人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

衣笠貞之助『十字路』(松竹・衣笠映画連盟1928)

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『十字路』(全・サイレント版)
https://www.youtube.com/watch?v=te2dEhpwCHo&feature=youtube_gdata_player
製作・監督・脚本 : 衣笠貞之助
撮影 : 杉山公平
助監督:稲垣浩
照明 : 内田昌夫
美術 : 友成用三
製作 : 衣笠映画連盟、松竹京都撮影所
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 前回、衣笠貞之助監督作品『狂つた一頁』を取り上げた時、「小津安二郎作品も次回からは戦後作になるので」とトボケたことを書いてしまった。小津の戦中作最後の『父ありき』があったのだ。実は『父ありき』についてはもう掲載用の予備が仕上げてあって、ついもう済ませた気になってしまった。小津の戦後作は怒涛の快進撃が続くから、箸休めを挟みたかったのだ。さて。だが『狂つた一頁』をご紹介したら、2年後の衣笠作品『十字路』もご紹介しないわけにはいかない。こちらは幸いDVD発売もされている。
 弘文堂のアテネ文庫は昭和20年代後半~30年代前半に手頃な小辞典として広く読まれていた叢書だが、昭和29年刊行の筈見恒夫『映画作品辞典』は日本の映画専門家が1954年当時どのような作品を歴史的名作としていたかがわかる。同書が取り上げている約200本の映画はやはり主にアメリカ・ヨーロッパ・ソヴィエト・日本からで、映画の場合はアメリカの比重が高いとはいえ他の近代文化の諸ジャンルと同様に西欧文化圏のものに偏りがあるのは仕方ないだろう。同書では衣笠貞之助の『狂つた一頁』も取り上げているが、『十字路』も「時代劇といえば剣戟に限られていたが、これは貧しい姉弟を主人公に、表現派映画の影響を受けた技術を用いて、日本の時代映画に新しい分野をひらこうとした。この監督一流の内容的なものよりキャメラ技巧偏重の難がある』と評した上で選出されている。『狂つた一頁』にしろ『十字路』にしろプロの監督があえて自主制作で製作した実験作として、洋画配給館である新宿武蔵野館(今もある)で公開されて興行的には大赤字だった作品だった。しかも衣笠監督は『十字路』完成後にはフィルムを持って単身渡欧、紆余曲折あって日本映画初の公式商業上映にこぎつける。以下、ウィキペディアの項目から補足を加えながら引用してみたい。

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「『十字路』(じゅうじろ)は、1928年(昭和3年)製作・公開、衣笠貞之助監督による日本の長篇劇映画、サイレント映画、時代劇によるアヴァンギャルド映画であり、日本映画で初めてヨーロッパへ輸出された作品である。」
 衣笠貞之助の回想録『わが映画の青春』(中公新書)によると、衣笠は『十字路』を完成させたあと突然、この映画を持って渡欧し3年間も遊学すると言い出し、周囲を驚かせた。シベリア鉄道ソ連を経由、プドフキンやエイゼンシュタインと知己になり、ここで初めて『戦艦ポチョムキン』を観る。そしてベルリンに入るのだが、初めは配給がなかなか決まらず苦労する。しかし検閲で意外にも「芸術映画」の指定を受け、この指定を受けると興行税が半減されるため配給業者が飛びつき、欧米各国への売り込みもトントン拍子に進んだという。しかし公開のためにつけられたタイトルが『ヨシワラの影』だったため、タイトルを見たベルリンの日本人会から「国辱映画だ」と上映中止運動が起こったが、朝日新聞のベルリン支局のはからいで収まった、という事件もあった。
とにかく、『十字路』はドイツ、イギリス、アメリカ、イタリア、スイス、スウェーデンノルウェー……と欧米各地で上映され、海外で正式に公開された最初の日本映画になり、この渡欧をきっかけに衣笠は西欧トーキー映画のテクニックを日本に持ち帰り、更なる日本映画の発展に貢献することになる。

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「当時、日本の活動写真は観衆の強い支持を受けた娯楽中心の『チャンバラ映画』が主流だった。本作はこうした現状に不満を抱いた衣笠貞之助監督が、『時代劇から剣を奪え』のスローガンを掲げて製作したもので、まったくチャンバラのない、貧しい姉弟の愛を描いた実験映画となっている。」
 あらすじは以下の英文サイトが簡略にまとまっているが、簡略すぎるし翻訳すると理屈っぽい文面になりそうな原文なので別にあらすじを作成してみた。ちなみにこのサイトではこの映画への評価は8.4と高いが、プロット、キャスト、エンタテインメントは各C+、シネマトグラフィーはA+++という極端な評価になる。
"[summary]
Rikiya and Okiku are two siblings living in a rundown tenement in the Yoshiwara district (Red Light District + Gambling dens and other mischief) of Edo. They barely live a life of subsistence, and theirs is a world of perpetual darkness. One day, Rikiya eyes O-yume (depending on the kanji which isn’t shown, this could possibly mean “Miss Dream”), a girl who works at one of the gaming stands, and becomes madly obsessed with her. However, O-yume is admired by many powerful men, including samurai, government officials and many others. Rikiya, driven by his obsession, must find a way to defeat them all and claim O-yume as his own."(somewordsandplaces.wordpress.com)
http://somewordsandplaces.wordpress.com/2009/05/18/kinugasa-teinosuke-jujiro-crossroads-1928/

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 貧しい姉弟のお菊(千早晶子)と力弥(阪東寿之助)は両親を亡くし場末の宿で姉弟きりで暮らしている。ある夜、力弥は傷だらけになって帰ってくる。それは矢場の女・お夢をめぐるケンカのせいだった。弟の様子から相手にも傷害を負わせたと察したお菊は弟をかくまうが、一夜明けると弟は矢場にお夢の気持を確かめに行って、そこで昨夜のケンカ相手(小沢茗一郎)と再び争い目潰しの粉を浴びて矢場中の哄笑の中、刀を振って相手を斬る。だが力弥が去ると斬られたふりをした男は起き上がり、お夢とよりを戻す。目の潰れた弟をかくまうお菊は、拾った十手を持つ偽目明かしの男(相馬一平)から金銭でもみ消してやると恐喝され、目の治療費もないので老婆(中川芳江)が斡旋する私娼窟に行くが、決心できず帰宅すると偽目明かしはお菊の体に迫り、お菊は卒倒する。一方、姉の外出中に目覚めた力弥は目の回復を喜び入れ違いに外出し、姉を探すうちにお夢への未練で矢場に寄ってしまう。一方宿では、偽目明かしにのしかかられてお菊は抵抗のため包丁で偽目明かしを刺殺する。矢場では力弥がお夢と斬り殺したはずの男が花見酒に興じているのを目撃し、絶望に悶えながら彼らを呪ってよろよれと近づこうとするが、苦悶のあまり悶死してしまう。十字路に立ち尽くすお菊。エンドマーク。

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稲垣浩はこの作品で、衣笠監督のチーフ助監督についたが、撮影期間29日の間、ほとんど徹夜進行だった。(中略)途中で休む者もいたが、衣笠監督と杉山公平キャメラマンと稲垣の三人だけは無休が続いた。このため、稲垣は最後の夜明けごろに、ついに宿直室で寝込んでしまった。ラストカットの撮影に、監督はチーフがいないと騒ぎだし、みんなで手分けして稲垣を捜した。稲垣は『ねぼけまなこでラストシーンの移動車を押したことを今でも覚えている』と述懐している。」
 29日徹夜、というのはさすがに昨今のアニメ業界でさえもそうそうはないと思われる。何日徹夜、といっても生活リズムが滅茶苦茶になるだけで、けっこう隙を見ては眠ったりしているのが普通だが、『十字路』の場合正味29日徹夜だったのだろうと思わせるのが戦前の日本の映画人のこわいところだ。

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「昭和24年(1949年)、松竹・下賀茂撮影所のフィルム倉庫が突如爆発、保管されていた大正12年以降のフィルム約5000キロ(5トン)が炎に包まれ、この時『狂った一頁』『十字路』のプリントも灰と化し、特に『十字路』はオリジナルネガを焼失してしまう。可燃性のNCベースフィルムの自然発火が原因と言われている。しかし、後に『十字路』のプリントがロンドンの国立フィルムライブラリーに保存されていることが判り、昭和34年(1959年)、衣笠は英国でこの映画と再開を果たす。図らずも海外で配給されたことがこのフィルムを後世に残す結果となったのだ。そして昭和42年、川喜多かしこの粋なはからいで、『山椒太夫』と交換という条件で『十字路』のプリントは晴れて日本に帰国。これがいま我々が目にする事ができる唯一現存するプリントである。」
 よくまあ空襲もあったロンドンで保管されていたものだと思う。しかも酷使されたり雑に放置されたりしていない、1928年のサイレント作品としては極上の画質なのが市販DVDでも楽しめる(パブリック・ドメイン作品の廉価盤DVDで、定価1000円)。小津安二郎の『父ありき』も長年戦後の検閲で戦時色の強い箇所がカットされ、しかもサウンドトラックに欠損のある、戦中の粗悪なフィルムにも所以する画質の悪いプリントしかなかったが、90年代後半になってロシアでノーカット、画質上乗サウンドトラック欠損もなしのプリントが発見されたりしているのだ。映画フィルムというのは、どこの国の映画がどこの国で出てきてもおかしくない世界になっている。思えばアテネ文庫の『映画作品辞典』は『狂つた一頁』も『十字路』も焼失作品だった時代に記録的な意味だけで作品紹介を掲載していたわけで、そうそう世の中には強運な作品ばかりではない。天才の名を欲しいままにしたサイレント初期の溝口健二作品さえほとんど失われ、夭逝の天才・山中貞雄監督作品などは29本中3本しか残っていないのだ。