人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

野口米次郎「私の歌」 (詩集『二重国籍者の詩』大正10年=1921年より)

野口米次郎・明治8年(1875年)12月8日生~昭和22年(1947年)7月13日没
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「私の歌」

 野口米次郎

私のは進歩を否定する歌、
形式では律せられない無言の歌………
生命の生れ、
避けることの出来ない偶然、
創造的本能の上昇、
歌よ、汝は現象だ、仕遂げではない。
言葉に形造られた時、歌の精神は衰へる、
構造の力を失つて、始めて、歌はその心を得るであらう。
廃頽は進化の転換期だ………
秋の終る時、何といふ破産を自然に見るであらう。
ああ、新しき力は北方から来る………
冬は神秘を行はんが為め、沈黙のうちに物思ひする。
自然をしてその負傷から、静かに回復せしめねばならない。
私はいふ、美の統治は終つたと。
私はいふ、不完全のうちに、荒廃のうちに一層の心力が宿ると。
何といふ暗示が、何といふ報償の可能があるであらう、
人生の悔恨に、何といふ現実があるであらう。
歌よ、汝は風だ、無死の生命と時の歌ひ手だ。
お前の近代的衝動に、何といふ新しき発展があるであらう。
私のは進歩を否定する歌だ、
形式では律せられない、言葉のない歌だ。

(詩集『二重国籍者の詩』より)


 愛知県出身の詩人、野口米次郎(1875-1947)がいかに異例の経歴を経てきた人だったかは、前回に略述した通りです。明治大学在学中の明治26年(1893年)に18歳にしてサンフランシスコに渡米し、アメリカ西海岸を放浪しながらジャーナリスト、詩人として身を立て、明治30年(1897年)にはヨネ・野口(Yone Noguchi)名義の英文の第1詩集『Seen and Unseen』(『明界と幽界』)を上梓したのを皮切りに、明治31年(1898年)には早くも英文の第2詩集『The Voice of the Valley』(『渓谷の声』)を発表し、イギリスに渡って明治36年(1903年)1月にはロンドンで詩選集『From the Eastern Sea』(『東海より』)を自費出版、同詩集はイギリス詩壇に大評判を呼んですぐに一流出版社から増補版が発売されました。翌年アメリカに戻った野口はジャーナリストとしての多忙から日本への帰国を延期しますが、明治38年(1905年)に第3詩集『The Pilgrims』(『巡礼』)を発表したあと同年9月に日本に帰国します。翌明治39年(1906年)には慶應義塾大学英文学科教師に就任し、日本語による海外紀行文集を刊行するかたわら英文の第4詩集『The Summer Cloud』(『夏雲』)を春陽堂から刊行し、大正10年(1921年)まで英米との交換教師を兼務しながら英語による日本文化の紹介の著作、紀行文集を英米仏で刊行しますが、野口米次郎名義で初めての日本語による詩集『二重国籍者の詩』を玄文社から刊行したのも46歳の大正10年12月になりました。

 ヨネ野口名義の第1詩集の出版年である明治30年島崎藤村(1872-1943)の画期的な詩集『若菜集』が刊行された年ですが、ヨネ・野口の英語詩は19世紀アメリカの超越主義詩と19世紀イギリスのロマン主義詩をそのまま東洋人としての視点から直接に継承したものでした。また、野口米次郎は島崎藤村土井晩翠、河井醉茗、蒲原有明薄田泣菫ら同世代の明治30年代の新体詩人たちと同期に詩作を始めながら、明治20年代~大正期の日本の現代詩の推移とはまったく無縁に、19世紀末~20世紀初頭のアメリカ~イギリス詩の環境においてのみ作風を確立していた詩人です。日本語詩集『二重国籍者の詩』以降は日本語による新作詩集を刊行しましたが、英語詩時代の詩は大正11年(1922年)の『野口米次郎詩選集』や大正13年(1924年)の『ヨネ・野口代表詩』、大正14年(1925年)の『野口米次郎定本詩集』や大正14年12月~昭和2年(1927年)6月にかけての『表象抒情詩』『第二表象抒情詩』『第三表象抒情詩』『第四表象抒情詩』に野口米次郎自身によって日本語訳されて再発表されています。また日本語による第1詩集『二重国籍者の詩』自体が先立つ英文詩集で発表されていた英語詩の日本語訳によるもので、今回引いた作品「私の詩」も英文によるイギリスで出版された詩集『From the Eastern Sea』(『東海より』)に収録された英語詩を『二重国籍者の詩』収録に当たって日本語詩に改作し、さらに総合詩集『表象抒情詩』の第一集に再収録する際に改作が重ねられたものです。

 この「私の詩」は先にご紹介した詩篇「雨」ほど『二重国籍者の詩』収録型と『表象抒情詩』第一集での改作に大きな違いはなく、句読点や改行、漢字・かな表記に多少の変更が見られる程度なので『二重国籍者の詩』収録型をご紹介しました。この詩はいかにもアメリカ19世紀のエマーソン~ソーロー~ホイットマンの系譜に連なる、19世紀アメリカならではの超越主義的ロマン主義思想詩の体裁と内容を持っています。詩による詩論というメタフィジックな発想もアメリカの超越主義思想詩そのものです。しかし、これはこれで立派な内容の詩である「私の詩」が日本語詩としては文体が生硬で、その生硬さが文体の緊張感ではなく翻訳詩的な間接的感触から行文を弛緩させ、思考の伝達あるのみで詩としての感興のほとんど稀薄な行分け散文になっているのも否定できず、20歳から40代半ばまで英文の著作のみを手がけてきた野口米次郎にとって46歳で初めて日本語による詩作に転じたのはあまりに遅すぎた感があります。英語詩人のヨネ・野口にとっては韻律・発想ともに詩として十分な緊張感を持って詩作されたものが、日本語表現としては野口より10歳年少の世代の石川啄木呼子と口笛』(明治44年=1911年)、高村光太郎『道程』(大正3年=1914年)、山村暮鳥『聖三稜玻璃』(大正4年=1915年)、萩原朔太郎『月に吠える』(大正6年=1917年)よりもはるかに稚拙で粗雑な口語自由詩に見えるどころか、野口と同年代の新体詩人で明治30年代末~明治40年代初頭に文語自由詩の極点を示した藤村、泣菫、有明、清白らの自在な表現力にも及んでいません。野口米次郎は明治~大正にあって異例の国際的詩人としての地位を築いた日本人詩人でしたが、日本の詩がもっとも激動にさらされた明治~大正の文語詩~口語詩への転換とはまったく無縁に英語詩を書く日本詩人として自己形成を行っていたので、その詩は二重国籍というよりも無国籍的な性質を帯びることになり、日本人詩人の詩としても日本人としての英語詩人としても詩の発展に欠くことのできない抵抗力、負の要素への克服を体験しなかった詩人でした。「私の歌」のような詩はそうした条件でこそ書かれ、本質的な詩の感動には達することのできなかった詩人の詩です。しかし野口米次郎の詩から感じられる不毛さは逆に日本の詩全体の困難を暗示してもいるので、これを安易に無碍にすることもできないのです。