人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

大みそかに観た映画

2016年12月31日(土)
(スチール写真より。最後のステージ支度をする楽屋のチャップリン=手前とキートン=奥)

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チャールズ・チャップリン『ライムライト』(アメリカ'52)*137min, B/W
・部分的にはともかく全編通しで観返したのは今回で4、5回目で、チャップリン作品では『街の灯』'31と並んで観返すことが少ないのが本作です。記憶は鮮明で、逆に印象が強いからあまり観直してこなかったのかもしれません。この2作は不幸な少女に尽くす設定や賛否両論がはっきり分かれることまで似ています。『街の灯』はまだ喜劇映画ですが『ライムライト』は完全にドラマの作りで、チャップリンの持ち芸シーンはふんだんですが作中劇扱いに留まりますから映画全体はコメディとは言えません。多少映画に詳しくなると助監督がロバート・アルドリッチなのに気づいて驚かされます。画面の強度は『街の灯』以上に強く、絵コンテレベルで脳裏に焼き付けられるほどです。チャップリン作品は本作のあと2作ありますが、本作時点ではキャリアの集大成的な引退作の意図があったのは間違いないでしょう。ただし本作はそれのみならず、チャップリン自身の1914年の映画デビュー以来の作品を役柄に重ねて結果的にキャリア初のメタ映画を作ってしまったことで、映画作家による自己言及的メタ映画はフェリーニの『81/2』以降模倣者が続出しましたが、『ライムライト』の重みは『81/2』どころではありません。メタ映画と気づかせないほど観客にはチャップリンの芸が浸透しているという圧倒的条件を最大に利用しており、その創作者というイメージを役柄に応用したのが一方では不自然さも招いているのもこの作品の問題点と言えるでしょう。
 本作の時代設定は1914年のロンドンで、チャップリンはかつて名声を博しましたが今では凋落した60代のコメディアンの苦悩と再起を、偶然に自殺未遂から助けた難病の少女バレリーナの復帰との触れあいから描いています。1914年はイギリス出身・25歳のチャップリンアメリカで映画デビューしその年のうちに一躍大スターになった年で、『ライムライト』の老コメディアン・カルヴェロ(チャールズのラテン語系転訛「シャルロ」または「カルロ」の転用なのは明白)とは世代的に交替期に当たります。カルヴェロの芸は現実のチャップリンによってはっきりと時代遅れの引導を渡された種類のものでした。『ライムライト』でカルヴェロは全盛期の芸を取り戻しますが、演じるチャップリンはカルヴェロ世代の芸を葬った世代ですから古い世代の芸を照影するにしても説得力に欠けるので、作品はノスタルジア的にならざるを得ず、カルヴェロの再起は成功とともに悲劇的な幕引きで描かれる以外になかったのです。

 チャップリンの長編時代の作品はむしろ寡作といえるもので、それだけに全作品が磨き抜かれた名作揃いですが、三大サイレント喜劇王とされるハロルド・ロイドバスター・キートンになく、トーキー時代のマルクス兄弟よりも更に強いのはチャップリンの長短ほぼ全作品にみなぎる「怒り」の感情でしょう。喜劇映画スター最大の成功を治めたにもかかわらずロイド、キートンマルクス兄弟らと較べて移民一世の孤独と辛酸を舐めたチャップリンの喜劇は内向的な攻撃性と人間不信が作品をスリリングな切迫感で満たしており、スラップスティック映画としてはチャップリンより純度が高く奇想に満ちたロイド、キートンマルクス兄弟にすらない「殺気」すら湛えたものでした。喜劇ロマンスというべき、あえて甘口の路線を狙った『街の灯』『ライムライト』にも抑制されてはいますがそれがあります。チャップリンの「怒り」が頂点に達したのは『独裁者』'40と『殺人狂時代』'47の2作で、先立つ『モダン・タイムズ』'36に楽天的な解決を与えてしまった反省が『独裁者』にはあり、『独裁者』ですら手ぬるかった慚愧から徹底的に連続殺人者を正当化する立場に立った『殺人狂時代』が生まれました。興行的大失敗と悪評で迎えられた『殺人狂時代』がチャップリンの究極の本音なら、『ライムライト』はチャップリン渾身の芸術的建て前の結晶ということになります。

 全編が見事、ただしごまかしで一貫した映画なのは、過去の『担え銃』'18や『黄金狂時代』'25にも夢のシークエンスで前後の脈絡から切り離されたチャップリンの持ち芸が挿入されることはありました。『独裁者』の地球儀の踊りのシーン、『殺人狂時代』の湖上のボートのシーンなども独立性の高いシーンです。それらは優れた完成度によって芸として完結しており、プロットの上では必須のシーンではなくても映画を豊かにしていました。『ライムライト』は2時間20分近い長尺に比例して夢や空想で描かれる(一見フラッシュ・バックかフラッシュ・フォワードと錯覚させる)挿入シークエンスが多くてくどく、しかもストーリーを推進させるための暗喩として使用されています。非常に中途半端で意味ありげなばかりか、切れ味が悪くてコメディ・パートとしても面白くない。それはこの映画のシーンつなぎがクロスフェイドばかりなのにも表れていて、シークエンスごとの完結感や時間経過、プロットの進行を曖昧にしています。チャップリンがこんなに構成面で歯切れの悪いカットのつなぎを映画全編で行ったのは本作が初めてで、映画の推進力に迷いがあった上に平易なメロドラマだから観客の解釈に丸投げしてしまい、それはかつての作品のように一撃必笑のシークエンスを満載した映画は不可能だったことをチャップリン自身が気づいていたことでもありました。その結果が全シークエンスのクロスフェイドという苦肉の策になったのです。

 今回『ライムライト』を観て、チャップリンの体技は一番抑制されている作品(62歳)ですから割と日常的な仕草も多いので、左利きの人だったのに初めて気づきました。全盛期の芸ではわからなかったことです。それから特別出演バスター・キートンと二人だけのうらぶれた爺さん丸出しのメーキャップ・シーン。そして映画終幕の、チャップリンが横たわるステージ袖からカメラが引くとクレア・ブルームのバレリーナが舞台右から滑るように踊る姿が入り込むシーン。美しいシーンはまだまだあって、この映画に感じる不満や弱点は何だかんだ言って帳消しになるほどの満足感があります。両手を上げて絶賛はできないが、チャップリン映画に『ライムライト』がなかったらずいぶん寂しいものでしょう。陳腐で通俗的な凡作とまで斬って捨てる評価もありますが、もし本作がそれだけの映画ならばチャップリン全作品の長い生命力をいかに解釈すべきでしょうか。

*日本語字幕についての疑問
・ヒロインのテリーを部屋にかくまってテリーの悩みを聞いてすぐ(医師の診察で心因性の症状と判明する前)カルヴェロが「人生とは欲望だ」と励ますやりとりがありますが、確かにライフ~ディザイアーうんぬんという台詞に聞こえます。しかし日本語の「欲望」のニュアンスは意志的というよりも本能的な響きがあり、これは「野望」というニュアンスの方が会話の文脈に適しているのではないでしょうか。些細なことですがあの場面で「欲望」という訳語は場違いに感じ、これはカルヴェロの人生観=人間性にも係わる台詞ですので気をつけたいと思いました。さて除夜の鐘でも聴くかな。