人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

Herbie Nichols - The Complete Master Takes on Blue Note (Blue Note, 1955-1956)

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Herbie Nichols - The Complete Master Takes on Blue Note (Blue Note, 1955-1956) : https://youtu.be/sauNjisPpt8

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The Prophetic Herbie Nichols Vol. 1 (Blue Note, 1955) Full Album
Recorded at Rudy Van Gelder Studio, Hackensack, New Jersey on May 6, 1955
Released by Blue Note Records BLP 5068 (10" LP)
All compositions by Herbie Nichols
(Side A)
1. Dance Line - 4:24
2. Step Tempest - 5:08
3. The Third World - 4:08
(Side B)
1. Blue Chopsticks - 4:20
2. Double Exposure - 4:04
3. Cro-Magnon Nights - 4:39
[ Personnel ]
Herbie Nichols - piano
Al McKibbon - bass
Art Blakey - drums

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The Prophetic Herbie Nichols Vol. 2 (Blue Note, 1955) Full Album
Recorded at Rudy Van Gelder Studio, Hackensack, New Jersey on May 13, 1955
Released by Blue Note Records BLP 5069 (10" LP)
All compositions by Herbie Nichols
(Side A)
1. Amoeba's Dance - 4:29
2. Crisp Day - 3:43
3. 2300 Skiddoo - 4:29
(Side B)
1. It Didn't Happen - 5:10
2. Shuffle Montgomery - 5:11
3. Brass Rings - 5:28
[ Personnel ]
Herbie Nichols - piano
Al McKibbon - bass
Art Blakey - drums

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Herbie Nichols Trio (Blue Note, 1956) Full Album
Recorded at Rudy Van Gelder Studio, Hackensack, New Jersey, on August 1, 1955 (tracks A1-4 & B4), August 7, 1955 (track A5), and April 19, 1956 (tracks B1-4 & B5)
Released by Blue Note Records BLP 1519 (12" LP)
All compositions by Herbie Nichols except as indicated
(Side one)
1. The Gig - 4:27
2. House Party Starting - 5:41
3. Chit-Chatting - 4:04
4. Lady Sings the Blues - 4:25
5. Terpsichore - 4:01
(Side two)
1. Spinning Song - 4:56
2. Query - 3:29
3. Wildflower - 4:06
4. Hangover Triangle - 4:05
5. Mine (George Gershwin, Ira Gershwin) - 4:03
[ Personnel ]
Herbie Nichols - piano
Teddy Kotick (tracks B1-4 & B5), Al McKibbon (tracks A1-5 & B4) - bass
Max Roach - drums

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Herbie Nichols Trio Vol.2 (Blue Note, 1996)
Recorded at Rudy Van Gelder Studio, Hackensack, New Jersey, on August 1, 1955 (track 1), August 7, 1955 (tracks 2-7), April 19, 1956 (tracks 8-12)
Released by Toshiba EMI Records / Blue Note 1608 (Compact Disc)
All compositions by Herbie Nichols except as indicated
(Tracklist)
1. The Gig (alternate take) *not included
2. Furthermore
3. 117th Street
4. Sunday Stroll
5. Nick at T's
6. 'Orse at Safari
7. Applejackin'
8. Mine (George Gershwin, Ira Gershwin) (alternate take) *not included
9. Trio
10. The Spinning Song (alternate take) *not included
11. Riff Primitif
12. Query (alternate take) *not included
[ Personnel ]
Herbie Nichols - piano
Al McKibbon (tracks 1-7), Teddy Kotick (tracks 8-12) - bass
Max Roach - drums

 2015年最後のジャズ記事は、これまでもセロニアス・モンク(1917~1982)、バド・パウエル(1924~1966)、レニー・トリスターノ(1919~1978)、エルモ・ホープ(1923~1968)と並べて5大ビ・バップ・ピアノの革新者に名前を上げてきたハービー・ニコルス(1919~1963)をご紹介する。生前のニコルスはトリスターノやホープに輪をかけて不遇で、数枚のコメディやダンス用シングルに参加した以外には、本格的なモダン・ジャズ作品は今回リンクを引いたブルー・ノート・レーベルからの10インチLP2枚と12インチLP1枚、さらに12インチLP用のセッションに未収録になった8曲(後に『Herbie Nichols Trio Vol.2』としてまとめられた)を足して、ブルー・ノートへはオリジナル曲29曲・ガーシュインの「Mine」を足して30曲が全録音になる(別テイクを除く)。
 他にはブルー・ノート同様マイナー・インディーズのベツレヘムから『Love, Gloom, Cash, Love』1957があり、名手ジョージ・デュヴィヴィエ(ベース)、チャールズ・ミンガスの専属ドラマー、ダニー・リッチモンドの珍しい参加でこれも名作になっている。ベツレヘム盤は全10曲中スタンダード2曲とデンジル・ベスト(作曲の才に長けたビ・バップ・ドラマー)の曲が1曲、ニコルスの新曲オリジナルは7曲でうち1曲はソロ・ピアノで演奏された。日本語版ウィキペディアにもハービー・ニコルスの項目があり、例によって英語版ウィキペディアからの抄訳なのだが、簡略な分だけ必要最低限の内容に圧縮してあるとも言える。
(Original Blue Note "Herbie Nichols Trio" LP Liner Notes)

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(以下日本語版ウィキペディアより)
●ハービー・ニコルス
ハービー・ニコルス(Herbie Nichols, 1919年1月3日 ニューヨーク・シティ ? 1963年4月12日 ニューヨーク・シティ)はアメリカ合衆国のジャズ・ピアニスト。作曲家としても名高く、ジャズのスタンダード《レディ・シングス・ザ・ブルース》は代表作の一つである。生前は有名ではなかったが、歿後に多くのミュージシャンや評論家から高い評価を受けるようになった。

○略歴
セントクリストファー島出身者とトリニダード島出身者を両親にマンハッタンのサンファンヒル地区に生まれ、ハーレムに育つ。知られている限りで最初の活動は、1937年にロイヤル・バロンズとの共演に遡るが、ニコルスは数年後のミントンズ・プレイハウスにおけるジャム・セッションをあまり楽しい経験とは認めていない。その場の張り合うような空気がニコルスの気性とは相容れなかったためである。ただしピアニスト仲間のセロニアス・モンクと親交を結んではいるものの、モンクにはっきりと軽視されたことは一層こたえたようである。
 1941年に徴兵されて歩兵連隊に入隊する。戦後はさまざまな曲付けを手懸けるようになり、1952年にメアリー・ルー・ウィリアムズがニコルスの曲をいくつか録音する頃には、そこそこ名前が知られるようになっていた。ニコルスは1947年から、アルフレッド・ライオンに、ブルー・ノート・レーベルとの契約をしつこく哀願しており、ついに1955年と1956年にブルー・ノートで3枚のアルバムを制作した。これらのセッションのアウトテイクは、1980年代まで発表されなかった。ニコルスの《セレナーデ》は歌詞が付けられ、《レディ・シングス・ザ・ブルース》として、ビリー・ホリデイの代名詞となった。1957年には、最後のアルバムをベスレヘム・レコードで制作している。以上の音源は全てニコルスがリーダーを務めたもので、CD化もされている。
 1963年に白血病のため亡くなった。

○後世への影響
 生涯の大半をディキシーランド・ジャズのミュージシャンとして活動せざるを得なかったが、本人はより実験的な種類のジャズを演奏することを好んだ。ディキシーランドビバップ様式や、西インド諸島の民俗音楽、エリック・サティベラ・バルトークに影響されたハーモニーを組み合せた、極めて独創的な標題音楽によって、今日では特に高い評価を得ている。
 ニコルスの楽曲は、昨今ロズウェル・ラッドによって精力的に紹介されるようになった。ラッドは1960年代にニコルスと共演したことがあり、近年少なくとも3枚のアルバムでニコルスの楽曲を録音し、あるいは特集している。1984年にスティーヴ・レイシー・クィンテットは、1984年のラヴェンナ・ジャズ・フェスティヴァルにおいて、ジョージ・ルイスやミシャ・メンゲルベルク、ハン・ベニンク、アリエン・ゴルターとともに、ニコルスの作品を上演した。ニューヨークのグループ「ハービー・ニコルス・プロジェクト」は、録音されたことのない(その多くは米国議会図書館にニコルスが寄贈した)楽譜を集めて、これまでに3枚のアルバムを録音している。
(以上日本語版ウィキペディア全文)
('70's Blue Note 2LP "The Third World; The Complete Recordings of Herbie Nichols")

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 さて、日本語版ウィキペディアでは簡単に済まされてしまったことについては少しずつ触れるが、リンクに引いたのは別テイクを除いた1955年5月6日と13日、同年8月1日と7日、1956年4月19日の、全30曲のブルー・ノート・レーベルへの録音全曲で、ニコルス生前に発売された2枚の10インチLPと1枚の12インチLP、その3枚に洩れた8曲(と別テイク)をまとめたCDの曲目をリストにした。1年に満たない期間に録音された30曲なのでスタイルの変化はない、というかニコルスはすでに作風の確立したジャズ・ピアニストで、一流のベーシストとドラマー(ブルー・ノートではすでにモンクやバド・パウエルとの共演経験があり、ニコルスの音楽を即座に理解した名人たち)とともに、最高の完成度に達した演奏を録音している。デビュー作にしてこれほど独創的で、完全に独自の音楽性をきわめた作品を作り上げた例はそれこそビ・バップの巨匠たちに並ぶと今日認められている通り、ニコルスはまさに最後にデビューしたビ・バップ・ピアノの鬼才だった。

 ジャズ・ジャーナリズムの上で初めてニコルスが注目されたのは、歿後間もない1965年に珍しい黒人のジャズ批評家A.B.スペルマンSpellman, A.B.が『ジャズを生きる~ビ・バップの四人』Four Lives in the Bebop Business(翻訳・晶文社1972)で生前のニコルスに取材していた評伝を1章に割いていたからで、同書は他にジャッキー・マクリーンオーネット・コールマンセシル・テイラーに取材した4人のジャズマンの評伝集だった。1965年当時マクリーン、オーネット、テイラーは尖鋭的な黒人ジャズの最前線を担うジャズマンたちであり、1963年に人知れず亡くなったニコルスがマクリーンらと並べて採り上げられているのはスペルマンの著書の業績で、同書はジャズ批評の古典となり1985年には20周年改訂新版も刊行されている。日本ではスイング・ジャーナルに植草甚一による抄訳が連載されたが、訳文自体は正確なものだった。晶文社からの全訳は事実関係すら取り違えた(訳者のジャズへの無知による)誤訳に満ちたもので、植草甚一の抄訳なり、編集部で専門家に校閲を受けるなり、照応すれば防げただろう。70年代以降出版物の質が全体的に急激に低下したのは、入念な校閲による正確・精密なチェックなしに著者(翻訳者)の原文を丸投げで刊行してしまう、従来なら有り得なかった安易な出版が横行したためで、『ビ・バップの四人』も改訳・新訳しなければ本来翻訳失格の水準であり、しかも版権を独占する方針の出版社から翻訳が出たため改版や再刊の機会もなかった。ニコルス評伝の上で最重要文献だが、絶版かつ誤訳満載ではお薦めできない。だがアメリカ本国では、同書の刊行がニコルス復権の第1歩だった。
(Blue Note Japanese Reissued "Prophetic Herbie Nichols" Vol.1 & Vol.2)

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 ニコルス復権に尽力したのはラズウェル・ラッド(トロンボーン)とスティーヴ・レイシー(ソプラノサックス)ら、晩年のニコルスに私淑したフリージャズの若手白人プレイヤーたちで、ラッドらはニコルスが未発表曲や旧作の管楽器アレンジを楽譜に書き溜めているのを見せられていた。80年代になってラッドとレイシーは遺族からニコルスの遺稿の提供を受け、オランダのフリージャズ・プレイヤーのミッシャ・メンゲルベルク(ピアノ)、ハン・ベニンク(ドラムス)らを誘ってセロニアス・モンクとハービー・ニコルスの曲を演奏するプロジェクトを立ち上げて、アルバムを連続リリースする。メンゲルベルク、ベニンクはエリック・ドルフィーの『Last Date』、ペーター・ブレッツマン『Machine Gun』を始めとしてヨーロッパのジャズのキー・メンというべきジャズマンでもあり、それがニコルスの曲が本格的に現役ジャズマンに採り上げられ再評価される嚆矢となった。

 くり返しになるが、ブルー・ノートの全録音は1955年5月6日と13日、同年8月1日と7日、1956年4月19日で全30曲が収録され、ベツレヘム盤の全10曲は1957年11月の不明日に1セッションで録音された。ハービー・ニコルスの録音はすべてピアノ・トリオで、ニコルスのアルバムを聴いて慕ってきたラッド、レイシーら若手ジャズマンたちに管楽器入りアレンジの楽譜や未録音の新曲を託していたが、ニコルスが逝去した時もまだブルー・ノートには初回プレスが残っているほどアルバムは売れず、ベツレヘム・レーベルはキング・レーベルに買収されて在庫は廃棄されていた。トリスターノやホープも仕事に恵まれない不遇ジャズマンだったが、それでもメインストリームのビ・バップ・ピアニストとして活動していたのに対して、ハービー・ニコルスは主にレストランやバーであたりさわりのないBGMジャズを演奏する以外の仕事はまったくなかった。オリジナル曲がアルバムのほとんどを占めるニコルスは音楽で生計を立てていたプロのミュージシャンだったが、ニコルス自身の音楽を演奏する機会は皆無だった。

 1947年にモンクがブルー・ノートからレコード・デビューした時、ニコルスは黒人ジャズ専門誌にモンクを賞賛する論評を発表するとともにブルー・ノート社に売り込みを図ったが、パウエルやホープホレス・シルヴァーらが次々ブルー・ノートからデビューしてもニコルスはなかなか起用されなかった。録音曲数から見てもう1回セッションすれば12インチLPをあと1作組めたはずだが、先行作品があまりに売れなかったため2作目の12インチLPは制作中止になったものと思われる。ニコルスの盛名は今日では玄人筋にきわめて高く、モンク、パウエルに次いで、トリスターノやホープよりも揺るぎない評価を得ているとさえ言えるが、レコードに残されたニコルスの演奏は生前のニコルスがライヴで披露する機会はまったくなかったものだった。ニコルスはレストランやバーで、陳腐なオールド・スタイルのジャズ・ピアノを弾く以外には仕事がなかった人だった。
 資料に当たるとニコルスが渡り歩いてきたバンドや共演ミュージシャンは一通り判明しているのだが、名のあるジャズマンはほとんどいない。スラム・スチュワート(ベース、ヴォーカル)とシーラ・ジョーダン(ヴォーカル)くらいで、あとはディキシーランド・ジャズの営業バンドばかりだった。ニコルスが自分の音楽を演奏できたのは1955年、56年、57年の4枚のアルバム録音の時だけで、いつか管楽器入り編成のバンドで自作曲の演奏をするのを渇望しながら楽譜を書き溜めていた。真にオリジナルな音楽を指向していたニコルスにとって、営業バンドはまったく自己表現を禁じられた労働だった。

 晩年のニコルスは、仕事にも恵まれず経済的にも困窮して公営アパートで白血病と闘病しながら、自分の音楽への自負とジャズ業界への絶望のギャップに苦しみつつも、将来自分の音楽が認められる希望だけを生きがいにして、亡くなる直前まで作曲と編曲、自作についての音楽理論を執筆していた。セロニアス・モンクセシル・テイラーの間に位置するようなハービー・ニコルスの音楽が発表当時受け入れられなかったのは仕方なく、メアリー・ルー・ウィリアムズ経由でニコルスの「Serenade」を聴き歌詞をつけてヴォーカル曲「Lady Sings the Blues」にしたビリー・ホリデイがいなければ完全に忘却されかねなかった人だが、ニコルスの生涯の僥倖は少ないながら完璧なアルバムを残せたことと、ビリー・ホリデイによるヴォーカル曲化しかなかった。没後25年以上経って再評価が定着しようが、墓に着物は着せようがない。