人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

集成版『荒野のチャーリー・ブラウン』第三章

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 第三章・疾風丑の刻詣りの巻。
 あらヤだわ、とみさえはひまわりの添い寝から起き出しながら柱時計を確かめました。まだしんちゃんの帰りまで買い物行ってくる時間はあるかしら。柱時計はひろしが会社の後輩の結婚式の引き出物でいただいたものでした。
 最近の引き出物は気が利いてるよなー、カタログで好きなもの選べるようになっているんだぜ。最近、といっても野原一家は半永久的に夫35歳・妻29歳・長男5歳・長女0歳から歳をとらないのですが、この場合の「最近」は1990年代後半を指しているのだと思われます。ほーら、とひろしがバブル時代のニッセンのカタログほどではないが、地方の職業別電話帳よりずっと分厚いその冊子をずい、と封筒から取り出すやいなや、
・ダイエットヨガをしていた妻みさえ
・ブタの絵を描いていた長男しんのすけ
・テレビのアイドル番組を観ていた長女ひまわり
 が正確に120度ずつ三方の角度から迫ってきました。単に欲が深いからわれ先にとただただ無我夢中なだけですが、こういう時にはチームワークが良いのが野原家の憎めないところです。
 オラはカンタムロボ!あなたジュエリーない?あままままあ。いいからまず落ち着け、みんな座れ(ひまちゃんはママのおひざね)。まずは家長のおれがだな……(よっ課長!うるさい!)。ええと、ここからここまでのページは時計か。カンタムロボ!うるさい!それから……時計……時計……時計……。あなたこれ時計しか載ってないカタログじゃない!おかしいなあ、気の早い連中なんか式のはねた後すぐ開いて喜んでたけどなあ。あなた間違えてもらってきたんじゃないの、きっとランクがあるのよ、時計ばかりじゃカタログの意味ないじゃない!仕方ないだろっ、それよりビール、ビール。はいっ、今日は発泡酒ね、それもレギュラーサイズの!なんだよ、おれのせいかよ!課長だけに……(両腕を短針長針にして)カッチョン、カッチョン。お前はうまいこと言わなくてもいい!
 という事情で野原家の居間を飾っているのです。そうね、まだ二時間くらいは……とみさえが伸びをしていると、シロの喜びの鳴き声から間髪入れずしんのすけがドドドドと玄関から突進してきました。どうしたのよしんのすけ、幼稚園は、と尋ねるみさえに、しんのすけは「タイヘンなんだゾ、今スヌーピーが……」とだけ言うと、また駆け出して行ったのです。


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 そりゃ腕力では人間の少年としては非力な君にすらかなわないだろうさ、とスヌーピーは言いました。だが相撲に勝って勝負に負けた、という……逆だったかな?まあいい、そういうことわざもある。仮に武器を使っての戦いであっても、武器の性能より勝負は武器と技術の乗数で決まることくらい、ミリタリー・マニアを志したことのない君にはわかるまい。どうかねくりくり坊主くん?
 そのくらいはミリタリー・マニアでなくてもわかるよ、とチャーリーは反論しました。要するにキミはこう言いたいんだろ、運動神経や反射神経ではキミが圧倒的に有利だ、って。運動神経は攻撃力に結びつくし、反射神経は防御力以前の防御、すなわち攻撃回避能力に優れるのを意味する。つまりあれだな、牛若丸と弁慶だって言いたいんだろ?
 そうそう。だから無駄な争いはしないが賢い。君は野蛮な人間だから赤犬だと思えばぼくを食肉にもできようが、もしぼくが勝っても君に喰われるのを逃れたか先延ばししただけで、いっそ殺せば君からの危機はなくなるが人間を殺めた動物はよほどの稀少種以外問答無用で死刑になる。この場合の稀少種ってなんだい?パンダやコアラかい?パンダやコアラに人間が殺せるものかい?
 つまりさ、とスヌーピーは言葉を継ぎました。ぼくらが争ってどちらかが死ねば、君は餓えがしのげる。だけど君に勝ってもぼくはそんなの食らうのは御免だ。先に述べた理由で君を殺めた咎で処分されるのも御免だから、結局この勝負は君がぼくに勝って犬肉にありつくか、ぼくが君を制して勝負をドロウし続けるしかない。だいたいぼくは餓えても君など殺して食べたくない。知能指数が下がってしまいそうだもの。
 ひどいこと言うなあ、と偽ムーミンはあきれてスヌーピーの表情に見入りました。いつも通り感情らしい感情の感じられない犬面がそこにはありました。
 その頃しんのすけは山を越える一本道をせっせと急いでいました。つらい斜面はアクション仮面、カンタムロボ、ぶりぶりざえもんたちの勇姿を脳裏に浮かべてがんばりました。オラ男の子だもの、本気でやらなきゃならない時には本気で勇気を出さなきゃいけないんだ。
 するとみちばたにハイレグおねいさんが立っていました。
「あら、可愛い坊や」
「オラ……ポッポー!」


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 私が船乗りをしていた頃は「大航海時代」と呼ばれたものだ、とムーミンパパはパイプに刻みを詰めながら、遠い海洋に思いを馳せる臭い芝居に入り込みました。ですがすぐに気が変わったか、私が登山家だった頃は「山男にゃ惚れるなよ」と言われるくらいに誰も彼もが山登りに血道を上げていたものだ、いやあ若気の至りだね、ときたので、次にスキーの話題になった時は良心のかけらもない偽ムーミンですらこの軽薄で哀れな男と、自分が今なりすましているその息子の存在に無意味であることの憐れみを痛感したほどです。その痛みは鋭利なものではなく、鈍い痛覚がじわじわ後を引くようなものでした。偽ムーミンであることがこれだけ無責任でいられることならば、将来実のムーミンが背負いこまなければならないだろうムーミン谷の「虚」とはどれだけのものなのか、偽ムーミンには直視しがたいものがありました。
 それに君は、前回は君にしてはなかなかの分析力だったとほめてあげてもいいが、もっとぼくたちを能力において隔てる大きな要素を素通りしている。君だって本質はただのうすのろやぼんくらではなく、おそらく人類史的にはローカルなイノセンティの象徴とも言えて、おそらく侵略と略奪、殺戮の建国史を持つ国家だからこそ君のような間抜けがフィクションの人気者になるんだ。つまりさ、とスヌーピーは言いました、ぼくは口先三寸で君を丸め込めるが君にはそれができない。ぼくらが握手すると君は友だちになれたなと思うがぼくはこれでうまく騙せたなと思う。君はそういう少年さ。
 あのーハイグレおねいさん、と野原しんのすけは言いました、これでオラのお手伝いをしてくれないかなあ。ハイグレじゃないわよハイレグ、とおねいさんはしんのすけの差し出したものを見ると、ねえ坊や、これってなんの冗談?
 冗談じゃあないぞ、きびダンゴだゾ。きびダンゴって普通串には差してなくなあい?みっつしか買えなかったから。だんご三兄弟、なんちて。だからハイグレおねいさんは一番目のお手伝いさんだゾ。ね、オラ何でもするから、お願い。
 ハイグレおねいさんはしんのすけの泣き落としをこばめず一人めのけらいになりました。しばらく進むとバスに置いてきぼりにされたバスガイドに出会い、けらいは二人になりました。三人めにけらいになったのはヒッチハイク中のエレベーターガールでした。


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 キミが口先三寸のビーグル犬だってことは誰もが知ってる、とチャーリー・ブラウンは苦々しい口調で言いました。そしてぼくは飼い犬にも劣る知性の少年の役割、コメディ・リリーフってやつだね、そういう役割なのも承知してる。ぼくらはピーナッツ世界の住人だからね。
 だけど今、こんな状況じゃぼくたちはデフォルトの設定が通用しない事態に陥ったと考えるしかない。つまり……もう何度もつまりと言ってきたような気がするが、ぼくたちは絶体絶命の境地にいる。キミだってそのくらいは承知のはずだ。
 普段チャーリーがこれほどの長広舌を繰り広げることはめったにありません。しかしスヌーピーの態度はのれんに腕押し、柳に風といった様子なのが偽ムーミンにも妙に不吉な予感を抱かせました。もしピーナッツの世界が崩壊するならば、このムーミン谷もピーナッツ・タウンの平行世界ですから、ドミノ倒し式にムーミン谷の成立基盤も崩壊しないとはかぎらない。その時には、偽ムーミンは今ある偽ムーミンとの同一性を保てなくなってしまうかもしれません。それは偽ムーミンにとって、もっとも望ましくない変化でした。しかし……。
 チャーリーの預かり知らぬところで、偽ムーミンが唯一希望を託せるとしたら、それは野原しんのすけの存在でした。しんちゃんにとってスヌーピーたちが従来通りであり、ムーミン谷が同じムーミン谷として判別されているならば、しんちゃんの認識の中にはピーナッツ世界もムーミン谷もそのままのかたちで存在しているのです。しんちゃんにとって虚構と現実が同一線上に混在している事態は、
アクション仮面
・カンタムロボ
・ぶりぶりざえもん
 ……の具現化からも明らかです。しかし偽ムーミンたちの世界から見れば、しんのすけの住む世界で実在しているのはただ一人しんのすけだけで、チャーリーとスヌーピーにとってパインクレスト町がそうであるように、春日部市自体がしんのすけの存在によって出現した仮構の空間にすぎないのでした。野原ひろし、みさえ、ひまわり、幼稚園のみんな、もちろんかすかべ防衛隊もすべてはしんちゃんの悪夢の生んだキャラクターにすぎなかったのです……偽ムーミンから見れば。では、と偽ムーミンは考えました。おれも誰かに見られている、その夢の中の存在にすぎないのだろうか?


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 それならウッドストックに訊いてみようじゃないか、とチャーリー・ブラウンは、こんな窮地までもあるじの忠実な下僕ならぬ秘書としてスヌーピーについてきた雑種の小鳥を指して提案しました。スヌーピーあるところ常にウッドストックあり、死路への逃避行とも言えるこの逃亡にもウッドストックは当然のように同行していましたが、寡黙なこの小鳥はパインクレストの平和な日々からまるで変わらない様子に見えました。もともと毛並みはみすぼらしい雑種ですし、小鳥相応に小食ですから、日毎にやつれていく様子がありありとわかるチャーリーたちに対してウッドストックは今やほとんど優雅にすら見えるほど以前と変わりのない風貌を保っていました。彼らの序列を知らない通りすがりの人が見れば、この小鳥こそがあるじであり少年と子犬を従えているように思えたかもしれません。
 これはちょっと不自然じゃないですか、とスノークはヘムレンさんたちに向き直り、あの少年と犬は食うか食われるかという事態に直面したわけでしょう?だったらまず二人であいつをヤキトリにしてこの場をしのげばいいはずですよね。そうしないというのは、やはり何か理由があるのかな。裏づけなしには納得がいきませんよ。
 それはだね、とヘムレンさんは首を傾げると、われわれの場合ムーミンに置き換えて考えるといい。手錠でつながれたムーミンスナフキンがフローレンと三人で逃避行のすえに、ついに食糧も底を突く。ムーミンたちならどうするね?
 何の逡巡もなくフローレンを食べるでしょうね、とスノークムーミンスナフキンの友情は固いですから。
 私もそう思う。だが君まで同意するのはどうかと思うね。仮にも君はフローレンの兄君だろう?あまりに身も蓋もない発言ではないか?
 哲学者として私は、とスノーク、倫理よりも真実を貴びますからね。
 では彼ならどう答えるだろうね、とヘムレンさんはスノークに注意を促しました。しんちゃんはハイレグお姉さんに肩車され、左右の手をエレベーターガールとバスガイド嬢に取られながら丘を越えてくるところでした。道端では、花を摘みにきたフローレンが足をくじいてうずくまっていました。しんちゃんはハイレグお姉さんに下ろしてもらうと、さりげない足どりでフローレンに近づいていったのです。


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 しんちゃんは花を摘んでいるフローレンに向かって進んでいきましたが、道端の花畑にまでたどり着くと3本ばかり花を摘んでまた引き返し、けらいのお姉さんたちに1輪ずつを捧げると再びハイレグお姉さんに肩車され、左右の手をバスガイド嬢とエレベーターガールに取らせて丘の一本道を進み始めました。フローレンは黙々と花を摘んでいます。
 これはどういうことですかね、とスノーク。私の知るあの幼児は極めて見境いなく好色な幼稚園児であるはずなんですがね。まあ人間の美意識ではムーミン谷の美の基準など測れはしないでしょうが、一応わが妹はムーミン谷の誇るヒロインですよ。何らかの表敬行為があってしかるべきではないですか。
 表敬行為とは何かね、おねいさん担々麺は汁あり派・汁なし派?みたいなナンパ質問かね?とヘムレンさん。つまり私の知るあの幼児は普段そういう風に共通の話題から入ってナンパを試みる性癖があるらしいが、フローレンにはなぜ同様の行為を行わんのか、それは彼女を口説くほどの美少女と認めていないからではないか、ときみは憤慨しているのかね?
 いや私は単純に、とスノーク、なんであんなにあっさり無視したんだろう、と思っただけですよ。つい目と鼻の先まで近づいておきながら、あれはないんじゃないかな。
 それは単純に、とヘムレンさん、あの変態幼児にはフローレンが見えておらんのじゃないかね?つまりさ、われわれの知覚には知っているものは見えるが、知らないものは見えん、という妙なフィルター機能がある。これは知的生命体のみならず野生動物ですら言えることで、もっとも野生動物の場合は本能によるのだが、生きていく上で必要な情報のみを認識し不要な情報は目に入らないわけだよ。
 だったらそれは変じゃないですか、とスノーク。かたやチャーリー・ブラウン、かたや幼稚園児の一行は今も接近しつつあるし……それに考えてみれば、あの幼児はむしろ野生動物の一種でしょうが、われわれは知的生命体ではなくトロールですよ!
 そういうことだろうね、とヘムレンさん。そしてまたフローレンもトロールであり、われわれは一般的には他者からの知覚の中にでも外にでも出入りできるのだろう。だが今われわれは観察者の立場なのだ。
 キミはどう思う?とチャーリー・ブラウンは小鳥に訊きました。ウッドストックは、
・、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、!
 と鳴きました。


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 チャーリー・ブラウンからの唐突な問いに答えたつもりか、ウッドストックは一気呵成に、
・、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、!
 と鳴きました。困惑するチャーリー。このみすぼらしい雑種の小鳥がどうやらチャーリーに反感を持っているらしいことは少年にも判断できました。ウッドストックは普段ブラインドタッチでスヌーピーの著述の口述タイピングを勤めているくらいですから、毎回出版社から返送されてくるその内容はともかく、彼らが標準アメリカ英語を読み書きできる能力があるのは明らかです。発声がままならないのは仕方ない、犬や鳥ですから。ですが直接チャーリーに返答するのであれば、逃亡中にまで携行しているタイプライターで答えることができるはずです。要するにこのクソッタレな小鳥はスヌーピーを通してしか話さないと決めており、もちろんスヌーピーは自分たちに不利な提案はするわけはないのですから、ウッドストックにどんな意見を求めようがチャーリーと彼らの1対2の構図は崩れようがないことでした。
 ウッドストックは何て言ったんだい?と屈辱感に耐えながらチャーリーはビーグル犬に訪ねました。ビーグル犬は爪楊枝で歯間をほじり、歯垢を舐めて空腹をしのぐ作業に熱中していましたが、突然チャーリーから呼びかけられたのに対する返答の猶予を求めてなのか、それとも単なる思いつきか、口元に前肢を当てると小首をかしげ、目を細めて極めて下品に、
・イシシシシシシ(笑)
 とおよそスヌーピーらしからぬ好色な笑い声を満足げに上げました。
 あーあれならオレ知ってるよ、あの笑い方はケンケンだろ?と野原ひろしはポン、と手を打ちました。だけどそれはハンナ=バーバラ・プロ作品でしょう?とスノーク
 細かいこと言いなさんな、とひろしはスノークのグラスにビールを注ぎ足すと、おれにしてみりゃスヌーピーだろうとムーミンだろうとケンケンだろうと違いはないよ。
 だったらあなたがたご一家はどうなります?たとえば私たちなんかはサザまる子さんやあなたがたご一家によって「お茶の間」と呼ばれる生活様式を知ったのですがね。
 確かに「お茶の間」はこの国独特の暮らしぶりだろうね、とひろしは自分のグラスにもビールを足しました。でもサザまる子さんっていったい、何のことだい?
 ああ、商標権がうるさいんですよ。


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 いま危機に瀕しているのが誰なのかといえば、まだおたがいの存在に最後の可能性を残している(あえて迂遠な表現をするなら)、ともいえるチャーリー・ブラウンスヌーピーよりも、考えすぎが悪く働いて徐々におのれの実在性が薄れつつあることに気づき始めた偽ムーミンよりも(考えないことだ、と考えるのも深みにはまる一方で)、しんのすけの出奔が毎度必ずや家族全員(といっても核家族ですが)を巻き込む大騒動に発展する野原一家よりも(ただしそれは『映画クレヨンしんちゃん』の時だけの話)、手っ取り早くヤキトリにすれば二人とも当座はしのげるとチャーリーとスヌーピーが気づけばそれまでよのウッドストックでもなく(それにはこーちゃんのじいさんが要るので)、
・氷浸けの(真)ムーミン
 なのにようやく気づいたのは、他ならぬムーミン本人でした。ムーミンは景気づけに電線音頭を踊ろうとしましたが、そんな40年あまりも昔のコントをやってしまうのは思いつきにもほどがある、と反省し、だいたい氷浸けでは踊りようがないのにも落胆しました。

  冷凍魚
  思はずも跳ね
  ひび割れたり    高柳重信

「、、、、、、、、、、、、、、、、、、!」
 とウッドストックスヌーピーに向き直ると、このクリクリ坊主に通訳してやってくり!と万国共通のクソッたれサインを出しました。小鳥にしては器用なものですが、小鳥は万来歌が好き、母さん呼ぶのも歌で呼ぶくらいなので、
「、、、、、、、、、、、、、、、、、、!」
 以外には無駄口は叩かないのです。しかしそれではスヌーピーにすら通じないときがあり、鳴き声が駄目となるとボディ・ランゲージより他にどんな方法があるでしょうか?
・マーキング行為?
 鳥もマーキングするんでしょうかね、とスノークは消えていくビールの泡を見つめながら呟きました。さあねえ、とひろしは受け流すと、ふと思い出して、オイみさえ、しんのすけはいつから出てったんだ?そうか帰るとすぐか、じゃあシロの散歩は今日はまだじゃないか。
 たまにはいいんじゃない、とみさえはひまわりの紙おむつを取り替えながら答えました。海原雄山は紙おむつを許しませんが、野原家に口を出す資格はありません。
 どう考えてもぼくが一番悲惨だ、と(真)ムーミンは思いました。だけど、どうすればこの窮地から逃れられるのだろうか?


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 ある庭のかた隅に一輪のひな菊が咲いておりました。花壇の中には華やかな牡丹や美しい百合などが、誇り気に咲いておりましたが、ひな菊そういう花を見ても少しも羨しいとは思わず、幸福な日を送つておりました。
 ちょうど、ひな菊の頭の上ではひばりが楽しそうな歌をうたっておりましたが、ひな菊はじっとその歌を聞いて、ああ面白い歌だ、とは思ひましたが、ひばりになりたいなどとは少しも思わず、やはり自分は自分だけで幸福だ、と考えておりました。
 ひばりがひな菊のかたわらへ下りて来て、まあ、何て奇麗な花だろう!というと、その声を聞いた牡丹は、
・私の美しさを讚めないとは酷い!といって大変怒りました。チューリップは頭を持ち上げて、何だ庭隅のひな菊が、といってせせら笑いました。
 その時一人の少年がハサミを持つて来て、
・よく咲いてゐるからお母さんのところへ剪つて持つて行かう
 といいながら、チューリップや牡丹を、みんな剪つてしまひました。少年はお母さんのところへその花を持つて行くと、
・まあ、この子は大事な花壇を荒してしまって何て悪い子でしょう!
 と、讃められると思いきや、かえってさんざんに叱られました。

 次の朝、雛菊が目醒めると、頭の上で、
・ピヨ、ピヨ
 という悲しそうな声が聞えるので、ふとその方を見ると、ひばりが捕えられてカゴの中へ入れられているのでした。ひばりは食べ物はおろか水一滴なくて、今にも喉が涸いて死にそうになつていたのでした。ちょうどそこへ少年が帰つて来て、その様子を見ると大変に驚いて、何かひばりに与へるものはないかしら、とあたりを見廻しましたが、あいにくそこには水もありませんでした。
 ウロウロしていた少年は庭隅の雛菊を見付けると、
・そうだ、あのひな菊をやろう、ひばりはきっと、ひな菊が好きに違いない!
 と呟いて一本の芝草と一緒にひな菊を剪つて、ひばりのカゴの中へ入れました。飢えているひばりは一口に喰べてしまうだろうと、少年が見ていると、ひばりはひな菊を見ると悲しそうに側へ行つてその小さな花に頬をすり寄せて、そして優しく歌をうたい始めました……。
 ひばりが喰べないので、少年はひな菊をお母さんのところへ持って行きました。するとお母さんは、まあいい花だこと、私の花瓶に差しておくれ、といって大変に喜びました。


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 感動した、とムーミンパパは言いました。しかし反応がないので、どうして私が感動したか知りたくないかね、と催促してみました。それでも反応がないのでムーミンパパは、
・それは私が朗読したからさ
 と開き直りました。なんで私が朗読したのかって、それはもちろん賞賛という報酬を求めていたからさ。善行を行う人が周囲や信仰から期待する報酬と同じさ。また、このあたりで本当の主役が誰かはっきりさせておかなければいかん、といつしか私は思うようになった。タイトル・ロールの示す人物がいつも主人公であるとは限らん。たとえば、
・天才ムーミン
 とあれば実際にはムーミンは子どもの世界観を象徴する存在としてタイトル・ロールを勤めているだけであり、子どもの世界観とは家族と隣近所と遊び友だち程度の広がりしかない。電車に乗って都心に通勤などしないものだ。そうすると、ムーミン世界の広がりはせいぜい半日で往復できるほどの地勢に治まり、価値基準となると両親が第一の基本になる。商店街までを歩けば年齢不詳のおじさんがいつ通っても竹箒で道を掃いているだろうし、駅前交番にいるおまわりは偽警官に違いない。
 私は何の話をしているのかな、まるで見透かしたようなことを言っているように聞こえれば過ちを撤回するが、指弾されればすぐに低く出る私はなんて柔軟かつ従順なんだろう。こうしたことも含めて私はムーミンの父親だが……独身だった頃は私こそがムーミンと呼ばれるコビトカバモドキのトロールだったわけだが、孤児として生まれ育ったムーミンだから私はあらゆる可能性を秘めたムーミンでもあり、それゆえに次代のムーミンへバトンを渡すだけの種馬ならぬ種河馬でしかなかった。そしてようやく私は、
ムーミンのパパ
 になり、息子ムーミンを通して事実上のムーミン谷領主となったようなものなのだ。この気持はあなたなら理解していただけると思うが、どうですかな。
 いやーウチはしんのすけしんのすけだしオレはオレだし、と野原ひろし。それより、狙われたら砂漠に逃げ込むほど恐ろしいルーシー・ヴァン=ペルト・ダットンてのはオレたちには脅威はないのかい?
 彼女はわれわれの存在を知らないでしょう、とムーミンパパ。だがわれわれは彼女を知ってしまった、それが問題なのです。
 第三章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第二部・初出2014~15年、原題『ピーナッツ畑でつかまえて』全八章・80回完結)
(お借りした画像は本文と全然関係ありません)