Tad Dameron with John Coltrane - Mating Call (Prestige, 1957) Full Album
Recorded at the studio of Rudy Van Gelder in Hackensack, New Jersey, November 30, 1956
Released by Prestige Records Prestige PRLP7070, March 1957
All music composed by Tadd Dameron
(Side A)
A1. Mating Call : https://youtu.be/9rw6jYeZ_Ok - 5:57
A2. Gnid : https://youtu.be/3wJLiKGYrWo - 5:07
A3. Soultrane : https://youtu.be/DwsH9pyzNNI - 5:24
(Side B)
B1. On a Misty Night : https://youtu.be/JSKdLaK8iNA - 6:23
B2. Romas : https://youtu.be/91hbYE8Vlvw - 7:45
B3. Super Jet : https://youtu.be/BYqohmc4tm0 - 6:00
[ Personnel ]
Tadd Dameron - piano
John Coltrane - tenor saxophone
John Simmons - bass
Philly Joe Jones - drums
(Original Riverside "The Magic Touch" LP Front Cover)
タッド・ダメロン(Tadd Dameron)ことタドリー・ユーイング・ピーク・ダムロン(Tadley Ewing Peake Dameron, 1917年2月21日 オハイオ州 クリーヴランド - 1965年3月8日)はアメリカ合衆国のジャズ・ピアニストおよび作曲家・アレンジャー。ミュージシャンとしてはジョージ・ガーシュインとデューク・エリントンの影響を公言し、デクスター・ゴードン(テナーサックス/1923-1990)からも「ビバップのロマン主義者」と評される一方で、allmusic.comのジャズ部門主筆批評家のスコット・ヤーノウをして「ビバップ時代を決定した作編曲家」と言わしめている。ビバップ時代最高のアレンジャーだったがスウィングやハード・バップのアーティストにもヒット曲を提供しており、カウント・ベイシーやアーティ・ショウ、ジミー・ランスフォード、ディジー・ガレスピー、ビリー・エクスタインらのバンドのアレンジを手がけた。R&Bの大物ブル・ムース・ジャクソンにもアレンジを提供している。
というのがウィキペディアのタッド・ダメロンの項目の前文になっている。1917年生まれとはディジー・ガレスピー(トランペット/1917-1992)と同年で、ダメロンが名を上げたのもディジーが1944年12月にサラ・ヴォーン(ヴォーカル/1924-1990)を専属歌手に立ち上げ、チャーリー・パーカー(アルトサックス/1920-1955)とのクインテットを挟んで1949年7月まで率いていたビッグバンドの主力アレンジャーの業績だった。ディジーとの仕事から独立して1948年に小規模~中規模バンドを興すと次々と有望な新人を輩出し(後述)、作曲家としてもサラ・ヴォーンの代表曲「If You Could See Me Now」、ガレスピー&パーカー・クインテットの代表曲「Hot House」、ガレスピー・ビッグバンドの「Our Delight」、カウント・ベイシーに提供した「Good Bait」、自己のバンドで名演を残した「Lady Bird」など少なくともこの5曲はさまざまなジャズマンが取り上げ、改作を生み出し、現在でも演奏され続けられている。
(Original Prestige "Mating Call" LP Side A & B Label)
ではダメロン自身の音楽が広く聴かれているかというと、聴かれてもいるしいないともいえる。変なことになっているのだ。ダメロンのバンドは当時の先鋭新人だったファッツ・ナヴァロ(トランペット/1923-1950)、マイルス・デイヴィス(トランペット/1926-1991)、クリフォード・ブラウン(トランペット/1930-1956)、アーニー・ヘンリー(アルトサックス/1926-1957)、ワーデル・グレイ(テナーサックス/1921-1955)、デクスター・ゴードン、チャーリー・ラウズ(テナーサックス/1924-1988)、ソニー・ロリンズ(テナーサックス/1930-)を輩出し、作編曲家でもあるベニー・ゴルソン(テナーサックス/1929-)はダメロンに私淑していた。しかし彼らが夭逝(ナヴァロ、グレイ、ヘンリー)、一時的引退(ゴードン)、失踪(ロリンズ)、重鎮(ゴルソン)、スター化(マイルス)していた頃には、ダメロンを録音に迎えたレーベルはインディーズのプレスティッジとリヴァーサイドがわずかな枚数を制作しただけだった。
ダメロンの全盛期は1951年のLPレコード実用化前のもので、1947年~1950年の脂の乗った録音はシングル盤に相当する片面3~4分のSPレコードだった。この時期の多くの録音はLP化される時に、バンドのスター・ソロイストだった夭逝の天才ファッツ・ナヴァロ名義の追悼アルバムにまとめられている。その中には元々ナヴァロ名義の録音もあるから、リスナーはダメロンのバンドの録音なのを忘れてしまう。さらに2番トランペットにマイルスが加入して共演していたり、病弱なナヴァロが穴を空けた時にはマイルスがメイン・ソロイストに昇格もして、旧規格盤CDの『Complete Birth of Cool』のボーナス・トラックや発掘盤『The Miles Davis and Dameron Quartet in Paris - Festival International du Jazz, May 1949』(Columbia, 1977)でマイルスをフィーチャーしたダメロン・バンドが聴けるが、ブルー・ノート盤『The Fabulous Fats Navarro, Vol. 1 & Vol. 2』同様みんなナヴァロやマイルスのアルバムだと思って聴いているのだ。そして夭逝したナヴァロに兄事していたクリフォード・ブラウンが1953年にダメロン・バンドを離れると、ダメロンはレギュラー・バンドが立ちゆかなくなってしまう。アルバム制作は続けたが、1959年~1961年には麻薬禍でケンタッキーの刑務所に入っている。実刑判決が執行されたということは執行猶予中に再犯してしまったということだから、よほど私生活にも問題を抱えていたのだろう。
(Reissued Prestige PR7247 "Mating Call" '1962 LP Front Cover)
先に上げたマイルスをフィーチャーしたコロンビア盤は発掘盤で、他にも数枚ナヴァロ時代・マイルス時代の発掘ライヴが非公式のインディーズ盤で出ているが、前述の通りSP時代の録音はブルー・ノートやサヴォイのファッツ・ナヴァロ名義のアルバムに吸収されているので、純粋に最初からLPとして制作・発売されたダメロンのアルバムは、
1953: A Study in Dameronia (Prestige)
1956: Fontainebleau (Prestige)
1956: Mating Call with John Coltrane (Prestige)
1962: The Magic Touch (Riverside)
の4枚しかない。このうち10インチ・アルバムの6管ノネット作品『A Study in Dameronia』はクリフォード・ブラウンの歿後(またもや!)『Clifford Brown Memorial Album』としてライオネル・ハンプトン楽団のヨーロッパ公演中に録音された現地ジャズマンとのセッションとAB面にカップリングされている。『Fontainebleau』はケニー・ドーハム、サヒブ・シハブ、セシル・ペインら5管フロントのオクテット作品で、『Mating Call』を挟んだ『The Magic Touch』はフル編成のビッグバンド作品だから、数少ないダメロン作品中『Mating Call』は例外的にテナーサックスのワンホーン・カルテットだったのがわかる。『The Magic Touch』は2年間の刑期を挟んだからか、ピアノはほとんどリヴァーサイド専属のビル・エヴァンスに任せ、ダメロンは作編曲とリーダーシップに専念している。アルバム4作すべてダメロン自身によるオリジナル曲で(『The Magic Touch』は集大成を目指して再演もあるがほとんど新曲、『A Study in Dameronia』~『Mating Call』は全曲新曲)、4作とも初期のナヴァロ時代・マイルス時代に劣らず高い評価を受けているが、『The Magic Touch』を遺作に3年後には48歳で亡くなってしまう。晩年は癌で闘病中だったが、死因は心臓発作だった。ブラウン25歳、ナヴァロ26歳、ヘンリー31歳、グレイ34歳、パーカー34歳と並べていくと、当時ジャズマンの平均寿命は40歳未満とされたのも物故者を閲すればあながち根拠がないとは言えない。
(Reissued Prestige PR7745 "Mating Call" '1970 LP Front Cover)
ダメロンはピアニストとしては可もなく不可もなくであまり評価されない分作曲家・アレンジャーの才能は抜群で、ただしビバップはシンプルな作曲と最小限のアレンジで可能な音楽だったからダメロンのバンドは作曲やアレンジよりもスター・ソロイストの力量で記憶されることになった。ダメロンが白人だったらウェスト・コースト・ジャズのような中規模バンドによるオリジナル・レパートリーがセールス・ポイントにもなっただろう。中規模バンドは人数分に見合った集客力がないとレギュラー・バンドの維持が難しく、マイルスの加わったパリの音楽祭への招聘コンサート(対バンはパーカー・クインテットだった!)にもクインテット編成だった。タイトルは『The Miles Davis and Dameron Quartet in Paris - Festival International du Jazz, May 1949』だがマイルスのワンホーン・カルテットではなく、ジェームス・ムーディ(テナーサックス)入りのダメロン・カルテットにマイルスのゲスト参加、というこじつけタイトルなので、実際はダメロン・クインテットが正しい。作曲とアレンジ命のダメロンにとってテナーのワンホーン・カルテットは勇断だったろう。まずよほど自信のある新曲を揃えなければいけないし、ピアノ・トリオ+ワンホーンとはほとんどホーン奏者にはヴォーカリストとメイン・ソロイスト両方の表現力と力量が要求される。ジョン・コルトレーン(テナーサックス/1926-1967)にとって本作はプロ・デビュー以来初のワンホーン・アルバムとなり、ピアノ・トリオとのワンホーン・カルテットは生涯コルトレーンのソロ活動の基本フォーマットになった。その点でも両者にとって重要なアルバムで、仕上がりはやや小粒で地味だが名作と呼ぶに足るものになっている。
録音はA1、A3、A2、B3、B1、B2の順に行われた。コルトレーンとドラムスのフィリー・ジョーは当時マイルスのバンドのバンドメイトで、マイルスは先月10月の3時間12曲一気録音のセッションでプレスティッジとの契約を満了しコロンビア移籍の条件を満たしたばかり、コルトレーンはプレスティッジとソロ契約を継続し、フィリー・ジョーはすぐ後にプレスティッジとケンカしてリヴァーサイド専属になる。コルトレーンも翌1957年春には飲酒癖が原因でマイルスのバンドをクビになるのだが(すぐにセロニアス・モンクのバンドに誘われてマイルス時代以上の注目を集め、1958年には呼び戻される)、『Mating Call』は佳曲ぞろいのアルバムA面をまず録音したのはリテイクの可能性を考えたか、録音前の打ち合わせで入念だったのはA面曲に集中していたのだろう。後半をB3から始めたのはアルバム中もっともスウィンギーなアップテンポ曲で肩をほぐし、再びB1のミディアム・バラードをじっくり演奏する。録音順で最後のB2はピアノ・トリオ主導のレイジーなブルースだからお手の物で、このアルバムは5分~7分台の曲がAB面3曲ずつという構成だが、全6曲でミディアム・バラード3曲、ファスト・スウィング2曲、スロー・ブルース1曲という配分はありそうでない。この構成も小粒で地味な印象につながっているのだが、B2などは案外そういやブルースやってないな、と苦笑しながらセッションの終わりになって即興的にストック曲の中から出してきたのかもしれない。名作とはいえジャズ史に欠かせないアルバムというほどではないし、これほど肩の力を抜いたコルトレーンも珍しいがコルトレーンを知るには必聴のアルバムとも言えない。だがこのアルバムにしかない、ほんのりとしたいいムードがあるのだ。なくても構わないが(?)、これがあるのはダメロンにとってもコルトレーンにとっても幸福な記録になったとほのぼのする。