人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年8月28日~29日/ カール・Th・ドライヤー(1889-1968)の後期作品(2)

 前作で最後のサイレント作品になった第9作『裁かるゝジャンヌ』'28も監督カール・Th・ドライヤーはトーキー作品にしたい希望でしたが、機材面での製作技術上の困難と、まだヨーロッパ映画界ではトーキー作品への移行が本格化しておらず上映設備を導入する映画館も少なかったため結局同作はサイレント時代最後期を飾る映画史上の大問題作として名を残すことになります。フランスでカトリック教会や右翼ばかりか左翼からも怒りを買って相当箇所が宗教的・政治的理由から検閲でカットされたのも当然で、あのアナーキーな結末は当時~戦後の共産圏からどう受けとめられたのかも気になるところです。ドライヤーがサイレント時代にタイトル字幕製作・フィルム編集者として入社し、監督デビューしたのは母国デンマークの映画会社ノーディスク社でしたが、同社の社員監督だったのは最初の2長編『裁判長』'19、『サタンの書の数頁』'20だけで、フリーになったドライヤーは第3作はスウェーデン(『牧師の未亡人』'20)、第4作はドイツ(『不運な人々』21)に招かれ、第5作はひさしぶりにデンマーク(『むかしむかし』22)で映画を撮りますが、第6作のドイツ作品『ミカエル』'24、第7作のデンマーク作品『あるじ』'25で国際的な名声を確立したのは前回のご紹介通りです。ノルウェーで小品の第8作(『グロムダールの花嫁』'25)を撮った次にドライヤーはフランスの映画会社から超大作の歴史ヒロイン映画の企画を依頼され、マリー・アントワネットかカトリーヌ・ド・メディシスジャンヌ・ダルクの三択だったそうですが、結果作られた『裁かるゝジャンヌ』がいかにとんでもない映画になったかも前回その一端をご紹介しました。『~ジャンヌ』は映画批評家からも観客からも絶賛され国際的に上映されながらあまりに膨大な製作費を回収できず製作映画会社倒産、という大赤字作品になり、ドライヤーは独立プロを設立して製作依頼を募るようになりました。ベルギーの亡命ロシア貴族子息の青年貴族ニコラ・ドゥ・グンツブルグ(1904-1981)男爵が自分の主演映画をという依頼でドライヤー・プロダクションが製作したのが4年ぶりになるドライヤー第10作で初のサウンド・トーキー作品『吸血鬼』'32(配給はフランスのトビス・フィルム)であり、次の17世紀初頭の魔女狩り時代を背景にした長編第11作『怒りの日』は『吸血鬼』から11年ぶりの'43年にヴェネツィア国際映画祭への出品と受賞でようやく一般配給上映されることになります。第二次世界大戦中に生活費のために映画会社の依頼を受けた長編第12作『二人の人間』'45は企画内容も仕上がりも映画会社側に改竄されたとしてドライヤーは自作と認めていないので、戦後の第13作『奇跡』'55、逝去4年前の第14作『ゲアトルーズ』'64がドライヤーの遺作となり、ほか'40年代~'50年代のドキュメンタリー短編8編がドライヤーの全作品になります。ドライヤー非公認の『二人の人間』を除けばドライヤーは『裁かるゝジャンヌ』以降の約40年で長編4作しか作っていませんが、そのどれもが10年に1作の極端な寡作を納得させる驚くような映画になっているので、今回と次回は果たして感想文の体をなすのかまったく自信がありません。観直してみて、またもやただただ圧倒されたとしか言いようがないのです。

●8月28日(火)
『吸血鬼』Vampyr - Der Traum des Allan Gray (Carl Theodor Dreyer-Filmproduktion=Tobis-Filmkunst'32.May.30)*72min, B/W; 日本公開1932/11/10 : https://youtu.be/q8JhOyzZS9k (Full Movie)

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[ 解説 ](キネマ旬報近着外国映画紹介より)「あるじ」「裁かるゝジャンヌ」の製作者として知られるカール・テオドール・ドレイエルが数年ぶりで発表する映画で原作は英国の小説家シェリダン・ル・ファヌーの筆になるストーリーそれをドレイエル自身がクリステン・ジュルと協力して脚本にまとめ、「裁かるゝジャンヌ」と同じくルドルフ・マテが撮影に当たった。出演者の顔ぶれは「ヴェルダン 歴史の幻想」「征服されし人々」のモーリス・シュッツを始め、ジュリアン・ウェスト、レナ・マンデル、シビル・シュミッツ、ジャン・ヒーロニムコ、ヘンリエッタ・ジェラードの面々である。
[ あらすじ ](同上) 夢想家であり、奇人であるアラン・グレー(ジュリアン・ウェスト)はある夜おそくクルタンピエール村の寂れた旅館へやって来る。その周囲の凄惨な光景が彼に強い印象を与えた。そして世にも不思議な夢を見る。――老婆(ヘンリエッタ・ジェラード)の姿をした吸血鬼がある村医者(ジャン・ヒーロニムコ)とその助手なる義足の男(ジョルジュ・ボワダン)とを自分の忠実なる家来にする。この吸血鬼はかつて世にあり紙時犯した罪悪のために墓場に入っても静安を得ることの出来ない女亡者で人間の生き血を吸わねば生きていられないのである。まず第一の犠牲者はある城主(モーリス・シュッツ)の娘であるが吸血鬼は例の義足の男を唆して城主を殺させる。その城主の客となったアランはある古い記録によって吸血鬼の存在とその魔力とについて学ぶ。殺された城主の二番娘ジゼール(レナ・マンデル)とアランとの間に強い愛情が生ずる。吸血鬼に見込まれた病めるレオーヌ(シビル・シュミッツ)は医者のたくらみの為に自殺しようとする。医者はアランを説きつけて輸血を承諾させたのであった。最後の瞬間に忠実な老僕(アルベール・ブラース)の感づくところとなりレオーヌの自殺の企ては遮られ毒殺の瓶は彼女の手からもぎとられる。その毒薬はかの吸血鬼がレオーヌに飲ませるべく医者に渡したものであった。老僕は記録を漁った結果、吸血鬼を退治する方法とレオーヌの生き血をすすった老婆が昔クルタンピエールに住んでいてずっと以前に死んだマルグリット・ショパンであることを知る。アランは吸血鬼に恐ろしい妖怪談を聞かされるが、それにも拘わらず老僕を助けてマルグリット・ショパンの墓を揆き死人の心臓に鉄棒を突き刺すことによって吸血鬼を退治する。そこで吸血鬼の魔力は失われ、レオーヌに祟っていた隠霊は消えてしまう。医者と義足の男はその罪によって殺される。アランは彼が医者の手から救い出したジゼールと共に夜の恐怖の去った輝かしい夏の朝を迎える。夢はここで終わっている。

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 キネマ旬報誌のあらすじは間違いではありませんが、この映画は意図的にどこからどこまでが(映画内というフィクションの中での)客観的現実で、どこからどこまでが(1)超自然現象なのか、(2)登場人物による幻覚・妄想なのか、その場合(3)幻覚・妄想場面の主観的人物が特定できる描き方と特定できない描かれ方があり、視点人物を特定できるならまだしも特定できないならまた解釈の不特定性は(1)(2)に戻って堂々めぐりしてしまう、という厄介な構造を持っています。ドライヤーの映画はいつも原作戯曲や小説がありますがほとんどはドライヤー自身の脚本によってオリジナルと言っていいほど大胆に再構成されており、またフィルム編集者出身の監督ですから編集も監督自身が手がけているので、映像とは編集でまったく意味が変わってしまいますから、『吸血鬼』のように明らかに視点的統一を撹乱させている映画は通常の映画の常識的発想からは出てこないもので、ドライヤー自身はおそらく悪夢の非連続性や非論理性が念頭にあったかもしれません。冒頭のシークエンスは「邪悪さを追求していくと、そこには現実と非現実の二つの世界がある。それを知ると、この二つの世界を行き来することができるようになる者もいる。彼もその一人だった」と書物の頁を映した字幕説明になり、フランスの田舎の寒村の旅館に泊まろうとする主人公の青年アラン・グレイ(ジュリアン・ウェスト=ニコラ・ドゥ・グンツブルグ男爵の芸名)の姿が映ります。天井を見ながら階段を上がっていく主人公の青年の主観ショット。部屋に入ってろうそく(場面が夜の出来事である暗示)を灯して椅子に座り、ひと息つく青年(客観ショット)。すると(a)子供の声や犬の泣き声が響き、夜なのに変だなと青年が注意を引かれると、(b)ドアノブのアップになり鍵穴の鍵が回ります。(c)一人の老紳士が入って来ると「娘たちを守ってくれ」と言い、(d)手にした四角い包みに「私の死後開封すること」と書くアップのショット、(e)老紳士は包みを置いて出て行きます。(f)青年はぽかんとして「幽霊だったのか?」。翌朝老紳士の置いていった包みを持った青年は旅館の雑役夫に「この旅館に子供と犬はいるか?」「子供も犬もいませんよ」「昨夜訪ね人は?」「誰も来ていません」。それから再び書物の頁の字幕説明で青年が二人の娘を持つ老紳士の城主の館に導かれた、となりますから上記までが最初のシークエンスですが、音声を含めて(a)~(f)はどう解釈すべきかになります。(a)はその直後老紳士が入ってくるための伏線ですがシークエンス最後に雑役夫が言う通りなのでしょうから青年の幻聴ともとれる。しかし観客は実際にその音声を聞くので超自然現象と解釈すべきでしょう。(b)は幻覚にしろ超自然現象にしろ一見青年の主観ショットですが、ドアノブのアップの角度が青年の位置からはあり得ない、という視点人物不在のカットで、しかしこれは明らかに青年の認識を示しているので青年は意識だけを別の角度に飛ばしてドアノブと鍵を見ている印象になります。(c)は(e)と同様に客観ショットなので、この老紳士は超自然現象にしろ本人にしろ雑役夫の眼をすり抜けてやって出てきた、と考えるのが包みが物として置いていかれたことでも自然ですが、(d)はこれを書いている老紳士の主観ショットなのか(だとしたら老紳士の安定した実在性が強調されるはずですが、実際の印象は不気味で不吉です)、ドアノブのアップ同様に青年の意識が手元を覗きこんで見ている青年の主観ショットなのか、単なるアップの客観ショットなのかも判然としない。(f)は客観ショットですが(a)~(e)を統一した視点にまとめ上げてはおらず、ドラマの主人公の確認の意味あいでしょう。(a)に先立つ青年の主観ショットによる階上への移動から1シークエンスにこれだけの視点の転換とあからさまに不自然なショットで不安感をかき立てているのはヒッチコック映画の技法を連想しますが、『吸血鬼』の撮影は'30年~'31年前半には完了しており、ヒッチコックがこの技法を確立したのは'35年の『三十九夜』です。ただしヒッチコックは話法的にも辻褄の合う合理的な技法として創案したので、同じムルナウの『最後の人』'25からの発展と見ることはできてもこの『吸血鬼』とはまったく効果が違い、その点でも本作の仕上がりの異常性は際立っています。
 キネマ旬報のあらすじは全編を夢の中の出来事としていますが、映画は物語上は次に主人公アランが怪しい老婆に呼ばれて影と離脱する男を目撃し、その男を追ううちに霧の中を迷い、一軒の館に辿り着きます。そこは先の老紳士の屋敷で、娘二人と使用人夫婦が暮らしていました。当主はアランが目撃した影に射殺され、姉の方は病に伏せっています。封筒を使用人が開けると吸血鬼に関する本で、使用人は食い入るように読み始め、それが字幕で示され、一家を襲った吸血鬼の呪いの悲劇の原因が判明します。姉を往診する医師の様子は明らかに怪しく、皆の血を採血して彼女に与えます。「精血を完全に吸い取ると、吸血鬼はあらゆる手段で犠牲者を自殺に追いやる」と本の一節が映り、姉は毒をあおろうとし、アランがそれを阻止します。翌朝、濃霧の中を散歩するアランがベンチで休むと、魂が離脱し、ある家の中に棺に横たわる自分をみる。ガラス越しに覗く隣室にはベッドに縛りつけられた妹の姿があり、幻の彼はそれを助けようとしますが動けません。「塵から生まれ塵に帰る」と内側に書かれた棺の蓋が閉まると、ショットは棺桶の窓から見たアランの死体の視点に切り替わり、教会に運ばれるまでの風景が映ります。棺を担ぐ列がベンチに眠るアランを過ぎるとそこで消え、アランの魂は舞い戻ります。一方、使用人は警官を呼んで墓地へ行き、過去に吸血鬼に囚われ昇天していないという老婆の亡骸の心臓に杭を打ちます。それとともに長女レオーヌの呪いは解け、アランは医師を追い、幻視した家に追いつめ、その義足の助手は階段を転げ落ちて死にます。医師は粉挽き小屋に逃げ込むが、水車や歯車が回り出し、老婆の手下だった医師は白い粉に埋もれて絶命します。アランは次女ジゼールを助け出すと、小舟に乗せて漕ぎ出します。本作は一応原作を19世紀のアイルランド作家シェリダン・レ・ファニュ(1814-1873)の短編集『In a Glass Darkly』1872から短編「吸血鬼カーミラ」を中心にドライヤーが脚本を書き、念頭にあったのは1927年からベラ・ルゴーシ主演でニューヨークでヒットしていた舞台劇『吸血鬼ドラキュラ』で、『裁かるゝジャンヌ』'28のあと'29年には脚本を仕上げ、'30年には大半の撮影を終えていたそうですからトッド・ブラウニングの『真夜中のロンドン』'28よりは後ですがブラウニングの『吸血鬼ドラキュラ』'31より早かったわけです。本作はまだサイレントとサウンド・トーキー技法の混在があり、音楽や効果音はありますが台詞のないシークエンスもあり、また書物の頁を映してタイトル字幕代わりにする手法も頻繁に見られます。これについてはドライヤーは本作では「本も登場人物の一つ」と見なしていたということによるそうです。サイレント作品にするかサウンド・トーキー作品にするかは'30年中の完成・公開ならヨーロッパではまだサイレント作品でも良かったからなのですが、結果的にヨーロッパでもトーキー化の完了した'32年公開になったため、サウンド映画ならではの効果とサイレント作品の手法が混在したのも本作の異様な雰囲気にはプラスに働いています。『裁かるゝジャンヌ』は顔のアップと背後の壁、という具合にB/W映像のほとんどが白っぽい映画でしたが、『ミカエル』'25と同作で撮影を担当したカメラマン、ルドルフ・マテは本作ではレンズの前にガーゼのフィルターをかける手法を考案し、幽体離脱の二重撮影の多用とともにガーゼのフィルター越しの白っぽい映像が本作を『裁かるゝジャンヌ』以上に白っぽい映像の映画にしており、老婆の手下の医師も脚本段階では沼地に沈む最後でしたが水車小屋の粉挽き車の小麦粉に埋もれて絶命する具合に変えたのは、偶然ロケ地で水車小屋を見つけたからだそうで(もっとも実際に使ったのは石灰だそうですが)、何とこの映画、俳優も城主とヒロイン(次女ジゼール役)だけ職業俳優で他の出演者は全員素人、壮絶な末期を遂げる医師も地下鉄駅でドライヤーがスカウトしてきたばかりか、小道具や多少の大道具はあったでしょうが驚きの全編ロケーション撮影だそうです。この映画の、とても現実のものとは思えないような映像が一切セットではないとはそれ自体も驚異的で、ドイツ映画の『カリガリ博士』'19や『ニーベルンゲン』'24、ハリウッド映画の『真夏の夜の夢』'35や『オズの魔法使』'39の人工的な異世界とは違った異様さがあり、ムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』'22やブラウニングの『吸血鬼ドラキュラ』のような吸血鬼映画を期待するとおよそホラー映画の要素も稀薄なのに、感覚的にまとまりのない悪夢そのものが迫ってくる気味悪さがあります。故・伊丹十三氏が監督長編映画第1作『お葬式』'84のスタッフ・キャストに本作を参考試写して観せたのはよく知られた話で、同作は古今東西の映画を参考にしたショットだらけですが、『吸血鬼』からは死体の視点からのショットをまるまる使っていました。『お葬式』をご覧の方は本作でそのシークエンスになるとびっくりなさると思います。映画でパクっていいこととまずいことがあるのがわかります。

●8月29日(水)
『怒りの日』Vredens dag (Carl Theodor Dreyer-Filmproduktion'43.Nov.13)*93min, B/W; 1947年ヴェネチア国際映画祭審査員特別賞受賞 : 日本公開2003/10/11 : https://youtu.be/6_SATxIRMts (Trailer)

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[ 解説 ](キネマ旬報映画データベースより) 鬼才、カール・Th・ドライヤー監督によるドラマ。前作から10年以上のインターバルをおいて、ドライヤーがナチス・ドイツ支配下の故国で完成させた。2003年10月11日より、東京・有楽町朝日ホール、京橋・フィルムセンター、渋谷・ユーロスペースにて開催された「聖なる映画作家カール・ドライヤー」にて上映。
[ あらすじ ](同上) ノルウェーの小さな村で暮らす牧師アブサロン(トルキル・ロース)の後妻に迎えられたアンヌ(リスベット・モヴィーン)は、アブサロンの息子・マーティン(プレーベン・レアドフ・リュエ)と惹かれ合う。しかし、彼女には魔女狩りの手が迫っており……。

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 本作は長い間日本未公開作品で、ようやく公開されたのも特集上映だったのでキネマ旬報でも簡略すぎるほど簡略な紹介しかされておらず、2003年の特集上映以前にはこの『怒りの日』や遺作『ゲアトルーズ』は『裁かるゝジャンヌ』『吸血鬼』や『奇跡』'55と並んで国立近代美術館フィルムセンターや、民間団体では各種語学学校のシネクラブなどの上映会(民間団体の場合英語字幕つき16mmプリント版)でしか観ることができませんでした。以降ドライヤー作品は長編14作中12作(ノルウェー作品『グロムダールの花嫁』'25と、ドライヤー非公認の『二人の人間』'45を除く)と、'40年代~'50年代の全ドキュメンタリー短編をまとめた短編集がDVD化されましたが、現在では英語版でパブリック・ドメイン版プリントからの『吸血鬼』が『ヴァンパイア』と改題されて発売されている以外、廃盤になっています。本作は魔女裁判が題材であることからは『裁かるゝジャンヌ』を連想しますが、本作は第2次世界大戦中のナチス・ドイツの侵略に対する一種の抵抗映画ながら、ナチスに対してというも親ナチ・反ナチに分かれた国内情勢への批判である意図は、亡命生活資金のために映画会社からの企画を受けた反ナチ映画の次作『二人の人間』'45をドライヤーが自作と認めていないことからも、ドライヤー自身による企画・製作の本作が政治的抵抗より人間性への抑圧に対する抵抗だった事情がうかがえます。本作の主要登場人物はあらすじに出てくる牧師アブサロンとその若い後妻アンヌ、若い後妻と恋に落ちる若いアブサロンの息子マーティンの3人に、さらに牧師の老母メレーテ(シグリ・ニーエンダム)、魔女疑惑をかけられる老農婦マーテ(アンナ・スヴィアキア)、マーテの魔女裁判を担当する司祭(アルベルト・ホーベルク)の6人に限られ、映画は留学から帰ってきたマーティンと父の後妻アンヌが初めて顔を合わせ、魔女の疑惑をかけられた老農婦マーテがアンヌに牧師からの助けを求めに訪ねてくる、という具合に進みます。アンヌの亡母もかつて魔女疑惑をかけられたことがあり、アブサロン牧師の弁護によって助けられたのでアンヌはアブサロンの後妻になり、その後アンヌの母は亡くなりましたがマーテはアンヌの母の友人でもありました。こういったことがマーテとアンヌのやり取りからわかりますが、その時やってきた魔女狩りの一団からアンヌはマーテを匿うも、アンヌを快く思わないアブサロン牧師の母メレーテが魔女狩りの一団の家捜しを快諾し、マーテは拷問されながら連れて行かれてしまいます。アブサロン牧師と司教は教会本部の命令から魔女裁判に有罪判決以外を許されておらず、マーテは魔女裁判の席でアンヌの母同様無実であることを訴えますが、「罪の償いを許す」という判決によって火あぶりの刑で処刑されます。『裁かるゝジャンヌ』のように様式化された映像ではなく、十字架に十字に縛られた老婆が柱が焼けると共にバタッと燃えさかる藁束の中に倒れる即物的な映像で、リアリズムの点では『裁かるゝジャンヌ』より迫力あるものです。また本作は『吸血鬼』と違って完全にサウンド・トーキー作品の作りが堂に入っており、ほぼ1シーン・1カットの撮影法が採られています。ドライヤー映画は必ず原作戯曲、または原作小説があり、その上でドライヤー自身が脚本を担当していますが、本作の1シーン・1カットの撮影法の場合は脚本段階から演出・撮影をプランに入れるようになったようで、逆にその分ドライヤー自身が編集する必要がなくなったということでしょう。『吸血鬼』までは編集もみずから手がけていましたが、本作ではアンヌ・マリー・ピーターセンとエディト・シュルーセルが編集を担当し、のちの『奇跡』『ゲアトルーズ』も1シーン・1カットの撮影法は続くので、シュルーセルに単独編集が任されます。その点でも、『怒りの日』は晩年にいたるまでのドライヤーの技法・作風を決定した重要な位置にあり、『裁かるゝジャンヌ』以降の寡作ぶりなら1作1作が全部重要なのですが、わかりやすい例なら溝口健二なら'36年の『浪華悲歌』『祇園の姉妹』の2作、小津安二郎なら『晩春』'49のような決定的なドライヤー映画が出た、ということで、これまでも名作傑作問題作を連発してきた映画監督が54歳の自己革新で、しかもこのあと10年おきに『奇跡』『ゲアトルーズ』の2作しかない(20年で3作!)という異例な事態になるのです。
 老農婦マーテは魔女裁判の席上で、裁判官の司祭に「私を裁くならあんたも裁かれることになるよ!」と預言します。またマーテとアンヌのやり取りを聞いた観客はアブサロン牧師がかつてアンヌの母を魔女裁判で弁護したのを知っているので立会人になっている牧師がかつての裁判をむしかえされたくないためかえって傍観する一方なのを観ることになります。こうしたことすべてがアンヌを幻滅させ、マーティンとの逃避的な恋につながって行きます。マーテの処刑の後でますます露骨にマーティンと出かけるようになり、明るく若々しくなったアンヌを夫のアブサロンはマーティンの若さのおかげだ、と母の前で喜び、アブサロンの母はますますアンヌを憎みます。やがて司祭が病気になって危篤の報に牧師はおもむき、その晩は嵐になります。司祭は魔女マーテの言うとおりになった、と牧師に告げて逝去します。牧師館では二人きりになりたいアンヌとマーティンが起きて待っていますが、老母も居間から引きません。アンヌは先に寝ます、と引き上げ、残った孫のマーティンになぜアンヌを嫌うのか問われ、牧師の母ははっきりとあの女は虫が好かない、家に入れたのが間違いだった、と吐き捨てます。やがてマーティンと老母が寝室に引き上げてからアンヌは居間に戻ってきて、司祭の臨終を看取って帰ってきた夫アブサロンを迎えます。死と罪のことばかり考えて帰ってきた、という夫に、アンヌは私もずっとあなたの死のことばかり考えてきた、結婚以来ずっとあなたの死だけを考えてきた、と言い放ちます。ショックを受けた牧師は昏倒し、マーティンと老母が駆けつけてくると事切れています。そして、アブサロン牧師の葬儀の場で、アンヌは牧師の老母メレーテに悪魔の力によって夫を殺し、マーティンを誘惑した、と魔女として告発されます。ここまでで映画の9割強の展開をたどってきましたが、デンマーク近世版嫁姑話の本作の結末はおそらく原作準拠でもあるだろうし、この映画でもこれ以外には動かないだろうというほど力強いものです。17世紀初頭のデンマーク(キネマ旬報あらすじのノルウェーは間違い)という近世のプロテスタント国でもこうした中世のような魔女裁判が行われていたのを生々しく観ることができるのもこの映画の興味になっていますし、それが社会構造はほぼ近代的な市民社会になっている生活描写とないまって、歴史映画を観ている感じはまったくありません。それこそちょっと田舎に行けば今でもこうした魔女狩りが行われていそうな雰囲気といっていいくらい現代劇と同じ感覚で、それがかえって恐ろしい効果を上げています。本作のヒロインのアンヌはとりたてて賢くもなければ美人でもなく、おそらくこのようなシチュエーションでもなければ通常映画のヒロインには描かれないような人間です。「牧師の若い後妻」という属性以外生活に何もないような空虚さを絵に描いたような若い女性として描かれていて、いわばボヴァリー夫人以前のボヴァリー夫人ですが、そういった人間が陥る悲劇をきっちり定着させるには不寛容で嫉妬に満ちた狭い人間関係と、それがどのように噴出するかを明確な時代相の中に置いてみなければならない。この映画はまったく面白さを感じない人も多いでしょうし、結末には反感すら感じる人もいるでしょうが、個人の嗜好を超えた傑作というのも映画の中にはあり、『怒りの日』以降のドライヤー作品3作はいずれもそれに該当します。また、ヒロインの受難劇を追及してきた映画監督の第一人者と言えば溝口健二ですし、溝口は『怒りの日』以降のドライヤー作品は観る機会がなかったと思いますが、テーマについても演出技巧の面でも、本作と『ゲアトルーズ』は溝口に感想を訊きたかったと思えてくるような作品です。