人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(15); 高村光太郎詩集『典型』より「暗愚小傳」(i)

(昭和22年=1947年7月、疎開後の岩手県花巻市にて。長編詩「暗愚小傳」発表月の高村光太郎<1883-1956>・65歳)

イメージ 1

 高村光太郎の生前刊行詩集で総合詩集、選詩集を除く最後の詩集になったのは昭和25年(1950年)10月刊行の詩集『典型』(中央公論社刊)で、昭和21年から昭和25年にかけての22編が収められています。22編とは一見小詩集のように見えますが、巻頭の序詩に当たる詩集中もっとも早く書かれた「雪白く積めり」(昭和21年3月「展望」発表)に次いで収録された「暗愚小傳」(昭和22年7月「展望」一挙発表)は全6部・20編から成る連作長編詩でした。つまり詩集『典型』は21編の短詩と全20章の長編詩から編まれており、200ページに及ぶ詩集の前半分は「暗愚小傳」で占められているのです。
 長編詩「暗愚小傳」の構成は、

 家
  土下座(憲法発布)
  ちよんまげ
  郡司大尉
  日清戦争
  御前彫刻
  建艦費
  楠公銅像
 轉 調
  彫刻一途
  パリ
 反 逆
  親不孝
  デカダン
 蟄 居
  美に生きる
  おそろしい空虚
 二 律 背 反
  協力会議
  真珠湾の日
  ロマン ロラン
  暗愚
  終戦
 爐 辺
  報告(智恵子に)
  山林

 ――となっており、本文で「反逆」となっている第3部は目次では「親不孝」となっていますが、生前の総合詩集では「反逆」として再録されていますので『典型』初版目次に間違いがあったようです。長編詩「暗愚小傳」は高村自身の自伝的作品ですが、高村の意図と心境は「暗愚小傳」に先立つ巻頭詩「雪白く積めり」と、詩集後半に置かれ詩集の表題作で最新作に当たる短詩「典型」(昭和25年4月「改造」発表)に凝縮されていると言えるでしょう。逆に言えば「雪白く積めり」と「典型」を読まないと「暗愚小傳」の背景がわかりづらく、さらに「暗愚小傳」が仮題「暗愚の歴史」として昭和21年9月に構造された当初には「二律背反」の最終章「終戦」は「一切亡失」と題され、初案では同年5月執筆の生前未発表の未定稿「わが詩をよみて人死に赴けり」(「わが詩をよみて人死に就けり」と改題)が「二律背反」の最終章に置かれていたことが書簡や日記から判明しています。まず巻頭詩「雪白く積めり」ですが、これは日本の敗戦と、詩人が単身疎開(智恵子夫人は昭和13年に亡くなり、高村夫妻には子供はいませんでした)のまま戦後も岩手県の山小屋で自炊生活を送っていたことを知らないと独立した詩作品としては唐突な内容と思えるような、あまりに私的な序詩といえます。

  雪 白 く 積 め り

 雪白く積めり。
 雪林間の路をうづめて平らかなり。
 ふめば膝を没して更にふかく
 その雪うすら日をあびて燐光を発す。
 燐光あをくひかりて不知火に似たり。
 路を横切りて兎の足あと点々とつづき
 松林の奥ほのかにけぶる。
 十歩にして息をやすめ
 二十歩にして雪中に坐す。
 風なきに雪蕭々と鳴つて梢を渡り
 万境人をして詩を吐かしむ。
 早池峯(はやちね)はすでに雲際に結晶すれども
 わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何にせん。
 わづかに杉の枯葉をひろひて
 今夕の爐辺に一椀の雑炊を煖めんとす。
 敗れたるもの卻(しりぞき)て心平らかにして
 燐光の如きもの霊魂にきらめきて美しきなり。
 美しくしてつひにとらへ難きなり。

 詩集『典型』のうちもっとも早い時期の作品が「雪白く積めり」なら、詩集刊行の半年前に発表された「典型」は詩集中これより新しい詩は抒情詩の短詩1編きりの新作で、詩集表題作になったことからも詩集『典型』の編纂を念頭に置いて書かれた解説的作品でしょう。これは長編詩「暗愚小傳」の自作解説にもなっており、詩集の序文で高村自身が、

「ここ(疎開地の岩手県花巻市)に来てから、私は専ら自己の感情の整理に努め、又自己そのものの正体の形成素因を窮明しようとして、もう一度自分の生涯の精神史を或る一面の致命点摘発によつて追及した。この特殊国の特殊な雰囲気の中にあつて、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたかを見た。そして私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、一つの愚劣の典型を見るに至つて魂の戦慄をおぼえずにいられなかつた。(原文改行)そして今自分が或る転轍の一段階にたどりついてゐることに気づいて、この五年間のみのり少なかつた一連の詩作をまとめて置かうと思ふに至つた次第である。」
「これらの詩は多くの人々に悪罵せられ、軽侮せられ、所罰せられ、たはけと言はれつづけて来たもののみである。私はその一切の鞭を自己の背にうけることによつて自己を明らかにしたい念慮に燃えた。私はその一切の憎しみの言葉に感謝した。私の性来が持つ詩的衝動は死に至るまで私を駆つて詩を書かせるであらう。そして最後の審判は仮借なき歳月の明識によつて私の頭上に永遠に下されるであらう。」

 ――と記しているのをそのまま一編の詩に置き換えたような作品が詩集表題作の「典型」になっています。

  典 型

 今日も愚直な雪が降り
 小屋はつんぼのやうに黙りこむ。
 小屋にゐるのは一つの典型、
 一つの愚劣の典型だ。
 三代を貫く特殊国の
 特殊の倫理に鍛へられて、
 内に反逆の鷲の翼を抱きながら
 いたましい強引の爪をといで
 みづから風切の自力をへし折り、
 六十年の鉄の網に蓋はれて、
 端坐粛服、
 まことをつくして唯一つの倫理に生きた
 降りやまぬ雪のやうに愚直な生きもの。
 今放たれて翼を伸ばし、
 かなしいおのれの真実を見て、
 三列の羽さへ失ひ、
 眼に暗緑の盲点をちらつかせ、
 四方の壁の崩れた廃墟に
 それでも静かに息をして
 ただ前方の広漠に向ふといふ
 さういふ一つの愚劣の典型。
 典型を容れる山の小屋、
 小屋を埋める愚直な雪、
 雪は降らねばならぬように降り、
 一切をかぶせて降りにふる。

 そして昭和21年5月の未定稿「わが詩をよみて人死に赴けり(就けり)」から9月には長編詩「暗愚の歴史」の構想に発展した5部構成・全20章の長編詩「暗愚小傳」が昭和22年7月が詩集では巻頭詩「雪白く積めり」に続いて収録されていますが、雑誌発表時にも詩集収録時にも当初構想にあった「わが詩をよみて~」は該当箇所から外され、没後発見されることになります。一回に載せるにはあまりに大部ですが、「暗愚小傳」は分割しては理解しづらい長編詩なので、「わが詩を~」を当初の当該箇所に挿入して全編をまずご紹介したいと思います。分量においても構想においても、現代詩の始まりが北村透谷の長編詩「楚囚之詩」ならば、「暗愚小傳」は高村光太郎版の「楚囚之詩」と見做して読むこともできるでしょう。解説は次回に持ち越して、今回は作品紹介にとどめます。

高村光太郎詩集『典型』昭和25年(1950年)10月25日・中央公論社刊(昭和26年5月・第2回読売文学賞受賞)

イメージ 2

 詩集『典型』高村光太郎自装口絵

イメージ 3



 暗  愚  小  傳

   家

  土 下 座(憲 法 発 布)

誰かの背なかにおぶさつてゐた。
上野の山は人で埋まり、
そのあたまの上から私は見た。
人払をしたまんなかの雪道に
騎兵が二列に進んでくるのを。
誰かは私をおぶつたまま、
人波をこじあけて一番前へ無理に出た。
私は下におろされた。
みんな土下座をするのである。
騎馬巡査の馬の蹄が、
あたまの前で雪を蹴つた。
箱馬車がいくつか通り、
少しおいて、
錦の御旗を立てた騎兵が見え、
そのあとの馬車に
人の姿が二人見えた。
私のあたまはその時、
誰かの手につよく押へつけられた。
雪にぬれた砂利のにほひがした。
――眼がつぶれるぞ――


  ち よ ん ま げ

おぢいさんはちよんまげを切つた。
――旧弊々々と二言目にはいやがるが、
まげまで切りたかあねえんだ、ほんたあ。
床屋の勝の野郎がいふのを聞きやあ、
文明開化のざんぎりになつてしまへと、
禁廷さまがおつしやるんだ。
官員やおまはりなんぞに
何をいはれたつてびくともしねえが、
禁廷さまがおつしやるんだと聞いちやあ、
おれもかぶとをぬいだ。
公方さまは番頭で、
禁廷さまは日本の総本締だ。
そのお声がかりだとすりや、なあ。
いめえましいから、
勝の野郎が大事でいじさうに切つたまげなんぞ
おつぽり出してけえつてきた。――


  郡 司 大 尉

郡司大尉の報効義会のお話を
受持の加藤先生が、教室でされた。
隅田川から出発した幾艘かのボートが
つい先日金華山沖で難破した話である。
ボートで千島の果までゆかうとする
その悲壮な決行のなりゆきを
加藤先生は泣いて話した。
生徒もみんな泣いてきいた。
下谷小学の卒業生が遭難者の中に
一人まじつてゐるといふことが
下谷小学の生徒を興奮させた。
身を捧げるといふことの
どんなに貴いことであるかを、
先生はそのあとでこんこんと説いた。
みんな胸をふくらませてそれをきいた。


  日 清 戦 争

おぢいさんは拳固を二つこしらへて
鼻のあたまに重ねてみせた。
――これさまにちげえねえ。――
原田重吉玄武門破りの話である。
――古峯(こぶ)が原のこれさまが
夜でも昼でも往つたり来たり、
みんな禁廷さまのおためだ。
ありがてえな、光公(みつこう)。――
わたしはいつでも夜になると、
そつと聞耳を立てて身ぶるひした。
たしかに屋根の上の方に音がする。
羽ばたきの音が。


  御 前 彫 刻

父はいつになく緊張して
仕事場をきれいにして印材を彫つた。
またたくまに彫り上げてみんなに見せ、
子供の私にも見せてくれた。
本桜の見ごとな印材のつまみに
一刀彫の鹿が彫つてあつた。
あした協会にお成りがあるので
御前彫刻を仰せつかつたと父はいふ。
その下稽古に彫つたのだ。
父は風呂にはいつてからだを浄め、
そのあした切火をきつて家を出た。
天子さまに直々(ぢきぢき)ごらんに入れるのだよ。
もつたいないね。
――どうか粗相のございませんやうに。――
母はさういつて仏壇を拝んだ。
子供のわたしは日がくれても
まだ父が帰らないのでやきもきした。
おかへりといふ車夫の声に
私は玄関に飛んで出た。


  建 艦 費

日清戦争は終つても
戦争意識はますますあがつた。
次の戦争に備へるために
軍艦を造る費用を捻出するのだ。
陛下が一ばんさきに大金を下され、
官吏は向う幾年間か、
俸給の幾分かを差引かれた。
父はその事を夜の茶の間で
母や私にくはしく話した。
遼東還附とかいふことで
天子さまがひどく御心配遊ばされると、
父はしんから心おそれた。
――だからこれから光(みつ)も無駄をするな。
いいか。――


  楠 公 銅 像

――まづ無事にすんだ。――
父はさういつたきりだつた。
楠公銅像の木型を見せよといふ
陛下の御言葉が伝へられて、
美術学校は大騒ぎした。
万端の支度をととのへて
木型はほぐされ運搬され、
二重橋内に組み立てられた。
父はその主任である。
陛下はつかつかと庭に出られ、
木型のまはりをまはられた。
かぶとの鍬形の剣の楔くさびが一本、
打ち忘れられてゐた為に、
風のふくたび剣がゆれる。
もしそれが落ちたら切腹
父は決心してゐたとあとできいた。
茶の間の火鉢の前でなんとなく
多きを語らなかつた父の顔に、
安心の喜びばかりでない
浮かないもののあつたのは、
その九死一生の思が残つてゐたのだ。
父は命をささげてゐるのだ。
人知れず私はあとで涙を流した。


   轉  調

  彫 刻 一 途

日本膨脹悲劇の最初の飴、
日露戦争に私は疎かつた。
ただ旅順口の悲惨な話と、
日本海海戦の号外と、
小村大使対ウヰツテ伯の好対照と、
そのくらゐがあたまに残つた。
私は二十歳をこえて研究科に居り、
夜となく昼となく心をつくして
彫刻修業に夢中であつた。
まつたく世間を知らぬ壺中の天地に
ただ彫刻の真がつかみたかつた。
父も学校の先生も職人にしか見えなかつた。
職人以上のものが知りたかつた。
まつくらなまはりの中で手さぐりに
世界の彫刻をさがしあるいた。
いつのことだか忘れたが、
私と話すつもりで来た啄木も、
彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに
すつかりあきらめて帰つていつた。
日露戦争の勝敗よりも
ロヂンとかいふ人の事が知りたかつた。


  パ リ

私はパリで大人になつた。
はじめて異性に触れたのもパリ。
はじめて魂の解放を得たのもパリ。
パリは珍しくもないやうな顔をして
人類のどんな種属をもうけ入れる。
思考のどんな系譜をも拒まない。
美のどんな異質をも枯らさない。
良も不良も新も旧も低いも高いも、
凡そ人間の範疇にあるものは同居させ、
必然な事物の自浄作用にあとはまかせる。
パリの魅力は人をつかむ。
人はパリで息がつける。
近代はパリで起り、
美はパリで醇熟し萌芽し、
頭脳の新細胞はパリで生れる。
フランスがフランスを超えて存在する
この底無しの世界の都の一隅にゐて、
私は時に国籍を忘れた。
故郷は遠く小さくけちくさく、
うるさい田舎のやうだつた。
私はパリではじめて彫刻を悟り、
詩の真実に開眼され、
そこの庶民の一人一人に
文化のいはれを見てとつた。
悲しい思で是非もなく、
比べやうもない落差を感じた。
日本の事物国柄の一切を
なつかしみながら否定した。


   反  逆

  親 不 孝

狭くるしい檻のやうに神戸が見えた。
フジヤマは美しかつたが小さかつた。
むやみに喜ぶ父と母とを前にして
私は心であやまつた。
あれほど親思ひといはれた奴の頭の中に
今何があるかをごぞんじない。
私が親不孝になることは
人間の名に於て已むを得ない。
私は一個の人間として生きようとする。
一切が人間をゆるさぬこの国では、
それは反逆に外ならない。
父や母のたのしく待つた家庭の夢は
いちばんさきに破れるだらう。
どんなことになつてゆくか、
自分にもわからない。
良風美俗にはづれるだけは確である。
――あんな顔してねてるよ。――
母は私の枕もとで小さくささやく。
かういふ恩愛を私はこれからどうしよう。


  デ カ ダ ン

彫刻油画詩歌文章、
やればやるほど臑(すね)をかじる。
銅像運動もおことわり。
学校教師もおことわり。
縁談見合もおことわり。
それぢやどうすればいいのさ。
あの子にも困つたものだと、
親類中でさわいでゐますよ。
鎧橋の「鴻の巣」でリキユウルをなめながら
私はどこ吹く風かといふやうに酔つてゐる。
酔つてゐるやうにのんでゐる。
まつたく行くべきところが無い。
デカダンと人は言つて興がるが
こんな痛い良心の眼ざめを曾て知らない。
遅まきの青春がやつてきて
私はますます深みに落ちる。
意識しながらずり落ちる。
力トリツクに縁があつたら
きつとクルスにすがつてゐたらう。
クルスの代りにこのやくざ者の眼の前に
奇蹟のやうに現れたのが智恵子であつた。


   蟄  居

  美 に 生 き る

一人の女性の愛に清められて
私はやつと自己を得た。
言はうやうなき窮乏をつづけながら
私はもう一度美の世界にとびこんだ。
生来の離群性は
私を個の鍛冶に専念せしめて、
世上の葛藤にうとからしめた。
政治も経済も社会運動そのものさへも、
影のやうにしか見えなかつた。
智恵子と私とただ二人で
人に知られぬ生活を戦ひつつ
都会のまんなかに蟄居した。
二人で築いた夢のかずかずは
みんな内の世界のものばかり。
検討するのも内部生命
蓄積するのも内部財宝。
私は美の強い腕に誘導せられて
ひたすら彫刻の道に骨身をけづつた。


  お そ ろ し い 空 虚

母はとうに死んでゐた。
東郷元帥と前後して
まさかと思つた父も死んだ。
智恵子の狂気はさかんになり、
七年病んで智恵子が死んだ。
私は精根をつかひ果し、
がらんどうな月日の流の中に、
死んだ智恵子をうつつに求めた。
智恵子が私の支柱であり、
智恵子が私のジヤイロであつたことが
死んでみるとはつきりした。
智恵子の個体が消えてなくなり、
智恵子が普遍の存在となつて
いつでもそこに居るにはゐるが、
もう手でつかめず声もきかない。
肉体こそ真である。
私はひとりアトリエにゐて、
裏打の無い唐紙のやうに
いつ破れるか知れない気がした。
いつでもからだのどこかにほら穴があり、
精神のバランスに無理があつた。
私は斗酒なほ辞せずであるが、
空虚をうづめる酒はない。
妙にふらふら巷をあるき、
乞はれるままに本を編んだり、
変な方角の詩を書いたり、
アメリカ屋のトンカツを発見したり、
十銭の甘らつきようをかじつたり、
隠亡と遊んだりした。


   二  律  背  反

  協 力 会 議

協力会議といふものができて
民意を上通するといふ。
かねて尊敬してゐた人が来て
或夜国情の非をつぶさに語り、
私に委員になれといふ、
だしぬけを驚いてゐる世代でない。
民意が上通できるなら、
上通したいことは山ほどある。
結局私は委員になつた。
一旦まはりはじめると
歯車全部はいやでも動く。
一人一人の持つてきた
民意は果して上通されるか。
一種異様な重圧が
かへつて上からのしかかる。
協力会議は一方的な
或る意志による機関となつた。
会議場の五階から
霊廟(モオゾレエ)のやうな議事堂が見えた。
霊廟のやうな議事堂と書いた詩は
赤く消されて新聞社からかへつてきた。
会議の空気は窒息的で、
私の中にゐる猛獣は
官僚くささに中毒し、
夜毎に曠野を望んで吼えた。


  真 珠 湾 の 日

宣戦布告よりもさきに聞いたのは
ハワイ辺で戦があつたといふことだ。
つひに太平洋で戦ふのだ。
詔勅をきいて身ぶるひした。
この容易ならぬ瞬間に
私の頭脳はランビキにかけられ、
咋日は遠い昔となり、
遠い昔が今となつた。
天皇あやふし。
ただこの一語が
私の一切を決定した。
子供の時のおぢいさんが、
父が母がそこに居た。
少年の日の家の雲霧が
部屋一ぱいに立ちこめた。
私の耳は祖先の声でみたされ、
陛下が、陛下がと
あえぐ意識は眩(めくるめ)いた。
身をすてるほか今はない。
陛下をまもらう。
詩をすてて詩を書かう。
記録を書かう。
同胞の荒廃を出来れば防がう。
私はその夜木星の大きく光る駒込台で
ただしんけんにさう思ひつめた。


  ロ マ ン  ロ ラ ン

ひとりアトリエの隅にゐて
深くしづかに息をつくと、
ひろい大きな世界のこころが
涙のやうに私をぬらした。
やさしい強いあたたかい手が
私の肩にやんはり置かれた。
眼をあげるとロマン ロランが
額ぶちの中に今も居る。
ロマン ロランの友の会。
それは人間の愛と尊重と
魂の自由と高さとを学ぶ
友だち同志の集りだつた。
ロマン ロランは言ふやうだ。
――パトリオチスムの本質を
君はまだ本気に考へないのか。
あれ程ものを読んでゐて、
君にはまだヴエリテが見えないのか。
ペルメルの上に居られないのか。
今のまじめなやうな君よりも
むしろ無頼の昔の君を愛する。――
さういふ時に鳴るサイレンは
たちまち私を宮城の方角に向けた。
本能のやうにその力は強かつた。
私には二いろの詩が生れた。
一いろは印刷され、
一いろは印刷されない。
どちらも私はむきに書いた。
暗愚の魂を自らあはれみながら
やつぱり私は記録をつづけた。


  暗 愚

金がはいるときまつたやうに
夜が更けてから家を出た。
心にたまる膿のうづきに
メスを加へることの代りに
足は場末の酒場に向いた。
――お父さん、これで日本は勝てますの。
――勝つさ。
――あたし昼間は徴用でせう。無理ばつか
し云はれるのよ。
――さうよ。なにしろ無理ね。
――おい隅のおやぢ。一ぱいいかう。
――歯ぎり屋もつらいや。バイトを買ひに
大阪行きだ、
――大きな声しちやだめよ。あれがやかま
しいから。
――お父さん、ほんとんとこ、これで勝つ
んかしら。
――勝つさ。
午前二時に私はかへる。
電信柱に自爆しながら。


   わ が 詩 を よ み て 人 死 に 就 け り
   (生前未発表未定稿)

 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の太腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞がよんだ。
 人はそれをよんで死に立ち向つた。
 その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた
 潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。


  終 戦

すつかりきれいにアトリエが焼けて、
私は奥州花巻に来た。
そこであのラヂオをきいた。
私は端坐してふるへてゐた。
日本はつひに赤裸となり、
人心は落ちて底をついた。
占領軍に飢餓を救はれ、
わづかに亡滅を免れてゐる。
その時天皇はみづから進んで、
われ現人神(あらひとがみ)にあらずと説かれた。
日を重ねるに従つて、
私の眼からは梁(うつばり)が取れ、
いつのまにか六十年の重荷は消えた。
再びおぢいさんも父も母も
遠い涅槃の座にかへり、
私は大きく息をついた。
不思議なほどの脱却のあとに
ただ人たるの愛がある。
雨過天青の青磁いろが
廓然とした心ににほふ。
いま悠々たる無一物に
私は荒涼の美を満喫する。


   爐  邊

  報 告(智 恵 子 に)

日本はすつかり変りました。
あなたの身ぶるひする程いやがつてゐた
あの傍若無人のがさつな階級が
とにかく存在しないことになりました。
すつかり変つたといつても、
それは他力による変革で、
(日本の再教育と人はいひます。)
内からの爆発であなたのやうに、
あんないきいきした新しい世界を
命にかけてしんから望んだ、
さういふ自力で得たのでないことが
あなたの前では恥かしい。
あなたこそまことの自由を求めました。
求められない鉄の囲の中にゐて
あなたがあんなに求めたものは、
結局あなたを此世の意識の外に逐ひ、
あなたの頭をこはしました。
あなたの苦しみを今こそ思ふ。
日本の形は変りましたが、
あの苦しみを持たないわれわれの変革を
あなたに報告するのはつらいことです。


  山 林

私はいま山林にゐる。
生来の離群性はなほりさうもないが、
生活は却て解放された。
村落社会に根をおろして
世界と村落とをやがて結びつける気だ。
強烈な土の魅力は私を捉へ、
撃壌の民のこころを今は知つた。
美は天然にみちみちて
人を養ひ人をすくふ。
こんなに心平らかな日のあることを
私はかつて思はなかつた。
おのれの暗愚をいやほど見たので、
自分の業績のどんな評価をも快く容れ、
自分に鞭する千の非難も素直にきく。
それが社会の約束ならば
よし極刑とても甘受しよう。
詩は自然に生れるし、
彫刻意慾はいよいよ燃えて
古来の大家と日毎に接する。
無理なあがきは為ようともせず、
しかし休まずじりじり進んで
歩み尽きたらその日が終りだ。
決して他の国でない日本の骨格が
山林には厳として在る。
世界に於けるわれらの国の存在理由も
この骨格に基くだらう。
囲炉裏にはイタヤの枝が燃えてゐる。
炭焼く人と酪農について今日も語つた。
五月雨はふりしきり、
田植のすんだ静かな部落に
カツコウが和音の点々をやつてゐる。
過去も遠く未来も遠い。


(昭和22年=1947年・筑摩書房「展望」7月号全編発表)

*仮名づかいは原文のまま、「暗愚小傳」総題は正字を残し、小題と本文は略字体に改めました。