人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(13); 北村透谷の晩年詩群(iii)

北村透谷(門太郎)・明治元年(1868年)12月29日生~明治27年(1894年)5月16日逝去(縊死自殺、享年25歳)。明治16年頃の肖像写真。

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 このシリーズの前2回で北村透谷の生前単行本未収録詩編からは、

(A)*歿後発見された『楚囚之詩』(明治22年4月)~『蓬莱曲』(明治24年5月)時代の初期詩編
・「夢中の夢」(遺稿断篇)
・「朝靄の歌」(日記/明治23年9月4日)
・「春駒」(遺稿断篇)
・「春は來ぬ」(日記/明治24年2月15日)

(B)*『蓬莱曲』刊行後の未発表詩編
・「地龍子」(日記/明治24年6月9日)

(C)*『蓬莱曲』刊行後の単発発表詩編(晩年詩群)
・「一點星」(「女學雜誌 第二九八號」明治25年1月2日)
・「孤飛蝶」(「女學生 夏期號外」明治25年8月22日)
・「ゆきだふれ」(「白表・女學雜誌 第三三二號」明治25年11月19日)
・「みどりご」(「平和 第八號」明治25年11月26日)
・「平家蟹」(「國民之友 第一七四號」明治25年12月3日)

 までをご紹介しました。(A)と(B)に属する5編はいずれも日記・遺稿中から拾い出された断片的なもので、いわば創作メモの段階です。透谷が生前単行本にまとめた詩作品は長編詩『楚囚之詩』と未完の長編劇詩『蓬莱曲』しかなく、しかも『楚囚之詩』は透谷自身によって未発売にされたので、「一點星」は詩人としての透谷の第2の処女作といえるものでした。日記では明治26年になっても大規模な連作長編劇詩の構想を捨てていない透谷ですが、実際は明治25年明治26年の透谷は語学教師(英語)と通訳の職務を兼ねながら毎週1編以上の批評や翻訳の発表に追われており、最晩年に当たる明治27年は前年末から兆候の現れた精神疾患で遺稿となった長編評伝『エマルソン』(歿後、島崎藤村ら「文學界」同人によって整理され出版)が書き継がれるのがやっとで、詩作も明治25年には「一點星」から「平家蟹」までの5編、明治26年には8編と異稿2編の10編(うち異稿2編を含む3編は歿後発表)、明治27年にはかろうじて1編「みゝずのうた」が書かれて歿後翌月に発表されます。明治25年作品中80行(4行4連×5段)の「ゆきだふれ」と並んで110行(5行22連)の「みゝずのうた」は透谷晩年詩群中の長詩に数えられるもので、この2編がともに零落の彷徨の身を描いて唯一の著書『新體梅花詩集』(明治24年3月刊)の後「ものぐるい」(同年8月)1編のみの発表で明治24年を限りに消息を絶った狂詩人・中西梅花(1866-1898)の影響下にあるのは両者にあまりに強い関連性があるだけに痛ましく、梅花の失踪と入れ替わりのように再デビューしたのが透谷だったのは作り話のように出来すぎていますが、事実そうだったのです。もし『新體梅花詩集』の後も梅花が健在で順調な新作発表を続けていたとしたら透谷が「ゆきだふれ」や「みゝずのうた」を書くことはなかったかもしれません。どちらも梅花を模倣しようとしたのではなく透谷自身の落魄感をこめた自発的な創作であり、梅花の「九十九の姆」や「出放題」の完全な文語自由詩型よりも一定の連(スタンザ)を設けて形式的な安定感と内容の整理を図った点では一歩も二歩も進めたものですが、透谷のジャーナリズムへの登場は梅花の文筆活動の終焉と他に類を見ないほど交差しており、これを上回るのは同年生まれの石川啄木萩原朔太郎の場合くらいで、早熟な啄木の夭逝した翌年から奥手の萩原は詩作を始めます。ただし啄木と萩原では啄木が夭逝せずとも萩原は新進詩人としてデビューし得たでしょうが、梅花が現役だとしたら透谷は梅花の作風と重なる部分を抑制せざるを得なかったかもしれないということが明治20年代の詩観では考えられます。

 つまり梅花や透谷が短い詩作活動を行った明治20年代には普遍的な「現代詩」の形式そのものが手さぐりの状態だったと思われるからで、島崎藤村の『若菜集』(明治30年)以降には『若菜集』的な抒情詩の形式が汎用可能なものとされたので没個性な「新体詩」が氾濫しても形式面の革新は棚上げにされ、それは今日の現代詩の形式概念にもなだらかに続いているのですが、『若菜集』は普遍的な抒情詩形式に到達した明治20年代詩の結論かといえば、そもそも梅花や透谷の世代の詩人らが「新体詩」に普遍的な形式があると考えていたかも疑問になります。『楚囚之詩』と同年夏にいち早く完成度の高い訳詩集『於母影』を出した森鴎外を中心とする同人グループでは西洋近代詩の形式に理解があったでしょうがそれはオリジナル原語の法則性に即したもので、日本語の創作詩とは一旦別のものになります。英語詩の五格律と脚韻構造はそのまま日本語の七五律(二三律)・頭韻性(本来の単語アクセントはほとんど頭韻に集中し、脚韻はめったにない)には移せず、西洋詩の構造は漢詩読み下し文には近いのですが日本語の日常言語は和文脈であり、西洋・中国言語の垂直性に対して日本語の「うた」は水平的に延びていくもので、この水平的性質は垂直的構文の漢・洋文脈が長い叙述にも意味の明晰さに耐え得るのに対して長ければ長いほど焦点が拡散してしまう限界があり、むしろ切り詰めた集中的な短詩に向いていたのが問題でした。結局日本語の詩は機能的には短歌(和歌)と俳句(俳諧)が理想的ということになり、伝統的な社交的機会詩だった和歌と俳諧を現代的な「短歌」と「俳句」にアップグレードする作業は正岡子規(1867-1902)が一手に引き受けます。現代詩の大詩人は自由詩系からではなく子規の愛弟子・高浜虚子と孫弟子・斎藤茂吉が叶えたと言ってもいいので(しかも英文学者の親友、夏目漱石に創作を焚きつけたのも子規と虚子でした)、自由詩は虚子と茂吉に匹敵する詩人を持ち得なかったのが問題をややこしくします。おそらく自由詩形式の不毛性に最初に気づいたのは鴎外で、鴎外の創作詩は意図的に偶成詩の体裁を装うことで危険を回避していました。鴎外の『うた日記』(明治40年)は明治37年日露戦争従軍時に書きためられた、短歌・俳句・漢詩・創作自由詩・訳詩など当時考え得るあらゆる詩型の作品を集めた、ひょっとしたら明治以降現在まで日本の詩の最大の詩集ですが、鴎外は詩をあくまで余技にとどめて全人格を賭ける冒険を避けていました。自由詩形式の危機に最初に直面した詩人は蒲原有明で、有明にとって詩は自己のすべてを賭けたものであり、それゆえに文語自由詩による発想を究めた代償として口語への転換がなし得ず、詩の潮流が文語詩から口語詩へ移るとともに急激に過去の詩人とされてしまったのです。有明の場合は思考言語の次元まで文語に徹したのが口語との互換性を阻害した例になりますが、有明の障害はむしろ文語による自由詩の形式的制約によるものとも言え、梅花や透谷もまた口語を作品には用いませんでした。梅花ははっきりと文学の口語化(言文一致運動)に反対しており、透谷も例外的に『楚囚之詩』の自序と挿絵解説を口語で書いている他は批評や翻訳はおろか日記・書簡に至るまで文語文です。

 しかし『楚囚之詩』や『新體梅花詩集』が文語による制約を受けているかというと、読者に印象づけられるのはこれらが文語詩でありながら限りなく口語的発想に近い直截性があり、なまじ文語であるためにかえって破壊的・反逆的な表現力を獲得している逆説的な効果です。これは『若菜集』以前の、どんな詩であれその形式は一回限りのものであり先に形式ありきの発想で書かれたものではない本質的な自由さから生まれたもので、この自由さこそが文体ではなく発想の面で梅花や透谷の詩を口語詩に近づけており、和歌的なコンパクトさを借りて詩の形式化を進めた藤村が登場した以降には明治20年代の詩が現代詩の前史に追いやられてしまった一因になっています。梅花や透谷は進みすぎていて精神的には大正改元後の口語詩以降の自由詩に近いでしょう。蒲原有明が進みすぎた結果その文語詩は文語と口語の分離が不可能なほど融和しており、文語脈を切り離して口語詩に向かうことはできない相談だったのと事情は似ています。問題は読者、そして多勢を占める詩の作者たちにありました。ここでも梅花が早々明治24年を限りに筆を折ることなく、透谷とともに明治25年明治26年にも健在であったら、と思わずにはいられません。その場合、透谷が梅花に遠慮しないではいられなかったと推測される点、すなわち梅花に示唆されて現れた影響が透谷の詩を読み得なかった梅花の側にはないので、梅花が乱暴に切り開く道を透谷が丁寧に均して歩く、という望ましい関係ができたかもしれません。しかし梅花は明治22年明治24年の足かけ3年、実質2年間の文筆活動のみで筆を折ったので、梅花が去った後に再デビューした透谷は孤立した詩作活動に耐えねばなりませんでした。孤立していたのは何も透谷ばかりではなく、梅花や透谷と前後してデビュー詩集を公けにしていた山田美妙(1868-1910)や宮崎湖処子(1864-1922)らもそうです。異なるのは、梅花と透谷の詩には『若菜集』とは違う方向に発展する日本の詩の可能性があったのではないかと思わせるだけの器量があり、美妙や湖処子らの詩には『若菜集』が出れば過去の遺物で済まされてしまう弱さがあった、ということです。こんなに簡単に片づけられるほど美妙や湖処子を平凡な詩人とするのは不当ですが、美妙は才に溺れるタイプの不運な才人で、湖処子は不遇なプロテスタント伝道師の生涯で辛酸を舐めた人でした。ですが彼らの詩には一語一語を心臓からつかみ出すような梅花の詩、透谷の詩にある迫真性がないのです。優れた詩はたとえ形式や内容に不備があってもそれ自体が新しい世界を創造してみせますが、美妙や湖処子の詩はすでにある世界に詩想を当てはめているにすぎません。これをいっそう容易にしてみせたのが『若菜集』による達成で、藤村自身には個人的な達成であっても後続の詩人たちには一種の規範として陸続と追従されることになります。しかし本来詩とはそれ自体が自律的に創造された世界を形成すべきもので、既成の規範をなぞったところから生まれてくるのではないはずです。

 透谷と梅花が未完成に終わりながら明治20年代のもっとも本質的なロマン派詩人であると認められるようになったのは、彼らが夭逝してから30年あまり経った昭和年代に入ってからのことでした。にもかかわらず透谷らが日本の詩に専門的な関心を持つ読者にしか読まれないのは、それが完成した詩ではなく「詩」のためのエスキス(試作)にとどまっているかのように見えるからです。完成した詩、という時日本の詩のモデルになるのは大なり小なり『若菜集』的なフォルムの整備された詩であって、蒲原有明や岩野泡鳴、石川啄木高村光太郎萩原朔太郎西脇順三郎金子光晴三好達治らは例外なく『若菜集』の桎梏と格闘してきたのですが、そして個々の詩人たちに関しては十分その成果を認めてもいいのですが、典型的な「詩」の概念までは覆すに至りませんでした。今回は明治26年前半に書かれた透谷の詩をご紹介しますが、これらは発表当時も現在でも詩としては未熟で完成度の低いものとされているのです。

島崎藤村編『透谷全集』大正11年(1922年)3月・春陽堂

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小田切秀雄編『明治文学全集29 北村透谷集』昭和51年(1976年)10月・筑摩書房

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 髑 髏 舞

うたゝねのかりのふしどにうまひして
    としつき経ぬる暗の中。
枕辺に立ちける石の重さをも
    物の数とも思はじな。
月なきもまた花なきも何かあらん、
    この墓中(おくつき)の安らかさ。
たもとには落つるしづくを払ねば、
    この身も溶くるしづくなり。
朽つる身ぞこのまゝにこそあるべけれ、
    ちなみきれたる浮世の塵。

めづらしや今宵は松の琴きこゆ、
    遠(をち)の水音も面白し。
深々と更けわたりたる真夜中に、
    鴉の鳴くはいぶかしや。
何にもあれわが故郷の光景(ありさま)を
    訪はゞいかにと心うごく。
ほられたる穴の浅きは幸なれや。
    墓にすゑたる石軽み。
いでや見むいかにかはれる世の態を、
    小笹踏分け歩みてむ。
世の中は秋の紅葉か花の春、
    いづれを問はぬ夢のうち。

暗なれや暗なれや実に春秋も
    あやめもわかぬ暗の世かな。
月もなく星も名残の空の間(ま)に、
    雲のうごくもめづらしや。
天(あめ)を衝く立樹にすがるつたかつら、
    うらみあり気に垂れさがり。
繁り生ふ蓬はかたみにからみあひ、
    毒のをろちを住ますらめ。
思ひ出るこゝぞむかしの藪なりし、
    いとまもつげでこのわが身。
あへなくも落つる樹の葉の連となり
    死出の旅路をいそぎける。

すさまじや雲を蹴て飛ぶいなづまの
    空に鬼神やつどふらむ。
寄せ来るひゞき怖ろし鳴雷(なるかみ)の
    何を怒りて騒ぐらむ。
鳴雷は髑髏厭ふて哮(たけ)るかや、
    どくろとてあざけり玉ひそよ。
昔はと語るもをしきことながら、
    今の髑髏もひとたびは。
百千(もゝち)の男なやませし今小町とは
    うたはれし身の果ぞとよ。
忘らるゝ身よりも忘るゝ人心、
    きのふの友はあらずかや。

人あらば近う寄れかし来れかし、
    むかしを忍ぶ人あらば。
天地に盈みつてふ精も近よれよ、
    見せむひとさし舞ふて見せむ。
舞ふよ髑髏めづらしや髑髏の舞、
    忘れはすまじ花小町。
高く跳ね軽く躍れば面影の、
    霓裳羽衣を舞ひをさめ。
かれし咽うるほはさんと渓の面(おも)、
    うつるすがたのあさましや。
はら/\と落つるは葉末の露ならで、
    花の髑髏のひとしづく。

うらめしや見る人なきもことはりぞ、
    昨日にかはれる今日の舞。
纏頭(てんとう)の山を成しける夢の跡、
    覚めて恥かし露の前。
この身のみ秋にはあらぬ野の末の
    いづれの花か散らざらむ。
うたてやなうきたる節の呉竹に、
    迷はせし世はわが迷ひ。
忘らるゝ身も何か恨みむ悟りては、
    雲の行来に気もいそぐ。
暫し待てやよ秋風よ肉なき身ぞ、
    月の出ぬ間まにいざ帰らむ。

(「文學界 第十七號」明治27年1893年5月30日・歿後発表)


 古 藤 菴 に 遠 寄 す

一輪花の咲けかしと、
   願ふ心は君の為め。
薄雲(はくうん)月を蔽ふなと、
   祈るこゝろは君の為め。
吉野の山の奧深く、
   よろづの花に言伝(ことづて)て、
君を待ちつゝ且つ咲かせむ。

(「文學界 第三號」明治26年1893年3月31日)


 彈 琴

悲しとも楽しとも、
浮世を知らぬみとりこの、
いかなればこそ琵琶の手の、
うごくかたをば見凝るらむ。
何を笑むなる、みとりこは、
  琵琶弾く人をみまもりて。
何をか囁くみとりこは、
  琵琶の音色を聞き澄みて。
浮世を知らぬものさへも、
  浮世の外の声を聞く。
こゝに音づれ来し声を、
  いづこよりとは問ひもせで。
破れし窓に月滿ちて、
  埋火かすかになりゆけり、
こよひ一夜(ひとよ)はみどりごに、
  琵琶のまことを語りあかさむ。

(「文學界 第十八號」明治27年6月30日/「彈琴と嬰兒」初稿・歿後発表)


 彈 琴 と 嬰 兒

何を笑むなるみとりこは、
  琵琶弾く人をみまもりて。
何をたのしむみとりこは、
  琵琶の音色を聞き澄すみて。
浮世を知らぬものさへも、
  浮世の外の声を聞くなり。
こゝに音づれ来し声を、
  いづくよりとは問ひもせで。
破れし窓に月満ちて、
  埋火(うもれび)かすかになり行けり。
こよひ一夜はみどりごに、
  琵琶の真理(まこと)を語り明かさむ。

(「平和 第十二號」明治26年5月3日)


 螢

ゆふべの暉(ひかり)をさまりて
 まづ暮れかゝる草陰に
はつかに影は点しるせども
 なほ身を愧づる景色あり

羽虫を逐ふて細川の
 棧瀬をはしる若鮎が
静まる頃やほたる火は
 低く水辺をわたり行く

腐草(ふさう)に生を享けし身の
 月の光に照されて
もとの草にもかへらずに
 たちまち空に帰りけり

(「文學界 第五十八號」明治31年=1898年1月1日/「ほたる」初稿・歿後発表)


 ほ た る

ゆふべの暉(ひかり)をさまりて、
  まづ暮れかゝる草陰に、
わづかに影を点せども、
  なほ身を恥づるけしきあり。

羽虫を逐ふて細川の、
  棧瀬をはしる若鮎が、
静まる頃やほたる火は、
  低く水辺をわたり行く。

腐草(ふさう)に生をうくる身の、
  かなしや月に照らされて、
もとの草にもかへらずに、
  たちまち空に消えにけり。

(「三籟 第四號」明治26年6月30日)

*仮名づかいは原文のまま、詩の表題と発表誌は正字を残し、本文は略字体に改めました。