人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

Elmo Hope Trio 1953-1959 (Various, 1953-1959)

イメージ 1

Elmo Hope - New Faces New Sounds: Elmo Hope Trio, Vol.1 (Blue Note, 1953)
Recorded at Van Gelder Studio, Hackensack, New Jersey, June18, 1953
1. Sweet And Lovely (Arnheim-Tobias) : https://youtu.be/TZ_L7XTshCc - 2:59
2. Happy Hour (Elmo Hope) : https://youtu.be/rxWZCK-y1ZU - 2:52
3. Freffie (E.Hope) : https://youtu.be/VeLWyzYoCcI - 3:05
4. Carvin' The Rock (Hope-Sonny Rollins) : https://youtu.be/Fnz9FJr69w8 - 2:55
5. I Remember You (Mercer-Schertzinger) : https://youtu.be/eErCyfe1QMo - 2:46
[ Personnel ]
Elmo Hope - piano
Percy Heath - bass
Philly Joe Jones - drums
*

イメージ 2

Elmo Hope Trio - Meditations (Prestige, 1955)
Recorded at Van Gelder Studio, Hackensack, New Jersey, July 28, 1955
1. All the things you are (Kern-Hammerstein II) : https://youtu.be/iU9emGg197A - 3:38
2. (I Don't Stand a) Ghost of a Chance (Crosby-Washington-Young) : https://youtu.be/XMDq4GcSrKc - 3:22
3. Falling in love with Love (Rogers-Hart) : https://youtu.be/dCohqIzK9D0 - 4:24
4. My Heart Stood Still (Rogers-Hart) : https://youtu.be/wIf4qdN8cUw - 3:46
5. It's a Lovely Day Today (Irving Berlin) : https://youtu.be/T-nf8dKYWNQ - 2:56
6. Lucky Strike (Elmo Hope) : https://youtu.be/l7xDsjYWbKE - 2:38
[ Personnel ]
Elmo Hope - piano
John Ore - bass
Willie Jones - drums
*

イメージ 3

Elmo Hope Trio - Elmo Hope Trio (Hi-Fi Jazz, 1959)
Recorded at Radio Recorders Studio-B, Los Angeles, February 8, 1959
1. B's A-Plenty (Elmo Hope) : https://youtu.be/HhkHguEiafw - 5:47
2. Barfly (E.Hope) : https://youtu.be/JhRVP2CjrR4 - 6:18
3. Eejah (E.Hope) : https://youtu.be/uRZCHGV_tvg - 3:55
4. Boa (E.Hope) : https://youtu.be/AitzJ5cdC5c - 6:00
[ Personnel ]
Elmo Hope - piano
Jimmy Bond - bass
Frank Butler - drums

 モダン・ジャズ以前のジャズ・ピアノの典型にブギウギ3大ピアニストのアルバート・アモンズ(1907~1949)、ミード・ルクス・ルイス(1905~1964)、ピート・ジョンソン(1904~1967)がおり、第二次大戦後のジャズまで長い楽歴とビ・バップまで及ぶ影響力を誇った巨匠にアール・ハインズ(1903~1983)とアート・テイタム(1909~1956)を頂点とすれば、モダン・ジャズ・ピアノはビ・バップの創始者セロニアス・モンク(1917~1982)とモンクの愛弟子バド・パウエル(1924~1966)、白人バップ・ピアノの原点となったレニー・トリスターノ(1919~1978)の3人までは巨匠で間違いない。だがモンクやパウエルの影に隠れて、モンクやパウエルと同時期にさらに異色のビ・バップ・ピアノを弾いていたのがパウエルの幼なじみだったエルモ・ホープ(1923~1967)であり、モンクの熱烈な支持者だったハービー・ニコルス(1919~1963)だった。ホープは自作12枚・参加作6枚を残すが、ニコルスは発掘録音を含めても全録音がCD4枚に満たない不遇ピアニストで、ニコルスの再評価は着実に進んだがホープの評価は未ださだまらない。同時代にはホープもニコルスも出す先から廃盤になる不人気ピアニストでしかなかった。だが現在は少なくともモンク、パウエル、トリスターノでは尽くされない領域がホープやニコルスのアルバムにはあり、モンクからホープに至る5人をビ・バップ5大ピアニストとする評価も増えている。ただし明快なスタイルを持つニコルスに較べ、とりとめのなさを感じさせるホープのスタイルはホープの評価を一段下げているのは否めない。
 ウィキペディア日本語版にもホープには短いながら知名度の割には一応の項目があり、英語版ウィキペディアの10分の1以下の略述でしかないが(たとえばホープの生育環境や経歴、楽歴がごっそり省略されている)、これを押さえた上で詳細をつけ足していくのが良いだろう。以下、日本語版ウィキペディアより引用する。

----------------

概説
 エルモ・ホープ(Elmo Sylvester Hope, 1923年6月27日 - 1967年5月19日)はアメリカ合衆国のジャズ・ピアニスト。主にビバップ様式やハードバップ様式で演奏を行なった。きわめて独創的なピアノ奏法や作品のために、支持者は多くないながらも、デイヴィッド・ローゼンタールのような評論家からは、バド・パウエルセロニアス・モンクと並ぶピアニストと看做されており、ハービー・ニコルスに匹敵すると論ずる向きもなくはないが、依然として他のミュージシャンよりも低い評価に甘んじている。

[ エルモ・ホープ ]
出生 ; 1923年6月27日
出身地 ; アメリカ合衆国
死没 ; 1967年5月19日(満43歳没)
ジャンル ; ビバップハードバップ
担当楽器 ; ピアノ

略歴
 ジョー・モリス楽団に入団して音楽活動を開始する。1953年からニューヨークでリーダーとして録音を行い、ソニー・ロリンズルー・ドナルドソンクリフォード・ブラウンジャッキー・マクリーンのサイドマンとしても録音に携わった。チェット・ベイカーとも共演している。薬物使用のせいでニューヨークのジャズ・クラブ(キャバレー)への出演許可証を失ったため、1957年にロサンゼルスに移動する。ライオネル・ハンプトンと共演し、ハロルド・ランドやカーティス・カウンスと録音を行なった。リーダーとしては、フランク・フォスターやジョン・コルトレーンハンク・モブレーアート・ブレイキーポール・チェンバースフィリー・ジョー・ジョーンズと共演して録音を行なっている。録音のほとんどではトリオ編成を採っているが、稀にクィンテット編成を採る例もある。契約したレーベルは、ブルーノート・レコードやプレスティージ、リヴァーサイドなどであった。

 西海岸のジャズ界に幻滅して1961年にニューヨークに戻るが、薬物所持のために短期間投獄され、釈放後に演奏活動を再開した。録音はほとんどしなかった。1967年に薬物の過剰摂取のため急死した。

●後世への影響
ホープに影響されたビバップ様式のピアニストに、フランク・ヒューイットとサッシャ・ペリーの名を挙げることができる。ロズウェル・ラッドは自作の《希望 第2番(英語: Hope No. 2)》をホープの追憶に捧げた。ラッドはホープについて、「偉大で優れた作曲家。今なおアメリカの大きな秘密の一つ」と呼んでいる。モダン・ジャズのギタリスト、カート・ローゼンウィンケルは、講習会やインタビューの場で、ホープに影響を受けたと繰り返し語ってきた。

 バーサ(・ロザモンド)未亡人(Bertha Rosamond Hope, 1936年11月8日 - )もジャズ・ピアニストであり、1961年に夫と共演して録音しているが、結婚前にもホープの作品を録音して発表している。

----------------

 悪くはないが重要なことを多く取りこぼした叙述だと思う。ホープはカリブ移民の両親から生まれたニューヨークっ子で、黒人だがアフリカ系ではなかった。7歳からクラシックのピアノを学び、15歳でコンサート・デビューしている。近所に住む幼なじみ(同学年)のバド・パウエルとはジャズやクラシックのレコードを語りあい、学びあう仲だった。
 ホープはマディソン・スクエアに住んでいたが、17歳の時に強盗事件を捜査中の警官から誤認狙撃されている。ホープは誤解を説明して立ち去ろうとしたがそのことが射撃を招いた。弾丸は脊椎をかすめ、ホープは6週間入院し、人種偏見は明白だったが、警察権によってホープへの狙撃は正当化された。
 1943年(20歳)に兵役登録されたホープは独身者とされたが、実際は当時すでに内縁の夫人がおり、長男を設けていたが亡くしていた。アメリカの第二次世界大戦参入の半年前にホープの徴兵期限は切れており、ホープは兵役を免れることとなった。
*
 ジョニー・グリフィン(テナーサックス)の回想によると、40年代半ば~後半は若いビ・バップのミュージシャンはハーレムのモンク宅かブロンクスホープ宅(ピアノは運べないからそうなる)に毎日集まってはディジー・ガレスピー(トランペット)とチャーリー・パーカー(アルトサックス)の曲をジャムしていたという。ホープの初レコーディングはジョー・モリス(トランペット)楽団のSP盤で、1948年9月にアトランティック・レーベルに録音されたR&B曲だった。テナーにグリフィン、ベースにパーシー・ヒース、ドラムスにフィリー・ジョー・ジョーンズら将来の巨匠を含む。モリス楽団でホープは1952年12月までに16回のSP録音(1回あたり標準4曲)の仕事をするが、グリフィン、ヒース、フィリー・ジョーらは1949年には次々とビ・バップのミュージシャンに転身していき、ホープだけがジャズマンになれずにR&B業界でうだつが上がらずにいた。モンク、パウエルらは1947年にはすでに自己名義のレコードを持つ最先端のジャズマンだった。
*
 転機が来たのはクリフォード・ブラウン(トランペット)のブルー・ノート・レーベルへの初レコーディング(1953年6月9日)で、ブラウンは普段ジャムセッションし、クラブ出演しているレギュラー・バンドでの録音を望んだのだった。ブラウン、ホープ以外はルー・ドナルドソン(アルトサックス)、ヒース(ベース)、フィリー・ジョー(ドラムス)という勝手知ったるメンバーで、全6曲中ホープ作品3曲、ブラウンとドナルドソンが1曲ずつ、スタンダード1曲が収録された。ブルー・ノートはホープの才能を買い、念願のエルモ・ホープ・トリオ(ベース=ヒース、ドラムス=フィリー・ジョー)の録音が6月18日に早くも行われる。全9曲中ホープ作品7曲(1曲のみテナーのソニー・ロリンズとの共作)、スタンダード2曲とますます作曲の才を見せつけ、翌54年5月9日にはフリーマン・リー(トランペット)とフランク・フォスター(テナー)にヒースのベース、アート・ブレイキーのドラムスのクインテットで全9曲新曲オリジナルの録音が行われる。ブルー・ノートへの録音は54年8月22日のルー・ドナルドソンクインテットでの4曲が最後になるが、そこでも新曲1曲を提供しており、ブルー・ノート・レーベルでの4回の録音で20曲のオリジナルを披露したことになる。これらはホープの生涯で何度も再録音されるエルモ・ホープ・スタンダードになる。
*
 ただしブルー・ノートも調子が良いもので、ブラウン&ドナルドソン・クインテットの成功にさらに欲を出して、ホープ、ヒース、フィリー・ジョーの代わりにアート・ブレイキーをリーダーにし、パーカー・クインテット出身のカーリー・ラッセルをベース、さらにスタン・ゲッツ・カルテットの新鋭ピアニストだったホレス・シルヴァーの3人をリズム・セクションで総入れ替えし、アート・ブレイキークインテットとしてライヴ・レコーディング『A Night at Birdland Vol. 1-3』で華々しく再デビューさせた。ホープらは体よく弾かれた格好で、パーシー・ヒースは後にモダン・ジャズ・カルテット(MJQ)、フィリー・ジョーはマイルス・デイヴィスクインテットでジャズ界最高のエリートになる。だがエルモ・ホープにはこれがケチのつき始めで、以降1956年までに録音仕事は5回きり、これでは生活できない。
Sonny Rollins/Moving Out (Prestige, rec.1954.8.18)
・Elmo Hope Trio/Meditations (Prestige, rec.1955.7.28) *新曲5曲
・Elmo Hope-Frank Foster Quintet/Hope Meets Foster (Prestige, rec.1955.10.4) *新曲3曲
Jackie McLean/Lights Out! (Prestige, rec.1956.1.27)
・Elmo Hope Sextet/Informal Jazz (Prestige, rec.1956.5.7) *新曲2曲
*
 56年4月26日に、ホープジーン・アモンズの『The Happy Blues』録音に呼ばれていたが姿を現さず(デューク・ジョーダンが代役ピアニストを勤めた)、入院中の伯母の見舞いに行っていたと釈明したが、実際は薬物依存の障害によるものだった。ホープに依頼される仕事が少なかったのも同じ理由から敬遠され、類犯検挙を警戒されていたことによる。同年ついにホープは素行(薬物使用)問題からジャズ・クラブ出演許可をニューヨークのミュージシャン組合から禁止されてしまう。仕事はないが顔だけは広いホープに目をつけたディーラーから密売人のアルバイトを受けて翌57年のロサンゼルス移住まで食いつなぐことになる。
 ロサンゼルスではクリフォード・ブラウン(56年に事故死)の旧友のテナー奏者ハロルド・ランドのバンドや、ランドの所属するカーティス・カウンス(ベース)・グループのピアニストのカール・パーキンス逝去(ODによる、1958年・享年29歳)後のピアノを兼務していたが、ロサンゼルス時代の2年間・8回のセッションでは、59年2月8日録音で全8曲中7曲が新曲オリジナルの『Elmo Hope Trio』、新曲4曲を提供した8月(日付不明)録音のハロルド・ランドクインテット『The Fox』の2枚のハイ・ファイ・ジャズ・レーベル盤は70年にコンテンポラリー・レーベルから新装発売されて、ホープの楽歴第2のピークになった(他に3曲の新曲がある)。だが当時はマイナー・レーベル盤としてまったく反響はなく、60年には結婚したばかりでまだロサンゼルスにとどまったが、61年初頭には新夫人と女の子の新生児とともにニューヨークに戻ってくる。ホープは38歳、余命はあと5年しかなかった。続きは次回にお送りする。ぜひ音楽を聴いていただきたい。