人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

新☆戦場のミッフィーちゃんと仲間たち(18)

 アーヒェは子どものころ、たぶん赤ちゃんの頃からナインチェちゃんのお友だちのアーヒェちゃんとして知られていました。記憶にないほどの昔からでもあり、今ならそれを利用してどれだけ自分に有利な状況を工作できたかを思うと、もっと子どもの頃から策略に長けていれば良かったとだけは悔やまれるのです。
 彼女は気弱でしたが、それはアギーという名のペルソナをかぶっている時に演じるべき役割であり、現実のアーヒェはむしろ彼女の年頃としては平均的な少女でした。それはウインがどこかしら生まれつきの巫女的存在感を放っていたり、メラニーが斜に構えた都会的な態度と田舎育ち風の押しの強さを併せもっていたり、バーバラが疑いもなく一匹のこぐまだったりするのと事情は変わらないことでした。
 ではミッフィーは?あのナインチェは、ナインチェであろうとミッフィーであろうと一見して変わらないように見えました。アギーの記憶ではほとんど物心ついた頃から、この世界的なマスコット・キャラクターの幼なじみはミッフィーであろうとナインチェであろうと変わらずに6色だけ、つまり白い紙面に黒い線以外には紫、青、緑、黄、灰、朱でできた世界の住人でした。彼女は正方形に配置またはトリミングされた空間に住み、真正面でなければ後ろ姿で、決して横顔は見せずに佇んでいました。それは遠近法からも自由な世界でした。アギーはミッフィーを羨むことはまったくありませんでしたが、アーヒェとしての彼女は(またはアーヒェが想像するにウィレマイン、バルバラ、ニナたちもアーヒェと同様のはずですが)、ナインチェはなぜキャラクターの見直しもされずミッフィーになり得ているのか、これまでともにした60年間の半分近くにおよぶかなり長い間、不可解なままでした。
 ようやくアーヒェが最近理解できた説明は、ナインチェは世界の中心点としてミッフィーちゃんと呼ばれても不動の同一性を持つ。それに対してアーヒェたちはミッフィーとの関係性によって各自の持ち場についているから、そのキャラクターは相対的なものにならざるを得ない、という解釈です。それも一応は論理的でしょう。ですが仮説に過ぎない点では決定的なものではなく、この説明はあまりに状況を固定的・静的にとらえていて、実存主義的立場からの形而上学批判に類した反発さえ感じさせました。それは自由をめぐる問題であり、まず勝ち目がないことでもあったのです。