人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年8月25日~26日/グラウベル・ローシャ(1938-1981)の革命映画(後)

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 今回のグラウベル・ローシャ作品後編は長編劇映画第4作『アントニオ・ダス・モルテス』'69と第10作で遺作となった『大地の時代』'80をご紹介します。『アントニオ・ダス・モルテス』と『大地の時代』の間の長編劇映画には『切られた首』'70(ブラジル)、『七つの頭のライオン』'70(フランス/イタリア)、『癌』'72(ブラジル/イタリア)、『As Armas e o Povo』'75(未公開)、『クラロ』'75(イタリア)の5作があり、長編ドキュメンタリーには『ブラジルの歴史』'74(キューバ/イタリア)、『ジョルジュ・マードの映画』'77(自主製作)がありますが、これらはローシャが事実上国外追放同然の亡命中に製作完成・発表されたためいずれも短期間の公開に終わり、今日でもほとんど上映される機会がありません。しかし初のカラー長編で第4作の『アントニオ・ダス・モルテス』はローシャ作品で日本で初めて公開されたカンヌ国際映画祭監督賞とルイス・ブニュエル賞受賞作であり、今日に至るまで国際的に満場一致でローシャの代名詞とまで高く評価される、映画史に名を残す作品になりました。次作の『狂乱の大地』'67の続編的な『切られた首』'70を最後に43歳の逝去までの10年間をブラジル国外の流浪の亡命映画監督になったローシャにとってブラジル国内で安定した製作環境で完成された最後の作品と言えます。そして病を圧して完成された『大地の時代』はローシャの遺作に相応しいアンビヴァレンスなブラジル讃歌になりました。

●8月25日(金)
『アントニオ・ダス・モルテス』O Dragao da Maldade Contra o Santo Guerreiro (aka Antonio das Mortes) (ブラジル/Mapa Filmes'69)*100min, Eastmancolor, Widescreen(16:9) 日本公開1970年10月24日

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ポルトガル語原題は『邪悪なドラゴンと戦う勇者たち』だが国際タイトルは『アントニオ・ダス・モルテス』で通っている。『黒い神と白い神』'64以来の「アントニオ・ダス・モルテス」伝説に材を採った作品。かつての「キネマ旬報」作品紹介欄はホームヴィデオ普及前は貴重なデータベースであり、戦前のフィルム散佚作品については今なお重要な文献なのだが本作については比較的近年の作品なのにあらすじが間違いだらけでびっくりした。正しくはこうなる。政府も手出しをできない権力者の大地主で老いた盲人のオラシオ大佐(ジョフレ・ソアレス)は警察署長マトス(ウーゴ・カルバナ)、アル中の大学教授(オトン・バストス)、幇間持ちの神父(エマノエル・カバルカンティ)ら地元の有力者を買収して地域の独裁者になっていたが、カリスマ的巫女を中心とした農奴信者たちの動向を懸念した心配性の警察署長マトスはかつてカンガセイロ(匪賊=義賊、レジスタンス)暗殺を依頼したカンガセイロ専門の殺し屋アントニオ・ダス・モルテスに再び調査を依頼する。アントニオはかつての署長の依頼では証拠がなくてもカンガセイロと目星をつければ躊躇なく暗殺するプロフェッショナルだったが、信者集団に潜む狂信的で誇大妄想的なカンガセイロ、マタ・パカ(ビニチウス・サルバトーリ)と信者の儀式中に対決し深手を負わせるも巫女とマタ・パカ、農奴たちの信念に圧倒されて留めを刺せない。一方大地主の若い妻ラウラ(オデーデ・ラーラ)は警察署長と姦通して大地主の殺害をそそのかすが、大学教授の密告で追い詰められた警察署長は神父を射殺してラウラとともに籠城するも、投降すると同時にラウラに刺殺される。教授は傷が悪化して死亡したマタ・パカを看取ったアントニオに大地主みずから農奴たちとアントニオの殺害のために傭兵たちを集めたことを伝え、「真の敵が判った」と言うアントニオの側に教授も寝返るが、すでに農奴たちは巫女とその側近以外の全員が傭兵たちに皆殺しにされており、アントニオと教授は二人で傭兵たちを全滅させる。事態がわからず狼狽する盲目の大地主を巫女の側近が槍で串刺しにする逆光のショットからドラゴン退治の伝説画がエンドタイトルになって映画は終わる。前作のロカルノ映画祭グランプリ作品『狂乱の大地』がカンヌ映画祭ルイス・ブニュエル賞というのはよくわからなかったが、本作のルイス・ブニュエル賞はよくわかる。ブニュエル本人決定による個人賞でラテン・アメリカ作品枠という条件なのかもしれないが、ヨーロッパ復帰の'60年代以降のブニュエルは薄っぺらで類型的でうさんくさい登場人物の群像劇(宗教家が出てくるとなお良い)を好んで描いていたからブニュエルは本作をコメディとして観た。たぶん『狂乱の大地』もブニュエルにはコメディに見えたのだろう。カラー作品なのも大きな魅力で、ただ一方で『黒い神と白い神』の感想文で書いた通り殺し屋アントニオ・ダス・モルテスのアナーキズムは条理を超えた殺戮者の本性にあり、権力の暴虐に虐げられる農奴を目にしても決して回心などしなかった。そこが『黒い神~』をアメリカ合衆国西部劇とは隔絶した作品にしていたのだが、本作は映画として各段に上手くなった代わりアントニオの回心、というよくあるパターンのドラマ性を持ち込んでしまった。『黒い神~』が勧善懲悪劇になりそうでまったくならない喰えない作品だったのに較べて本作は映画の早いうちからアントニオの回心への伏線があり予想通り勧善懲悪劇になってクライマックスを迎える。コメディ視点で観れば大地主オラシオ大佐とその取り巻きたちの戯画化は手際よく、虐殺されたエキストラの数やアントニオと教授のたった二人だけであっさり傭兵軍を全滅させるあっけなさなどギャグすれすれで、露骨に手抜きなガンファイトなどいっそ痛快なほどだが、派手な音楽(マルロス・ノブレ)ともども効果的ではあるものの『黒い神~』から前進したかというと微妙。民衆クーデターを描いたらエキゾチックな政治的エンタテインメントとしては確かにわかりやすくなっているのだが、『黒い神~』の未解決の衝撃力はここでは霧消してしまっている。ともあれローシャの名を映画史に残したのは本作なのには違いなく取っつきやすさで本作を第一に上げるのは異論はないとしても、できれば本作以外のローシャ作品もせめて1本はご覧になってほしい。

●8月26日(土)
『大地の時代』A Idade da Terra (ブラジル/Glauber Rocha Producoes, Embrafilme'80)*151min, Eastmancolor, Standard 日本公開2011年6月18日

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・冒頭5分間のバイーアの海辺の夕陽の逆光の静止映像から「アクション!」と声がかかると、夜のバイーアの森の中で儀式に集う人々が描かれ、教祖らしき男が「私の使命は地球を爆破すること、この地球は小さく貧しいのだ」と叫び、歌と踊りでトランス状態になった老若男女が延々映し出される。いつの間にか場面はブラジリアの昼になりもし、また夜にもなる。唐突に場面はリオの街のカーニヴァルに切り替わる。このエキゾチシズムはヘルツォークの映画を連想するがローシャは'60年代初頭からこれをやっていたわけで、ヘルツォークがローシャの領分から頂戴して整理し洗練させた、という方が正しい。また民衆のカーニヴァルのドキュメント映像からジャーナリストへのインタヴューによる詳細な'60年代ブラジル政変史が挿入されると映画は完全に政治的コメンタリーになり、さらに誇大妄想狂の狂人ブラウムス(マウリシオ・ド・ヴァーレ)の言動が狂言回しとなって映画手法の不統一を体現するかのように前面に押し出されてくる。森の中のフィクショナルな祝祭場面はインディアン・キリスト(ジェス・ヴァラドン)、ブラック・キリスト(アントニオ・ピタンガ)、ミリタリー・キリスト(タルシージョ・メイラ)、リヴォリューショナリー・キリスト(ジェラルド・デル・ヘイ)、オーロラ・マダレーナ(アナ=マリア・マガリャーエス)、アマゾン・クイーン(Amazon Queen)、デヴィル(カルロス・ペトロヴィッチョ)と象徴化されている。バイーアの海岸ではブラジルの民間伝承劇が行われ、都市ブラジリアでは建築工事が進む。カメラマン3名、美術・衣装2名というのも実際はもっといただろうと思われるパノラマ的作品で、全体を通したストーリーやプロットはほとんど読み取れない。ヴェネチア国際映画祭出品、アントニオーニが絶賛というのも一般の観客にはきつい証拠のようなもので、割とありふれた観光映像的セクションとシュルレアリスム映画が混在する。ローシャ自身は「ブラジルの描出の隣に置いた自分自身の肖像」と解説したそうだが、2時間半に渡ってラッシュ・フィルム(未編集)を観せられるような拷問映画と感じる人も多いだろう。だが映像によるエッセイ、プライヴェート・ムーヴィーと思えばこれは相当充実した作品ではないか。フィリピンの個人映画作家キドラット・ヒクミック(『虹のアルバム』'94など)の作品を連想する。'60年代作品4作の政治性が作品ごとに示していた限界を、本作は十分な距離と共感のバランスをとって描いている。長編劇映画とも長編ドキュメンタリー映画とも分類し難い折衷的な作品だが、それが本作を成功させてもいるし、ただし何を言いたい映画か伝わりにくい代償も抱え込んでしまったゆえんなのではないか。