人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

夭逝のシュルレアリスム散文詩詩人・千田光(1908-1935)前篇

現代詩手帖」昭和46年=1971年1月「小特集・千田光詩集」掲載号

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(千田光<明治41年=1908年生~昭和10年=1935年没>)
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 日本のシュルレアリスム散文詩詩人・千田光は本名・森岡四郎、明治41年(1908年)東京に生れ、幼くして父を失い、多くの兄姉に囲まれて育ちました。小学校卒で就労し、親類の縁で詩の同人サークルを知り、「キネマ旬報」編集補佐から詩人・映画批評家北川冬彦(1900-1990)の知己を得て、北川から「千田光」のペンネームを授けられ、昭和4年(1929年)7月に北川の口利きで同人誌「詩神」に最初の詩「歴史章」を発表します。。昭和5年4月からは北川と北川の詩友・三好達治(1990-1964)の主宰・創刊した同人誌「詩・現実」に参加~「時間」創刊同人となって詩作を発表しますが、昭和6年(1931)年5月の「時間」終刊以後は詩友との交流も減少します。翌年結婚、男児が生れるも産後すぐ妻は伝染病で隔離、乳児をかかえ仕事も詩作もままならなくなります。昭和8年(1933年)2月、新現実主義プロレタリア詩に傾いた北川の同人誌「麺麭」に詩集の予告が出ますが、作品発表も同人仲間との交遊もなくなります。昭和9年(1934年)9月頃より肺結核にて自宅療養、昭和10年(1935年)5月に死去、享年27歳でした。没後ようやく師の北川冬彦主宰の同人誌「培養土」の選集『麺麭詩集・培養土』(北川冬彦編、山雅房昭和16年=1941年2月刊)に「詩・現実」「時間」既発表の7篇がまとめられました。戦後は創元文庫「日本詩人全集第六巻昭和篇一」昭和27年=1952年8月(『麺麭詩集・培養土』の7篇)、「現代詩手帖」昭和46年=1971年1月「小特集・千田光詩集」(11篇+エッセイ1篇・解説・注釈)、森開社『千田光詩集』1981(私家版・12篇+改作2篇・解説・注釈・年譜、限定300部)、森開社『千田光全詩集』2013(私家版・限定100部)があります。散帙作品を除き、現存作品は14篇。現代詩の研究者・読者にもほとんど知られませんが、唯一北川冬彦三好達治の親友・梶井基次郎(1901-1932、この3人は代わるがわるに同居していた学友でした)が千田光に非常に注目していたことが北川・三好あて書簡からうかがわれることで梶井基次郎の熱心な読者には知られ、特に「足」については、梶井基次郎三好達治北川冬彦あてに同人誌「詩・現実」同号掲載の北川作品「汗」に次いで絶讃する書簡を残しています(昭和5年=1930年9月27日付)。また戦後現代詩の代表的な散文詩人・粒来哲蔵(1928-2017)氏も戦後詩初期の祝算之助(生没年不詳)より前に「培養土詩集」の千田光作品によって散文詩に導かれたと証言しており、ごく少数の読者に読み継がれてきた典型的な寡作の夭逝詩人と言えます。前後篇に分けてご紹介いたします。なお用字は現行略字体に改め、かなづかいは原文のままとしました。

歴史章

石の上の真青な花。花から滅形するものの中に、厭ふべき色素の骸骨がある。緑青を噴いた骸骨がある。花に禁じ得ぬ火山灰。

それは荘厳な動機によつて出発する美しい首である。美しい首には、勿論、血液の真珠がある。こっちを向いた美しい首には、拭ふべからざる創痕がある。

そこには幾多の屍がある。白い曠しさが、厳丈な四壁を建ててゐる。惰力を失って、傷〓に墜ちた天象。音響の花。

(「詩神」昭和4年=1929年7月・欠字原文のまま)

 私の散歩にあたつて、私は実に得体の知れぬ現象に出遇つた。
 私は不図この光景を、未だ見知らぬこの道を、嘗てこの位置で、この洞穴にもまして暗い道の上で、経験したことがあるように思へる。
なぜなら、この道は正確なところ発掘市のやうな廃れた町に墜ち込んでゐる。私が顔をあげると鳥が羽を落して行く。軍鶏のやうな男が私を追越す。私はこの男を別に気に留めなかつたが、と思ひながら私は更に歩いていた筈だ、と考えて歩いてゐる私の眼前に、突然、それらの現象が一塊となつて現れたのだ。私は鏡でも撫でるかのやうに前方を探ぐつた。
 未だある!未だある!そうして秒間を過ぎると、私は更に驚嘆すべき発作に撃れる。それはといふと、この道の先で一人の老人に遇ふのだ。老人が私に道を乞ふ、私の親切な指尖が、ある一点を刺した時、老人の姿は、私の指尖よりも遥か前方を行くのだ、私は未だ遇はなければならない筈だ、片目眇の少年に。少年は兇器を握つてゐる。兇器の尖には人形の首とナマリの笑いがつるさがってゐるのだ。その少年は私に戯れると見せかけるのだ。戯れると見せかけるのだ。

 私はさっと苔を生じた。苔を生じた石のように土を噛むだ。

(「映画往来」昭和4年=1929年11月)

赤氷

山間から氷の分裂する音は河の咽喉を広め始めたと共に氷流だ。ドッと押し寄せる赤氷だ。
新国境の壁に粉砕される赤氷だ。赤氷から生えてゐる掌形の花。
山間に於ける数年間の閉塞と雖(いへど)も、脂の乗つた筋肉のやうな茎だ。が然し、新国境の壁には何ものも咲かせざる如く一滴の水以下だ。
赤氷よ新国境の壁を貫け、太陽の背には更に新らしい太陽の燃焼だ。燃焼だ。

(「詩神」昭和5年=1930年4月・同月「時間」創刊号に転載)

KANGOKU NO KABE

石膏の壁に肉薄する皮膚は強固だ。

壁に封じられた言葉は暴力の開始だ。

摩擦する皮膚と壁。

皮膚の冷却は壁の貫通だ。愛の汚物は傷孔の如くに、消えはしない。

透明なる壁を持つた人間には透明なる壁を与へよ。

(「詩神」昭和5年=1930年4月)

肉薄

 沛然たる豪雨の一端が傷口のやうな柱脚を堀り返へして行つた。そうしてとりとめのない雲が二三と、太陽は壁の中へ墜ちかかつてゐた。
 突如、台風だ、怒号だ、かくて群集は建築場の板塀に殺到した。
 柱脚の真中から腐つた人間の足が硬直し、逆さに露出してゐるのだ。
 群集に群集する群集。原野の炎は群集の眼に拡大した。彼等に驚くべき沈黙が伝はるや彼等は死体を痛快なる場所へ持込んで行こふといふのだ。痛快なる場所へ!

(「時間」昭和5年=1930年4月創刊号)

失脚

 私は運河の底を歩いてゐた。この未成の運河の先きには必ず人間の仕事がある。私はたゞその目的に急いでゐる。
 太陽は流れて了つた。それからどの位ひ歩いたか判らない。運河の両壁は次第に冷却しはじめた。地上は未だ明るいらしい。時たま猛烈な砂塵が雲を崩して飛び去つた。私は突然この水の無い運河の底で恐怖の飛躍を感じた。私は用意を失つてゐる。私はもう駄目だ。
 私の行く手僅かの地点で歓喜の声が震動してゐるのだ。私はただ走しることによつて慰ぐさめるより仕方がない。私の背後には大海の水が豪楽と迫つてゐるに違いない。私は走つた。走つてゐるうちに、最早や動かすべからざる絶望が墜ちて来た。逃げる私の前方に当つて又も海水の響きは迫つたのだ。私はもの淋しい悲鳴を起しながら昏倒した。海水が私の頭上で衝突するのを聴きながら。

(「詩・現実」昭和5年=1930年6月創刊号)

失脚

 私は、私の想像を二乗したやうな深い溝渠の淵に立つてゐた。その溝渠の上には、溝渠から噴き上がつたやうな雲が夕焼を映して蟠つてゐた。
 不意に人のけはひがしたので雲から目を落すと、そこに一人の少年が私と同じような姿勢で、雲から目を落して私を発見(みつけ)た。彼は自分の油断を狙はれて了つた。かのやうに溝渠の半円へ遠ざかりはじめた。それは宛然、鏡面から遠ざかる私自身ででもあるかのやうに、少年の一挙一動は私のいらだたしいままに動いた。一体この溝渠の底に何があるのか、私は知らない。次の瞬間、少年は四つん這ひになると溝渠の周囲をぐるぐる廻りはじめた。ぐるぐる廻つてゐるうちに、いつか得体の知れない数人の男が加つた。然し溝渠の底は依然として暗く何者も認められなかつた。
 突然、それら数人の男が一斉に顔を上げた。驚いたことには、それが各々みんな時代のついた私の顔ばかりであつた。私の顔はなんともいえない不愉快な犬のやうに、私の命令を求めてゐた。気がついて見ると、その顔顔の間で私は四つん這ひになつて、駄馬のやうに興奮しながら、なんにもない溝渠の周囲をぐるぐる這い廻つてゐた。

(「詩・現実」昭和5年=1930年6月・創刊号)

発作

 私の数歩前にあたつて、私は実に得体の知れぬ現象を目撃した。それが実際私に堕ちかかつてゐやうとは。が私は不図この光景を嘗てこの洞穴にもまして暗い道の上で、経験したことがあるように思へる、何故なら、この道は正確なところ発掘市のような廃れた町に墜ち込んでゐる。
 私が顔をあげると鳥が羽をおとして行く、軍鶏のような少年が私を追ひ越す。私はこの少年をとりたてて気にしなかつたが、と思ひ乍ら私は歩いてゐた筈だ、と考えて歩いている私の眼前に、突然それらの現象が一塊となつて現れたのだ。
 私は鏡でも撫でるかのやうに前方を探ぐつた。未だある未だある、そうして秒間を過ぎると私は更に驚嘆すべき発作に撃たれる。それはといふとこの道の先で、一人の老人に遇ふのだ。老人が私に道を乞う、私の親切な指尖がある一点を刺した時、老人の姿は私の指尖よりも遥か前方を行くのだ。私は未だ遇はなければならない筈だ、片眇の少年に。少年は兇器を握ぎつてゐる。兇器の尖には人形の首とナマリの笑ひが吊下つてゐるのだ。その少年は私に戯れると見せかけるのだ!戯れると見せかけるのだ!

(「詩・現実」昭和5年=1930年6月創刊号・前出「夜」改作)

 私の両肩には不可解な水死人の柩が、大磐石とのしかかつてゐる。柩から滴る水は私の全身で汗にかはり、汗は全身をきりきり締めつける。火のないランプのような町のはずれだ。水死人の柩には私の他に、数人の亡者のような男が、取巻き或は担ぎ又は足を搦めてぶらさがり、何かボソボソ呟き合つては嬉しげにからから笑ひを散らした。それから祭のやうな騒ぎがその間に勃つた。柩の重量が急激に私の一端にかかつて来た。私は危く身を建て直すと力いつぱい足を張つた。その時図らずも私は私の足が空間に浮きあがるのを覚えた。それと同時に私の水理のような秩序は失はれた。私は確に前進してゐる。しかるに私の足は後退してゐるのだ。私はこの奇怪な行動をいかに撃破すればいいか、私が突然水死人の柩を投げ出すと、堕力が死のような苦悩と共に私を転倒せしめた。起きあがると私は一散に逃げはじめた。その時頭上で燃えあがる雲が再び私を転倒せしめた。

(「詩・現実」昭和5年=1930年9月)
(以下後編)
(旧稿を改題・出直ししました)