人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

Cecil Taylor Unit - Student Studies (BYG, 1973)

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Cecil Taylor - Student Studies (BYG, 1973) Full Album
Recorded on 30 November 1966 in in Paris, France.
Released BYG Records (2LP, Japan) YX-4003/4, Manufactured by Toho Records Co., Ltd.1973
Reissued as "The Great Paris Concert" Freedom FLP-41050/1 (2LP, Germany) 1980, "Student Studies" Affinity AFFD 74 (2LP, UK) 1981, "The Great Paris Concert" Black Lion Records 65 605 (2LP, France) 1983
Side A. Student Studies Part 1 (15:56) continuing to
Side B. Student Studies Part 2 (10:54) : https://youtu.be/d9nBqXKaxW4 - 26:59
Side C. Amplitude : https://youtu.be/EY0bG4DU8LE - 19:49 *limited link
Side D. Niggle Feuigle : https://youtu.be/F-Z1HCfYv8k - 11:58
All Titles written by Cecil Taylor.
[Personnel]
Cecil Taylor - piano
Jimmy Lyons - alto saxophone
Alan Silva - bass
Andrew Cyrille - drums
Produced by Jean Georgakarakos, Jean-Luc Young

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 (Original Japanese BYG "Student Studies" LP Side A Label)
 日本盤CD『グレート・パリ・コンサート』は1994年に世界初CD化されて以来廃盤だから、90年代末のドイツ盤CD『The Great Paris Concert』かイギリス盤CD『Student Studies』の方が見つけやすいかもしれない。このアルバムはLP自体が日本盤がオリジナルで、セシル・テイラーが初来日公演を行い、その年の来日ジャズマンで最大の話題を呼んだ1973年に東宝レコードのBYGレーベルから発売された。BYGはフランスのフリージャズとニューロックのレーベルだが発足は1969年で、この1966年のフランスでのライヴはテープの版権を取得していたものの発売のタイミングを逃していたらしい。テイラーの来日公演は新宿厚生年金会館大ホールという大会場で、ジョン・コルトレーンの最初で最後の来日になった1966年には(翌67年)同会場は2/3程度の動員だったという。1966年に日本ではコルトレーンのジャズは前衛的すぎたが、1973年にはテイラーのジャズは絶賛を浴びて満員御礼、来日公演のライヴ・アルバムと来日時の新作ソロ・ピアノ作もベストセラーになり、翌年の来日公演もすぐに決定した(翌年の来日公演は不評だったが、テイラーの欧米での評価は74年以降急上昇する)。
 アルバムのジャケット画像通り、このアルバムは本来は無題なのだが、ドイツ盤やフランス盤、イギリス盤の発売に当たって『The Great Paris Concert』や『Student Studies』とタイトルがつけられ、1979年の日本盤の再発からは『グレート・パリ・コンサート』という邦題がついたので、それと区別する上で書誌的には初版アルバムは『Student Studies』と呼ばれることになっている。すべて同内容なのに紛らわしいが、ジャズにはよくあることではある。そして発掘ライヴという性格からテイラーのディスコグラフィー上オブスキュアなアルバムになっているが、作品内容は次作『The Great Concert of Cecil Taylor (also released as Nuits de la Fondation Maeght)』1969(邦題『Aの内幕』、LP3枚組)と双璧をなす、セシル・テイラーの最高傑作のひとつ、という評価が定着している。どちらも廃盤だが。テイラーはフリージャズでも最大の前衛性で知られるアーティストなので、不幸にして比較的ポピュラーなアルバム以外は広く聴かれる機会がない。

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 (Original French Black Lion LP "The Great Paris Concert" Cover)
 ボストンの黒人中流家庭に育ったセシル・テイラー(1929~)は50年代には稀にしかいなかった大学卒のジャズマンで、56年9月録音のデビュー作『ジャズ・アドヴァンス』で最初からバンドリーダーとしてデビューし、原則的に他人のアルバムには参加しないばかりかメンバーにも他のバンドとの掛け持ちを禁じた。自分のバンドをバンド名や編成(トリオやカルテット、クインテット)ではなくユニットと呼んだのもテイラーが初めてだった。テイラーが敵視していた同年生まれのライヴァル・ピアニストはビル・エヴァンスで偶然エヴァンス自身の初アルバムも56年9月録音だが、エヴァンスはジャズ激戦区ニューヨークの白人ジャズマンで、自分自身のデビュー作以前に6枚のアルバムにセッション参加している。ようやく自分のバンドを持ったのも59年にマイルス・デイヴィスのバンドをクビになってからだった。テイラーは音楽の前衛性に劣らず音楽活動での戦闘的な姿勢で知られ、それがジャズマンとしても当時珍しい寡作につながった。50年代にはオムニバス『アット・ザ・ニューポート』1958、『ルッキング・アヘッド』1958、『ハード・ドライヴィング・ジャズ』1958、『ラヴ・フォー・セール』1959年があるが、自作以外への参加はまったくない。テイラーが初期からの音楽性の頂点に達した名盤『セシル・テイラーの世界』は1960年録音だが、オムニバス盤『イントゥ・ザ・ホット』1961参加を経て作風を一新したライヴの大傑作『カフェ・モンマルトルのセシル・テイラー』は1962年、そして1966年にブルー・ノート・レーベルに残した『ユニット・ストラクチャー』(5月録音)と『コンキスタドール!』(10月録音)はスタジオ録音としては『イントゥ・ザ・ホット』以来5年ぶりと、ほとんど職業ミュージシャンとは思えない。しかしバンドのメンバーはついていった。
 セシル・テイラーがトップ・ミュージシャンと広く認知され、アルバムが毎年のようにリリースされるようになるのは1973年以降なので、発掘ライヴ『グレート・パリ・コンサート』はうまい具合に新作ラッシュの中に埋もれてしまった。だが、名盤と名高いブルー・ノートからのスタジオ盤2作の直後のコンサートであるために、このライヴ盤は特別な位置を占める。その次のアルバムはやはりパリのライヴ『The Great Concert of Cecil Taylor (also released as Nuits de la Fondation Maeght)』1969で、
『Indent』1973(ソロ)、『Akisakila』1973(バンド)、『Solo』1973(ソロ)、『Spring of Two Blue J's』1973(バンド)、『Silent Tongues』1974(ソロ)、『Dark to Themselves』1976(バンド)、『Air Above Mountains』1976(ソロ)と続くので、60年代半ばのピークを知るにはやはりこのアルバムが欠かせない。

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 (German Reissued Black Lion "The Great Paris Concert" CD Cover)
 テイラーの戦闘的姿勢をつたえるエピソードに、『ユニット・ストラクチャー』の録音をめぐってエンジニアに一触即発の大喧嘩をふっかけ、録音拒否寸前の事態にまで持っていってレーベル側を弱腰にさせ、アルバム制作のイニシアチヴを握ったのが当時のフランスのジャズ誌からのレコーディング取材でレポートされている。テイラーはインタヴューでは自分と共演したジャズマンしか褒めず、特に白人ミュージシャンはレニー・トリスターノくらいしか認めなかったが、トリスターノが「黒人ジャズマンは過大評価されている」と発言した時には失望を表明した。テイラーがジャズ・ピアノの偉大な先達と認めたのはセロニアス・モンクバド・パウエル、そしてトリスターノと、ビ・バップを発明しジャズ・ピアノの革新を行ったピアニストたちだった。テイラーやサン・ラ、オーネット・コールマンエリック・ドルフィーらが始め、ジョン・コルトレーンを通して若手ジャズマンたちが急激にフリージャズに向かったのは、ジャズの革新運動としてのビ・バップが50年代にはハードバップやファンキージャズ、カクテルジャズなどにエンタテインメント化してしまったのを、再び黒人ジャズの前衛化によって革新性を回復しよう、という運動であり、これはマイルス・デイヴィスからは見当違いなビ・バップへの回顧趣味として散々批判されることになる。だがマイルスのバンド出身者のソニー・ロリンズジャッキー・マクリーンジョン・コルトレーンらはマイルス的な時代への順応に限界を感じてフリージャズの同調者となり、若手ジャズマンたちからの尊敬をマイルス以上に集めることになった。
 オーネット・コールマンは注目されすぎて商業ベースの音楽活動が短期間のうちに頓挫したが、テイラーの反商業主義はトリスターノ以外に前例がないほど徹底しており、『ハード・ドライヴィング・ジャズ』『ラヴ・フォー・セール』と、便宜的に契約上ギル・エヴァンス名義のオムニバス盤『イントゥ・ザ・ホット』にアルバムの半数分提供された録音以外は企画的なアルバムはない。真にテイラー独自のスタイルが確立した(『セシル・テイラーの世界』は初期テイラーの総決算だった)『カフェ・モンマルトル』1962以来のテイラーは『イントゥ・ザ・ホット』の3曲とブルー・ノートからの2作以外は1973年までスタジオ録音アルバムがなく、ブルー・ノートからの2作は特別編成で大作感のある力作だが、テイラー自身は60年代~73年までの自身の音楽はライヴに真髄があると考えでいたのかもしれない。

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 (UK Reissued Affinity "Student Studies" CD Cover)
 テイラーの音楽はジミー・ライオンズ(アルトサックス)とサニー・マレイ(ドラムス)とのトリオ『カフェ・モンマルトルのセシル・テイラー』で完全なオリジナリティを確立した。最初からベースレスだったのではなくヘンリー・グライムスをベースにヨーロッパ・ツアーに出たが、グライムスは途中からソニー・ロリンズのツアー(ドン・チェリー参加)に移籍するので、グライムスの後釜は現地採用するつもりだったらしい。ところが適任者が見つからず、イレギュラーなベースレス・トリオでやってみたところ調性も和声構造も、むろんリズムもベースに依存しない異様なアンサンブルになった。ここで初めてサニー・マレイがプレイしたパルス・ビートはジャズ・ドラムスの概念を一変させた。マレイはアルバート・アイラーのバンドに移るが、ライオンズは1986年の逝去(最後の共演アルバムは『Winged Serpent (Sliding Quadrants)』1984)までテイラーの右腕となる。マレイの後任のアンドリュー・シリルはテクニック、センスともに60年代以降現役最高のドラマーで、『ユニット・ストラクチャー』から『Spring of Two Blue J's』1973までレギュラー・メンバーだったので(FMPからの『Incarnation』1999で再共演するが)、ライオンズとシリルが揃った66年~73年がユニット史上最強メンバーだったのは間違いない。マレイが感覚で叩いていたパルス・ビートをシリルは精密な分数ビートで叩くことができた。マレイやシリルにはできても、常人にできることではない。
 66年のユニットにはアラン・シルヴァのベースが加わったがシルヴァは例外的な才能が認められたからで、シルヴァ脱退後はベースは補充せず、69年の『Aの内幕』(フランス盤『Nuits de la Fondation Maeght』Vol.1~3、アメリカ盤『The Great Concert of Cecil Taylor』3LP。内容は「Second Act of "A"」Part 1~6までLP3枚で全1曲)ではテナーサックスにサム・リヴァースが加わったベースレス・カルテット、次の73年3月録音のソロ・ピアノ作品『Indent』が70年代初のアルバムになり、73年5月の来日公演のライヴ・アルバム(ライオンズ、シリルとのトリオ)『アキサキラ』はタイトル曲全1曲で82分ノンストップの、『Aの内幕』以上とも言える大作になった。『Aの~』ではソロ・ピアノだけのパートもあり、F面(パート6)はアンコールで『Aの内幕』短縮ヴァージョンになっていた。66年の『グレート・パリ・コンサート』、69年の『Aの内幕』、73年の『アキサキラ』と聴くと、66年にはまだ調性と継続リズムを維持したアンサンブルが、69年では限界ぎりぎりになり、73年にはアンサンブルすら超えてアルトサックス、ピアノ、ドラムスが独立した同時即興演奏に踏み込んでいる。そこに、74年以降のテイラーがソロ・ピアノ作品と3管以上の多管ユニットに編成を移して行き、一種の円熟期に意識的に向かった理由もあった。