人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(3); 過渡期の詩人たち (d)石川啄木・後

 この第3章「過渡期の詩人たち」では古色蒼然たる『現代詩人全集』(新潮社・昭和4年~5年/1929年~1930年)をまず俎上に載せました。昭和4年(1929年)といえば前年に治安維持補法改正案(つまり強化案)が決まり、その前年(昭和2年)には芥川龍之介(1892-1927)が遺書に「ぼんやりとした不安」を理由と書き残して自殺したのが社会的な衝撃を惹き起こしています。小林多喜二蟹工船』発表も昭和4年であり、第二次世界大戦につながる世界的大恐慌が起こったのも1929年です。時代の不安は昭和5年横光利一「機械」の圧倒的反響からも文学の世界に反映していました。そんな中『現代詩人全集』は正確には『明治大正詩人全集』というべき時代からズレた編集方針がかえって貴重な証言となってもいますが、そのうち現代詩史のなかで位置づけの定まらず現代の読者も少ないながら小さいとは言えない業績を残した詩人の集中した巻として、
新潮社『現代詩人全集』全12巻(昭和4年~5年)
 第4巻●河井醉茗・横瀬夜雨・伊良子清白集
 第6巻●石川啄木山村暮鳥三富朽葉

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 を挙げました。第4巻は明治30年代の詩誌「文庫」を代表する3人集で、第6巻は作風・人脈ともほとんど関連がないながら当時の詩の主流から孤立していた夭逝詩人の3人集です。当初の計画では第1回を『現代詩人全集』の解説、第2~3回で「文庫」派3人集、第4~5回で夭逝詩人集をご紹介する予定でしたが、始めてみるとそうもバランス良くは書き分けられないのに気づきました。「文庫」派では伊良子清白は突出しており、過渡期の詩人とは言えない独自の完成を示した人です。また夭逝詩人集でも山村暮鳥三富朽葉はむしろ読まれるのはこれからの詩人です。そこで結局、ほぼ評価の確定している河井醉茗、横瀬夜雨、石川啄木について振り返ってみることになりました(清白、暮鳥、朽葉については今後独立した章を立てて取り上げます)。醉茗、夜雨、啄木と取り上げていくと、詩歴も享年も長い醉茗よりずっと短い夜雨、さらに短い啄木の方が短期間で目まぐるしく作風を変化させており、ご紹介する作品も醉茗より夜雨が多くなり(改めて良い詩人なのを実感しました)、さらに啄木は前後編に分けてご紹介しているほど作風が変わっていきます。その辺りも夭逝者ならではの生き急ぎを感じ、痛ましい思いがするのです。

 石川啄木(明治19年-明治45年/1886年-1912年、享年26歳)は国語教科書にも出てくるような文人ですし、啄木の夭逝は明治の作家では北村透谷(明治元年-明治27年/1868年-1894年、享年25歳)、樋口一葉(明治5年-明治29年/1872年-1896年、享年24歳)に匹敵するものでしょう。透谷と一葉は没落士族の家系であり、啄木は住職家に生まれ、生前は名声とも富とも無縁に生涯を終えました。かろうじて一葉が最晩年にして「たけくらべ」で文学者間に天才を認められ、肺結核で夭逝しなければ将来が期待できた程度で、透谷は精神疾患の進行から自殺し、啄木は結核の進行も放置し破滅的な生活を送りました。透谷と啄木の場合、一葉のような創作力と将来性は晩年にはすでに失っていた、と言わざるを得ないでしょう。
 その辺に男女の違いを見ることもできますが、一葉のような驚異的な才能は世紀にひとり出るかどうかですから単純に女性だから、と言うわけにはいきません。明治以降の日本文学からただ1作を選ぶとすれば鴎外でも漱石でも谷崎でもない、珠玉の短編小説「たけくらべ」に屈指するしかなく、日本の小説は『源氏物語』と「たけくらべ」に尽くされています。これは24歳で夭逝した女性に与えられた運命としては過大にすぎ、しかも過労と病苦と貧困の中で死んでいき、現在は紙幣に肖像が使われる、という悪趣味な栄誉を授かっています。しかし読者にとって啄木は一葉よりずっと身近な感じを与えます。一葉は完全に古典ですが、啄木にはまだ古典で済まされないところがある。切れば血の出るような生身の青年・啄木を感じさせる面があるからこそ、その作品は現在でも読まれていると言えるでしょう。

 前回は第一詩集にして生前唯一の詩集『あこがれ』(明治38年=1905年)から2編、『あこがれ』収録作以降の作品をまとめた未刊詩集『黄草集』(明治39年1906年)から2編、年間4回の転職に明け暮れた明治40年を挟んで書かれた、ひさしぶりのまとまった連作「泣くよりも」4編(明治41年=1908年6月)、明治42年(1909年)12月に新聞連載された連作「心の姿の研究」5編までの作品を追いました。『あこがれ』と「黄草集」は薄田菫泣、上田敏蒲原有明らの影響を器用に消化していた習作時代とすれば、「泣くよりも」「心の姿の研究」は自然主義的な方向性にむかっています。「文庫」出身の川路柳虹(1888-1959)による日本初の口語詩「塵溜」(明治40年=1907年)は口語詩というより自然主義詩として、おそらく啄木には出し抜かれた思いだったでしょうし、柳虹の第1詩集『路傍の花』(明治43年=1910年)は啄木の「泣くよりも」「心の姿の研究」の時期と重なるものです。ここまでを石川啄木の詩歴の前編としたのには根拠があります。
 石川啄木は自由詩の詩人としてより、独自の三行分けによる歌集『一握の砂』『悲しき玩具』の歌人として愛読されています。生前刊行の唯一の歌集『一握の砂』は明治43年(1910年)春にまとめられ、同年12月に出版されます。この年は政治新聞主筆幸徳秋水らに無政府主義による国家転覆計画の冤罪で見せしめ的な死刑執行が行われ(大逆事件)、東京朝日新聞の校正係だった啄木はつぶさに報道の動向を追って国家の強権に衝撃を受けます。啄木の衝撃はアナーキズムへの共感やその弾圧というより、国家が共同体への配慮なしに直接個人を処罰できる、という明治の近代主義を看破し、直視したことにあると思われます。朝日新聞では短歌欄の選者にも抜擢されますが、秋に生まれた長男を3週間で亡くします。この年は1月に1編の詩作があるだけで短歌、評論、短編小説に力をそそいだ年になりました。

 今回ご紹介する連作と小詩集は啄木晩年の最終コーナーを示す作品で、連作「詩六編」はまる1年ぶりになる明治44年(1911年)1月執筆、雑誌「精神修養」2月号に一挙掲載されたもの。また小詩集『呼子と口笛』は同年6月に大半が書かれ、全8編中後から書かれた「家」「飛行機」以外の6編は親友若山牧水の「創作」同年7月号に連作詩「はてしなき議論の後」一~六として掲載されました。つまり啄木には『あこがれ』以降本人が生前編集した未刊詩集が『黄草集』と『呼子と口笛』の2冊あるのですが『黄草集』は途中で投げ出し、『呼子と口笛』の清書ノートには目次にも本文にも作品を増補していく予定の空欄が空いており、ともに内容は未完に終わっています。連作詩「はてしなき議論の後」は当時の批評で同月に詩誌「詩歌」誌に発表された高村光太郎の長詩「廃頽者より」(のち詩集『道程』収録)と文体の類似を指摘されましたが、啄木の完成度と高村の将来性はむしろ対照的ですらあります。
 啄木の詩は初期の『あこがれ』『黄草集』(明治36年明治39年)は新体詩期と言え、明治40年は生活問題でブランク、連作「泣くよりも」(明治41年)を媒介に後期の始まりを告げる『心の姿の研究』(明治42年)から明治43年には歌集編纂や評論の多忙、また政治的ショックによるブランクがあり、明治44年に「詩六編」(1月)、『呼子と口笛』(6月)が書かれ、7月には病状が悪化、家庭内にも不和が絶えず、啄木は新聞社で『二葉亭四迷全集』の編纂に携わることになります。啄木校訂の本文はその後の『二葉亭全集』にも戦後までそのまま踏襲され、1980年代半ばから刊行された新版全集で初版本の復刻が本文とされるまで各社の文庫、文学全集の底本となっていました。

 次に掲げる「詩六章」(明治44年=1911年2月)は明治42年12月の連作「心の姿の研究」以来まる1年ぶりの自由詩で、明治43年は歌集『一握の砂』と盛んな評論活動、大逆事件ノート(戦後の全集で公刊)、長男の死と、「泣くよりも」(全8編のうち4編が「明星」明治41年6月、全編は大正2年5月『啄木遺稿』)や「心の姿の研究」で自然主義的な心境詩に変化していた作風が短歌や評論に結実していたのです。「泣くよりも」や「心の姿の研究」は萩原朔太郎の第1詩集『月に吠える』(大正6年2月刊)の収録作品を連想させる発想や技巧、文体がありますが、同詩集収録作品の大部分の発表は大正3年9月~大正6年2月ですから『啄木遺稿』からの直接的影響があってもおかしくない。朔太郎は啄木と同年生まれですが本格的な詩作は啄木逝去の翌年、大正2年からです。朔太郎は日本では西行芭蕉と並ぶ真の詩人に啄木を上げているほど啄木を崇拝しており、啄木が生前残した自然主義的な試作を朔太郎が積極的に継承した面があってもおかしくありません。
 さらに日記には雑誌編集部への送付が記録されていたのに、原稿の所在不明で昭和33年まで未発表だった「詩六章」は内容は他愛もなく、晩年の政治的関心や『一握の砂』の達成からおそらく意図的に後退した日常茶飯詩ですが、ここで創造された文体だけはまったく新しいもので、「泣くよりも」や「心の姿の研究」からさらに飛躍して尾形亀之助(1900-1942)や中原中也(1907-1937)ら昭和初期のダダイズムの系譜を継ぐ詩人の作風を先取りしているようです。詩としては秀作でも何でもなく、同人誌の埋め草に使って詩集には収録しないような凡作ですが、それだけに文体の新しさだけは際立っています。啄木自身もこの新しさには気づいていないと思われるだけ、余計に未発表作品に終わったことが惜しまれるのです。
*

詩六章  石川啄木

  一、路傍の草花に

何といふ名か知らないが、
細い茎に粟粒のやうな花をもつた
黄いろい草花よ、
路傍の草花よ。
--何だか見覺えがある。

銀のやうな秋風が吹いて、
黄いろな花が散つてゐる。

あゝ、さうだつけ。--
中學校の片隅の
あの黒壁の圖書庫の蔭に隠れて、
憎まれ者の私が、
濡らした頬もぬぐはずに
ぢつと見たのもお前だつたが--

長い/\前のことだ。
あの眇目(めつかち)の意地悪は、
破れ靴を穿いた級長は、
しよつちゆう眼鏡を懸けたり脱(はづ)したりし乍(なが)ら、
よく私と喧嘩した蒼白い英語教師は、
今はみな何(ど)うなつてゐるやら。
銀のやうな秋風が吹いて、
粟粒のやうな黄いろい花が
ほろ/\と散つてゐる。

  二、口笛

少年の口笛の気がるさよ、
なつかしさよ。
青塗(あをぬり)の自動車の走(は)せ過ぎたあとの
石油のにほひに噎(む)せて
とある町角に面を背けた時、
私を振回(ふりかへ)つて行つた
金ボタンの外套の
少年の口笛の気がるさよ、
なつかしさよ。

  三、手紙

「もう十年も逢はないが、
君はやつぱり昔どほり
元氣が盛んだらう。」と
その手紙に書いてあつた。--

湯にでも這入(はい)らうかと
それ一つを望みに、
ぐつたり疲れて歸つた時、
机の上に載つてゐた
昔の友の手紙に。

  四、花かんざし

上野公園の前の廣場の
花見時の人ごみの中を--
華やかなパラソルの波の中を、
無雑作におし分けながら、
大きな青風呂敷の包みを肩にして、
帽子もかぶらずに、
のそり/\と歩いて行つた丈(せい)の高い男よ。

あの、人を莫迦(ばか)にしたやうな髯面が
今でも目に見える。--
擦りきれた黒羅紗の背広の
がんじやうな肩附も、
大きな青風呂敷の包みも、
さうだ、それから、あの
(私はそれが悲しいのだが)
左の胸の衣嚢(かくし)に挿した
(あか)い花かんざしも。

  五、あゝほんとに

夜店で買つて來た南天の鉢に、
水をやらずに置いたら、
間もなく枯れてしまつた。

棄てようと思つて、
鉢から抜いてみると、
根までから/\乾(ほ)せてゐた。

「根まで乾せるとは--」
その時思つたことが
妙に心に残つてゐる。--
あゝほんとに
根まで乾せるとは--

  六、昨日も今日も

めら/\と、
またゝく間にめら/\と
焼けてしまふ紙の快いかな。

湿つた粘土の塊のやうなものが
我が頭にあり、
昨日も、今日も。

めら/\と、
またゝく間にめら/\と
焼けてしまふ紙の快いかな。

(初出発表・明治44年=1911年2月「精神修養」)
*
 啄木最後の自由詩作品になったのが未刊詩集『呼子と口笛』で、原型となったのは親友・若山牧水主宰の詩歌誌「創作」明治44年7月号掲載の連作詩「はてしなき議論の後」で各詩編には個別のタイトルはなく、「一」から「六」まで通し番号が振られているだけでした。これは雑誌発表前の創作ノートが残っており、全9編を書いた内から3編を没にし選んだ6編を推敲したのが雑誌発表型です。その6編に個別のタイトルをつけ、さらに新作「家」と「飛行機」を足して、清書ノートや目次にはまだ作品を追加する余白がとってありました。最後の作品「飛行機」以降の作品は、扉絵やカットの図案まで計画していたこの第2詩集の構想には追加されませんでした。明治44年の春には啄木の病状は肺結核に進行しており、夫人の実家とは結婚以来の確執から初夏に絶交しますが、秋口に啄木が高熱から1週間寝込んだ際に夫人も肺尖カタルが感染しているのが判明します。啄木には浪費癖があり、数年来肋膜炎の治療も受けず女郎屋通いを続けてきましたが、遂に夫人も家事すらできず啄木の母がすべての家事を担うことになります。さらに家計の貧窮に苦しんで父親が失踪、友人たちからは借金を重ね(啄木夫人を誘惑したと疑いをかけられ絶交された友人もいました)、心身ともに消耗して行きます。啄木の創作活動は短歌の執筆のみになり、『二葉亭四迷全集』の編集も続けられなくなりました。翌明治45年(1912年)は啄木最後の年で、1月に入って間もなく母が喀血して病床に就きます。診断結果は慢性の肺炎で、3月7日に急逝しました。4月5日には啄木も重篤状態になり、親友・土岐哀果が出版社に第2歌集『悲しき玩具』出版契約をまとめて前渡し原稿料を病床に届けたのが4月9日です。4月13日早朝危篤に陥り逝去しました。第2歌集『悲しき玩具』が東雲堂書店から刊行されたのは6月のことで、その反響を受けて翌大正2年6月には同社は単行本未収録・未発表の詩や評論・随筆を集めた『啄木遺稿』を土岐哀果の編纂で上梓します。なお啄木夫人は懐妊中で啄木逝去2か月後の6月14日に次女が生まれましたが、翌大正2年5月に肺結核で2児を遺して逝去しました。
 26歳で亡くなった人に最晩年という言葉は残酷ですが、未完にして未刊に終わり、『啄木遺稿』で公刊された『呼子と口笛』が自由詩では啄木の最後の作品になり、『一握の砂』以降晩年までの短歌作品が土岐哀果と啄木の共同編集によって『悲しき玩具』になったわけです。『一握の砂』は啄木嫌いの歌人も認める場合が多いのですが、『悲しき玩具』は啄木を高く評価する歌人にもあまり評判が良くないのです。また、日本のプロレタリア文学の傑作として『呼子と口笛』を評価する批評家は初期の『あこがれ』を評価せず、公正な研究者からは『あこがれ』の正当な再評価が進められる(だが浸透しない)という、没後100年を越えて未だ評価の定まらない面が啄木にはあります。個別の作品にはそれほど高く評価できなくても、短い生涯の全体像で迫ってくる訴求力があり、それが冷静な評価を防げてもいるでしょう。啄木の逝去10か月前に書かれた『呼子と口笛』には、その半年前の作品「詩六章」にあった軽やかな哀感は半数ほどの短詩に見られはするもの、主要な作品はもっと力んだ、プレ・プロレタリア文学的主張を露わにした長詩(‘V NAROD !’は「民衆とともに!」という意味)です。ですが啄木の場合のプロレタリア性は明治の近代主義に対する個人主義の苦痛の感覚に裏打ちされたもので必ずしも政治主義的なものではなく、それが「家」のような逃避願望と表裏一体となっているのが啄木の率直さとも言えますが、その「家」にしても「はてしなき議論の後」「ココアのひと匙」「激論」「墓碑銘」などの主要詩編などは主題に主張が絡むだけに技巧に作為性が目立っていて、むしろ「書斎の午後」や「古びたる鞄をあけて」、そして素晴らしい短詩「飛行機」など他愛ないようなものが技巧と主題の調和のとれた冴えを見せている、という感想があってもいいでしょう。また、連作「泣くよりも」までは文語詩で連作「心の姿の研究」からは口語詩になったのが、『呼子と口笛』でふたたび文語詩に戻ったものの、初期の柔らかい和漢混交体から硬い漢文脈の文体に変化したのも注目されます。この文体の変化によって得たものと失ったものがあり、得たものもありますが失ったものも同等に大きいとも見えるのです。
*
(呼子と口笛」収録/『啄木遺稿』大正2年=1913年5月・東雲堂書店)

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呼子と口笛  石川啄木
(石川啄木自筆版小詩集ノート扉絵・カット)

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  はてしなき議論の後

われらの且(か)つ讀み、且つ議論を闘はすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亜(ロシヤ)の青年に劣らず。
われらは何を為すべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳(こぶし)に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出(い)づるものなし。

われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、
また、民衆の求むるものの何なるかを知る、
しかして、我等の何を為すべきかを知る。
実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。

此處にあつまれるものは皆青年なり、
常に世に新らしきものを作り出(い)だす青年なり。
われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。
見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。

ああ、蝋燭(らふそく)はすでに三度も取り代へられ、
飲料(のみもの)の茶碗には小さき羽蟲の死骸浮び、
若き婦人の熱心に變りはなけれど、
その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。
されど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。
            1911. 6. 15. TOKYO

  ココアのひと匙

われは知る、テロリストの
かなしき心を--
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らむとする心を、
われとわがからだを敵に擲(な)げつくる心を--
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有(も)つかなしみなり。

はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌觸りに、
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。
            1911. 6. 15. TOKYO

  激論

われはかの夜の激論を忘るること能(あた)はず、
新しき社會に於ける「權力」の處置に就きて、
はしなくも、同志の一人なる若き經濟學者Nと
我との間に惹き起されたる激論を、
かの五時間に亙(わた)れる激論を。

「君の言ふ所は徹頭徹尾煽動家の言なり。」
かれは遂にかく言ひ放ちき。
その声はさながら咆(ほ)ゆるごとくなりき。
(も)しその間に卓子(テエブル)のなかりせば、
かれの手は恐らくわが頭(かうべ)を撃ちたるならむ。
われはその淺黒き、大いなる顔の
男らしき怒りに漲(みなぎ)れるを見たり。

五月の夜はすでに一時なりき。
或る一人の立ちて窓をあけたるとき、
Nとわれとの間なる蝋燭の火は幾度か揺れたり。
病みあがりの、しかして快く熱したるわが頬に、
雨をふくめる夜風の爽かなりしかな。

さてわれは、また、かの夜の、
われらの會合に常にただ一人の婦人なる
Kのしなやかなる手の指環を忘るること能はず。
ほつれ毛をかき上ぐるとき、
また、蝋燭の心を截るとき、
そは幾度かわが眼の前に光りたり。
しかして、そは實にNの贈れる約婚のしるしなりき。
されど、かの夜のわれらの議論に於いては、
かの女(ぢよ)は初めよりわが味方なりき。
            1911. 6. 16. TOKYO

  書斎の午後

われはこの國の女を好まず。

讀みさしの舶来の本の
手ざはりあらき紙の上に、
あやまちて零(こぼ)したる葡萄酒の
なかなかに浸みてゆかぬかなしみ。

われはこの國の女を好まず。
            1911. 6. 15. TOKYO

  墓碑銘

われは常にかれを尊敬せりき、
しかして今も猶(なほ)尊敬す--
かの郊外の墓地の栗の木の下に
かれを葬りて、すでにふた月を經たれど。

實に、われらの會合の席に彼を見ずなりてより、
すでにふた月は過ぎ去りたり。
かれは議論家にてはなかりしかど、
なくてかなはぬ一人なりしが。

或る時、彼の語りけるは、
「同志よ、われの無言をとがむることなかれ。
われは議論すること能(あた)はず、
されど、我には何時にても起(た)つことを得る準備あり。」

「かれの眼は常に論者の怯懦を叱責す。」
同志の一人はかくかれを評しき。
(しか)り、われもまた度度(たびたび)しかく感じたりき。
しかして、今や再びその眼より正義の叱責をうくることなし。

かれは労働者--一個の機械職工なりき。
かれは常に熱心に、且つ快活に働き、
暇あれば同志と語り、またよく讀書したり。
かれは煙草も酒も用ゐざりき。

かれの真摯にして不屈、且つ思慮深き性格は、
かのジユラの山地のバクウニンが友を忍ばしめたり。
かれは烈しき熱に冒されて病の床に横はりつつ、
なほよく死にいたるまで譫語(うはごと)を口にせざりき。

「今日は五月一日なり、われらの日なり。」
これかれのわれに遺したる最後の言葉なり。
その日の朝(あした)、われはかれの病を見舞ひ、
その日の夕(ゆふべ)、かれは遂に永き眠りに入れり。

ああ、かの廣き額と、鉄槌のごとき腕(かひな)と、
しかして、また、かの生を恐れざりしごとく
死を恐れざりし、常に直視する眼と、
眼つぶれば今も猶わが前にあり。

彼の遺骸は、一個の唯物論者として、
かの栗の木の下に葬られたり。
われら同志の撰びたる墓碑銘は左の如し、
「われには何時にても起つことを得る準備あり。」
            1911. 6. 16. TOKYO

  古びたる鞄をあけて

わが友は、古びたる鞄をあけて、
ほの暗き蝋燭の火影(ほかげ)の散らぼへる床に、
いろいろの本を取り出(い)だしたり。
そは皆この國にて禁じられたるものなりき。

やがて、わが友は一葉の寫眞を探しあてて、
「これなり」とわが手に置くや、
静かにまた窓に凭(よ)りて口笛を吹き出だしたり。
そは美くしとにもあらぬ若き女の写真なりき。
            1911. 6. 16. TOKYO

  

今朝も、ふと、目のさめしとき、
わが家と呼ぶべき家の欲しくなりて、
顔洗ふ間もそのことをそこはかとなく思ひしが、
つとめ先より一日の仕事を了へて歸り來て、
夕餉(ゆふげ)の後の茶を啜り、煙草をのめば、
むらさきの煙の味のなつかしさ、
はかなくもまたそのことのひよつと心に浮び来る--
はかなくもまたかなしくも。

場所は、鐵道に遠からぬ、
心おきなき故郷の村のはづれに選びてむ。
西洋風の木造のさつぱりとしたひと構へ、
高からずとも、さてはまた何の飾りのなくとても、
廣き階段とバルコンと明るき書斎……
げにさなり、すわり心地のよき椅子も。

この幾年に幾度も思ひしはこの家のこと、
思ひし毎(ごと)に少しづつ変へし間取りのさまなどを
心のうちに描きつつ、
ラムプの笠の眞白きにそれとなく眼をあつむれば、
その家に住むたのしさのまざまざ見ゆる心地して、
泣く児に添乳(そへぢ)する妻のひと間の隅のあちら向き、
そを幸ひと口もとにはかなき笑(ゑ)みものぼり来る。

さて、その庭は廣くして、草の繁るにまかせてむ。
夏ともなれば、夏の雨、おのがじしなる草の葉に
音立てて降るこころよさ。
またその隅にひともとの大樹を植ゑて、
白塗の木の腰掛を根に置かむ--
雨降らぬ日は其處に出て、
かの煙濃く、かをりよき埃及(エジプト)煙草ふかしつつ、
四五日おきに送り来る丸善よりの新刊の
本の頁を切りかけて、
食事の知らせあるまでをうつらうつらと過ごすべく、
また、ことごとにつぶらなる眼を見ひらきて聞きほるる
村の子供を集めては、いろいろの話聞かすべく……

はかなくも、またかなしくも、
いつとしもなく若き日にわかれ來りて、
月月のくらしのことに疲れゆく、
都市居住者のいそがしき心に一度浮びては、
はかなくも、またかなしくも、
なつかしくして、何時(いつ)までも棄つるに惜しきこの思ひ、
そのかずかずの満たされぬ望みと共に、
はじめより空(むな)しきことと知りながら、
なほ、若き日に人知れず戀せしときの眼付して、
妻にも告げず、真白なるラムプの笠を見つめつつ、
ひとりひそかに、熱心に、心のうちに思ひつづくる。
            1911. 6. 25. TOKYO

  飛行機

見よ、今日も、かの蒼空(あをぞら)
飛行機の高く飛べるを。

給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたつた二人の家にゐて、
ひとりせつせとリイダアの獨学をする眼の疲れ……

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。
            1911. 6. 27. TOKYO

(初出発表・明治44年=1911年7月「創作」/後<「家」「飛行機>を追加/『啄木遺稿』大正2年=1913年5月・東雲堂書店)