人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

口語自由詩の揺籃~萩原朔太郎・三富朽葉・高村光太郎

(萩原朔太郎<明治19年=1886年生~昭和17年=1942年没>)
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 日本の現代詩で口語自由詩を始めた詩人として浮かんでくる詩人の第一人者は萩原朔太郎(明治19年1886年生~昭和17年=1942年没)でしょう。「殺人事件」は第1詩集『月に吠える』(大正6年=1917年刊)のうちでも口語自由詩に着手した初期の1編ですが、すでに独自の発想とスタイルを持つ見事な作品です。

「殺人事件」 萩原朔太郎

とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣裳をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍体のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。

しもつき上旬(はじめ)のある朝、
探偵は玻璃の衣裳をきて、
街の十字巷路(よつつじ)を曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ、
はやひとり探偵はうれひをかんず。

みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者(くせもの)はいつさんにすべつてゆく。

(初出・大正3年=1914年9月「地上巡禮」)

 萩原は第2詩集『青猫』(大正12年=1923年刊)ではより息の長く柔軟な文体に作風が移りますが、表題作はまだ第1詩集刊行時の創作なので過渡的な作品です。それでもなお魅力的なのは、掲げたテーマにすべてを集中させる把握力の確かさゆえでしょう。

「青猫」 萩原朔太郎

この美しい都会を愛するのはよいことだ
この美しい都会の建築を愛するのはよいことだ
すべてのやさしい女性をもとめるために
すべての高貴な生活をもとめるために
この都にきて賑やかな街路を通るのはよいことだ
街路にそうて立つ櫻の竝木
そこにも無数の雀がさへづつてゐるではないか。

ああ このおほきな都会の夜にねむれるものは
ただ一疋の青い猫のかげだ
かなしい人類の歴史を語る猫のかげだ
われの求めてやまざる幸福の青い影だ。
いかならん影をもとめて
みぞれふる日にもわれは東京を恋しと思ひしに
そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる
このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。

(初出・大正6年=1917年4月「詩歌」)

 日本の口語自由詩の詩人でもっとも早かったグループの詩人には、海水浴中溺れた友人を助けようとして溺死し短い生涯を終えた悲運の詩人、三富朽葉(明治22年=1889年生~大正6年=1917年没)がいました。萩原より3歳年下の朽葉は萩原が大正2年(1913年)に活動を始める3年も前、また萩原が口語詩を書き始めたのは大正3年(1914年)ですから4年前に、こんな口語自由詩を発表しています。

「夕暮の時」 三富朽葉

夕暮の街が
暗い絵模様を彩る時、
人々が淡い影を引いて
舞踏するやうに過ぎて行く、
いつしらず、自分は
闇を慕うて来たかのやうに陥る、
冷たく黒い焔を燃す
冬の夜の吐息の中。

(初出・明治43年=1910年2月「新潮」)

 一読して気づくのは発想の平凡さと、まだ行分け散文でしかないような文体の単調さですが、これは口語自由詩である必然性を持って書かれた詩です。石川啄木(萩原と同年生まれ、明治19年1886年生~明治44年=1912年没)がようやく口語自由詩の成功作「心の姿の研究」連作を発表したのが明治42年(1909年)12月ですから、朽葉も先駆的な業績を残した詩人と言えるのです。次の作品も一見他愛ない短詩ですが、テーマはすでに萩原の「青猫」を予告するものです。

「のぞみ」 三富朽葉

私は雑踏を求めて歩く、
人々に随つて行きたい、
明るい眺めに眩惑されたい、
のぞみは何処にあるのであらう、
群集の一人となりたい、
皆と同じく魂を支配したい、
荒い渇きに嘔(むか)ついて、
私は雑踏を求めて歩く。

(初出・明治43年=1910年2月「新潮」)

 また、朽葉の西洋詩的発想の消化と都会的で柔軟な抒情性は明治の新体詩とははっきり異なっており、一見平凡な中にも口語自由詩の時代の到来を導くだけの役割は果たしたのです。生前に詩集を残さなかった三富朽葉はひそかに、短い生涯(享年27歳)の中でさらに複雑で独自の象徴詩に作風を進展させますが、詩集4冊分に上る三富朽葉の詩業は萩原とは別の、より内向的な方向で口語自由詩を発展させる可能性のあったもので、改めてご紹介したいと思います。

「黄昏の歌」 三富朽葉

窓の外に、
黒い木の枝が葡つてゐる、
屋根の雪が溶けて、
単調な雫の、
絶えず何処かへ
旋(めぐ)り旋り行くやうな響……
この家の
蒼い、蒼い幻惑の底に、
私は眠りを窺つてゐる、
周囲(まはり)の壁をひそかに飾つて
閃く星を夢見てゐる。

(初出・明治43年=1910年2月「新潮」)


 啄木の晩年の口語自由詩を含む『啄木遺稿』(大正2年=1913年刊)とともに、画期的な口語自由詩の詩集となったのが高村光太郎(明治16年=1883年生~昭和31年=1956年没)の第1詩集『道程』(大正3年=1914年刊)でした。同詩集や後の『猛獣篇』(未完詩集、大正14年=1925年~昭和14年=1939年)、『智恵子抄』(昭和16年=1941年)、『典型』(昭和25年=1950年)の作品は名高く、また日本の現代詩に口語自由詩の確立が果たされた後の作品ですので、『道程』刊行後に発表され代表詩集から洩れた、大正期のさりげない佳品を拾ってみます。

「真夜中の洗濯」 高村光太郎

闇と寒さと夜ふけの寂寞とにつつまれた風呂場にそつと下りて
ていねいに戸をたてきつて
桃いろの湯気にきものを脱ぎすて
わたしが果しない洗濯をするのは その時です。

すり硝子の窓の外は窒息した痺れたやうな大気に満ち
ものの凍てる極寒が万物に麻酔をかけてゐます。
その中でこの一坪の風呂場だけが
人知れぬ小さな心臓のやうに起きてゐます。

湯気のうづまきに溺れて肉体は溶け果てます。
その時わたしの魂は遠い心の地平を見つめながら
盥の中の洗濯がひとりでに出来るのです。
氷らうとしても氷よりも冷たい水道の水の仕業です。

心の地平にわき起るさまざまの物のかたちは
入りみだれて限りなくかがやきます。
かうして一日の心の営みを
わたしは更け渡る夜に果しなく洗ひます。

息を吹きかへしたやうな鶏の声が何処からか響いて来て
屋根の上の空のまんなかに微かな生気のよみがへる頃
わたしはひとり黙つて平和にみたされ
この桃いろの湯気の中でからだをていねいに拭くのです。

(初出・大正11年=1922年4月「明星」)


 こうした力みのない詩を書いても、日常的な題材と平易な表現から詩をつかみ出す高村のセンスは名人の一筆書きの観があります。同時発表のもう1編もさり気ない短詩ながら素晴らしい逸品です。萩原が夢想の人なら高村は眼の人だったのがわかります。

「下駄」  高村光太郎

地面と敷居と塩せんべいの箱だけがみえる。
せまい往来でとまつた電車の窓からみると、
何といふみそぼらしい汚らしいせんべ屋だが、
その敷居の前に脱ぎすてた下駄が三足。
その中に赤い鼻緒の
買ひたての小さい豆下駄が一足
きちんと大事相に揃へてある。
それへ冬の朝日が暖かさうにあたつてゐる。

(初出・大正11年=1922年4月「明星」)

(旧稿を改題・手直ししました)