人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

迷子犬さがしています(2)

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 前回末尾で「次回は迷い犬とは何か、どうやって探せばいいか、そもそも犬に迷子犬の自覚はあるのか、飼い主または住環境を嫌って家出したとかなら探さないのが犬には幸せではないのか、などなど四方八方から考察してみたい」と書いた。これは一字一句間違いない、送信メールの控えからコピー&ペーストしたものなのだから。問題は、「考察してみたい」などと言いながらほとんど項目を上げれば話題は終わっていることにある。つまり迷子犬をさがし当てられるかなど具体的な状況を想定しなければどうしようもないのであり、それなしに一般論の範疇で考えるなら迷子犬が戻ってくる可能性は非常に少ないだろう。だがそれを言っては迷子犬についてどうこう書くまでもない。

 そもそもヒマつぶしの遊び作文のつもりでしかないこの小文で、前回時間切れ、といっても自分で勝手に切り上げただけだが、とにかくうまくまとまらなかったこと自体が前回の下げみたいなものなので、別に律義に続編を草しなくても誰が困るというものでもあるまい。このブログでは深夜の定時更新ではおおむね平坦な題材の作文を佶屈な文体で載せている。もっと砕けた文章を書けばいいのだが、残念ながら本性軽薄な質なので、かえって軽い書き方ができない。というか、軽佻浮薄な人間ほど文章を書かせると真面目くさっている例が多く、大体そういう文章は内容は借り物めいたものばかりだったりするものだ。

 だから、と言うべきか、一見生真面目でその実内容空疎な文章には一種のアイロニーが生じる。コメディアンは本人が笑ってはならないのと同じで、この場合文章は表向き真面目なら真面目であるほどよろしい。確かにこのブログではムーミン谷、今はスヌーピーだが、あのようなシリアスな連載も続けてはいるが、無理に分類すればあれも創作と言えないことはないわけで、普通俳優の人格を役柄と混同しはしないだろう。ムーミン谷もしくはスヌーピーは素材が素材だけにハートウォームなお話になってはいるが、それは別に作者がハートウォームな人間だからではない。訂正、俳優というよりもムーミン谷やスヌーピー人形浄瑠璃に近い作法で書いているかもしれない。傀儡を操っている操演師は単なる技術職であって、人形の演じる世界と同じ世界の住人ではない。

 それは案外ペットにも言えることで、かなり忠実に見える愛玩動物でも帰巣本能以外の忠実さしかないのではないか、と言われる。ペットの帰巣本能でかっこよかったのは昭和30年代までは新聞社などで実用的に用いられていた伝書鳩だろう。今はマニアの世界でしか使われていないのではないか。また、一般的に犬は人に付く、猫は家に付くと言われる。ウサギは帰巣本能がまったくないらしい。では犬が一番なつくのかと言えば、これも飼い主との関係次第だろう。人間とペットは、同じ空間に住んではいるが、同じ世界観を共有しているとはまず思えない。安心して住めて、餌ももらえる条件であれば、ペットにとっては飼い主の人格、学歴、家族構成、交友関係、係累、年収などはどうでもいいことは想像にあまりある。

 つまりペットにとって飼い主は都合のいいパトロン以上のものではない、と考えるとだんだん腹が立ってくるが、人間とりわけ女子供は小型動物で丸っこいのを可愛く感じる止みがたい感受性がある。男となると調教すればかなり実用的に武器に使えたり乗用・運搬に使える大型動物を好んだりする。しかしまあ、どの場合にしてもペットの側としては住環境と餌付けで人間と取り引きしている以上ではなく、犬猫のように人間との共棲歴の長い動物でも人間にかまってほしがるのは幼年期だけ、これは人工的に断種して性徴期を奪ってしまうと一生仔犬・仔猫の性格が保たれる場合もあるのだが、だからといって共通の話題はほとんどないし、悩み事の相談相手としても頼りない。家族の一員扱いして可愛がっても、散歩中車に轢かれても法的には器物損壊にしかならない。
 ではなぜ人はペットを飼うのか。よく言われる愛情の欠如感というよりも、ここではむしろ人はなぜ文章を書くのか、ということになぞらえてみたい。