人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

薄田泣菫「ああ大和にしあらましかば」(明治38年=1905年作)

薄田泣菫明治10年(1877年)生~昭和20年(1945年)没
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「ああ大和にしあらましかば」

 薄田泣菫

ああ、大和にしあらましかば、
いま神無月(かみなづき)、
うは葉散ちり透(す)く神無備(かみなび)の森の小路(こみち)を、
あかつき露に髮ぬれて、徃(ゆ)きこそかよへ、
斑鳩(いかるが)へ。平群(へぐり)のおほ野、高草(たかくさ)の
黄金(こがね)の海とゆらゆる日、
塵居(ちりゐ)の窓のうは白み、日ひざしの淡(あは)に、
いにし代よの珍(うづ)の御經(みきやう)の黄金(こがね)文字、
百濟(くだら)緒琴(をごと)に、齋(いは)ひ瓮(べ)に、彩畫(だみゑ)の壁かべに
見ぞ恍(ほ)くる柱はしらがくれのたたずまひ、
常花(とこばな)かざす藝の宮、齋殿深(いみどのふか)に、
焚きくゆる香ぞ、さながらの八鹽折(やしほをり)
美酒(うまき)の甕(みか)のまよはしに、
さこそは醉(ゑ)はめ。

新墾路(にひばりみち)の切畑に、
赤ら橘(たちばな)葉がくれに、ほのめく日ひなか、
そことも知しらぬ靜歌(しづうた)の美(うま)し音色に、
目移めうつしの、ふとこそ見まし、黄鶲(きびたき)の
あり樹きの枝に、矮人(ちいさご)の樂人(あそびを)めきし
戯(ざ)ればみを。尾羽(をば)身がろさのともすれば、
葉はの漂たゞよひとひるがへり、
籬(ませ)に、木この間に、――これやまた、野の法子兒(ほうしご)の
化(け)のものか、夕寺深に聲(こわ)ぶりの、
讀經や、――今か、靜こころ
そぞろありきの在り人の
魂(たましひ)にしも泌(し)み入いらめ。

日ひは木がくれて、諸(もろ)とびら
ゆるにきしめく夢殿の夕庭(ゆふには)寒(さむ)に、
そそ走りゆく乾反葉(ひたりば)の
白膠木(ぬるで)、榎(え)、棟(あふち)、名こそあれ、葉廣菩提樹(はびろぼだいじゆ)、
道ゆきのさざめき、諳(そら)に聞ききほくる
石廻廊(いしわたどの)のたたずまひ、振りさけ見みれば、
高塔(あらゝぎ)や、九輪(くりん)の錆(さび)に入日かげ、
花に照り添ふ夕ながめ、
さながら、緇衣(しえ)の裾ながに地に曳きはへし、
そのかみの學生(がくじやう)めきし浮歩(うけあゆ)み、――
ああ大和にしあらましかば、
今日(けふ)神無月、日のゆふべ、
聖(ひじり)ごころの暫(しば)しをも、
知らましを、身に。

(詩集『白羊宮』より)


 岡山県出身の詩人・薄田泣菫こと本名淳介は明治10年(1877年)5月19日生まれ、明治30年(1897年)5月に文芸誌「新著月刊」に投稿した詩が第一席に入選し、20歳で華々しくデビューを飾りました。明治32年(1899年)11月には第1詩集『暮笛集』を刊行、2か月で初版5000部を売り切る人気詩人の座を固めます。明治34年(1901年)10月には第2詩集『ゆく春』を刊行し与謝野鉄幹主宰の詩歌誌「明星」で巻頭特集を組まれます。明治38年(1905年)5月には第3詩集『二十五弦』、同年6月には詩文集『白玉姫』を刊行し、この明治38年11月に「中学世界」増刊号に発表されたのが明治35年(1902年)1月発表の「公孫樹下にたちて」と並ぶ代表作「ああ大和にあらましかば」で、同作品は明治39年(1906年)5月、金尾文淵堂刊の第4詩集『白羊宮』に収められました。以降は新作を含む選詩集こそ刊行されましたがオリジナルな詩集は『白羊宮』が最後になり、翌明治40年(1907年)以降は新聞社入社とともに児童詩や民謡詩、随筆や小説に転じて、大阪毎日新聞社に移ってからのコラム『茶話』は10年あまり続く人気連載になり、昭和20年(1945年)10月4日の逝去(享年68歳)までは随筆家として多数の著作を発表しています。明治末までに代表的な詩集を4冊前後刊行した島崎藤村(1872-1943)、土井晩翠(1871-1952)、蒲原有明(1976-1945)とともに当時「新体詩」と呼ばれた明治30年代~40年代の文語自由詩をリードしたのが藤村、晩翠、有明、泣菫であり、また河井醉茗(1874-1965)、横瀬夜雨(1878-1934)、伊良子清白(1877-1945)で、特に泣菫は柔軟で文語文法からも破格な文体と大胆に多数の造語を含んだ豊かな語彙、抒情に溺れない清新な情感によって、もっとも実験的で難解な作風だった蒲原有明と双璧をなす第一線の詩人とされていました。

 この代表作「ああ大和にしあらましかば」は古代日本の大和と現在(と言っても明治30年代末時点の「現在」ですが)の大和を巧妙に二重映しし、一見叙景的な詠嘆的抒情詩に見えながらも1000年あまりの時空を自在に行き来する想像力の見事さで当時にあっては薄田泣菫しか思いつかず、また書くこともできなかった見事な詩です。古代の出雲と現代の出雲を重ね合わせた入沢康夫(1931-2018)の難解極まりない実験的な長編詩『わが出雲・わが鎮』昭和42年(1967年)、やはり屈折した現代史を多層的構造に展開した長編詩『死者たちの群がる風景』昭和59年(1984年)、同趣向の那珂太郎(1922-2014)の長編詩「はかた」昭和50年(1975年)を着想では先取りしているほどですが、詩集『白羊宮』は蒲原有明明治41年(1908年)の第4詩集『有明集』、明治39年(1906年)の伊良子清白の唯一の詩集『孔雀船』と並んで明治新体詩の究極を示しており、明治41年明治42年以降の口語自由詩運動によって一気に旧世代の手法として批判されることになります。藤村、泣菫らに先立つ明治20年代の新体詩には森鴎外、北村透谷、中西梅花、宮崎湖處子、国木田独歩与謝野鉄幹らの先駆的業績があり、韻律は短歌の延長に五七調・七五調文を連ねて長歌連句を踏襲する手法が主流でした。明治30年代の新体詩は藤村の明治30年(1897年)の画期的な『若菜集』を境に文語体ながら自由詩に接近し、明治40年代には文語さえ改めればほとんど口語自由詩に近いものになります。早熟だった石川啄木(1886-1912)の明治38年(泣菫の「ああ大和にしあらましかば」発表と同年)の第1詩集『あこがれ』は泣菫と有明の影響の強い詩集でしたが、啄木は明治42年には口語自由詩を発表し始めます。啄木の『あこがれ』を絶讃した森鴎外は英文学者の妹・小金井喜美子あての書簡で破格文法と造語癖の強い泣菫の詩を難じ、有明の詩を絶讃していますが、のちに鴎外は大正6年(1917年)の萩原朔太郎の第1詩集『月に吠える』を献呈され激賞しているくらいですから、泣菫の詩には鴎外自身が試みようとして果たせなかったことへの羨望が入り混じっていたと思われます。詩集『白羊宮』とその代表作「ああ大和にしあらましかば」は文語自由詩の体裁を採りながらあと一歩を押せばそのまま口語自由詩へと転換できる、明治最後期にあってもっとも実験的かつ実験的な試作性を感じさせない完成度の高い詩集であり、泣菫一世一代の代表作となった詩です。象徴主義色の強い蒲原有明の詩よりも具体性に富み、語感そのものが詩の喜びに満ちています。しかし泣菫にとってはこれが到達点だったので、口語自由詩運動の到来に泣菫は詩人からエッセイストに転換してしまいます。明治時代の詩人の大半は20代で詩作から引退し、明治40年代には世代の交代と断絶が見られますが、その典型となったのが泣菫や有明の引退、啄木の夭逝だったのは文語詩と口語詩の交替以上に詩の可能性の大きな損失があったので、「ああ大和にしあらましかば」は明治期の詩の頂点にして幕引きを担うことにもなったのです。