人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

不倫する夏目漱石(1)

(1912年9月13日、明治天皇大喪の礼の日の夏目漱石)

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 夏目漱石(1867-1916)については、このブログを始めて間もない2011年7月29日付けで、
・「こころ」総論(訪問者のかたへ)
・補遺「こころ」総論
・「こころ」追補
 という1000文字記事を掲載している。なぜ「こころ」総論に(訪問者のかたへ)とついているかというと、前日28日に、
・「こころ」の真相(上・下)
 と、ほとんど夏目漱石の「こころ」とは関係ない作文を載せて質問のコメントが寄せられたからだった。このブログは当初は元文学少年の老残ブログ傾向が強かった。漱石以外にもリクエストに応じて江戸川乱歩夢野久作太宰治三島由紀夫など質問されたから倍返しでコテコテの内容の作文を載せたが、手前味噌になるが相当歯ごたえのある内容になったと思う。自発的に書きたいとは思わなかった題目だが上記の作家くらいは学生時代に全集を通読している。感想文を作文してみて、一般的に受けとめられているイメージとは相当異なった読み方をしているのに自分でも気づいた。くり返しになるから同じ内容の作文をするつもりはないが、ブログ内検索でお調べれされれば、興味がおありならすぐ閲覧いただける。

 このブログは最初は文学、精神疾患、それからセックスについてが3本柱みたいなものだった。どれも近頃はほとんど題材にしなくなっている。最近は音楽(ジャズ、ロック)のアルバム紹介と創作童話の連載を交互に載せているが、テーマの上では一貫した通奏低音はずっと以前から持続していると思っている。つまりどちらを選んでも不本意な選択肢しかなく、結局どちらかを選ぶしかない時、その判断は自由意志による選択だと言えるのだろうか。音楽作品はつねに制約から生み出されてくるものだし、このブログの箸休めのつもりで書いている連載童話も童話ならではの飛躍に制限を設けていないにも関わらず、だからこそというべきか、次々とフラストレーションが累積していく展開がパターンになっている。「偽ムーミン谷のレストラン」以来スヌーピーミッフィーちゃん、アンパンマンと書いてきたが、今載せている渚のアリスでようやくムーミン谷から5作をかけて一巡してきたように思える。
 雑誌ライターだった頃も、だいたい仕事内容は詳細なデータ、取材を踏まえた周密な作文と、お題だけ与えられて媒体のカラーに合わせたおもしろおかしい作文の両極が多かった。それは編集者が読者からの需要と解釈したものをライターに書かせるわけだが、確かにライターとしては硬軟交互に作文仕事が入る方が楽だったが、本当に読者からの需要がそういうものだったかは当時も今も疑問がある。両極に振り分ければ中間はおのずから埋まる、ということはあるまい。このブログではアルバム紹介も創作童話も題材以外に違いはないと思っている。アルバム紹介は音楽記事の体は見かけだけだし、創作童話も「創作」などとは思っていないから当然「童話」の体をなさない。

 初めてブログを始める前は2年半に4回、通算入院期間が30か月のうち10か月という重病人で、そのうち2回は死地まで行ってくたばり損なったくらいだから病室で寝たきりを厳重に守らされた。病院においてある本(退院していった人が置いていった本)など推理小説と料理マンガくらいしかないので、様態が安定して公共料金支払いや着替えを取りに半日帰宅を許された時、第三書館の『ザ・漱石』と新潮社の『新潮世界文学・カミュ』を持ってきた。第三書館は分厚い1冊本で旧版全集をまるごと縮刷復刻したもので、『カミュ』は生前発表の全小説を集めた1冊本だから、1日に長編小説2冊のペースで読み、次やその次の入院ではやはり1冊本の角川書店の旧版『中原中也全集』、五月書房『辻潤選集』、第三書館『ザ・大杉栄』などを『ザ・漱石』と『カミュ』に加えて持って行ったが、漱石は全小説・長編随筆と紀行を10回近く読み返した。毎回の入院で最初の半月間は読書もさせてもらえないし、毎回緊急入院だったから家に本を取りに半日帰宅を許可されるのは1か月以上かかる。だから毎回の入院で読書が許されたのは入院後半期間だけだが、渇いた喉がごくごく水を飲むみたいに、次から次へと読んだものだ。
 二流作家という印象だったカミュが小粒ながら立派な小説家だとわかって舌を巻いたが、学生時代に全集を通読(文学部学生なら当たり前だが)していた漱石が、こんなに面白いとは思わなかった。いや、高校生の時に『それから』には参ったし、中学時代には『猫』の第1章だけ、『坊ちゃん』『三四郎』くらいは読んで、特に三四郎旧制高校入学のため上京して郷里に「言文一致の手紙を書いた」というのはほう、と印象が鮮やかだった覚えもある。『門』はまだしも『彼岸過迄』はずいぶんひどく、『こころ』には困った。

 それが病床で初期短編と『猫』から絶筆『明暗』まで年代順に読んでは読み返し、38歳で小説家になり、49歳で亡くなった漱石の10年ばかりの創作史が、40代半ばになってようやく生理的な実感を持って迫ってきた。そして思ったのは、漱石にはどうしてあからさまに不倫の危機を扱った長編小説が多いのだろう、ということで、それは学生時代に読んだ時もわかってはいたが、自分が精神疾患を病んでみると漱石の場合はほとんど罪業妄想に近い病的な感覚がある。さらに自分自身が離婚後に既婚女性と不如意な不倫関係に陥った経験も経て、漱石ほどの人になると後世の研究者から調べ尽くされて漱石自身にはそうした事跡はなく、それは漱石ほどの社会的地位にある男性には当時むしろ珍しいくらいに潔癖なわけだが、長編小説ではくり返し不倫からモチーフを導き出していたことをますます不可解にさせる。
 不倫小説家としての夏目漱石というのは漱石研究者層ではそう珍しいものではないが、文学研究者の間では一定の見解に定着しているにしてもそれがすなわち個々の読者にとっての解決にはならない。漱石にとっては作品に書き、一種の思考実験としてさらに書き継いでいくことが実生活上での不倫はしなかった(ただし家庭には夫婦愛はなかった)漱石の、止むに止まれぬ渇望だったとも思える。さて、この作文はいったい連載になるだろうか。いや、できるだろうか。書けば書くほど不愉快な内容になりはしないだろうか。

[ 夏目漱石・中編-長編小説リスト ]
吾輩は猫である(『ホトトギス』1905年1月 - 1906年8月/1905年10月 - 1907年5月・大倉書店・服部書店刊)
坊っちゃん(『ホトトギス1906年4月/1907年、春陽堂刊『鶉籠』収録)
草枕(『新小説』1906年9月/『鶉籠』収録)
二百十日(『中央公論1906年10月/『鶉籠』収録)
野分(『ホトトギス』1907年1月/1908年、春陽堂刊『草合』収録)
虞美人草(『朝日新聞』1907年6月 - 10月/1908年1月・春陽堂刊)
坑夫(『朝日新聞』1908年1月 - 4月/『草合』収録)
三四郎(『朝日新聞』1908年9 - 12月/1909年5月・春陽堂刊)
それから(『朝日新聞』1909年6 - 10月/1910年1月・春陽堂刊)
(『朝日新聞』1910年3月 - 6月/1911年1月・春陽堂刊)
彼岸過迄(『朝日新聞』1912年1月 - 4月/1912年9月・春陽堂刊)
行人(『朝日新聞』1912年12月 - 1913年11月/1914年1月・大倉書店刊)
こゝろ(『朝日新聞』1914年4月 - 8月/1914年9月・岩波書店刊)
道草(『朝日新聞』1915年6月 - 9月/1915年10月・岩波書店刊)
明暗 (『朝日新聞』1916年5月 - 12月/1917年1月・岩波書店刊)