人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年1月11日~15日・大島渚(1932-2013)の初期5作

 松竹出身の映画監督・大島渚には監督デビュー作の『愛と希望の街』(原題『鳩を売る少年』)1959から遺作となった『御法度』1999まで23作の長編劇映画があります。70年代には5作、80年代は『戦場のメリークリスマス』と『マックス・モン・アムール』、90年代には『御法度』しかありませんから精力的な活動は60年代でしたが1976年の『愛のコリーダ』騒動は当時小学生の筆者にも伝わってきたほどで、女名前ながらトラブルメーカー的な映画監督というイメージから先に入ってきました。中学~高校生になると熱心な文系の先生が授業中に60年代の大島渚映画の話をしてくれて、放課後に詳しく教えてもらいに訪ねていったものです(音楽や文学についてもその調子で教わりました)。当時は簡便な映像ディスクで観たい映画をいつでも観られるようになるとは考えもできませんでした。好き嫌いで言うと大島渚監督作品をまんべんなく好きとは言えませんが、ここ数年でようやく全作品を揃えて何度となく観ている監督でもあります。どうせ観返すなら迷うことなく初期から順番に5作を観直してみました。『青春残酷物語』と『飼育』はつい先の夏か秋に観直したばかりと記憶にありますが、観直せば観直しただけ得るものもあるかもしれません。

1月11日(水)
『愛と希望の街』(松竹大船'59)*62mins, B/W
1959年11月17日封切。脚本・大島渚。主演・藤川弘志、共演・富永ユキ、渡辺文雄。原題『鳩を売る少年』で内容の暗さのあまり会社命令で改題され、大島渚生前のフィルモグラフィーには必ず(原題『鳩を売る少年』)と本人要望で記載された監督デビュー作。1時間ほどの小品ながら重量感と訴求力がすごい。貧しい母子家庭の少年が鳩の帰巣本能を利用した詐欺(帰ってきたらまた売る)を重ねる話で、10年後の名作『少年』1969に直結するテーマ、「貧乏人は金持ちから騙し取る権利があるか?」を第1作から取り上げており、よくまあホームドラマとコメディとラヴ・ロマンス映画の松竹が製作を許したなと感心する。演出は格調が高く、ほとんどドストエフスキー的なテーマを端正に描いており、やはり『少年』と並んで時事風俗的な話題に富んだ作品よりも普遍性があるように思える。義務教育の必修映画にしてもいいのではないかと本気で思う。

1月12日(木)
『青春残酷物語』(松竹大船'60)*96mins, Color
1960年6月3日封切。脚本・大島渚。主演・川津祐介桑野みゆき、共演・渡辺文雄久我美子。これも詐欺を重ねる若いカップルの話だが、少年ではなく青年なのでテーマに性が入ってくる。青年を過ぎた世代の代弁者を渡辺文雄が演じるのも前作を踏襲している。ただし前作は二本立ての併映作品だったが、本作はメイン作品として作られたのが映画の柄を格段に大きくしており、犯罪と性と暴力をエサにしてでもとにかくヒット作にして多くの観客に観せようと外向的な意欲の高まりを強く感じる。海に落ちた桑野みゆきが上がろうとするたびに何度でも突き落とす川津祐介、ヒッチハイカーを装ってカモを物色する桑野みゆき、深夜の病室で川津祐介が林檎を延々とかじり続ける場面など印象的なシーンがこれでもかというほど詰めこまれ、何度観ても記憶の中で林檎の色が赤くなってしまう(実際は青林檎)のは有名なラストのオーヴァーラップ・カットのせいだろう。『愛と希望の街』のような佳作ではまったくないが、成否を超えた問題作という映画のあり方もある。本作はまさにそうした映画として否応なしに観せられてしまう魔力がある。自己顕示欲が良い方向に働くと一種のフェロモンが漂うような、そういう種類の作用が働いた点でブレイク作品にふさわしい官能性がある。

1月13日(金)
『太陽の墓場』(松竹大船'60)*87mins, Color
1960年8月9日封切。脚本・大島渚、石堂淑郎。主演・炎加代子、共演・津川雅彦佐々木功。前作はつまり大島渚が勝負を打って出て賭けに勝った作品で、大島渚の映画が生涯賭博的性格を漂わせていたのは初志貫徹していた。釜ヶ崎を舞台に危険なロケを敢行したヤクザ映画の本作はよく観てみれば敵味方ともに準疑似監禁的状況の人間ドラマとして『飼育』1961、『無理心中日本の夏』1967、『戦場のメリークリスマス』1983、『御法度』1999と飛び石的にリメイクされるシチュエーションの最初のもので、第一印象で黒澤明今村昌平からの影響または実作による反論と見えるよりも大島自身に自発的にあるモチーフだったと腑に落ちる。ロカビリー歌手だったという炎加代子はヒロインの器量がないとはいえないが、伴淳三郎まで出てくる群衆ドラマの印象が強くヤクザの若親分の津川雅彦、三下の佐々木功(ささきいさお。まだ19歳で子供っぽさが残る)の方が記憶に残る。初期は確かに言えるが、大島渚はヒロインの描き方がいまいち観念的で女優自身の存在感とズレがあるように感じる。大島渚の映画はヒロイン映画であっても男視点で、ヒロイン視点の映画はないのではないか。

1月14日(土)
『日本の夜と霧』(松竹大船'60)*107mins, Color
1960年10月9日封切。脚本・大島渚、石堂淑郎。主演・津川雅彦、共演・桑野みゆき渡辺文雄。封切りから4日目に社会党議長刺殺テロがあり、右翼の脅迫を怖れた松竹が即上映打ち切り、70年代まで封印映画にしていた作品。二本立てだった併映作品『血は乾いてる』(吉田喜重監督作品)が割を食った。製作部の管理職チェックをスルーするため撮影当日脚本配布するなどの戦略でどさくさ紛れを装って作られたバリバリの政治映画で、作中時間は1960年6月~10月に設定され、結婚式を舞台に列席者が現実の日本の政治状況を映画内でディスカッションする、というとんでもない内容。しかも全編で42カットしかない実験映画以外では類例のない超長回し撮影の映画で、普通はそんな手法と内容では劇映画にならない。俳優もとちりまくり。42カットしかないのに登場人物たちの過去と現在が行ったり来たりする構成だから遊びや余韻のカットの入る余地はなく映画全体が余裕のない強迫感に観客を引きずりこもうとする。映画内の現在は結婚式に限定されるから場面転換は度重なるフラッシュバック・シークエンスしかないが、それも全編ほぼ室内シーンのセット撮影だからロケのまったくない風通しの悪さまで映画の内容を反映している。このディスカッション路線も『天草四郎時貞』1962、『日本春歌考』1967と続き、『絞死刑』1968でピークに達するが、類例のない映画を初めて作るギャンブル精神が溌剌としているのが本作をかろうじて政治的メッセージの制約以上のものに押し上げた。だが本作が1960年度のキネマ旬報ベストテン10位で『青春残酷物語』『太陽の墓場』が圏外なのは順位がおかしい。どう観ても観客をつかむ力があるのは『青春残酷物語』や『太陽の墓場』の方で、判官贔屓の獲票が票を散らしたように見える。

1月15日(日)
『飼育』(パレスフィルム/大宝'61)*105mins, B/W
1961年11月21日封切。原作・大江健三郎。脚本・田村孟、脚本協力・松本俊夫、石堂淑郎、東松照明。主演・三国連太郎、共演・沢村貞子。前作の上映打ち切り事件でケンカして松竹を退社(その上退社違約金を課せられる)、まだ20代でフリー監督になった最初の作品。松竹で助監督だった田村孟の才能を見込んで初めて自作シナリオ以外で大江健三郎芥川賞受賞作の映画化に挑む。三国連太郎沢村貞子が村を仕切る庄屋の主人夫婦、というだけでもこれまでの作品と構えが違う。大平洋戦争中パラシュートで流されてきた黒人兵を文句たらたら仕方なく「飼育」する村人たちの物語で、原作は少年たちの視点から大人たちの黒人兵への処遇を描いているが、映画で具体的な行動を描かれるのは大人たちなので、村の子供たちがじっと見ているショットが入っても「子供たちに見られている大人」が映画の視点人物になってしまう。これは意図的かシナリオまたは演出の誤算か、何度観ても断定できない。確実なのは三国連太郎という怪物的俳優に大島渚が魅了されている映画で、『太陽の墓場』から端役で登用していた佐藤慶を大島映画専属の三国連太郎に仕立て上げるきっかけになったのが本作の一番の見どころ。佐藤慶の爬虫類的厭らしさは『戦場のメリークリスマス』では坂本龍一が継いだが、佐藤の演技の下敷きも『飼育』の三国連太郎にあったと確認できる。原作とはポジ/ネガの内容になってしまったとはいえ松竹の社員監督のままでは絶対出来なかった企画と仕上がりで、これはこれで良い節目に作った成功作と素直に喜びたい。インディペンデント映画でこれだけの作品が作れたのだから、当時は利用できるインフラに恵まれていたと思うと嘆息を禁じ得ない。