人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年6月6日~6月8日/フリッツ・ラング(1890-1976)のアメリカ映画(8)

 今回でドイツ出身の映画監督フリッツ・ラングがハリウッドに招聘されて製作した作品の紹介は終わりです。1936年の『激怒』から1956年の『条理ある疑いの彼方に』まで22作ですから順調なペースに見えますが実際は2年間干されていた時期もあり、また幸か不幸かラングは特定の映画会社と長期の監督契約を結ばなかったので(多くは単発、せいぜい2作契約)、ジャンルは犯罪サスペンス、スパイ・スリラー、西部劇、戦争映画、メロドラマ、ファミリー向けアドベンチャー映画と多彩に渡ることになり、代表作を上げるとしても各ジャンルから選ばなければ作風の全貌がつかめないややこしい映画監督になりましたが、ラングはドイツで監督デビューしたサイレント時代の1919年から1作ごとに違うジャンルの作品を撮り続けてきましたし、サイレント時代はもちろんハリウッド黄金時代と呼ばれる1930年代~1950年代半ばまでの映画監督は得手不得手こそあれヒットしそうな企画なら何でも撮らされたのです。西部劇のジョン・フォード、サスペンス映画のヒッチコックなどは別格のスペシャリストと認められましたが、頑として自分の作風を貫こうとしたシュトロハイム、スタンバーグらは十分以上のヒット実績があっても監督を干されることになりました。ラングはその中間といったところでどんなジャンルの映画を撮ってもラングなのですが、似た位置にあったラオール・ウォルシュハワード・ホークスが題材を自分の作風に引き寄せる手腕に長けていたのに対して、ドイツ時代にすでに大家だったラングはアメリカ映画そのものを学び直さねばならず、どちらかといえばジャンルに合わせて自分の作風を適合させた趣きが強いのです。渡米第1作『激怒』Furyはタイトル通りヒトラー政権からの亡命者ラングによる怒りに満ちたアメリカ社会観察のレポートでした。ラングは逝去までロサンゼルスに永住しますが、映画監督からの引退は戦後西ドイツからの依頼を受けて出向した作品になります。今回ご紹介する3作がラングのハリウッド映画では最後になった作品ですが、映画よりポスターの方が秀逸だったりするのです。

●6月6日(火)
『ムーンフリート』Moonfleet (米MGM'55)*87mins, Eastmancolor

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・MGMの吼えるライオンのTMに続いて海岸の岩に打ち寄せる波、デーンと左右全面に広がるCINEMASCOPEの煽り文句と当時最新技術のEastmancolorの表示に続いてクレジットが流れ(また音楽はミクロス・ローザだったりする)、本編は「200年前、ドーセットシャーの荒涼たる原野は--」と字幕で始まる。200年前っていつだよと思うが主演のファーリー・グレンジャーの役がイギリスの盗賊密輸団の親玉の貴族(イギリスの世襲貴族など軍功を上げたか海賊稼業で国益をもたらしたか、いずれにせよロクなものではないが)なので18世紀中葉だろうと見当をつけていると、映画中に1754年づけの文書が出てくる。本作は1955年の映画だからそれに合わせてあるのだろう、と原作小説を調べると1898年のイギリス小説らしい。お話はまるっきりスティーヴンソンの『宝島』1883タイプの少年を表向き主人公にした冒険もので、母を亡くした純真な少年が母の遺言に従って母の結婚前の恋人だった盗賊貴族を頼りに訪ねていくのが発端。いくら他に身寄りがないからといってこんな遺言を残す母も母だが少年も少年で、盗賊貴族が迷惑がって遠まわしにもそのものズバリにも「何でおれがお前の面倒見なきゃいけない?」と何度言っても「母からあなたを頼りなさい、と遺言されたんです」の一点張りでまるで引かない。ひとまず数日宿を貸し、こりゃ諦めないなと悟った貴族は手下に命じて寝込みを襲わせ孤児院に連れて行かせようとするが上手く脱出して戻ってきてしまうばかりか、盗賊密輸団がアジトにしている地下納骨洞に迷いこんでしまい、貴族の正体を知る(が母が保証した紳士なので全然動じない)とともに祖父の残したメモいりロケットを見つける。聖書の一節を書いたそのメモは不自然な改行がしてあり、解読するとある地点(離島の涸れ井戸の中の壁面)に秘宝が隠してあるのがわかった。盗賊貴族はパトロンである伯爵(ジョージ・サンダース)夫妻に船の調達を頼み、パトロン夫妻は監視のために自分たちの同行を条件に、また盗賊貴族は少年の同行(実際井戸探索は桶の乗り手と綱の引き手の二人組でないとできない)を条件に宝のありかの島に向かうが……と、ここまで他愛ないアドベンチャー映画は『蜘蛛・第1部/黄金の湖』『第2部/ダイヤの船』以来だが、『蜘蛛』二部作に較べてすら本作は全年齢対象というかはっきりとハリウッド映画では'30年代から確立されたファミリー向けアドベンチャー映画の体裁になっている。さらにシネマスコープイーストマンカラー、全編が大セットという大作なのでMGMも製作費を張り込み、興行収入は全米とカナダで56万7000ドル、海外では100万7000ドルの収益をあげたが、それでも120万3000ドルの赤字だったというから製作費は277万7000ドルの超大作クラスだったことになる。フランスではなぜかウケて1960年の初公開時には91万7219人の観客動員数を記録。これがどれほどの大ヒットかというと不入りの場合はジャック・ロジェの『アデュー・フィリピーヌ』'62が観客動員1,800人、ゴダールの『カラビニエ』'63が観客動員1,200人だったのが当時のフランスだったそうだから相当なもので、いつのアンケートか資料にないが「カイエ・デュ・シネマ」誌の名作映画ベスト100で32位にランクされたらしい。感想を一言で言うなら、シネスコ・カラーにもかかわらずスタンダード・B/W(with Color Tinted)のサイレント映画を観ているみたいなのだ。こういうイギリス時代劇はジョン・クロムウェルなら抜群に上手いが(クロムウェルはラングより3歳年上なのに演劇畑から映画監督に起用されたのはトーキー以降の人だった)、ラングはシナリオを読んで「あーこりゃサイレントだな」と思ったに違いない。『復讐は俺に任せろ』を「西部劇じゃん」と見抜いた時と同じだが、『復讐は俺に~』には良い結果が出たようには『ムーンフリート』はうまくいっていない。グレンジャーも名優サンダースもキャスティング的にはばっちりなのだがサイレント的演出に抑えつけられて、そのくせ映像的にはシネマスコープのカラー映像を無駄にすまいとなるべくカットを割らず、ロングの構図で人物を極力フルショットで撮っているから芝居と撮影がうまく噛み合っていない。子供が楽しむには話が重く、大人が楽しむには映像が虚無的すぎる。大作感だけが巨匠ラングの過去の反映として静かに観守りたい気にさせる。しかし低予算西部劇の方が良い作品になっていたとは皮肉なこともあったものだと感じる。

●6月7日(水)
『口紅殺人事件』While the City Sleeps (米RKO'56)*100mins, B/W

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・1960年のインタビューでラングが好まない自作に上げたのは『ドクトル・マブゼ』『スピオーネ』、それから結末の竜頭蛇尾で『メトロポリス』、最近作では『仕掛けられた罠』。好きな自作は『M』『激怒』『緋色の街/スカーレット・ストリート』『飾窓の女』そして本作だった。これらが好きなのは観客のエモーションに訴える社会的コメンタリーを込めた作品だからという。一人暮らしの若い女性を次々に絞殺、殺人現場に口紅で挑発的メッセージを書き残す連続殺人事件が起こり、ある大新聞社で就任したばかりの青年世襲社長が4部門の部長職者に事件解決に至るスクープを勝ち得た部長を新設の専務職に任命する、と特ダネを競わせる。映画は最初から犯人側と新聞社側の両方を描いているので謎解きではなく捕まるか逃すかの過程を観せる犯罪サスペンスになっている。ダナ・アンドリュース演じる敏腕記者は他部門の部長と組んで犯人像のプロファイリングを堂々とテレビで公開し、わざと次の犯行を煽って現場を押さえようという手段を取り、ジョージ・サンダース演じるアンドリュースの部署本来の部長は愛人(アイダ・ルピノ)を差し向けてそれを妨害しようとし、敏腕記者の恋人と部長の愛人が意図せずして犯人の標的となり……と新聞社関係者の思惑が絡み合うスクープ合戦の方が映画のテーマになっている。犯人の犯行動機が一切問題にされないのも気前がいいが(若い女を狙う連続殺人に動機など不要、というわけ)、一見『M』や『激怒』に似て似つかないのは登場人物のマリオネット化が行き過ぎている点だろう。ここまでくるともはや類型ですらなく、映画の物語進行のための装置のそのまた部品以下になっている。前作『ムーンフリート』がサイレント的なのもラングのサイレント作品は人物がみんなマリオネットだからなのだが、サイレント作品や『ムーンフリート』みたいな設定ではぎりぎりそれも許されるし効果を上げた作品もある。ロビンソン&ベネット二部作の『飾窓の女』『緋色の街/スカーレット・ストリート』もマリオネットぎりぎりだがプロットとストーリーを極度にミニマム化したためキャラクターの強烈さが溢れ出て成功した。本作のように多元描写で人間関係の交錯を描くのをラングはそもそも得意ではなく、最初期の『一人の女と四人の男』'21がそうした試みの最初の作品だがラングの成功した群像劇は『M』と3本の西部劇しかないのではなかろうか。巨匠格の監督でここまで群像劇の不得手な作者も珍しく、ラングとしては本作は『M』『激怒』に立ち返った力作だったから満足がいっただろうが、観客としてはこんなに薄っぺらなキャラクター以前の性格造型のマリオネット劇を観ても薄ら寒いだけで、感情移入や共感どころか好感を持てる登場人物が一人もいない。ラングもおそらく無理をしていて、がりがりの利己的なアメリカ人社会を肯定しようとして無意識に嫌悪がにじみ出ている。その嫌悪感は次作でますます露骨になってしまうのだった。

6月8日(木)
●『条理ある疑いの彼方に』Beyond a Reasonable Doubt (米RKO'56)*80mins, B/W

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・ある大新聞社社長が娘(ジョーン・フォンテイン)の婚約者の青年作家(ダナ・アンドリュース)と死刑執行を見学に行き、死刑反対キャンペーンを画策するアイディアを思いつく。容疑者不確定な事件を取り上げて青年作家が犯人であるような偽の証拠を捏造して死刑判決まで隠しておき、執行直前に偽捏造証拠であることを明かして法と裁判、死刑制度の危険性をアピールしようというもので、青年作家もそのアイディアに乗る。タイミング良くナイトクラブのダンサーの絞殺事件が起こり、社長と青年作家は証拠を捏造して青年作家は逮捕され死刑判決を受けるが、証拠捏造を明かしてくれるはずの社長は交通事故で急死してしまう。青年作家はヒロインに事情を打ち明け、社長が何か証拠捏造を明かす文書類を残していないか必死で探すが……と、ピーター・ハイアムズの『ダウト~偽りの代償~』2009は本作のリメイクだそうで(観ていない)、シナリオ自体は皮肉で良く出来ている。ちなみに『ダウト~』は設定と原題だけ借りて展開や結末は全然違うそうなのだが、ラング版のオリジナルの本作はすごーく嫌な後味の結末になるのだ。前作はそれでも利己主義的なアメリ現代社会の肯定、または観察なり傍観でもいいが、作品を貫くモラルの一貫性ではとりあえず矛盾や破綻はなかった。だがだが、本作はそこら辺が観客に揺さぶりをかけるというか、原題直訳の邦題は難解だが裁判用語の決まり文句で「根拠のある容疑にもかかわらず」ということになるらしい。つまり「疑わしきは罰せず」という法の精神なのだが、これの反対は「疑わしきは罰せよ」となってリンチ肯定主義にまで極まる。これ以上書くとネタバレになるが、冒頭に書いたあらすじには実は叙述トリックが仕掛けてある、と言えば普通は「どこが?」となるだろう。そういうふうに観客の予想と心証を踏みにじる実に不愉快な映画になっている。脚本家やプロデューサー、監督のラングもそれに気づいていないわけはなく、そういう方向でショッキングな社会批判的サスペンス・エンタテインメントにしようとしたのだろうが、このブツッと切れたようなエンディングはラングが編集権を与えられなかったというよりラング本人が投げ出してしまったのではないか、と思わせられるくらいやる気がない終わり方になっている。社長の車が交差点の衝突事故でどっかーん、まではいいのだが、アンドリュースがフォンテインに打ち明けて以降の展開はぐだぐだでただただシナリオを追って映像化しているだけのような張りのなさで、ヒロインを美しく観せようという気すらないかのように見える。こう書くと壊滅的に駄目な映画みたいだが、こんな具合に荒廃したラング映画はこれまでなかったので『口紅殺人事件』の次がこれ、しかもハリウッドでの監督作はこれで打ち止め、というのが感無量というか、66歳でこれを作ったのは凄まじい厭世観を感じさせる。この後ラングは戦後西ドイツから独仏伊合作の国際映画の依頼を受け『大いなる神秘』二部作と『怪人マブゼ博士』を監督し、それが70歳の最後の監督作品になるが、ある意味堂々とサイレント回帰したドイツ復帰作でキャリアを締めくくることができて良かった。本作が遺作だったら本当に映画が嫌になって辞めたみたいで、いくら何でもそれでは悲しすぎるではないか。