人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

外道 - 外道 (トリオ・レコード/ショーボート, 1974)

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外道 - 外道 (トリオ・レコード/ショーボート, 1974) Full Album : https://youtu.be/pkgfJGkaec4
Recorded live at 横浜野外音楽堂ロック・フェスティバル, Around August 20, 1974
Released by トリオ・レコード/ショーボート 3A-1021, September 1, 1974
プロデューサー : ミッキー・カーチス
作詞・作曲・編曲 : 外道
(Side A)
A1. 香り - 4:19
A2. 逃げるな - 4:53
A3. 外道 - 2:12
A4. ロックンロールバカ? - 1:57
A5. ダンスダンスダンス - 6:26
(Side B)
B1. ビュンビュン - 2:04
B2. いつもの所で - 2:44
B3. 腐った命 - 2:38
B4. 完了 - 5:09
B5. やさしい裏切りを - 2:39
B6. スターと - 0:42
[ 外道 Gedo ]
ヒデト (加納秀人) - リードヴォーカル、ギター
マー坊 (青木正行) - ベース、ヴォーカル
良ちゃん (中野良一) - ドラムス、シンセサイザー、ヴォーカル

 このデビュー作をYou Tubeにアップした英語圏投稿者は外道を「Hard Rock/Psychedelic/Proto-Punk」と名銘っています。日本ではハード・ロックサイケデリック・ロックパンク・ロックは断絶したイメージしかありませんが英米ではデトロイト(米)のMC5、ザ・ストゥージス、アンボイ・デュークスらが60年代末期にパンク・ロックの源流になるようなサウンドサイケデリック色の強いハード・ロックを始めており、イギリスでそれに呼応したのはノッティングヒル・ゲイト一派と呼ばれるディヴィアンツ、ホークウィンドらで、ディヴィアンツからはピンク・フェアリーズ、ホークウィンドとフェアリーズからはモーターヘッドが派生しています。モーターヘッドはバイカーズ(暴走族)・バンドとしてデビュー時から絶大な支持を集めましたが、外道も70年代に東京都町田市と多摩地区の暴走族を熱狂的な親衛隊につけてデビューした(ドラムスの中野良一は有力チームのヘッドでもありました)バンドで、早い話外道はモーターヘッドより早くデビューしていた日本のモーターヘッドでした。A1は中野が奏でるシンセサイザーからバンドが入場して突然演奏が始まり、B6はバイクの排気音でバンド撤収が表現されています。町田市/多摩地区のヤンキー文化が生んだバンドとして正しくX-JAPANの先達に当たるのが外道です。
 日本ロック史の生証人でありご意見番近田春夫氏によるとヴィジュアル系バンドの元祖は外道ではないか、という卓見があります。外道は着物に雪駄、眉と額に剃り込み、ステージに鳥居と派手好みでしたが、それは当時流行のグラム・ロックを誤解した産物で、「でもあいつらセンス悪いから、ヤクザの若い衆が洒落たつもりで女物のシャツとサンダルで歩いているような感じ」になってしまったと指摘しています。近田氏の見解はいわゆるヴィジュアル系バンドのどこか勘違いした美意識を言い当てているように思えます。近田氏は外道に否定的な証言が多く、「プロダクションが村八分みたいなバンドが欲しくて作らせたバンド」と発言されていますが信憑性は高いでしょう。近田氏は村八分については何度も観たうち良かったのは2、3回あるかないかでしたが、良かったライヴは本当に良かった、と点の辛い氏にしては絶賛に近い最上級の賞賛を表明しています。村八分の絶頂期は1972年で、学園祭ライヴを中心に話題を呼びレコード・デビュー前から音楽誌を賑わせましたが、翌1973年5月5日に2枚組ライヴ録音のコンサートと同時に解散しました。アルバムは解散を隠してデビュー作として発売されましたが(『ライヴ村八分』1973.6.25)、すぐに解散の事実は明らかになったそうです。
(Original Trio/Showboat "JUST GEDO" LP Front Cover)

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 事実上解散コンサートのライヴ盤しか残せなかった(現在では10枚以上に発掘ライヴがありますが)伝説的な村八分に対して外道はプロのバンドでした。村八分はライヴの告知があっても本番までバンドが来るかわからない、来ても途中で止めてしまったりすることでも悪名高かったバンドでしたが、近田氏の証言の通り最高の演奏を目撃してしまうとプロ・ミュージシャンの観客すら虜にしてしまう恐ろしい魔力を備えたロックンロール・バンドだったそうです。外道は村八分の解散に前後して結成されましたが、加納秀人は東京最高のディスコティークの箱バンとして名を馳せたThe M(加納加入前に唯一のアルバム『エム I』1972.2があります)の歴代ギタリスト出身であり(『エム I』時代はゴダイゴの浅野克己参加)、青木正行はザ・ヘルプフル・ソウルのジュニオ・ナカハラが組んだヘヴィ・ロック・バンドのトゥー・マッチ唯一のアルバム『Too Much』1971.7.25にも参加していました。モーターヘッドがホークウィンドとピンク・フェアリーズの脱退メンバーによるリヴェンジ・バンドだったのにも通じます。村八分は元ダイナマイツの山口富士夫が京都のストーンズ狂の右翼ヒッピー・柴田和志と組んだバンドでしたが、バンドの成り立ちも自然発生的でビジネス意識はまったく稀薄だったため(柴田の実家が右翼組織の頭目で裕福なため、メンバーの生活が逼迫しても柴田には理解ができなかったことが原因とも言われます)、外道がプロダクションによりプロ意識の高いメンバーを組ませたバンドだったのは村八分の例が反面教師だったかもしれません。
 村八分が1971年の結成から1973年の解散まで解散コンサートの2枚組ライヴしか残せなかった、しかも契約履行のための臨時編成メンバーだったのに較べ、外道はミッキー・カーチスにスカウトされてからアルバムのライヴ録音10日後というスピード発売でこのデビュー作を発表しています。ジャケットはサンプル盤梱包用ダンボールに「外道」のスタンプを押しただけ。さらに当時新作LP価格2,500円が標準なのを「外道ファンのための特別価格¥2,000」とゴム印が捺されてリリースされました。片面しか印刷されていない歌詞カードには曲目、スタッフとバンドのクレジットと、A3「外道」の歌詞しか載っていません。ちなみにバンド・テーマというべきこの曲は村八分のアルバムのオープニング曲「あっ!」とリフもリズム・パターンもヴォーカル・パートの符割りもまったく同じですが(他の曲も大なり小なり村八分の作風をパクった痕跡があります)、村八分には狂気や禍々しさ、陶酔感や頽廃性、自虐的攻撃性が感じられるのに外道は似たようなサウンドにもかかわらず全体的にはユーモアの方を強く感じられます。「ロックンロールバカ?」は明らかにキャロルやファニー・カンパニー、外道をめぐってミッキー・カーチスとスカウト戦をくり広げた日本ロックの某御大へのおちょくり曲だし、「ビュンビュンビュン」はザ・スパイダース(かまやつひろし)の「バン・バン・バン」のもじりで、アルバム途中では観客に「三三七拍子!」と号令をかけていますが、これもスパイダースのステージでは恒例の盛り上げ方として有名なかけ声で知られていました。
(Original Trio/Showboat "外道" LP Inner Lyric Sheet & Side B Label)

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 外道は町田ヤンキーとスパイダースの混じったユーモア感覚があればこそ1976年10月の解散まで短期間に4枚ものアルバムをリリースすることができたとも言えそうです。
1. 外道(1974年9月1日/ショーボート)
2. 外道ライブ・イン・サウンド・オブ・ハワイ・スタジオ(1975年4月1日/ショーボート)
3. JUST GEDO(1975年6月1日/ショーボート)
4. 拾得LIVE(1975年11月1日/ショーボート)
 このうち1と4はライヴ盤ですし、2も観客を入れたパーティでのスタジオ・ライヴだから純粋なスタジオ・アルバムは『JUST GEDO』のみになります。スタジオ・ライヴの2、ライヴハウス録音の4もデビュー作に負けず劣らず適当なライヴ盤ですが、「ヒデトの円盤が来るぜ」(UFOで会場に向かっているらしい)、「外道に向かって礼!」「声が小さい!」と実にユーモアに富んだMCも外道のライヴの魅力だったのがわかります。
 このデビュー作ではそれほどでもありませんが、加納秀人のギターと青木・中野のコンビネーションはクリーム~ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンスの影響から発展したもので、ハード・ロックでもありサイケでもあるのはクリーム~ジミ・ヘンドリクスの流れでしょう(A2のユニゾン・リフ、A5のファンク・リフなど)。ただしプロト・パンクでもあるのはクリーム~ジミ・ヘンドリクスからは出てこない要素なので、ローリング・ストーンズの独自解釈からオリジナル曲を作っていた村八分からの影響が村八分よりもソリッドなサウンドで表現されたものと思われます(A1、A3、B3、B4などがそうです)。つまらないバラードB2、B5などを聴くと外道の場合村八分をパクればパクるほど村八分のパクりには治まらない面白い出来の曲になり、村八分には少ないタイプの曲でスペーシーなギター・サイケ曲(本作のB4の凄まじいギター・ソロには予兆がありますが)をできるようになるのは「拾得LIVE」の時期でした。外道は70年代末~80年代初頭、90年代、2000年代、そして現在も忘れた頃に断続的に再結成し、近年では加納秀人のソロと外道の区別がつかなくなっていますが、やはりオリジナル外道の4枚はどれも一長一短ながらたまに取り出して聴きたくなります。筆者の好みでは『拾得LIVE』をデビュー作より上位に置きたいですが、外道のエッセンスのもっとも凝縮されたアルバムがデビュー作なのには異論がありません。冒頭の「関東大震災がまた来るぞ」という観客のガヤはヤラセでしょうか?