人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

与謝野鉄幹「誠之助の死」、佐藤春夫「愚者の死」明治44年(1911年)

与謝野鉄幹明治6年(1873年)2月26日生~
昭和10年(1935年)3月26日没(享年62歳)
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誠之助の死

大石誠之助は死にました。
いゝ気味な、
機械に挟まれて死にました。
人の名前に誠之助は沢山ある、
然し、然し、

わたしの友達の誠之助は唯一人。
わたしはもうその誠之助に逢はれない、
なんの、構ふもんか、
機械に挟まれて死ぬやうな、
馬鹿な、大馬鹿な、わたしの一人の友達の誠之助。

それでも誠之助は死にました、
おお、死にました。

日本人で無かつた誠之助、
立派な気ちがひの誠之助、
有ることか、無いことか、
神様を最初に無視した誠之助、
大逆無道の誠之助。

ほんにまあ、皆さん、いい気味な、
その誠之助は死にました。

誠之助と誠之助の一味が死んだので、
忠良な日本人は之(これ)から気楽に寝られます。
おめでたう。

(「三田文學」明治44年=1911年4月)


 与謝野鉄幹(1873-1935)の第七詩歌集『鴉と雨』(大正4年=1915年8月刊)より。この詩篇明治43年(1910年)5月から6月にかけて「天皇暗殺」「国家転覆」を企てたとして検挙された、幸徳秋水らを中心とする社会主義運動家26名のグループにあって、翌明治44年1月18日に行われた判決で2名を除く24名が死刑を宣告され、早くも同月24日、25日には半数の被告が死刑執行された中に加わっていた和歌山県紀伊新宮町の医師、大石誠之助(1867-1911)の死を追悼して創作・発表されたものです。この「大逆事件」と呼ばれる事件は完全な捏造検挙・判決・処刑であることが当初から知識人階級には知れ渡っており、大逆事件被告の検挙に続いて明治43年には国家の「安寧秩序紊乱」を名目に思想・言論統制が強化され、一般的な文芸誌から「ホトトギス」「新思潮」に至る純粋な文学誌までが発禁処分を受けるとともに明治30年代~40年代の社会主義文献・社会主義文学も禁書になりました。陸軍軍医総監(将軍に相当します)だった森鴎外すらこの官憲の強権には反発し、「フアスチエス」「沈黙の塔」「食堂」(「三田文學」明治43年9月、11月、12月)などの屈折した権力批判的作品を連続発表しているほどです。また慶応大学教授にあってこの年創刊の「三田文學」を主宰した永井荷風大逆事件をきっかけに明治以降の国家体制に決定的な不信感を抱いて作風を転換させており、この年デビューした新人・谷崎潤一郎の耽美的作風も体制批判的な背景を持ったものでした。

 与謝野鉄幹明治39年(1906年)11月に主宰する新詩社・「明星」(のち「スバル」)同人の茅野蕭々、吉井勇北原白秋らとともに紀伊に遊び、新宮町でアメリカ留学の経験もあり、短歌研究家でもあった同町きっての文化人の医師、大石誠之助に町内を案内され、それ以降大石の教養と人格に尊敬の念を抱いていました。大逆事件の時には新詩社同人の弁護士、平出修が特別弁護人に就きましたが、平出は事件が完全な捏造冤罪事件であることを仔細に調査し、当時朝日新聞社校正係だった石川啄木(1886-1912)は新詩社友人の平出から幸徳秋水を始めとする被告たちの陳述書を閲覧する機会を得て大逆事件の捏造経過を追究したノート「日本無政府主義者陰謀事件経過及び付帯現象」をまとめていますが、啄木は明治45年4月には26歳で病死し、このノートは太平洋戦争敗戦後の啄木全集で公表されるまで陽の目を見ませんでした。その代わり大逆事件を隠れたテーマとした未完詩集『呼子と口笛』が啄木没後翌年の『啄木遺稿』に収録されて、啄木の大逆事件への関心は早く知られることになります。

 鉄幹はそうした大逆事件の裏側を周辺の文人たちの証言からも早くから周知しており、また大石誠之助の人物像からも事件の捏造冤罪を確信していましたが、専門家の弁護士・平出修の弁論すら法廷は無視して揉み消し死刑判決を決定、一週間後には異例の早急な死刑執行を知ったのです。ジャーナリズムに影響力を持つ知識人・徳富芦花ですら天皇への減刑嘆願書を新聞発表したのに死刑は強行されたので、知識人・文化人全般への衝撃と落胆は甚大なものでした。特に新詩社・「明星」「スバル」~「三田文學」関係の文学者は弁護士・平出修を通じてあからさまに事件の過程を知ったので、幸徳秋水・大石誠之助らが処刑された直後の明治44年には3月の「スバル」に木下杢太郎「和泉屋染物店」や佐藤春夫「愚者の死」、4月の「三田文學」に「誠之助の死」を含む与謝野鉄幹の「春日雑詠」、7月の「創作」には石川啄木の『呼子と口笛』に収録される詩篇6篇などが一斉に発表されます。

 啄木も16歳の明治35年(1902年)、与謝野鉄幹の新詩社・「明星」によって新進詩人・歌人としてデビューした人でしたが、和歌山県出身の詩人・小説家、佐藤春夫(1892-1964)も明治41年(1908年)、16歳で「明星」への投稿短歌が選者の啄木に選ばれ、翌明治42年1月には「明星」廃刊に伴う新詩社の「スバル」創刊号に短歌の発表が認められています。佐藤は明治43年に郷里の新宮中学校を卒業して新詩社に出入りし、慶応大学に学んで永井荷風に師事するようになりました。佐藤の実家は代々新宮町で医業を営んでおり、佐藤春夫の父・豊太郎は同じ町の開業医同士で大石誠之助と親交がありました。佐藤春夫明治44年3月の「スバル」に発表したのが、のちの昭和27年(1952年)の『定本佐藤春夫全詩集』のうちの「初期習作拾遺篇」に初めて収められた「愚者の死」です。

愚者の死

 佐藤春夫

千九百十一年一月二十三日
大石誠之助は殺されたり。

げに厳粛なる多数者の規約を
裏切る者は殺さるべきかな。

死を賭して遊戯を思ひ、
民族の歴史を知らず、
日本人ならざる者
愚なる者は殺されたり。

『偽より出でし真実(まこと)なり』と
絞首台上の一語その愚を極む。

われの郷里は紀州新宮。
渠(かれ)の郷里もわれの町。

聞く、渠が郷里にして、わが郷里なる
紀州新宮の町は恐怯(きょうきょう)せりと。
うべさかしかる商人(あきんど)の町は歎かん。

――町民は慎めよ。
教師らは国の歴史を更にまた説けよ。

(「スバル」明治44年3月)

 佐藤春夫は別件の事件で収監中だったため大逆事件検挙から免れた大杉栄と親交を持ち、また大正12年(1923年)には高橋新吉の第一詩集『ダダイスト新吉の詩』の刊行に書店を取り持ち、序文を寄せた人ですが、昭和12年(1937年)には「日本浪漫派」の同人となり戦時下には『戦線詩集』(昭和14年)、『日本頌歌』(昭和17年)、『大東亜戦争』(昭和18年)、『奉公詩集』(昭和19年)などの戦争翼賛詩集のほか多数の翼賛文集を発表しています。昭和23年には前年の土井晩翠に続いて蒲原有明とともに芸術院会員になっており、すでに70代になっていた晩翠、有明よりも佐藤春夫は20歳あまり年少で芸術院会員に推挙・入会したことになります。「日本浪漫派」の同人の多くは当時戦争翼賛の文業が戦犯扱いになって公職追放になっており、それを思うと佐藤が多数の戦時中の翼賛詩・翼賛文集刊行にもかかわらず芸術院会員に任命されたのは知識階級とジャーナリズムによる免罪符的な意味の強いものでした。佐藤は文壇全体に「門人三千人」と呼ばれるほどの影響力を持っており、『定本佐藤春夫全詩集』も斎藤茂吉の『ともしび』、高村光太郎の『典型』(茂吉、高村とも戦時下の戦争翼賛詩歌集の第一人者でした)に続いて読売文学賞を受賞しています。与謝野鉄幹昭和10年に亡くなったため大東亜戦争翼賛詩歌集はありませんが長命を得れば翼賛詩歌の時代に直面したに違いなく、、佐藤春夫の例を見ると「誠之助の死」「愚者の死」ともに思想的な骨格は意外ともろく、国家総動員規模の戦時体制に直面するといかがだったかと懸念されます。石川啄木の親友で啄木の最晩年まで公私ともに啄木の面倒を見た国文学者・金田一京助によると最晩年の病床、啄木は国粋主義者に転向していたという証言もあり、国家権力と民衆への絶望の後は極端な国粋主義に振れる例は三島由紀夫を上げるまでもありません。「誠之助の死」「愚者の死」はそれ自体は反骨精神に富んだ立派な詩ですが、動機は友人、同郷の大先輩への迫害という個人的な契機に基づいており、これをいかにして貫き、さらに尖鋭的な思想詩(または反思想詩)に到達できるかは、家族主義の延長にとどまる明治刀自的な与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」同様心もとない印象もぬぐえません。