肉まんについて思うことなど普段はそれほどないのだが、こうして間食に一個だけ蒸かして小皿に乗せると、あらためてこれは一個、二個と数えるものなんだなあ、と思わされる。つまり、これまで肉まんを食べた個数というのが数えないうちに累積しているし、これからも毎冬ごとに加算されていくということだ。
分量なら別にそれは肉まんには限らないのだが、肉まんははっきり一個ずつ食べていくもので、大きさも製造元により差はあるが他の食品ほどではない。点心なら焼売や餃子など一個の大きさが倍近く違うものも多い。漠然と、これまで米飯何合分食べてきたかを想像するより、肉まんの個数の方があきらかだろう。
たぶん年間を通して、日常的には食べない食品だからでもあると思う。この冬には、今のところ六個食べた。肉まん、もちろんあんまんでもいいが、中華まんが年間何個食べられているのかは業界では計上されているだろうが、個人あたりの平均値までは出せまい。食べない人は食べない、それが肉まんなのだから。
そして食べる人でも、食べない冬には食べない。そういう種類の食べ物だから、ひょっとしたら三桁にさえ達さない人も少なくないかもしれない。平均余命と嗜好から逆算すれば、余生であとどれだけの個数を食べるかは、おおむね見当がつく。肉まんでカウントされる余命というのも、簡潔で悪くない気がする。