人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

日本の詩と敗戦

日中戦争の期間も含む第二次世界大戦中に、もっとも大衆の要望に応える詩を多作したのは高村光太郎三好達治でした。三好達治の敗戦年・昭和20年までの詩集は13冊でうち三冊は完全な報国詩集、もう一冊はそれに準ずるものです。また高村光太郎の詩集は極端に少なく戦前は『道程』『千恵子抄』、戦後は『典型』『千恵子抄その後』以外数回の増補版全詩集しかありませんが、戦時中の昭和17年~19年には報国詩集を年一冊で計三冊を刊行しているのです。

報国詩とは当時の用語で、戦時下の市民や召集兵のための戦意高揚詩であり、最新の戦時状況をすばやく取り入れることが要望されたので「辻詩」とも呼ばれました。これは商業出版物に作品を発表する詩人には軍部からノルマとして最低数編の実績を求められ、戦時下の物資(用紙)不足というのが根拠にされたので、戦時において有用かどうかが出版許可の基準になりました。たとえば短編小説集や詩集でも収録作品中で三分の一が戦争を題材に、当然日本の国策を肯定的に称揚したものが強要されたのです。戦争とは無関係な詩集を一冊出すには、替りに完全な戦争詩集を一~二冊出していなければならず、悲惨なのは昭和初期のプロレタリア運動で逮捕歴または嫌疑をかけられた活動家、作家、詩人たちには非政治的な文筆家よりもさらに戦争賛美の執筆が強いられたことでした。

しかし高村光太郎三好達治については自発的に、しかも爆発的に愛国戦争詩の多作があり、彼らはともにインテリでしたからファッショには十分自覚的でしたが、市民大衆と同化して詩作で銃後を護る意識がありました。高村には元々ヒロイズム傾向があり、非政治的な萩原朔太郎の弟子である三好でも中国文学の悲憤慷慨(社会正義)の観念が非常に強かった。10代の三好は軍人志望で陸軍幼年学校から士官学校まで進んでいます。萩原のもう一人の弟子・西脇順三郎は戦時中は完全に詩作を断ちます。

敗戦後、三好は『涙をぬぐつて働こう』という詩を書き、高村は『わが詩をよみて人死に就けり』と書きました。萩原のさらにもう一人の弟子・伊東静雄の日記から―「十五日陛下の御放送を拝した直後。太陽の光は少しもかわらず、透明に強く田と畑の面と木々を照し、白い雲は静かに浮び、家々からは炊煙がのぼっている。それなのに、戦は敗れたのだ。何の異変も自然におこらないのが信ぜられない」。