人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

2017年映画日記4月27日~4月30日/シャンタル・アケルマン(1950-2015)の'70年代監督作品

(短編インタビュー「Too Far, Too Close」1995 : https://youtu.be/_l5atWYkWsE - 6:11min時のスチール写真のアケルマン)

イメージ 1

 ベルギー出身のポーランドユダヤ人女性映画作家シャンタル・アケルマン(1950-2015)の日本劇場公開作品はメジャー資本で製作されたリオ主演のアイドル青春ミュージカル『ゴールデン・エイティーズ』'86、アメリカのユダヤ系家庭の日常を描いたホームドラマアメリカン・ストーリーズ/食事・家族・哲学』'89、ジュリエット・ビノシュウィリアム・ハート主演のラブコメディ『カウチ・イン・ニューヨーク』'96の3本だけで、1972年の『Hotel Monterey』から2015年の遺作『No Home Movie』に至る22本の長編、1968年の処女作「Saute ma Ville(街をぶっ飛ばせ)」、ニューヨーク留学中の「La Chambre」から2007年の「Tombee de nuit sur Shanghai」に至る16編の中短編(多くは40分~60分)の全貌はよく知られていません。祖父母をアウシュビッツで亡くし、お母さんも強制収容所経験者であるユダヤ系家系のアケルマンは女性でユダヤ系でバイセクシュアルというプロフィールを持ち、生涯ブリュッセル、ニューヨーク、パリ、テル・アビブを転々とした無国籍者でもありました。15歳でゴダールの『気狂いピエロ』'65を観て映画作家を志し、処女作『街をぶっとばせ』: https://youtu.be/jx2RNzl-p3Q (18min, B/W)にはその影響が見られますが、1970年~1972年にニューヨーク留学して実験派ミニマリズムに傾倒し、その成果がホテルの無人の内部を固定ショットで延々捉えた『ホテル・モンタレー』です。初の劇映画に進出したのが次作『私、あなた、彼、彼女』でフェミニズムのインディペンデント作家として将来を嘱望され、次の『ジャンヌ・ディエルマン、ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』はベルギー文化庁からの助成金を取りつけた201分の大作で国際的な新進監督の地位を固めました。同作はヴィレッジ・ヴォイス誌2001年選出の「20世紀映画ベスト100」の19位に選出され、フェミニズム映画の記念碑的作品として評価が定着しています。'70年年代の長編には次いで母からの手紙の朗読をニューヨークのドキュメンタリー映像に重ねた『家からの手紙』と、『私、あなた、彼、彼女』同様アケルマン自身をモデルにした20代の女性映画作家を描いた『アンナの出会い』があり、演出技法は5歳年長のヴィム・ヴェンダースに近似していますが表現内容はヴェンダースに激しく対立するものでした。世界を転々としたアケルマンにとって精神的な最大の支えはブリュッセルの母であり、遺作『No Home Movie』は『家からの手紙』以来シリーズ化していた母との対話を中心としたセミ・ドキュメンタリーでしたが編集段階でアケルマンのお母さんは亡くなります。母の老衰にすでに鬱状態にあったアケルマンは同作を完成し2015年8月のロカルノ映画祭に出品後、10月5日にパリで自殺しました。パリへは10日前に着いたばかりでした。'70年代はプライヴェート・フィルムに近い作風だったアケルマンは'80年代に商業映画に接近し、'90年代にはテル・アビブ移住から人種紛争を見つめた作風に変化しますが、一貫して孤独を抱えていた映画作家だったように思えます。劇場公開作品はアケルマンにはむしろ傍系の商業映画なので、一応非営利団体によって日本でも自主上映されてきたインディペンデント作品にアケルマン作品の本流はあります。幸いサイト上で無料視聴可能なのでリンクを引いておきましたので、よければご覧ください。

イメージ 2

●4月27日(木)
『私、あなた、彼、彼女』(ベルギー/フランス'74)*86mins, B/W : https://youtu.be/IwTmQeybYtQ
・アパートに越してきたヒロインがベッドの位置をいろいろ変えたり原稿を整理したりシリアルだけの食事をしたり夜中に水を飲みに起きたり寝起きに裸でボーッとしたり考えごとにふけったり全裸のまま窓外の雪景色に見入ったりまたゴロゴロしたりする冒頭32分間で20カットしかない。数か所時間経過で黒味つなぎが入る。場所はワンルームの室内だけ。前半の登場人物はヒロイン(アケルマン自演)一人で、日記程度のモノローグがぽつりぽつりとつぶやかれる。着替えて部屋から街中に出てバスに乗るのが33分目、35分目から安レストランで一人で食事する男が映り、4分1カットが続いた後39分目でやっとヒロインは男と合流してバーに移る。男の車で別のレストランに着くと44分目。会話もなく煙草をふかしカクテルをすするだけで1カット3分が過ぎる。男の車中で男の横顔、モノローグだけで後背位のセックス・シーンが1カット3分。車を運転しながら家庭生活と仕事の不満と満足感、女性観を語る10分間の男のモノローグの1シーン1カット。60分目、男が立ち寄って電気カミソリでひげを剃って帰る。ヒロインは女友達の部屋を訪ねる。無言でキス。二人は10分間1カットで黙々とサンドイッチだけの食事をし、ヒロインは女友達のブラウスの胸をはだける。1時間11分目には二人は全裸で戯れあい、5分目までは真横からローアングルの1カット、5分目以降は俯瞰のミドルショットで4分間のキスシーンが続き、さらに逆方向のミドルショットから全身を捉えたセックスのクライマックスに進み、最後の1分で横たわったベッドからヒロインが衣類を持って起き上がり、画面上手にフレーム・アウトする。簡潔なエンドクレジットにヒロインと女友達がアカペラで一緒に歌う童謡が流れて終わる。映画全編が現実音だけで映画音楽はつかない。インディペンデント作品とはいえ劇映画第1作で作風を早くも確立した。全編フィックス(固定)ショットの映像は無人の実験映画『ホテル・モンタレー』と手法的には変わらないが、ヌーヴェル・バーグやポスト・ヌーヴェル・バーグの映画作家なら映画史的な伝統にこじつけるような技法の衒いは一切ない。音楽なし、パン、トラッキングショット、ディゾルヴ、オーヴァーラップ、フラッシュバック/フラッシュフォワードやパラレル話法などローアングルによる固定カメラのカットつなぎ以上の作為的映像技法は一切用いられない手法は長編劇映画第1作の本作で完全に確立されている。この大胆さには80年代のジム・ジャームッシュのデビューが児戯に見える。

イメージ 3

●4月28日(金)
『ジャンヌ・ディエルマン、ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(ベルギー/フランス'75)*201mins, Eastmancolor : https://www.youtube.com/playlist?list=PL9A248DA2FBE7B0F6
・デルフィーヌ・セイリグ(1932-1990)が高校生の息子との母子家庭の中年主婦ジャンヌ・ディエルマンに扮して平日のある1日の昼から3日目の昼までの足かけ3日、48時間の生活をたどりカタストロフを迎えるまでを3時間21分の大作に描く。ベルギー政府からの助成金を受け低予算でフランスとの合作で製作、スタッフの大半は女性でカメラは常に人物を正面から捉えたフィックス・ショット、室内ではロー・アングルでクローズアップも主観(一人称)ショットも切り返しショットもない。部屋の片づけをし隣の赤ん坊を預かるヒロインのアパートに男が訪ねてきて二人は寝室に消える。出てきて男を戸口へ送るとキッチンテーブルの貯金箱にお金を入れる。入浴してお湯を抜きながら湯船の掃除をする。赤ん坊を引き取りに来た隣人の女性に赤ん坊を返す。帰宅する息子。肉の煮込みとポテトの夕食をとり食後は息子の宿題を手伝う。宿題の後の団欒。息子は読書、ヒロインは繕いものをする。お休みのあいさつをして寝室でベッドに入る。朝。朝食。息子を送り出した後は床に掃除機をかける。外出して銀行に寄り、食料品店で食材を買う。帰宅して一人の昼食。コーヒーをたててくつろぐ。隣の赤ん坊を預かる。前日とは別の男(ドニオル=ヴァルクローズ)が来る。男を送り出し貯金箱にお金を入れて、入浴、入浴後の浴槽掃除。夕食の支度(本作で一番有名な場面)、二人分のジャガイモの皮むきをする真正面からの固定ショットが最初の1個から最後の1個まで1シーン1カットで続く。赤ん坊を引き取りに来た隣人の女性に赤ん坊を返す。夕食。夕食の後の雑談。おやすみのキスをして寝室でベッドに入る。朝。朝食。掃除、外出、銀行。待たされる。ジャンヌは昨日、一昨日より明らかに苛立った様子になっている。食料品店。また待たされる。帰宅して一人の昼食。落ち着かなくまた掃除する。また別の男が来る。初めて寝室内の売春行為が描かれる。無言で抱かれながらオーガズムの声を上げるジャンヌ。ベッドから起き上がり、うつぶせに寝たままの男の背中に果物ナイフを突き立てる。無言のまま動かなくなる男。静まり返った部屋の隅の椅子に座り込んだ茫然自失のジャンヌを映したまま映画は終わる。ニューヨーク・タイムズ2016年3月14日書評の『Cult Cinema』(Door Ernest Mathijs,Jamie Sexton共著)でカルト映画クラシックの筆頭に上げられ、ヴィレッジ・ヴォイス2001年の"100 Best Films of the 20th Century: Village Voice Critics' Poll"では20世紀映画ベスト100の19位に選出。14位『国民の創生』、15位『オズの魔法使』、16位『素晴らしき哉、人生!』、17位『奇跡』18位『イントレランス』に次ぎ、20位『サイコ』、21位『チャイナタウン』、22位『M』、23位『七人の侍』を押さえた19位だから唯事ではない。「主婦の日常は映画ではヒエラルキーの最下位に置かれていました。この映画はそうした映像的価値観への意義申し立てです」というアケルマンの主張、セイリグの名演とあいまって映画史上初の真のフェミニズム映画であり'70年代映画の金字塔と古典的評価が定まっている。確かに突出した作品だが同じ手は2度は使えないのも確か。

●4月29日(土)
『家からの手紙』(フランス/ベルギー'77)*89mins, Eastmancolor : https://www.youtube.com/playlist?list=PLI6aJHJpmn0sTZyr15JdJmVFw5RJugXPi
・ニューヨークの裏通りを捉えた長いフィックス・ショット。車がゆっくり通り過ぎ、遠く通りの奥では子供達が遊んでいる。ベルギーの母からの手紙を読むアケルマンのナレーション。「かわいい娘へ。仕事はすすんでいますか。ニューヨークの生活が楽しくありますように。今日はお母さんの誕生日でした。あなたのさらなる成功をお祈りしました」。「シャンタルへ。夏の衣服を仕立てました。3週間後には届きます。通院は大丈夫です」。「いとしい子へ。ニューヨークはいろいろ危険な噂も聞きます。どうか気をつけてください」。路上、地下鉄、車や車両の運行は見えるが人物はたまに後ろ姿、遠景にしか映らない。「ドル立てで送金します。ついこの間……」親戚たちのさまざまな、親戚同士でないと意味をなさない詳しい近況報告。街路から撮した深夜のドラッグストア。商店街の街灯と次々過ぎる車のヘッドライト。夜の公園の噴水。そこそこ混んだ地下鉄の車内、駅で乗り降りがあると数人はカメラに気づいて目線を向け、数人は別車両に移る。「お父さんはこの頃……」昼間の街路の雑踏。「……最近の写真を送ってください。あなたを大好きなママより」「映画賞おめでとう。有名になったのね。親戚ではあなたが話題になるたびみんなわくわくしています。お父さんのように働きすぎでからだをこわさないように。キスを送ります」。外も内も落書きだらけの地下鉄に有色人種ばかりの時間、白人がほとんどの時間。「いとしい娘へ。忙しいのは良いけれど、もっと手紙も書いてください。今、叔母さんから相談を受けて困っています。叔母さんは私のように幸せな母親ではないのです。どうしたら彼女の悩みを助けてあげられるやら」。地下街を行き交う人々。外は夕方。次々に灯る電飾。「かわいい子へ。昨日はひさしぶりに……」母親の同窓会があってみんなアケルマン家と親しいらしい。バスターミナル。1時間目から延々続く無音・ナレーションもない、ひと気のない街中の長い移動ショット。1時間10分目、地下鉄の車中から突然音声が戻る。再びニューヨーク風景と手紙のナレーション「最後に会ってからもうどれだけ経つかしら。シャンタル、いつでも帰っておいで」。最後の10分はナレーションはなく自然音のみで、港を出た船上からニューヨークの埠頭を臨む長いショットで終わる。映画全編音楽は一切なく(街頭で流れる音楽もない)現実音だけばかりか、完全なサイレントになる場面も途中とラストのシークエンスで10分ずつ続く。映画1本にラジオ、テレビ、レコードから10曲はヒット曲を使うヴェンダースと対照的。ヴェンダースと似ているようでまったく逆(アケルマン自身もヴェンダースのドイツ性を批判、またゴダールにも批判的立場に変わっている)なのは次作ではますます際立ってくる。

●4月30日(日)
『アンナの出会い』(フランス/ベルギー/西ドイツ'78)*126mins, Eastmancolor : http://www.youtube.com/playlist?list=PLWSdd21JCJbdHGQQw0ymuLTTNnPybhjsB (Extract)
・アケルマン自身がモデルのインディペンデント女性映画監督アンナ・シルヴァ(オーロル・クレマン)が新作の映画祭プロモーションを終え帰路につく旅程を描いたロードムーヴィー。映画全編が現実音だけで映画音楽は使われず、例によってタイトル・バックは一切無音で、ファースト・カットの駅のホームも長い1シーン1カットのフィックス・ショットで始まる。ケルンに着いたアンナはホテルにチェックインし、少し休んだ後あちこちに電話をかける。現地在住の恋人ハインリヒと再会するが前戯のうちに止めてしまう「もう服を着ましょう」「別れた妻にもそう言われたよ」「私は自分に言ったのよ」。明日は5歳になる娘の誕生日なんだ、母と娘に会ってくれないか、と高校教師のハインリヒ。アンナはひとりでホテルに戻り眠って、翌日ハインリヒと会って家を訪ねる。庭を散歩しながらドイツ分断の歴史を語るハインリヒ。アンナはハインリヒの母と娘にあいさつだけして晩餐は辞去して帰る。ケルンからブリュッセルへの乗り換え駅に向かったアンナは駅で母の旧友アイダに出会う。アイダは息子たちが皆疎遠になって孫もいないことを嘆き、アンナに子供は欲しいか訊く。欲しいわ、とアンナ。あなたのご両親もお孫さんが欲しいわね、手遅れになる前に子供を持てればいいけど、とアイダ。アイダと別れて列車を乗り継ぐアンナ。乗り継ぎのホームのベンチで「パリまで行くのかい」と隣の男。「ブリュッセルまでよ」「ぼくはパリまでなんだ」と煙草を差し出す男。車中、「ブリュッセルは初めて?」「生まれた所よ」「いい町だね、2年前にバカンスで過ごした」私は8年前に出たきり、とアンナ。20年くらいブリュッセルにいたの?と男。ええ、とアンナ。ぼくはベルリン生まれだ、パリならもっと自由に暮らせそうな気がする、人は結局どこかに住まなければならないし、と男。そうね、とアンナ。軍隊で6か国に駐留してまわった、と男、長かった。次はブリュッセルだわ、とアンナ。男は窓の外を見つめて動かない。ブリュッセル駅で降りるアンナ。ひと気のない改札口で母が待っている。母に父と兄弟の様子を訊き、母娘はカフェで休み、ホテルのダブルベッドで横になって長話をする。翌朝母の見送りで再び列車に乗り、降りた駅で恋人ダニエルの迎えの車に乗る。お腹すいてる?食事する?わからない、とダニエル。会話中にアンナはダニエルに甘えかかり、ダニエルは遮ってカーラジオでクラシック番組をかける。アンナの自宅ホテルの部屋でダニエルはとりあえずテレビを無音で点ける。先に入浴するわ、とアンナ。入浴する必要あるかい、とダニエル。アンナの入浴は長くダニエルは疲れ気味。何もかもが忙しい、食欲すらあるのかないのか自分でも何だかわからない、とダニエル、そういう時は音楽を聴けばいいというが女の声で十分だ、歌ってくれないか。私音痴よ、とアンナ。構わない、とダニエル。アンナはアカペラで小唄を1曲歌う。ベッドに横たわるダニエルをアンナは全裸で抱擁するがダニエルは疲れてるんだ、と拒む。ホテルに栄養剤はなくタクシーで薬局から買ってくる。ダニエルに栄養剤を飲ませマッサージするが「もういいよ」と眠り込んでしまう。朝。ダニエルはもういない。カーテンを閉ざしたまま薄暗い部屋でアンナは冷蔵庫のコーラを飲み、ひとりでベッドにあお向けになりながら十数件貯まった仕事、友人、男女の恋人たちからの留守番電話を聴く。無音のエンドロール。ロードムーヴィーだがヴェンダース作品の抒情性とはまったく違う。傑作だがロードムーヴィーだから傑作になったのではなくヒロインの旅程(帰路)は日常でしかなく、誰もが疲れている。冒頭無人の駅ホームを撮したフィックス・ショットにヒロインが入ってくるシークエンス、ラストの留守番電話を延々聴くシークエンス、ともにヒロインが主役ではなく駅のホームの映像こそが実体だし、果てしなく続く留守番電話の音声が響く寝室の音声/映像こそが実体でヒロインはそこに居合わせているだけの存在にすぎない。『ジャンヌ・ディエルマン~』同様フィックス・ショットの徹底はもちろんクローズアップ、一人称ショットはおろか一切のナレーション、モノローグも排され、自我の消滅では『ジャンヌ~』よりさらに徹底している。しかもこれは小津ともブレッソンとも関係なくアケルマン自身のオリジナルな発想なのが直截に伝わってくる。