人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年9月13日~15日/ミケランジェロ・アントニオーニ全長編劇映画(5)

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 全長編劇映画、といってもアントニオーニほど長いキャリアを持つ監督の作品紹介が5回目の今回で終わってしまうのは残念なことです。アントニオーニには長編劇映画第1作『愛と殺意』の前に短編ドキュメンタリー数本と長編ドキュメンタリー1本があり、1980年にはテレビ用作品がありますが観ることができなかったので今回は含めませんでした。また劇映画進出後にも数本の短編があり、遺作となった短編はオムニバス『愛の神、エロス』'2004に提供した作品ですが、このオムニバス映画はウォン・カーウァイスティーヴン・ソダーバーグとアントニオーニという組み合わせで、かつての『街の恋』'53のようにアントニオーニと同世代のイタリア映画監督を集めた特別な意味を持つ企画ではなく、内容も長編劇映画の遺作『愛のめぐりあい』に洩れた1エピソード程度のものなので取り上げませんでした。アントニオーニが今日どれだけ観られているか心許ない気もしますが、一例を上げれば、1984年にキネマ旬報社から初版が刊行され2006年にスタジオジブリの「ジブリLibrary」で復刊されたドナルド・リチー『映画のどこをどう読むか (映画理解学入門)世界の10本の傑作から』では、年代順に、
1. 戦艦ポチョムキン ('24, セルゲイ・M・エイゼンシュテイン)
2. 裁かるるジャンヌ ('28, カール・テオドール・ドライヤー)
3. 新学期・操行ゼロ ('33, ジャン・ヴィゴ)
4. ゲームの規則 ('39, ジャン・ルノワール)
5. 市民ケーン ('41, オーソン・ウェルズ)
6. 忘れられた人々 ('50, ルイス・ブニュエル)
7. 東京物語 ('53, 小津安二郎)
8. 抵抗(死刑囚は逃げた) ('56, ロベール・ブレッソン)
9. 情事 ('60, ミケランジェロ・アントニオーニ)
10. バリー・リンドン ('75, スタンリー・キューブリック)
 以上10本が1984年時点での映画史の最重要作品として分析されています。故リチー氏の先見の明は明らかで、当時の一般的な映画史的里程標10作とは『戦艦ポチョムキン』と『市民ケーン』が重なる程度で、他に『忘れられた人々』と『抵抗』が候補に上がるくらいだったでしょう。『裁かるるジャンヌ』すらまだ評価に揺れがありました。フォードもロッセリーニも入らないのは枠の少なさから仕方ないとは言え、2、3、4、7、10を映画史ベストテン級の重要作品とする予見性はスタジオジブリが目をつけて復刊するだけあります。微妙なのが『情事』で、同書での分析は見事なものですがこの10本のリストの中で2、3、4、7、10の浮上の替わりに存在感が薄れつつあるのは『戦艦ポチョムキン』『忘れられた人々』『情事』の3作でしょう。同時代の作品中ベルイマンでもフェリーニでもなくヌーヴェル・ヴァーグ作品でもない『情事』を1960年の画期的作品としたリチー氏の論拠は説得力があるものですが、アントニオーニの評価は『情事』の国際的大成功から常に賛否両論かまびすしいものでした。並び賞されていたフェリーニが'70年代以降も巨匠の面目を保ち続ける一方、アントニオーニの評価は人気絶頂期の作品まで遡って急激に下落します。晩年30年間には今回取り上げる3作しか長編劇映画はありません。興行収入も批評も芳しくない作品になりました。しかし作品自体はいずれも全力を尽くした映画的遺言の重みがあり、アントニオーニ作品のエッセンスを凝縮したこころざしの高い作品ばかりです。アーティストの真価が本能的で直観的な鋭さにあるとすればアントニオーニは同時代の映画監督中でも抜きん出た直観力を持った人でした。それだけで十分ではないかと思われるのです。

●9月13日(水)
さすらいの二人』The Passenger (Professione: reporter) (イタリア=フランス=スペイン/コンパニア・シネマトグラフィーカ, CIPIシネマトグラフィーカ, レ・フィルム・コンコルディア, MGM'75)*126min, Metrocolor; 日本公開昭和51年(1976年)5月

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・長編ドキュメンタリー『中国』'72を挟んで製作された長編劇映画第12作。本作からはカルロ・ポンティは製作総指揮を出資者に製作実務を担当。撮影はルチアーノ・トヴォリ(本作のみ)、原案は前作『砂丘』の共同脚本家マーク・ペプロー、脚本はペプローとアントニオーニの共同で常連カメラマンのカルロ・ディ・パルマと脚本家トニーノ・グエッラの不参加は『赤い砂漠』以来唯一。音楽はイヴァン・ヴァンドール。主演にはハリウッド・スターのジャック・ニコルソンベルトルッチラストタンゴ・イン・パリ』'72で一躍スキャンダラスな旬の新人女優になったマリア・シュナイダーの共演で話題を呼んだ。『欲望』『砂丘』に続く英語映画三部作の最終作でもある。イギリス人有名新聞記者でテレビ・レポーターのデイヴィッド・ロック(ニコルソン)は北アフリカの砂漠に滞在中、ホテルの隣人で自分によく似た男ロバートソンの心臓発作の急死に遭遇し、ロバートソンに成り代わり順調な仕事、愛する妻レイチェル(ジェニー・ラナクレー)と築いた家庭を棄てる決心をする。ロバートソンの死体を自分の部屋に運び、パスポートの写真を貼りかえると(この過程でアントニオーニ映画初のトランジション・ショットでロバートソンとの出会いの回想が挿入される)、一旦ロンドンに戻ることにする。1度だけ妻に会おうと家に向かう途中、ロックはベンチでひとり本を読む不思議な女子大生(マリア・シュナイダー)に眼を留める。家の玄関まで来ると、自分の死のニュースが流れているのを聞く。佇む妻レイチェルの姿、レイチェル視線のトランジション・ショットによる夫デイヴィッドとの庭の焚き火の回想の挿入。妻に会うのを断念したロックは、ロバートソンの航空券の上に書かれた西ドイツ・ミュンヘン空港のロッカーの番号を思い出す。ロッカーには分厚い書類が入っており、手帳にはその書類を持って教会で人と会う段取りになっている。ロックは2人の男に声をかけられ書類を渡すと、大金の入った封筒を渡される。ロバートソンは武器密輸商人で武器を新興国のゲリラ組織に売っていたと判明する。レイチェルは夫の死に立ち合ったロバートソンという男の行方の捜査を友人のテレビ・ディレクター、マーティン(イアン・ヘンドリー)に依頼する。一方ロックは、ロバートソンの手帳に書かれたスケジュールに従いバルセロナに飛ぶ。だがそこにはロバートソンの行方を追うマーティンがいた。ロックは街中に建つ礼拝堂に逃げ込む。堂内でロックはロンドンで会った女子大生と再会する。ロックは女子大生に、マーティンに気づかれないように荷物を持ち出してほしいと頼む。それが契機となり、2人の逃避行が始まる。だがその頃夫の死に不審を持ったレイチェルが遺品の中のパスポートが夫のものでないと見抜き、事実を確かめようとやって来る。逃げるロックと女子大生、追うレイチェルと警察、さらにゲリラ組織。郊外の粗末なホテルに着くと、事件に関わらせないために途中で別れた女子大生が待っており、ロックは再び彼女を近くの港に行かせる。ホテルの前に1台の車が着き、1人の男が降りる。やがてパトカーが着き、先の車が去るのと入れ違いに警官とレーチェルが降りる。女子大生が戻ってくる。ベッドに横たわるロックの遺体に警官が「ご存知の方ですか?」と問い、レイチェルは「知らない人です」と答え女子大生は「知っている人です」と答える。

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 本作の頃にはアントニオーニはすっかり過去の人扱いで、日本公開前から海外メディアでの悪評が伝わり外国で観てきた日本の映画関係者による酷評があちこちの雑誌コラムに掲載された。『情事』以来アントニオーニに懐疑的だった評者が一斉に鬼の首でも取ったかのように大々的な批判キャンペーンでも張ったような様相で、まず本作は『情事』を失踪者の側から描いたようなアイディアの類似があるが、いくら何でも他人との入れ替わりは設定に無理がありすぎる。新世代のスター俳優ニコルソンと『ラストタンゴ~』のシュナイダーの起用というのも話題性を狙った作為が見えるしニコルソンとシュナイダーも生かせていない。結局アントニオーニは思わせぶりなだけで空疎な映画ばかり作ってきているの監督なのが遂に明らかになってしまったではないか、というのが大勢の意見だった。『情事』の裏返し、というのは表面的には当たっているようだがニコルソン演じる主人公に相当する人物はこれまでのアントニオーニ映画にはないから結果的には全然違う。シュナイダー演じるヒロインが最後まで名前が明かされないように、故ロバートソンになりすました主人公も名前も過去も捨てたい人物で、ロバートソンの行動予定だった役割をこなして事件に巻き込まれてしまうのも積極的な行動というよりもロバートソンのスケジュールをこなしきらないと完全な失踪はなし得ない、という動機に見える。自分のアイデンティティを捨てる条件に他人のアイデンティティを背負いこむことになるのだが、本作で初めてアントニオーニが採用したトランジション・ショット(ベルイマンの『野いちご』'57が有名だが溝口健二の映画ではサイレント時代から使われている)が主人公の離人症的な感覚をよく現し、また前作『砂丘』では主人公の青年とヒロインの二人の多元描写があったが本作のように主人公の妻の側の動向も描かれるのはアントニオーニとしては異色で、この妻の主観ショットでもトランジション・ショットが使われる。マリア・シュナイダー演じるヒロインは女子大生らしいが所々ロバートソンが関わる武器密売組織からか、または敵対する組織からの監視者らしいそぶりがあり、ちなみに『ラストタンゴ~』から期待されるようなエロティックな場面は一切ない。ラスト・シークエンスの7分間近いワンシーン・ワンカットの離れ技は『さすらい』以来ラスト・シークエンスでいつもびっくりさせるアントニオーニの本領発揮で(あらすじの最後、「ロックは再び彼女を近くの港に行かせる。ホテルの前に1台の車が着き~」から「~女子大生は知っている人です、と答える。」までが一気にズームと室内から窓を越えて外に出るトラック・フォーワード、ホテルの窓を振り向くターン・バックによる長回しの1カットで撮られる)、本作のどこにケチがつくような点があるだろうか。『欲望』『砂丘』のように派手な内容ではなく『情事』~『赤い砂漠』の頃のように抑制された作風に戻ったが、ニコルソンとシュナイダーも風貌・演技ともに本作の意図を体現してむしろこのキャスティングは成功しており、違和感を感じる評者は他作品のニコルソンやシュナイダーのイメージを求めているからにすぎない。また同じ抑制でも『欲望』『砂丘』を通ってきただけドラマが動的で、『さすらい』以来のロード・ムーヴィーになっており(『砂丘』はザブリスキー・ポイントへの到達だけなのでロード・ムーヴィーとは言えない)、消極的な選択肢に積極的に向かう主人公とその死(『さすらい』は自殺とも事故ともつかない転落死、本作は明らかに暗殺だが)でも『さすらい』に似ている。『さすらい』では主人公の妻は主人公の消息を追わず、放浪先で出会う女たちは本作では女子大生一人に統合されているが。『さすらい』がアメリカ人俳優スティーヴ・コクランを主人公に、行きずりの女(の一人)にイギリス人女優ドリアン・グレイを起用していたのを思えば本作のニコルソンとシュナイダーの起用も唐突ではなく、『さすらい』に較べても本作は同等以上の成功作だろう。時流に乗った作品ではなかったことが酷評を招いた不運な一作だが、英語映画三部作はそれぞれが全力を出しきった作品で、『情事』『夜』『太陽はひとりぼっち』の三部作と匹敵する。'60年~'62年に渡る『情事』三部作の後で1964年の『赤い砂漠』にはやや弛緩が感じられたのを思うと、1966年の『欲望』から1975年の『さすらいの二人』まで足かけ10年かかった英語映画三部作は健闘を讃えられこそすれ安易に批判して済まされるようなものではなく、現在の眼からは時流とは別に観直されるに足る作品だと思う。

●9月14日(木)
『ある女の存在証明』Identification of a Woman (Identificazione di una donna) (イタリア/A.マクリ&G.ノッチェラ・プロダクヅィオーネ'82)*123min, Eastmancolor; 日本公開昭和61年(1986年)6月

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カンヌ国際映画祭35周年記念賞受賞。テレビ・ムーヴィー『オバヴァルトの謎』'80(モニカ・ヴィッティ主演、ジャン・コクトー『双頭の鷲』'48のリメイク)を挟んで長いブランクの製作になった長編劇映画第13作。本作も製作者多数の体制をカルロ・ポンティがまとめている。原案はトニーノ・グエッラでアントニオーニとの共同脚本でイタリア語映画に戻った(一部英語)。撮影はカルロ・ディ・パルマ、音楽はジョン・フォックス(元ウルトラヴォックス)が担当、フォックス所属のヴァージン・レーベルのOMD、ジャパンなどの楽曲も使用。映画監督ニコロ(トマス・ミリアン)は、妻と別れ一人、ローマにやって来る。ニコロは次作の構想がまとまらないまま空想と現実生活を混同している。ニコロはアパルトマンの部屋の壁に貼られた写真から映画の中心キャラクターになる女性のイメージを見つけようとするが、一向にに見つからない。ある日を境にニコロの周囲に、いやがらせが続いて起こる。ニコロは貴族のマーヴィ(ダニエラ・シルヴェリオ)という美しい女性と愛し合っている(会話中の回想に出会いのフラッシュ・バックが挿入される)が、脅迫はマーヴィの事情に原因があるらしく、やがてマーヴィは説明もなくニコロの許を去ってしまう。やがてニコロはブルジョワ階級出身で前衛演劇のダンサーの女イーダ(クリスティーヌ・ボワッソン)と知り合う。束縛を嫌うイーダはローマ郊外の家で自由を楽しんでいる。ニコロはイーダとヴェネチア旅行に出る。旅先のホテルでイダは過去の男との妊娠を告げて去る。ローマに帰ったニコロは、結局二人の女を失っている自分を知る。ニコロの想像力は次第に広がり、宇宙のエネルギーの解明に太陽の中心に突入する宇宙船のイメージが浮かぶ。

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 あらすじにすると本作はかつてないほど簡明なストーリーしかなく、プロットと言えるほどの起伏もない。主人公の映画監督が映画の冒頭でゼロ地点にいるとすれば映画の最後でもゼロ地点で終わる。'80年代になってアントニオーニ的な作風に転じ『光年のかなた』'80や『白い町で』'83、『幻の女』『わが心の炎』'87など低調な作品を連発したアラン・タネール作品にも近いし、『情事』以降(『さすらいの二人』のみ例外)トニーノ・グエッラと組んできた脚本作品では最低レベルの脚本だろう。グエッラ脚本の'80年代映画といえばタルコフスキーの『ノスタルジア』'83、フェリーニの『そして船は行く』'83と『ジンジャーとフレッド』'86、フランチェスコ・ロージの『カルメン』'84と『予告された殺人の記録』'87、アンゲロプロスの『シテール島への船出』'84、『蜂の旅人』と『霧の中の風景』'88、タヴィアーニ兄弟の『カオス・シチリア物語』'84と『グッドモーニング・バビロン!』'87などがあるが、『ノスタルジア』と『ジンジャーとフレッド』くらいしか佳作はないのではないか。タヴィアーニ兄弟作品でも『カオス~』は良かったが『~バビロン!』ほどひどい映画は『ニュー・シネマ・パラダイス』くらいしか知らない。『情事』以降のアントニオーニとの仕事でも良かったのは映画がシナリオに依存していない部分ではないか。特に'80年代のグエッラ脚本は映画監督もしくは映画製作が主役・題材になっている場合がひどい。『ジンジャーとフレッド』はテレビのヴァラエティ番組の舞台裏コメディだったから唯一上手くいった。『シテール島への船出』など映画監督の登場が完全に裏目に出ている。『グッドモーニング・バビロン!』は言うに及ばず、あれほどデタラメでグリフィスを貶めた映画はない。そんなわけで悪いところはみんなグエッラのせいだとして、今回アントニオーニも脇が甘い。テレビ映画は1本あったが劇場用映画は前作から7年も空いてしまってカルロ・ポンティのスポンサー集めも散々苦労することになったらしい。音楽は『欲望』ではハービー・ハンコックヤードバーズ、『砂丘』ではピンク・フロイドを起用して十分成果を上げたので今回はジョン・フォックス、誰が推挙したかは知らないがここまではともかく、第1作から前作『さすらいの二人』までの12作ひたすら音楽の使用にはストイックだったアントニオーニが、ついにベタに映画音楽然としたシンセサイザー音楽をBGMに垂れ流すようになってしまった。あれほど無音と現実音から緊張を生み出し、ごく僅かな音楽使用で観客を金縛りにさせてきたセンスはどこに行ってしまったのか、と思うとこれは多数の模倣作を生んだフェリーニの『81/2』のように「『映画を撮れない映画監督』を描いた映画」ではなく「『<映画を撮れない映画監督>を描いた映画』を撮れない映画監督が撮った映画」という無茶苦茶なことになっている映画なのに気づく。つまりアントニオーニは今回本当に何のアイディアも浮かばず、グエッラとの共同脚本までは仕上げたが演出で肉づけしていく作業にまったく自信が持てなくなった。例えば貴族の女性と愛人関係にある主人公の映画監督が受ける嫌がらせは最初ビストロへの呼び出し状が届いて「あんたに忠告しますよ」「何のことだ」「忠告ってことですよ」と慇懃無礼なヤクザ(たぶん)と問答し、そのうち産婦人科の開業医をしている主人公の姉が出向先の総合病院の契約を切られてヤクザの圧力がかかったのか、と主人公はショックを受けるのだが、第1長編『愛と殺意』'50からこれまで一度も切り返しショットを使ったことがないアントニオーニがビストロでの会話シーンであっけなくありふれた切り返しショットでやりとりを進めている。音楽をベタに流さない、ありふれた切り返しショットは使わないのは影響関係が生じる前からベルイマンとアントニオーニに共通した指向性で、ベルイマンの場合は音楽家の登場シーンを作り作中の現実音として音楽を使う、鏡や窓ガラスを使ってカットを割らずに切り返しショットの効果を出す、といった手法だったがアントニオーニの場合は音楽は一種のオブジェとしてシークエンスの切り替えタイトル(オープニングやエンディングを含め)代わりに使う、人物同士の視線が交わるショットを排除して常に一方方向の視線からのみで切り返しショットの不成立を暗示する、など似て非なる発想によるものだった。つまりベルイマンは音楽や映像のモンタージュ技法をなるべく排除しようとしているのだが、アントニオーニは音楽や映像のモンタージュを使う時は作為性を隠さない。ベルイマンが技法について意識的である時にアントニオーニは技法については常に自覚的ですらあったのだが、迷い自体を描こうとした本作でアントニオーニは本当に迷ってしまい、30年以上も禁じ手にしてきた映画音楽のBGM的使用、やる必要もない切り返しショットをあえてやってしまった。本作完成後アントニオーニは脳卒中から言語障害と右半身不随で車椅子生活になり、それでも次作の構想を立ててまず原作となる短編小説集を執筆出版し'80年代後半からカルロ・ポンティがスポンサー探しのために企画を公表するも、アントニオーニの年齢と健康状態では映画の完成が危ぶまれるため現役監督の補佐(共同監督)が条件となって企画は暗礁に乗り上げかける。本作の仕上げの段階で失敗作を自覚し、すでに次回作の構想に入っていただろうアントニオーニが、明らさまに明快な心象風景として太陽に突入する宇宙船のイマジネーションで映画を締めくくったのはあまりに唐突で、ひょっとしたらアントニオーニの影響が明白な公道レース映画で前年の『砂丘』に匹敵するディザスター・ムーヴィーになった『断絶』(アメリカ'71, モンテ・ヘルマン)のレース中のジェームズ・テイラーを映したフィルムが燃え上がるラスト・カットがアントニオーニの記憶にあったかもしれず、観たことはあるが忘れていたか、はたまた偶然の暗合か、太陽の中心・宇宙創生の秘密と言いながらどう観ても恒星の引力に吸い込まれながら燃えつきて行く隕石のようにしか見えない不吉なラスト・カットで、映画全体が蒼ざめた老衰感漂う影の薄い、極端に稀薄な印象を残す作品になっている。錆つきるよりも燃えつきる方がいい、とはニール・ヤングの曲の歌詞だが、本作は燃えつきようとして擦り切れてしまったような作品に見える。ここまでが限界ならばそれも仕方ないじゃないか、という気にもさせられてしまう。全力を出そうとしたが出なかった、それも全力には違いないのではないか。

●9月15日(金)
『愛のめぐりあい』Beyond the Clouds (Al di la delle nuvole) with Wim Wenders (イタリア=ドイツ=フランス/P.カルカッソーネ&S.チャルガジェフ・プロダクヅィオーネ'95)*105min, Eastmancolor; 日本公開平成8年(1996年)8月

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・前作『ある女の存在証明』完成後脳卒中で倒れ、言語障害と右半身不随で再起が絶望視されていたが、ヨーロッパ映画賞1993年度生涯功労賞受賞を受けて、ヴィム・ヴェンダースマーティン・スコセッシらが発起人になったスポンサー探しがヴェンダースの共同監督を条件に実現した長編劇映画第14作にして遺作長編となった作品。95年ヴェネチア映画祭国際批評家連盟賞受賞。登場人物と舞台が多彩なのでイタリア語、フランス語、ドイツ語、英語の4か国語映画になっている。アントニオーニの短編小説集『テヴェレ河のボーリング』(83年セッテンブリーニ・メストレ文学賞受賞)から4編の短編小説を原作にアントニオーニ、トニーノ・グエッラヴィム・ヴェンダースの共同脚本。撮影はアントニオーニ演出パートがアルフィオ・コンチーニ、ヴェンダースのパートがロビー・ミューラー。音楽はルチオ・ダラ、ローラン・プチガン、ヴァン・モリソンU2ブライアン・イーノ。短編4編のオムニバス形式だがタイトルによる区切りはなく(タイトルはDVDのチャプターに便宜上原作小説からつけられたもの)、ジョン・マルコヴィッチ演じる映画監督の映画構想の旅を狂言廻しに(それら間奏パートはヴェンダースが監督)連続して続いていく長編になっている。雲のなかを飛行機で旅する映画監督の私(ジョン・マルコヴィッチ)。作品を完成した疲労の中から次の映画のアイディアが生まれる。霧の立ち込めるフェラーラの街へ。<第1話/フェラーラ、ありえない恋の物語>水力技師のシルヴァノ(キム・ロッシ=スチュアート)は出張先の霧の村でカルメンという女(イネス・サストル)に出会う。二人は同じ宿に泊まり、翌日散歩の途中に接吻を交わす。夜、二人はお互いを求めつつも別々の部屋で眠る。翌朝彼が目覚めると、彼女はもう旅立っていた。数年後、二人はフェラーラの映画館で再会し彼女の家に行く。二人は裸で向き合うが、彼の手も唇も彼女の肌や唇に近づきながら触れることはできない。シルヴァノは憮然と立ち上がり、そのまま去る。彼はその後もずっと、一度も自分のものにしなかった彼女を愛し続ける。<第2話/ポルトフィーノ、女と犯罪>冬のポルトフィーノの路地で、私は若い女性(ソフィー・マルソー)の後を尾行した。海辺の閑散としたカフェで読書中に彼女が話しかけてきた。自分は父親を12回刺して殺害し、裁判で無罪になったという。その午後は彼女の部屋で激しく抱き合った。なぜ父を殺したのか彼女は覚えていない。私はそれよりも12回という事実に頭が一杯になる。映画ではどうしても3、4回にしてしまうだろう。その方が現実的という妥協から……。<第3話/パリ、私を探さないで>パリのカフェでイタリア出身の娘(キアラ・カゼッリ)がパリ在住のアメリカ人の男(ピーター・ウェラー)に「探検をあまり急ぐと魂が遅れる」話を話しかけてきてから3年、男の妻(ファニー・アルダン)は夫の不倫に耐えてきた。自暴自棄でアルコールに溺れる妻を、もう女とは別れると約束しながら男は抱く。だが別れを告げに来たはずの女のアパートで、男はまた彼女の肉体を貪る。一方、パリ郊外のモダンなアパートに男(ジャン・レノ)が出張から帰ると家具も妻の姿もない。電話が鳴り、「私を探さないで」とだけ妻が言って切れた。そこへ例の夫に裏切られた妻がやって来る。男の妻から部屋を買い取る約束になっているという。二人は互いの境遇を知り、同情と奇妙な共感が芽生える。そこに彼女の夫から電話が鳴る。女は「私を探さないで」とだけ告げて受話器を置く。一方、南仏を走る列車の中の私。同じコンパートメントに同席した婦人(エンリカ・アントニオーニ)の携帯電話が鳴る。女は「私を探さないで」とだけ言って切る。<幕間>エクス・アン・プロヴァンス郊外の丘で日曜画家(マルチェロ・マストロヤンニ)がセザンヌの『聖ヴィクトワール山』を真似て絵を描いている。日曜画家は「模写することで精神がわかるんだ」と説明するが、女友達(ジャンヌ・モロー)はコピー文化にかこつけて彼をからかう。私はその彼女が営むホテルに泊まっている。フロントで青年(ヴァンサン・ベレーズ)が向かいの建築研究所の住所を聞いて入って行く。しばらくして、そこから青年が青いコートの娘(イレーヌ・ジャコブ)を追うように出てくる。私は二人の後ろ姿を見つめる。<第4話/エクス・アン・プロヴァンス、死んだ瞬間(この泥の肉体)>青年は娘と一緒に急ぎ足で歩きながらしきりと話かける。彼女は口数は少ないが微笑みをたたえている。彼は誰かに恋しているかと訊ね、彼女はそうだと答える。だからそんな満足した顔をしているのか、と彼。彼女は教会のミサに行くところだった。祈る彼女の横顔に見とれながら、青年はいつしか眠ってしまう。目を覚ますとミサは終わっている。外に出ると彼女は広場の噴水の側にしゃがみ、路面に彫られた花に触れている。雨が降りだし彼は彼女を家まで送っていった。彼女は足を滑らして転び、朗らかに笑った。別れ際、明日も会えるねと聞くと、彼女は「明日、修道院に入るの」と答える。<エピローグ>雨の中を歩いていく青年の後ろ姿を、私は見つめる。ホテルには様々な人が泊まり、世界には様々な人が生きている(ホテルの窓を1ショットでクレーン撮影された長回しのカット、登場人物たち全員が同じホテルの別々の部屋の窓の中にいるのが映し出される)。その人間たちの表面を見つめることから、新しい物語、新しい映像、新しい真実を私は紡ぎだすだろう、と主人公「私」は呟く。

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 映画が始まると前作『ある女の存在証明』と一見大差ないのに、ああアントニオーニだ、これがアントニオーニの最新作なんだと胸に迫ってくる。モノローグもベタなら音楽は前作以上にベタで、第4話以外の1~3話にはいわゆる「濡れ場」があり、『赤い砂漠』のように苦痛でもなく『砂丘』のようにあっけらかんとしてでもなく、いかにもヨーロッパの現代映画の官能シーンというようなありふれた映像がポルノ映画然としたムード満点のメロウな音楽をBGMに観せつけられるのだが、これが本作ではなんだかしみじみしてきてしまうのだ。マルコヴィッチ演じる映画監督の取材旅行という体裁で作中作でもあり作中の映画監督のイメージした新作映画の断片とも言えるエピソードがオムニバス的に展開していくわけだが、どのエピソードも十分に語られ完結しているわけではなくエスキス程度というか、創作メモのような未完成なもの、作品以前のものを放り込んで並べたような作りになっている。つまり本作に含まれる各エピソードを精製させたものがこれまでのアントニオーニ作品であり、あからさまなセックスやベタな音楽、わかりやすいモンタージュなどを削ぎ落として裏側の見えない現実のすべすべの表面だけしか見せない、林檎の皮剥きだけして皮だけ残して中味は捨ててしまうというか、そうした現実の剥製化作業がデビュー作以来のアントニオーニ作品だった。それが前作でうまくいかず部分的に一般的な商業映画らしい演出を解禁したがやはりうまくいかなかった。自分の息子ほどの世代の共同監督ヴェンダースに枠組みを作ってもらい、キャストはほとんど(マストロヤンニとモローを除いて)孫ほどの世代で、おそらくもうこれが遺作となるのは確実という最後の機会でアントニオーニはもう剥製作りは共同監督のヴェンダースの解釈と観客の想像力に委せることにした。官能的なセックスも描くしカメラ・ワークも凝らないし音楽もベタに流す。どのエピソードも長編映画冒頭の1リール程度でいわば予告編ばかり並べたような作りだが、つなぎになる旅する映画監督のパートはヴェンダースがやってくれる。ハリウッド映画ではプロデューサーによる監督交代で製作途中の作品を後任の監督が完成させた例など掃いて捨てるほどあるが、親子二世代監督の共同監督作品でアイディアは合同ながら親は未完成エピソードの提供のみに専念、息子が統一した長編映画に追加撮影と編集で完成、というプロセスで出来上がった映画などそうそう見当たらないだろう。完全にオムニバス映画でオープニング=プロローグとエンディング=エピローグを配した例はアントニオーニも参加の『街の恋』のような例があるが、『愛のめぐりあい』はあくまでアントニオーニという映画作家の個人映画にヴェンダースが協力した形になっている。エピローグでホテルの窓から窓へクレーン撮影していき全主要登場人物が同じホテルの別々の部屋にいるのを1カットで観せる長回しのシークエンスは体力的に考えてもヴェンダースの監督パートだろうが(インフラの整ったかつてのハリウッドならともかく、このシークエンスのためだけのこのセットにどれだけ手間と費用と撮影時間がかかっただろうか)アントニオーニにしては華麗すぎるからアイディアはグエッラかヴェンダースから出たとしてもアントニオーニ映画のラスト・シークエンスにはとっておきの映像を、という熱意と執念からアントニオーニの了解のもとに生み出されたのは間違いない。ヴェンダース寄りに見てもアントニオーニから提供された素材をヴェンダースがいかに仕上げたかという見所があり、ヴェンダース作品として観ても納得のいくものになっている。ヴェンダースエリック・ロメールの映画論集『美の味わい』(原著1984年刊)を読んでいないはずはないので、同書のロメールの「アントニオーニの映画は実存主義映画で嫌いだ。最近ではヴェンダースの映画もアントニオーニの流れを汲む実存主義映画だ」との発言を見落としているわけはなく、だとすればなおさらヴェンダースには男の意地を賭けた共同監督作業だったに違いない。これがアントニオーニの長編劇映画の遺作と思うとアントニオーニの監督パートもほとんど助監督やカメラマンが率先して撮影したんだろうなと思うくらいかつてのアントニオーニの抵抗感のある映像感覚は霧消してしまっているが、もうそんなことにもこだわらなくなっていたのだろう。最後の作品はこれで良かったとも思うし、アントニオーニが本当に壊れた『ある女の存在証明』こそが遺作で、本作は未完成作品をヴェンダースが完成させたのであってエピローグみたいなものとも言える。そういう終わり方があってもいい。