人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年7月4日~6日/イングマール・ベルイマン(1918-2007)の'40年代作品(2)

 '40年代の初期ベルイマン作品はまだ習作の観があり、ヒット実績もありませんが、後年大家となってからの作品では整理されてしまった混沌とした要素やまだ吟味されず生のままで取り入れられた素材が露わになっており、過大な期待を抱かなければ案外入口としてはのちの著名な代表作よりも率直に楽しめるかもしれません。ベルイマンの代表作と言われるものはたいがい構えが大きく、食わず嫌いの人も多ければ先入観が強すぎて鑑賞者に不消化感を抱かせる場合も多い作風で、一部の批評家が引き合いに出す(または関連を否定する)カール・Th・ドライヤーやロベール・ブレッソンのような直截的な訴求力に欠けるきらいがありますが、初期作品はその点で癖の強くない「普通の映画」(ただし同時代スウェーデン流の)として観ることができます。監督デビュー年1946年に『危機』『われらの恋に雨が降る』を発表したベルイマンは翌1947年はアルフ・シューベルイと並ぶ大ヴェテラン監督グスタフ・モランデル(1888-1973)の新作『顔のない女』にモランデルとの合作オリジナル脚本執筆で起用されたので、自己の監督作品は『インド行きの船』1本になりました。翌'48年には再び『闇の中の音楽』『愛欲の港』の2本を監督し、以降年間2本の製作ペースは'50年代まで続いていきます。年間新作劇映画平均60本台の映画小国スウェーデン映画界で新人ベルイマンが年間2本を発表していたのは、才能に期待を寄せられていたのが前提ですが、そのため格別な製作環境を与えられていたというよりも戦後スウェーデン映画界の人材難によるところも大きいように思われます。その機会を最大限に利用して着実に成長していったからこそベルイマンは国際的な監督にまで登り詰めることができたのです。

●7月4日(火)
『インド行きの船』Skepp till India land (スウェーデン/マルムステット・プロ'47)*95min, B/W, Standard

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・原作はマッティン・セーデルイェルムの同名戯曲をベルイマンが単独脚色。前作『われらの恋に雨が降る』に続く独立系映画社ローレンス・マルムステット・プロとスウェーデン大衆映画劇場社との合作で今回は北欧トーキー映画社配給により上映館が拡大された。主演俳優も引き続きビルイェル・マルムスティーンが7年ぶりに帰郷した船員ユハンネスに扮する。ユハンネスは通りすがりの女性の後ろ姿に声をかけ人違いを詫びる。そして招かれた知人の家で人違いした本人、サリー(イェートルド・フリード)に出会って7年前の回想が始まる。サルヴェージ船の船長だったユハンネスの父アレクサンデルは踊り子サリーを愛人にして家出し、母アリスとユハンネスは乗組従業員3人とともに経営を続けていた。父はサリーをめぐる喧嘩で視力に障害を負い、サリーを連れて帰ってくる。ちょうど作業中だったユハンネスと従業員たちを父は怒鳴りつけ、妻の存在も構わず家に同居人させる。ユハンネスは航海士免許を取り家を出る計画を立てるが父に許されず、サリーに打ち明けて泣き崩れるが冷たくされる。翌日サリーは朝食の席でもう家を出て行くと告げ、父アレクサンデルは翻意を懇願するがやがて腹を立ててサリーに暴力をふるう。その日ユハンネスとサリーはボートで水車小屋に行き関係する。翌日サリーと息子の様子を見て事情を察した父アレクサンデルはユハンネスの潜水中、送気ポンプを押す手を止める。乗組員たちが異常に気づきユハンネスを引き上げる。アレクサンデルは先にボートで自宅に戻り、自室に飾った海外航路船員時代の記念品を滅茶苦茶に壊し、ドアを戸棚でふさぐが警官隊に簡単に突破され、妻アリスの目の前で窓から投身自殺する。そしてユハンネスは外国航路の船員になって7年間故郷を離れていたのだった。ユハンネスとの再会に気後れするサリーだったが、ユハンネスはサリーへの愛が変わらないことを確かめて説得し、サリーはユハンネスの次の航路に同行する。船窓から見える故郷の港が遠ざかって映画は終わる。前作同様ベルイマン自身が当時最盛期だったフィルム・ノワールからの影響(特にマイケル・カーティス)とともにフランス映画からの影響の見られる自作として上げる作品で、学生時代はスウェーデンではデュヴィヴィエやカルネの作品がヒットしておりベルイマンも熱中していたという。一人の女をめぐる父と息子の確執、というわかりやすいテーマだがいささか単調で、サリーにしても母アリスにしても踏み込みと掘り下げが足りないのでエゴイスティクな父アレクサンデルと抑圧された息子ユハンネスばかりが前面に出ていて単調で抑揚に欠ける。前2作よりも面白さははっきりと後退しているが人物関係の図式的対立は明快になっており、ドラマチックな構成の点では一歩進んでいるが、その分人物像の類型化を招いて50歩100歩という印象がある。タイトルは脱出願望、ここではないどこかを差しているが肝心な登場人物が無気力に見えるから象徴的タイトルもあまり効いていない。原作戯曲に忠実なのかもしれないがとってつけたようなハッピーエンドにも無理がある。当時の観客のニーズには合わせてあるハッピーエンドだとしたら現在ではかなり安易に見えるのも仕方ないかもしれない。

●7月5日(水)
『闇の中の音楽』Musik i morker (スウェーデン/テラフィルム'48)*84min, B/W, Standard

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・女流作家ダグマル・エードクヴィストの同名小説を作家自身が脚色。ローレンス・マルムステットによるテラプロドゥクシューン社製作、テラフィルム配給作品で、長編第4作目にして初のベルイマン自身以外の脚本。音楽はベルイマンの所属するスウェーデン・フィルムインドゥストリー社(SF社)と同じエールランド・フォン・コッホがデビュー作以来担当しており、コッホの音楽は第6作『牢獄』'49までの初期ベルイマン作品によく合っている。本作もビルイェル・マルムスティーン主演で、軍事演習中の事故で失明して音楽家を目指す青年ヴィールディケ役なのだが、塹壕に迷い込んだ子犬を救おうとしてという冒頭部分がもう噴飯ものの嘘くささ。野良犬どころかどう見ても大事に部屋飼いされている小型愛玩犬で、誤射されるはずはないような演習場で狙撃されているのだ。それは置いても失明したため婚約者ブリギッテに去られた青年を世話する家政婦イングリッド(マイ・セッテルリング)が一方的にヴィールディケの恋人になったと思い込み、音楽院の試験を落ちたヴィールディケが家を出て酒場のピアノ弾きになりイングリッドと再会するとイングリッドは都会で恋人エッベと同居しており、やにわにイングリッドへの愛情に目覚めたヴィールディケがエッベに殴られると「障害者ではない同じ人間扱いしてくれてありがとう」と感謝し、結末はヴィールディケとイングリッドの結婚式と新婚旅行への旅立ちで終わる。誤射シーンに続いてヴィールディケが悪夢から目覚めるシークエンスや酒場で主人の息子の少年にギャラをごまかされて激怒して少年とつかみ合いになるシークエンスなどそこそこ新しい試みに挑戦していて、部分的には見所があるが前作以上にご都合主義的で安易なプロットとストーリー展開上が興を削ぐ。これも原作由来かもしれないが映画としての見所が起き抜けのマイ・セッテルリング(シューベルイ『もだえ』でもヒロイン役)のオールヌード(後ろ姿だけだし一瞬だが)というだけなのはいただけない。偶然のわかれと出会い、心情の変化も唐突すぎて観客を納得させない。ハッピーエンドもとってつけたように見えるのが弱い。マルムスティーンの演技も失明者らしくなく、相手の目を見て話すのがいかにも不自然だし演技指導の粗忽を感じる。結果初期作品中もっとも通俗的なメロドラマ作品になってしまった。しかし前作、本作の不振が次作の第5作『愛欲の港』での挽回につながったのならば意義があったように思える。

●7月6日(木)
『愛欲の港』Hamnstad (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム'48)*97min, B/W, Standard

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・デビュー作『危機』以来ようやく勤め先のSF社で実現した作品で原案・脚本ともベルイマン自身による。日本公開昭和26年(1951年)10月でベルイマンの本邦初公開作品になった。船員イェスタ(ベンクト・エークルンド)は港町イェテルボルイに上陸した折、自殺未遂して保護車に運び込まれる少女を目撃する。イェスタは沖仲士の職と住居を決めて仲間の誘いで週末のダンスホールであの時の自殺未遂少女ベーリット(ニーヌ=クリスティン・イェンソン)を見かけ、ベーリットのアパートに招かれて泊まる。次のデートの約束をして翌朝イェスタが出て行った後、ベーリットはふと鏡台に口紅で「孤独」と書く。母親が訪ねてきてベーリットの品行を責め、ベーリットが出て行った後電話帳を開く。缶詰工場で働くベーリットにソーシャル・ワーカーが訪ねてくる。ベーリットは反発し、工場の上司に叱責される。ベーリットとイェスタは交際を続けるが母親は賛成しない。ベーリットは母子家庭になった時以来の母の冷たさをなじる。次のデートで映画を観に行った二人はチンピラに絡まれ、ベーリットを庇ったイェスタは殴り倒される。ベーリットはイェスタへの愛に目覚める。週末にペンションに行った二人はベーリットの旧友イェートルドに出会う。イェートルドはイェスタに秘密でベーリットに闇医者の堕胎費用の援助を頼む。ベーリットは沈み込み、その夜イェスタにこれまでの過去を話してしまう。イェートルドは女子感化院の元ルームメイトでベーリット同様今でも保護観察がついており、正規の医師に堕胎を受けにいけないのだった。ベーリットは母親の離婚後放任されて男から男へ渡り歩く生活になって女子感化院に入れられたがそこはレズビアンの巣窟で、ようやく感化院を出て真面目な青年トーマスに求婚されたが過去が知られて捨てられた。自殺未遂はそのためだった。イェスタもこの告白にショックを受ける。数日後ベーリットを実家に訪ねたイェスタは慌てて電話を受けて出て行くベーリットを突き止める。イェートルドが闇の中絶手術の術後に苦しんでおり、イェスタは正規の医師の治療を勧めるが二人は聞き入れない。だが結局イェートルドは救急車で運ばれ、ベーリットは警察で取り調べを受ける。イェスタは娼館に行き泥酔して騒動を起こした挙げ句ベーリットのアパートの階段で倒れる。警察の取り調べ中イェートルドの死が知らされ、ベーリットは事情をすべて打ち明けて釈放されてイェスタを階段で見つけて介抱する。二人は一度は町を出ようと計画するが、このままこの町で生きていこうと決意する。自殺未遂の女と沖仲士の出会いと運命の行方はスタンバーグの傑作『紐育の波止場』'27そのままだが戦後スウェーデンの荒廃した世相を背景にしてようやくベルイマンらしいリアリズム映画が確立した。イタリアのネオ・リアリズモからの感化はベルイマン自身が認めている。美男美女とは言い難いエークルンドとイェンソンのカップルも魅力があり、職業俳優とは思えないぎこちなさが生々しい。福祉制度の進んだスウェーデン社会がかならずしも個人の自由と自立をうながしているとは言えない側面もうまく描かれており、本作のハッピーエンドは明確な決意を感じさせてご都合主義には見えない。娘を愛せないヒロインの母親の存在もリアリティと説得力があり、当時のスウェーデン社会の負の側面を描いてぎりぎりの線まで迫っている。日本公開当時にヒット性はともかく他の国の映画にない独自の作風を注目、問題作扱いされたのもうなづける。確かに初期5作から1作選ぶなら本作(次点は『われらの恋に雨が降る』)になるだろう。そして次作の第6作『牢獄』'49は後のベルイマン映画の主要テーマが一気に出揃う作品になる。

*[ 原題の表記について ]スウェーデン語の母音のうちaには通常のaの他にauに発音の近いaとaeに近いaの3種類、oには通常のoの他にoeに発音の近い2種類があり、それぞれアクセント記号で表記されます。それらのアクセント記号は機種依存文字でブログの文字規格では再現できず、auやoeなどに置き換えると綴字が変わり検索に不便なので、不正確な表記ですがアクセント記号は割愛しました。ご了承ください。