婆くらいしか台詞がない徹底して主役のフランス人女性と日本人男性だけの対話劇です。広島の原爆投下時女は20歳、男は22歳という会話がありますから、この広島の戦災を描いた作中作の日仏合作映画のため来日した女優のヒロインが広島を訪れてこの出来事が起こったのは前年昭和33年=1958年で、ヒロインは33歳、日本人建築家の男は35歳という設定になります。それはベッドの中から始まり翌日の女優の最後の撮影場面完了からさらに広島の街中の散策に続き、喫茶店、男の自宅、ナイト・クラブ、さらに女優の泊まるホテルの部屋での別れまで続きます。脚本のマルグリット・デュラスはのちに自らも優れた映画作家になりましたし、本作の女性映画としての側面はデュラスの脚本によるものでしょう。エマニュエル・リヴァは本作のイメージが強すぎて女優としては大成しなかったと言われるのもうなずけるほどこの映画のヒロインとして唯一無二の存在感があり、岡田英次も本作あってこそのちに『砂の女』に起用されたのが納得のいく堂々とした国際俳優ぶりです。音声のうち現実音はともかく台詞はすべてオーヴァーダビングによると思われますが、フランス語ができなかった岡田英次は口伝てで教わった通りに台詞をしゃべったそうで、フランス語のエロキューションのニュアンスがわかる観客にはどうかわかりませんが、本作のような日常的なリアリズム劇とは異なる次元で人物が描かれている作品の場合には、リヴァと岡田の会話もフィクションとして成立しているため十分説得力があるように見えます。映画冒頭からこの二人は会話というよりも交わらないモノローグを交錯させているので、冒頭のシークエンスに関して言えば実際に交わされた会話というよりも会話体のナレーションを男女のモノローグの形式で分けあっていると解した方が自然でしょう。映画は中盤以降にヒロインの戦時下の回想シーンに入ってから俄然切迫感を増しますが、そこで広島市とヌベール、太田川とロワール川、広島の街中の白猫と回想の中のヌベールの黒猫などの対照が次々と喚起されてくる。ヒロインの戦争体験があまりに個人的で痛切なものだけに、かえって広島の個人の想像の域を超えるほどの巨大すぎる災禍が遠景に退いてしまう、そのためなおさら体験とその忘却・風化が生き続けている人間にとって不可抗力であり、ヒロインが戦時下で愛したドイツ兵との蜜月のようにこの日本での短い恋愛もはかないものであることを結末ではヒロインも主人公も理解しています。日本人建築家の主人公はヒロインに「僕の名前はヒロシマだ。……そして君の名前はヌベールだ」とこの恋愛の意味を告げるしかないので、二人の間を隔てる懸隔がこの男女を結びつけ、また別れさせるものという認識がこの恋愛映画に筋を通しています。背景にある戦争体験がこの映画を戦争体験への考察を重ね合わせる映画にしているにしても、二人の人間、それも性愛を含めた男女にあっても逃れようがない人生の交錯の限界を描いて切実な情感を伝える映画になっているのはこうした人間性への洞察によるものであって、本作はスタイリッシュなアート・ムーヴィーとして審美的に楽しむこともできますし、くり返し観るたびにスタイルを超えて本質的なテーマが心に沁みてくる作品です。レネの映画は「夜と霧」と本作『二十四時間の情事』がもっとも飾らず訴求力のある作品ではないかと思われます。
●2月26日(火)
『去年マリエンバートで』L'Annee derniere a Marienbad (Argos Films, Cinetel, Les Films Tamara, Precitel, Societe Nouvelle des Films Cormoran, Cineriz, Como Film, Silver Films, Terra Film Produktion'61.6.25)*93min, B/W*日本公開昭和39年5月2日
[ 解説 ] アラン・ロブ・グリエの脚本を「二十四時間の情事」のアラン・レネが監督した心理ドラマ。撮影はサッシャ・ヴィエルニー、音楽はフランシス・セイリグ。ピエール・クーロー、レイモン・フレーメンが共同で製作を担当した。出演はデルフィーヌ・セイリグ、「エヴァの匂い」のジョルジョ・アルベルタッツィ、「スパイ」のサッシャ・ピトエフなど。ベニス映画祭でグランプリを受賞している。黒白・ディアリスコープ。
[ あらすじ ] 豪奢だが、どこか冷たいたたずまいを見せる城館に、今日も富裕らしい客が、テーブルを囲み、踊り、語って、つれづれをなぐさめている。まるで凝結したような、変化のない秩序に従った生活。誰も逃げ出すことの出来ない毎日なのだ。この城館の客である一人の男(ジョルジョ・アルベルタッツィ)が、一人の若い女(デルフィーヌ・セイリグ)に興味をもった。そして男は女に、「過去に二人は愛しあっていた、彼は女自身が定めたこの会合に彼女を連れ去るために来た」と告げた。男はありふれた誘惑者なのか、異常者か?女はこの突飛な男の出現にとまどった。だが男は真面目に、真剣に、そして執拗に、少しづつ過去の物語を話して聞かせながら言葉をくり返し、証拠を見せる……。女はだんだん相手を認めるようになった。しかし、女は今迄自分が安住していた世界を離れることに恐怖を感じた。それはやさしく、遠くから彼女を監視しているようなもう一人の男、多分彼女の夫である男(サッシャ・ピトエフ)によって表現される世界であった。だが、彼女は、男によって、真実性を帯びてくるつくられた話に抵抗できず、ためらい、苦悩する。今や苦悩は女の現実であり真実となった。現在と過去はついに混り合った。三人の間の緊張は女に悲劇の幻想さえおこさせたが、ついに女は男の望んだ通りの存在であることを受け入れ男とともに、何ものかに向って立ち去った。それは、愛か、詩か、自由か……それとも死かもしれないのだが……。
――キネマ旬報の解説は本作を「心理ドラマ」としていますが、『二十四時間の情事』にはそう言えても本作はそういうものではないでしょう。『二十四時間の情事』は記録フィルムとのモンタージュの多用の必要もあってかスタンダード・サイズ(4 : 3)で、本作はBlu-rayディスクではヴィスタサイズ(16 : 9)に収められていますが実際にはシネマスコープに近い2 : 1あまりの比率のワイドスクリーン作品で、『二十四時間の情事』同様に室内シーンと対話が大半を占めるのに、古い城館を改築した広大なホテルを現在形のドラマの背景にした本作の映像はワイドスクリーンによってあえて冷たく、突き放したような印象を与えるものになっています。この映画は脚本を(1)現在、(2)男Xの視点による回想、(3)女性Aの視点による回想、(4)夫Mによる視点に分けられてそれをシャッフルして撮影(演出)・編集されたそうで、俳優にはそうした脚本・演出意図を知らせず全編のカットやシークエンスの演技をさせて撮影したので俳優は自分が映画のどのパートをどんな意味を持つかが一切知らずに演技したとのことです。また結末は監督のレネと脚本のロブ=グリエでは「男Xと女性Aはついに駆け落ちした」「今度も駆け落ちにはいたらなかった」と完成作品にいたっても別々の解釈を持っていたようですが、観客のほとんどは挿入ショットの誘導と1時間半の映画の結末ですから「拒んでいた女性Aは男Xと駆け落ちした」という印象を持つと思います。なぜ「去年」の駆け落ちが未遂に終わったか、女性Aが男Xにしらを切り続けるかというのは、'70年代以降に本作の女性視点を重視した批評では「去年」の駆け落ち未遂に関して女性Aが記憶を抑圧している要因があるのではないか、つまり男Xと女性Aの性関係が暴力、具体的にはレイプに近い脅迫的な関係だったのではないか、または夫Mによる女性Aへの夫婦間の性的暴力があったのではないか、と映画全編のヒロインの女性Aの男性忌避的な様子を解釈しているのですが、それが本作を心理映画と見せてはいないので、監督のレネと脚本のロブ=グリエですら解釈が異なるように本作は幾様にも解釈できるよう単一のシチュエーションに相矛盾した解釈が並列してある映画が意図されている。『羅生門』、またその原作である芥川龍之介の「藪の中」では強盗殺人事件をめぐる相矛盾する証言が最終的にはそれらすべてを包括する死者の証言(イタコの口寄せによる)という合理的解釈がありました。本作の場合観客は「拒んでいた女性Aは男Xと駆け落ちする」という結末の印象を持ちますが、それは男Xと女性A、男Xのどの視点が事実だったというより、食い違う男Xと女性Aの対立が男Xの観察下にどちらも真偽不明のまま飽和状態を来して爆発し、第3のフィクションである「女性Aは男Xと駆け落ちする」という事態が生起してしまった印象です。俗に「嘘も言い張り続けると真実になる」と言われるようなことをスマートなアート・フィルムに純粋に結晶化した映画と見るのがおそらく本作のもっとも穏当な見方で、ことさら映画による高度な鑑賞力を要求する知的パズルと持ち上げなくても、また最初観ると面食らうとしても、全体像をつかんで二度目に観れば映像の審美性を楽しみながら三人の主要人物による駆け引きのドラマとして斬新な手法の見事なスリラー映画に見える平易さもあります。「夜と霧」『二十四時間の情事』とレネのテーマだった「記憶と現在」は本作ではレネの指向性の中でもアブストラクトな方面にもっとも傾いた形を取ったので、現代史への関心や戦争といったテーマを本作では一旦排除して純粋芸術的試みに徹したからこそ成り立った作品とも言えるでしょうし、そこが本作を傑作としても「夜と霧」『二十四時間の情事』、また次作『ミュリエル』のような痛切な訴求力を持つ種類の作品とは言えない映画にとどめています。純粋な美術的完成度を追求した映画としてはこれほど見事なものはないと思えるだけに、この映画は高度な達成の代わりに削ぎ落としたものの大きさも感じられる作品であることも痛感させられます。またそれがネクロフィリア的な異常性を感じさせるのも先に述べた通りです。