フランソワ・トリュフォー(1932-1984)の自伝的連作、ジャン=ピエール・レオー(1944-)演じるアントワーヌ・ドワネルのシリーズは20年、長編4作・短編1作に渡って同一監督が同一俳優を実年齢通りに描いていった他にあまり類を見ない連作ですが、シリーズの構想になったのは『夜霧の恋人たち』'68から『家庭』'70にかけての間でそれまでは作品ごとの偶然の単発企画だったそうです。最終作『逃げ去る恋』'78はシリーズの総決算として製作されましたが、トリフォー自身は「キャラクターが固定してしまって成長も変化もない。ミッキーマウスのようなものです。ドワネルものを終わらせることにしたのはそういうわけです」とインタヴューに答えています。レオーはゴダールの助監督、『男性・女性』の主演を勤めたのを皮切りにスコリモフスキ『出発』、リヴェット『アウト・ワン』、リュック・ムレ『ビリー・ザ・キッドの冒険』、ベルトリッチ『ラストタンゴ・イン・パリ』、トリフォー『恋のエチュード』、ジャン・ユスターシュ『ママと娼婦』などポスト・ヌーヴェル・ヴァーグを代表する俳優になりましたが、その原点は常に『大人は判ってくれない』に始まるトリュフォー作品にありました。ジャン・クロード・ブリアリ、ジェラール・ブラン、さらにアンナ・カリーナ他初期ヌーヴェル・ヴァーグの俳優たちは監督にも進出しましたが、ヌーヴェル・ヴァーグ運動の中でも最年少俳優レオーが監督に進出せず今後もなさそうなのは惜しまれるような、いかにもレオーらしいような気もします。
●4月19日(水)
『大人は判ってくれない』(フランス'59)*99mins, B/W
・89年の再上映・映像ソフト化依然は現行の99分より3分短い版だったそうで、気がつかなかったしわからない。時代は映画製作時の1958年に改変されているが、15歳の少年アントワーヌ(レオー)が冷たい家庭に育ち、学校をさぼり、叱られると家出し、金に困ると盗みを働き、両親(母は実母、父は義父)の合意で少年刑務所に収容され感化院に送られる、というのはトリフォーの少年時代そのままらしい(映画よりも悪意の強い少年だったそうだが)。どう見ても現在の観点からは少年に対する家庭ネグレクトがひどいので不良少年にはまったく見えないからストーリーにはスリルが欠けていて初見時から何度も途中で眠くなる映画(今回も3回くらいに分けて観た)だが、B/W撮影のワイドスクリーンが少年の落ち着きのない右往左往をよく捉えていて瑞々しい。原題"Les quatre cents coups"は直訳の英題"The 400 Blows"の通り「鞭打ち400回」だが(ゴダールの"A bout de souffle"が直訳英題"Breathless"で「息が詰まる」が邦題『勝手にしやがれ』になったのと同様)邦題『大人は判ってくれない』はトリフォー自身は原題に反抗的ニュアンスはないと不満だったそうだが、日本語タイトルならこのくらいでないと伝わらないので邦題の傑作だろう。カンヌ映画祭監督賞受賞。レオーのキャラクター、演技の決定的な新しさがまばゆい。
●4月20日(木)
『アントワーヌとコレット(『二十歳の恋』より)』(フランス'62)*30mins, B/W
・アンジェイ・ワイダ、石原慎太郎ほか全5編のオムニバス映画中のトリフォーのパート。タイトルに反してアントワーヌは17歳のフィリップス・レコード社プレス係の社会人だが、音楽会で見かけた良家の少女で名門校の学生のコレット(マリー=フランス・ピジェ)にとにかくつきまとい、家に招かれるも仲は進展せず、思い切って正面のアパートに引っ越してくる。すっかりコレットの両親には気に入られるが、ある日(ほとんど毎日)夕食に呼ばれるとコレットは学生の恋人と外出するところだった。他愛ない楽しい短編でレオーの変声期の声も楽しいが、このオムニバス映画はヒットしなかったのでほぼ全編が『逃げ去る恋』に再編集編入することになり、時間経過の長い分だけコレットがヒロイン中重要な役割を負う。
『夜霧の恋人たち』(フランス'68)*87mins, Eastmannicolor
・ここからカラー映画になる。兵役につき不良兵士として営倉送りを過ごして除隊してきたアントワーヌは身一つで恋人クリスチーヌ(クロード・ジャド)の実家を訪ねてクリスチーヌの両親に歓迎されるがクリスチーヌは留守で、おそらく入営中に恋も冷めている。街中で夫と幼い娘を連れたコレット(ピジェ)に再会しこだわりなくあいさつを交わし、クリスチーヌの父の斡旋で宝飾商の店員になるが宝飾商夫人(デルフィーヌ・セイリグ)に一目惚れして迫ったところを主人にバレて解雇。その後成り行きで私立探偵社にスカウトされ変人奇人の探偵社で獅子奮迅するがやはりヘマをして解雇。意気消沈するアントワーヌの部屋に宝飾商夫人が訪ねてきて一度きりの秘密、と約束して情事を持ち、再び奮起したアントワーヌはテレビの修理工になり呼ばれたアパートの住人は一人暮らしをしているクリスチーヌで、二人はヨリを戻して終わる。これも楽しい映画でゴダールの『男性・女性』『中国女』に続く出演とは思えない軽やかなレオーのダメっぷりが堪能できる佳作。行き当たりばったりの展開など『男性・女性』に手法は似ているしレオーは同じレオーなのだが、この軽みが決定的に違ってトリフォー作品ならではの魅力になっている。
●4月21日(金)
『家庭』(フランス'70)*93mins, Eastmancolor
・クリスチーヌと結婚したアントワーヌ。新婚生活はクリスチーヌがヴァイオリンの個人教師、アントワーヌが生花の卸し業で身を立てている。会う知人ごとに「昔から良家の娘と結婚していたがってたな」「僕は家庭と結婚したかったんだ」と答える通りクリスチーヌの両親との仲も良好。花屋がうまくいかずクリスチーヌの父の紹介で就職するアントワーヌ。やがてクリスチーヌは妊娠して男子をさずかるが、アントワーヌは取引先の日本の商社の令嬢キョーコ(松本弘子)と密会するようになりクリスチーヌにバレてキョーコのアパートに転がり込む。1年経ってアントワーヌはキョーコとの生活が耐え難くなりクリスチーヌの元に戻る。キョーコからの置き手紙には日本語で「勝手にしやがれ」と書いてあった。いかにもシリーズ途中らしく前後作を観ないと中途半端な内容に見えるが、『夜霧~』のクリスチーヌから本作のクリスチーヌではクロード・ジャドの存在感がまるで違って堂々たるヒロインぶり。「やあ、マドモアゼル」「マダムよ」「こんにちはマドモアゼル」「マダムよ」と新婚早々の自信に満ちた新妻ぶりにリアリティがあって結婚経験者の男性観客の背筋を凍らせる女の怖さまで漂わせる。染花の失敗するギャグ、チューリップの花から手紙のこよりがこぼれ落ちるギャグ、キョーコとの関係を知ったクリスチーヌが羅刹の姿でアントワーヌを待ち受けるギャグなどルイ・マルの映画のようなやりすぎはあるがそれも本作の味か。シリーズはこれで終わりか、まだ続くのか不穏な終わり方も本作ならではと言える。
●4月22日(土)
『逃げ去る恋』(フランス'78)*95mins, Eastmancolor
・ついにシリーズ総決算を期して製作された作品だけあって「難しく苦しかった」とトリフォー自身が語る力作。95分中40分はシリーズの過去4作(特に短編「アントワーヌとコレット」は全編)からシャッフルしてフラッシュ・バック場面に使っている(B/W作品は着色版にして使用)。コレット(ピジェ)、クリスチーヌ(ジャド)は使い回しと撮り下ろし、宝飾商夫人とキョーコは使い回し場面だけで、クリスチーヌとの離婚のきっかけになったリリアーヌ(ダニ)という新ヒロインは撮り下ろしで過去の回想、すでに交際中の新恋人サビーヌ(ドロテー)の場面は現在進行中として撮り下ろしで、映画はフランス初となるクリスチーヌとの協議離婚から始まる。弁護士になっているコレットは偶然裁判所で通りすぎるアントワーヌを見かけ、「相変わらず走ってるわね」。コレットは娘を事故で亡くし離婚して新恋人がいる。アントワーヌは少年時代からクリスチーヌとの結婚生活とその危機(前作『家庭』まで)を自伝的小説にして刊行しており、コレットとクリスチーヌは初対面から相手を知っており、小説は都合の悪い所は作り話にしてあるのを自分に関する部分では知っている。アントワーヌはサビーヌとの仲も不安定だしコレットも新恋人との仲が進まない。コレットはクリスチーヌと偶然出会って元ドワネル夫人とわかると「私たち同じクラブの会員ってわけね。アントワーヌ・ドワネル・クラブの(笑)」とすぐに打ち解け、アントワーヌのはったりや虚言癖を笑い、クリスチーヌは離婚のきっかけになったリリアーヌの件を話す。このリリアーヌのパートは撮り下ろしのフラッシュ・バック形式的で語られるのでダイジェストを観せられたような違和感があり、『家庭』と本作の間に短編で作れば良かったと思わされる。そしてコレットの機転からクリスチーヌ経由でアントワーヌに1枚の写真が送られ、アントワーヌとサビーヌの恋とコレットと新恋人との恋も一気に成就して、映画冒頭に流れる主題歌がレコード店で再び流れ歌詞の内容が本作のあらすじを凝縮したものだったのがわかる。そんな具合で撮り下ろしと使い回しが6対4、編集によってパズルのように組み立てられた作品なのがやや苦しいが、シリーズ中ついにコレット、クリスチーヌ、サビーヌら女性たちの視点からアントワーヌが描かれた作品なのが映画を面白くしている。ピジェとジャドの存在感が大きくリリアーヌのエピソードは不消化気味だがクリスチーヌ視点で何とか持っている。新恋人のサビーヌも良く、トリフォー自身が「ミッキーマウスになってしまった」という通りアントワーヌの浮気性は続くのだろうがその時はサビーヌもコレットやクリスチーヌのような貫禄がついているのだろう。本作はトリュフォー46歳・レオー34歳の作品でトリュフォーは6年後に亡くなり、シリーズを続けられるのはレオーだけだったが監督志向がない俳優だったので本当にシリーズは終わってしまった。蛇足でいいから続編が観たかったと思ったらアキ・カウリスマキの『コントラクト・キラー』'90がまさにその後のアントワーヌ・ドワネル(レオー46歳)を思わせる佳作だった。『コントラクト・キラー』はアントワーヌのシリーズを知らなくても堪能できる作品だが、『逃げ去る恋』はシリーズの過去作を観ていないと弱い(だから観ている人の少ない短編「アントワーヌとコレット」からはほぼ全編を使い回した)面がある。レオーはキートン的にぶっきらぼうな俳優だから演技の下手な役者と思われがちだが、上手い俳優がどれだけいてもレオーにはレオーしかできない役がある。トリュフォー映画でもレオー出演作は眠気を催すテンポの作品が多いが、刺激的な映画ばかりが良い映画ではないだろう。