人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年8月22日~24日/グラウベル・ローシャ(1938-1981)の革命映画(前)

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 1960年代ブラジル映画のシネマ・ヌォーヴォ(ニュー・ウェイヴ/ヌーヴェル・ヴァーグ)を代表する映画作家グラウベル・ローシャ(1938-1981)はブラジル、バイーア州生まれ。10代で映画監督を志望し、郷里を舞台にした1962年発表の第1長編『バラベント』がカルロヴィ・ヴァリ映画祭でメダル授与と好評を博します。同世代のブラジル映画人たちと交流を深め、1964年の『黒い神と白い悪魔』が第17回カンヌ国際映画祭に出品された後ローシャを中心としたグループはリオデジャネイロを本拠地に「シネマ・ノーヴォ」を名乗って注目を集め、『黒い神と白い悪魔』はポレッタ・テルメ自由映画祭最優秀作品賞、サンフランシスコ映画祭大賞を受賞。1967年の『狂乱の大地』では第20回カンヌ国際映画祭ルイス・ブニュエル賞と国際映画批評家連盟賞、ロカルノ国際映画祭グランプリと批評家賞を受賞しました。ジャン=リュック・ゴダールはローシャをベルトルッチ(イタリア)、ストローブ=ユイレ夫妻(西ドイツ)、スコリモフスキ(ポーランド)と並び「もっとも新しい映画監督の一人」と賞賛し、ゴダールが主宰する政治映画グループ、ジガ・ヴェルトフ集団のイタリア撮影の政治的メタフィクション西部劇『東風』'69の出演者として迎えます。1969年の長編第4作『アントニオ・ダス・モルテス』は第22回カンヌ国際映画祭監督賞とルイス・ブニュエル賞を受賞し、同作が日本で公開された初のローシャ作品になり、第三世界の革命映画作家として世界的に認知されることになりました。しかしローシャがヨーロッパを回ってブラジルに帰国するとブラジルでは軍事独裁政権の圧力でローシャ作品の製作が実現できる見込みはなく、自由な言論は弾圧され、1971年ローシャは追放同然に国外亡命を余儀なくされます。コンゴ、スペイン、チリ、キューバポルトガルパナマ、イタリアと転々としながら政治色より土着的神秘主義的の傾向を強めたローシャは1980年の『大地の時代』がヴェネツィア国際映画祭に出品されて好評を得ますが、同作が遺作となり、リスボンで肺疾患の闘病生活を送るも遂に危篤寸前に送還されてリオデジャネイロに帰国し数日後に亡くなりました。1981年、享年43歳でした。ローシャ'60年代の代表作は同時代の映画ではイタリアのパゾリーニに近い未完成な荒々しさを特徴としており、'70年代の放浪時代の諸作は配給に限度があるインディペンデント作品だったせいもあり'30歳代にしてローシャは急速に忘れられた存在になっていました。今回初見の作品も含めて'60年代の長編4作と遺作『大地の時代』を観ましたが、ローシャ作品は人種混交国家ブラジルの複雑な社会相が背景になっており、ローシャ自身も作品でブラジル社会が抱える諸問題に対して明確な結論を打ち出してはいないため、どこまで上手くお伝えできるでしょうか。おそらく平均的な現代日本人の感覚ではかなりの人が理解不能と思われるのがグラウベル・ローシャの映画です。あらすじを追ってもほとんど伝わらないと思われるので、ローシャ作品については図式化を第一にしてご紹介してみたいと思います。

●8月22日(火)
『バラベント』Barravento (ブラジル/Iglu Filmes'62)*79min, B/W, Standard 日本公開2011年6月18日

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・タイトルの「バラベント」とは「大地と海が一変し、愛、生活、社会が変貌する激しい瞬間」を指す。和訳すると「驚天動地」または「禊ぎ」といったところか。ブラジル北東部バイーア地方の混血村の漁村に都会で一儲けして警察に追われる元漁師のチンピラ青年フィルミノ(アントニオ・サンパイオ)が帰って来る。村の漁師たちは民間信仰カンドンブレを信奉する親方に従い、収穫の0.25%(魚400匹に対して報酬は1匹!)しか支払わない白人網元に搾取されていた。若い漁師アルーア(アウド・テイシェイラ)は神に選ばれた守り神として親方に大事にされる代わり一切の世俗の交わりを禁止され、幼なじみの恋人ナイーナ(ルシー・ヂ・カルヴァーリョ)からも遠ざけられている。フィルミノは村の奔放な美女コタ(ルイザ・マラニョン)を通じて村の様子を探り、カンドンブレの祭りで狼藉を働きながら、アルーア自身が白人網元の搾取に反抗心を抱きつつ親方に逆らえない心境を知る。やがて網元提供の地引き網が破れて漁ができなくなり、高価な網を買えず網元から網を借りている漁師たちは自前の紐で網を修復するがフィルミノは夜のうちに網を引き裂く。翌日、嵐の海をアルーアは無謀ないかだ漁に出て、ナイーナはカンドンブレの尼僧になりアルーアへの加護を祈祷する儀式を受ける。アルーアは弟分の仲間を海に失うが、漁の最中嵐は奇跡的に止んでいかだ漁は成功する。カンドンブレ信仰に従ってアルーアを崇め始める漁師たちの前でフィルミノはアルーアに殴りかかり、二人は浜辺で気が済むまで殴りあう。翌日アルーアはフィルミノの服を借りてナイーナに一年間都会で網を買うため働く、帰ってきたら結婚しようと求婚し旅立っていく。全編に民謡が流れて歌物語風に展開し(音楽=カンジキーニャ)、次作以降単独オリジナル脚本になるローシャ作品だが本作はルイス・パウリーノ・ドス・サントスグラウベル・ローシャ、ジョゼ・テレスの3者合作。第1長編を監督自身の郷里ロケと地元民キャストで撮影したのはクロード・シャブロルの『美しきセルジュ』'58を思わせる。背景について触れると、ブラジルの人種分布はポルトガル人が植民し始めたのが16世紀で、北米大陸同様アフリカから奴隷労働者が次々入植し、20世紀後半には48%が白人、44%が混血、7%が黒人、0.7%がアジア人、0.3%が先住民族系となっている。混血層は実際は黒人層と文化的にも社会階層上でも同じ扱いを受けるため南米きってのアパルトヘイト大国であり、またアパルトヘイトが徹底しているため本作で描かれたようにアフリカ由来の民間信仰が黒人=混血層には20世紀でも信仰されており、アメリカ合衆国黒人のように明確に奴隷解放が行われキリスト教布教が浸透したような過程を経ていないので白人文化と黒人/混血文化に決定的断絶があり、黒人/混血層は白人層には依然奴隷労働者として扱われている。フィルミノの反抗とアルーアの妥協的進歩主義にはそういう背景があり、二人はもともと友人でフィルミノがアルーアを因襲から解放するためには次々と荒っぽい手段を取らなければならなくなる。フィルミノは白人網元との縁を切り村が自給自足する体制を望むがその器量は自分にはなくアルーアしかいない、と考え漁業の妨害に出る。ローシャ作品では一番わかりやすい、瑞々しい秀作だがそれは登場人物の心情を読み取れればの話で、どういう設定下のどんな場面で何が行われているか、という基本的な状況の判別でつまずいてしまうかもしれない。しかも作品が進むほどローシャ作品は設定が複雑になっていく。まず本作、さもなければ一気に国際的代表作『アントニオ・ダス・モルテス』をお勧めしたい。

●8月23日(水)
『黒い神と白い神』Deus e o Diabo na Terra do Sol (ブラジル/Copacabana Filmes'64)*118min, B/W, Widescreen(16:9) 日本公開1985年11月16日

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・ローシャ単独オリジナル脚本で、ブラジル民衆の伝承的アンチ・ヒーロー、アントニオ・ダス・モルテスを初めて題材にした作品。大地主制度下のブラジル。貧しい牛飼いマヌエロ(ジェラルド・デル・レイ)は地主のムーライス大佐(アントウニオウ・ピントウ)に牛の移送の賃金を受け取りに訪ねて暴力をふるわれ、大佐を殺してしまう。マヌエロは妻のローサー(イオナー・マガリェイイーンス)を連れて山へ逃れ、山中で大勢の信者と暮らす狂信的な黒人神父シバスティアン(リーディオウ・シルヴァ)の仲間に入る。やがて神父は信者たちを従えて地主や政府軍と戦い始める。地主たちは義賊専門の殺し屋アントニオ(マウリシオ・ド・バーレ)を雇い討伐に向かわせる。戦いの最中、赤ん坊を信仰の生け贄にされたローサーが神父を刺し殺し、そこに現れたアントニオが信者たちを皆殺しにする。生き残ったマヌエロとローサーはコリスコウ大尉(オートン・バーストゥース)率いる義賊集団に出会い、その部下となる。だが一隊もアントニオに狙われ、大尉も殺される。マヌエロはこの決闘の間に逃げ出し、走り続ける。あれ、ちゃんとストーリーがあるじゃないかとあらすじだけでは思えるのだが、このブラジル西部劇は何を言いたい作品か皆目見当がつかないことで際立っている。ゴダールの何を言いたいのかわからない犯罪映画『はなればなれに』'64を連想するが同年作品だから明らかに影響関係はない。西部劇に限らず普通劇映画、そもそも物語というのは作中に何らかの価値基準(世界観)があり、その変動の過程を描くものだが、権力者の傭兵アントニオ・ダス・モルテスというのは不動の殺戮者であって、それは一応本作の視点人物である牛飼いマヌエロがひたすら逃げる弱者でしかないのと同じでストーリーはあっても明確なプロット(簡単な例で言えば起承転結の類、ストーリーを抽象化すると残る基本的な物語の骨組み)は存在しない。一応映画の始まりはあるが後半に至るとどこで終わっても構わないような展開になっている。『バラベント』で漁師たちの親方がカンドンブレ信仰にすがるばかりで白人網元の搾取に甘んじてかえって村民を因襲に縛りつける元凶になっていたように本作のシバスティアン神父の教団も狂信的な過激派集団として闘争を激化させるばかりだし、次に現れるコリスコウ大尉の義賊団は建設的な理念を持つ正統的なレジスタンス集団だが殺戮者アントニオ・ダス・モルテスにとってはシバスティアン神父の教団と変わりはないので、本作の革命・反革命の基準は超越的アンチ・ヒーロー、アントニオ・ダス・モルテスによってことごとく粉砕されてしまう。だからといってアントニオ・ダス・モルテスは権力者に心服している傭兵なのではなく「義賊殺し」が職業だから一種の自動的な反革命装置みたいなもので、映画はアントニオ・ダス・モルテスを否定も肯定もしていない。ブラジルにおける民主革命の不可能性を体現したキャラクターということはできるかもしれない。改革に対する民衆の絶望感や恐怖が生んだアンチ・ヒーロー像とも取れる。通常の映画ならアントニオ・ダス・モルテスは後半で民衆の側に回心するところだが(または映画のラストシーンになってそれが暗示されるが)これはそういう映画ではまったくない。より現実的な暴力を描いているとも暴力至上主義的シュルレアリスムの悪夢的映画とも言えて、『バラベント』の民主改革的指向から一挙に革命思想への挑発的映画に飛躍した。これが『アントニオ・ダス・モルテス』でどう変わるかは同作の感想文でご紹介する。

●8月24日(木)
『狂乱の大地』Terra em Transe (ブラジル/Mapa Filmes'67)*107min, B/W, Widescreen(16:9) 日本公開2011年6月18日

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・本作の舞台は南米の架空の共和国エル・ドラド。保守政治家ポルフィリオ・ジアス(パウロアウトラン)に見込まれブレインを勤める理想家のジャーナリストで詩人のパウロマーティンス(ジャルデル・フィーリョ)は地方の視察で、民衆に人気の進歩派議員フェリペ・ヴィエイラ(ジョセ・レウゴイ)の下で働く活動家サラ(グラウセ・ローシャ)と出会う。サラと意気投合したパウロヴィエイラを貧困と不正を正す新しいリーダーとして知事に押し上げる。しかし選挙に勝ったヴィエイラは規制の体制に囚われて何も変革ができない。失望したパウロは、首都に戻ると国内一の企業家フリオ・フェンテス(パウロ・グラシンド)に近づく。しかし大統領選が近づくとフェンテスはパウロを切り捨てる。パウロ武装闘争に立つため再びヴィエイラと組み、ジアスとフェンテスの古くからの癒着と裏切りを暴露してヴィエイラを返り咲かせる。架空の南米の国家というが、ポルトガル語公用語なのは南米ではブラジルしかないだろというツッコミはともかく、長編第3作にして初めてインテリ白人を主人公にした(ローシャ自身は混血の上流階級層出身で主人公と同等の知識人層でもある)。あらすじは人間関係中心に簡単にまとめたが時制と現実・仮想が入り混じりストレートに進行せず、映画は知事就任後のヴィエイラが改革に行き詰まっている中盤から始まり現在と過去が同時進行する話法になっており、映像手法ともどもヨーロッパ的なヌーヴェル・ヴァーグとの類似が強くなっている。前2作のような黒人土着文化色が稀薄な分正攻法の政治映画的内容で、設定や話法は実験的政治小説を得意としたジョセフ・コンラッドの影響もあるかもしれない(コンラッド原作の映画には『密偵』1907の映画化のヒッチコックサボタージュ』'35、『闇の奥』1899を基にしたコッポラ『地獄の黙示録』'79がある)。政治家のブレイン(視察、広報、選挙戦略)を勤めるジャーナリスト/詩人(作家)が視点人物というとロバート・ペン・ウォーレンの長編小説原作の『オール・ザ・キングスメン』'49(ロバート・ロッセン)があるが、ウォーレンの原作は実業家の失楽を描いたスコット・F・フィッツジェラルドの古典『グレート・ギャツビー』が下地で、『キングスメン』も『ギャツビー』も政治家/実業家の理想主義の変質と失敗を描いたアメリカ合衆国的テーマの作品だった。ローシャ作品は視点人物がローシャの自画像的人物なので視点人物=主人公になっているのがこの設定では珍しくもあり、弱点にもなっている。つまり主人公が日和見的キャラクターに見えてくる。これが黒澤明であれば三重スパイ的ブレインに描き(『用心棒』'61)、政敵の2大与党を潰しあわせて野党に勝利が転がりこむ構図にしそうだし、本作も保守与党と大企業の癒着と裏切りを暴露して潰しあわせるのだが、どうもその構図がすっきりしない。進歩派議員ヴィエイラが好人物だが無能すぎ、主人公の画策抜きには政治家としてやっていけない人物でありすぎる。つまり主人公自身が有能な政治家より無能な、とまではいかずとも非力な政治家のブレインであることを好む人物にもなってしまい、一種の摂政制政治を指向している策謀家のように描かれてしまっている。おそらく主人公の政治的立場をめぐる懊悩はローシャの意図通りだが、これでは主人公が政治ゴロ的黒幕化してしまう点はローシャの盲点だったのではないか。主人公に対して批判的視点を導入するならヴィエイラの秘書であり主人公の愛人でもあるサラの描き方次第だが、主人公の協力者的な役割しか担わされていない。ローシャ作品としてはスタイリッシュな観易さがあり、土着的作品から離れて市民社会の政治的題材に取り組んだ意欲は感じるが、観ている最中にはずっと期待感を抱かせながら観終えるとどうもモヤモヤが残り、本作で描かれるべきだった真の課題は次作に譲られたような印象を受ける。