人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年9月4日~6日/ミケランジェロ・アントニオーニ(1912-2007)の全長編劇映画(2)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

 映画とあらばジャンルを問わずお好きな方はあまり気にされないと思いますが、フィクション作品について語るのにやたらと過敏に「ネタバレ」に怒る人がいます。いつの世からこうなったものか、'70年代の映画まではDVDの特典映像などでオリジナル予告編が観ることができますが、現在の予告編よりかなり長めで、しかも映画の冒頭から結末までの名場面を網羅したものも多く、観客を呼ぶには積極的なネタバレも厭わないというか、映画を観ることは原作小説を読んでいるとかほとんどダイジェスト編集といえる予告編を観るのとは別、という常識が働いていたわけです。確かにミステリー仕立ての作品など配慮も必要なものもありますがそうした作品は全体から見ればわずかで、チャップリンの映画にどんな名場面があると称揚して「楽しみにしていたのにネタバレされた」と怒るレベルで過敏な人もいるようです。つまり視覚表現作品の鑑賞と文章での情報記述を混同してしまうような人ですが、アントニオーニの映画はヨーロッパの芸術映画の領域にありながら手法・内容ともに意表を突いたものであるため、先入観や前知識の有る無しが印象・感想を左右する場合も想定されます。以前ギャグまんがの面白かったギャグを書いたら「ネタバレされて読む気が失せた。謝罪せよ」と激怒され罵倒されたことがあるので、今さらですが「謎」がポイントの作品でもない限りこの映画日記では映画が観せてくれた内容を楽しく書いたものであることをお詫びしておきたいと思います。常識的には映画のあらすじを書いた文章で映画を知るのは映画そのものを観るのとはまったく別の次元にあるというのが筆者の認識です。
(この前置き再録)

●9月4日(月)
オムニバス『街の恋』L'amore in citta - episodio Tentato suicidio 第2エピソード「自殺未遂」(イタリア/ファロ・フィルム'53)*110min, B/W; 日本未公開(映像ソフト発売)。

イメージ 4

チェザーレ・ザヴァッティーニの企画・製作の下、庶民生活を描いた6編からなるセミ・ドキュメンタリー短編のオムニバス映画。撮影ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ、音楽マリオ・ナシンベーネで、アントニオーニにとってはこの後長編劇映画第8作『太陽はひとりぼっち』'62まで続く(第6作『情事』'60を除く)撮影のヴェナンツォとの初顔合わせであり、次作の長編『女ともだち』'55の題材を先取りすることになる。第1部<第1話>カルロ・リッツァーニ「支払われた愛」街娼たちへのインタビュー、<第2話>ミケランジェロ・アントニオーニ「自殺の試み」自殺未遂者の女性3人へのインタビュー、<第3話>ディノ・リージ「3時間のパラダイス」ダンスホールに集まった人々の3時間の開催時間中のスケッチ、第2部<第4話>フェデリコ・フェリーニ「結婚紹介所」覆面取材の記者が架空友人の人狼症の結婚相手の斡旋を依頼し、地味で慎ましく性格の良い志願者と面談して困惑して断る作り話、<第5話>フランチェスコ・マゼッリ&チェザーレ・ザヴァッティーニ「実話、カテリーナの物語」幼い私生児を抱えて無職のホームレス女性が尼僧院に捨て子をしてしまい逮捕・起訴されるが無罪になるまでをホームレス女性と子供本人が再現ドラマを演じる、<第6話>アルベルト・ラトゥアーダ「イタリア人は振り返る」街を行く女性たちを注視する男たちのスケッチ。

イメージ 5

 第4話と第5話の比重が大きく唯一ストーリー性のある第5話が一応独立した短編として観るに耐えるという程度で、実話が題材、という条件のオムニバスなのにフェリーニだけが大嘘のシナリオを書いてきたそうだが、他はスケッチ的小品ばかりながらアントニオーニ作品はアントニオーニの劇映画から切り取ってきたエピソードのようにアントニオーニらしさが出ていて面白い。アントニオーニ担当作を含め本作の出演者は全員素人が建て前だが、イタリア人は誰もが俳優と言われるのも誇張でなく一癖ありげな存在感と美醜を問わず絵になる風貌で、決まっているのかいかれているのかわからないファッション・センスなどイタリアの世相風俗が垣間見られるだけで見応え十分。英語圏やヨーロッパ以外の国々でもそれなりに忘れられないでいるのはフェリーニとアントニオーニという目玉商品あってこそで、確かにこの2人の提供作品の出来が突出しているのがさすが後年に国際的大成しただけあるが、本作品製作年度ならば当時どの監督も知名度・作品ともに大した差はなく空気感では統一性があるのであまり期待せずに雰囲気だけを楽しむつもりで観るのがいいのだろう。それでもフェリーニとアントニオーニが参加していなかったらイタリアン・ネオリアリズモ作品中の忘れ去られたオムニバス映画になったと思うが、6編中2編のために観ても惜しくはない。フェリーニ、アントニオーニともに出世作を控えた微妙な時期だけあって同世代のライヴァル監督たちとのコンペティションという趣きもあり、この2者圧勝というのがさすがだ。いっそ2人に3話ずつ担当させたらもっと良かったのにとは本作の方針からも外れるし言い過ぎか。アントニオーニは第3作『椿なき女』(前回紹介)の年、フェリーニはこの年『青春群像』、翌年『道』'54とアントニオーニに大差をつけ、アントニオーニの次作は2年後になるがそこでやっと成功作と言えるものが生まれる。もう40代半ばの遅い出世作ではある。

●9月5日(火)
『女ともだち』Le Amiche (イタリア/トリオンファルツィーネ'55)*104min, B/W; 日本公開昭和39年(1964年)1月

イメージ 6

イメージ 7

・長編劇映画第4作にしてようやく出世作となった女性映画の佳作。イタリアの太宰治ことチェーザレパヴェーゼ(1908-1950)原作(「パヴェーゼの小説からヒントを得る」とクレジットされる)、脚本アントニオーニと共作ライター2名(いずれも女流作家)、撮影ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ、音楽ジョヴァンニ・フスコ。ヴェネツィア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞賞、イタリア映画祭銀リボン監督賞、撮影賞、助演女優賞(ヴァレンティナ・コルテーゼ)受賞作。「Speak Low」に似た主題曲。「トリノ・1953年」の字幕とともに自殺未遂現場の発見から始まる。トリノの店に着任した婦人服店の女支配人クレリア(エレオノーラ・ロッシ・ドラゴ)はホテルの隣室の女性ロゼッタ(マドレーヌ・フィッシャー)が睡眠薬自殺未遂を起したことから、ロゼッタの友人のブルジョワの離婚夫人モミーナ(イヴォンヌ・フルノー)を中心とした4人の女ともだちと知りあう。ロゼッタの自殺は友人の画家夫婦ネネ(ヴァレンティナ・コルテーゼ)の夫ロレンツォガブリエレ・フェルゼッティ)との恋愛が原因だっが、一命はとりとめる。ネネは芸術家だが賢明で、夫とロゼッタの関係を知りながら静観するという冷静な態度を保つ。クレリアは店の設計・内装を担当したチェザレ(フランコ・ファブリッツィ)の助手カルロ(エットレ・マンニ)に惹かれる。ロゼッタは親切なクレリアの助言でロレンツォとの愛の成就を願う。だが個展に失敗したロレンツォは悲観して粗暴になり、一方ネネの個展は成功してアメリカでの個展にスポンサーがつく結果になる。三角関係を清算する好機とモミーナに煽られたロゼッタはロレンツォに最後の回答を求めたが、ロレンツォはロゼッタを拒否し、ロゼッタは入水自殺を遂げる。それを知ったクレリアはこれまで人間関係を操って楽しんでいたモミーナを大勢の客の前で、失職を覚悟で激しく罵倒する。クレリアは免職を機にカルロとの結婚を決意し田舎に帰ることにするが、思いがけず経営者はクレリアをローマ本店への栄転に抜擢する。クレリアは思い直し、ローマ行きに買い替えた切符で列車に乗り込みカルロに別れの挨拶を送る。ロゼッタの列車が遠ざかるのを残されたカルロは茫然と見送り続ける。

イメージ 8

 偶然ラストシーンがフェリーニの『青春群像』と似ているが意味合いはまったく違うし、またイタリアの地方都市ニート青年たちを描いた『青春群像』と本作の女性たちは生活感覚的にもまるで接点はない。本作製作の頃といえばベルイマン(アントニオーニより6歳年少)は第14作~第16作目に当たる『愛のレッスン』'54、『女たちの夢』'55、『夏の夜は三たび微笑む』'55を発表していたが、女性映画の監督と言われる割にベルイマン映画は女性が主役で女性同士の関係を描いていても(映画の良し悪しとは別に)視点は男性登場人物に置かれているか、女性からの男性登場人物への観察はさほど力点にないか、あっても男女関係の主導権は時に男性、時に女性と映画の中では変化が起こらない。それを思って一見進展のなかった前作『椿なき女』を見ると、女性映画としての一貫性と男女関係を女性視点から描きヒロインに批判的観点を持たせる意図は題材が陳腐ながら成功していた(だが題材が陳腐なので意図が埋もれてしまった)のに気づく。本作は徹底して女の世界で、職業婦人も有閑マダムもいるが男は女性同士の関係のダシでしかない。あまりにぼんくらな男ばかりしか出てこないのが都合がよすぎる気がするが、この先(というか前作から)アントニオーニの映画は大半駄目な男しか出てこないことになる。カメラマンが代わって最初の長編になるが一貫性は大したもので、初期3作の長回しや巧みな移動、構図を引き継いでさらに洗練させている。第2作『敗北者たち』で内容上始まった手法だが、前作『椿なき女』で試してぎこちなさを生んでいた切り返しショットの排除が本作では徹底され、かつ自然になっている。コンテを決めて細かくカット割りするタイプとは思えないのでリハーサル中に決めていき、編集で調整していると思われ、シーンの終わりが半端に次のシーンとクロスフェイドする箇所が本作では目立つがたぶん初見ではこれは気づかず、次作『さすらい』ではほとんどなくなるから本作はそうした面に新カメラマンとの実験段階らしい粗が残っているが、パヴェーゼ(睡眠薬自殺してイタリア文壇に衝撃を与えた)の原作と『街の恋』の「自殺未遂」のエピソードで実際の自殺未遂女性たちの談話を取材してキャラクター造型が明確だったのだろう。完成に2年かかったのは資金繰りのために中断があったからだそうで、同様の事態は次作『さすらい』、次々作『情事』でも起こったという。本作の結末は一見ヒロインにとってのハッピーエンドに見えて観客にはまるでハッピーには見えず、冷静に考えてもヒロインはトリノで嫌な人間関係をくぐってきただけでそこから抜け出したのはプラマイ零でしかない。前作『椿なき女』よりヒロインがはるかに意志的な女性に描かれたのが普通に映画として成功している。にわかに前途有望になってきたアントニオーニだが、毎回製作プロダクションが替わる通りに次回作もまた2年後になる。だがそれは予期できないほど驚くべき作品になった。

●9月6日(水)
『さすらい』Il Grido (イタリア/F.カンテンチェリ, SPAエリチネマトグラフィーカ'57)*111min, B/W; 日本公開昭和34年(1959年)4月、キネマ旬報ベストテン第3位

イメージ 9

イメージ 10

・長編劇映画第5作にしてアントニオーニの映画の日本初公開となった記念すべき作品。原案アントニオーニ、脚本はアントニオーニと共作ライター2名、撮影ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ、音楽ジョヴァンニ・フスコ。ロカルノ国際映画祭国際批評家連盟賞、イタリア銀リボン撮影賞、ケルン青年批評家賞受賞。北イタリアの寒村ゴリアーノに住むアルド(スティーヴ・コクラン)は村の精糖工場に勤め、夫がオーストラリアに働きに出たまま戻らないイルマ(アリダ・ヴァリ)と内縁関係が7年になり女児ロジーナ(ミルナ・ジラディ)もいるが、ある日イルマの夫の死亡通知が届く。だがイルマは4か月前から別の男のもとに行こうと決めており、アルドを愛してはいるがもう一緒には暮らせないという。アルドは懇願するもイルマは翻意せず、ついにアルドは村の大通りでイルマを打つ。アルドは娘を連れて家を出て、放浪の旅が始まる(ここまでで映画24分目)。アルドはまずイルマと出会う前まで婚約者だったエルヴィア(ベッツィ・ブレア)を訪ねて娘ロジーナともども歓迎されるが、アルドが職探しに外出中に元婚約者宅に目星をつけてアルドとロジーナの荷物をイルマが届けに来たことから自分を捨てた原因の女と別れたから来たのかとエルヴィアの怒りを買って父娘はエルヴィアの家を出る。ヒッチハイクでハイウェイ途中のガソリン・スタンドで乗せてもらったトラックから下りた父娘は仕事の手伝いの代わりに若く精力的な未亡人ヴィルジニア(ドリアン・グレイ)とアル中の老父の世話になる。アルドとヴィルジニアは急速に接近し、老父の養老院入りをきっかけにアルドはヴィルジニアの勧告でロジーナをゴリアーノに帰すが、娘の不在はかえってアルドをイルマの思い出に悩ませ、アルドはヴィルジニアを振り切ってまた放浪生活に戻る。職を探して定住する意欲も失ったアルドはポー河の河岸の小屋でアンドレイーナ(リン・ショウ)という肺病の女に出逢う。アンドレイーナは無邪気な娼婦だったが長雨続きで食糧が尽きた晩に村の食品店に盗みに行き、アルドはアンドレイーナを制止してそのままアンドレイーナと別れる。アルドがゴリアーノに着くと村は空港建設反対デモで警備が敷かれていており、アルドは通りで家に入るロジーナを見かけてイルマの家と目をつける。窓から見えるイルマは赤ん坊に湯あみをしている最中で、イルマと一瞬目が合うがアルドはそのまま村をさまよう。アルドは放心したように精糖工場の塔に登り、ポー河が延び、田園が広がる景色を一望する。イルマはアルドを追い工場へ来てアルドの名前を叫ぶ。アルドは塔の真下のイルマを見るが体の揺れが治まらない。突然アルドは倒れ、イルマの面前でアルドの体は地上に叩きつけられる(転落は写されずイルマの反応と音声で表される)。イルマは絶叫し、アルドの遺骸の脇に座りこむ。

イメージ 11

 スティーヴ・コクラン、ベッツィ・ブレアはアメリカ映画俳優で、コクランはサミュエル・フラー原案で考証の正確さと題材の稀少性から戦車マニア必見と言われる『肉弾戦車隊』'51(ルイス・セイラー、D・ロス・レダーマン共同監督)の主演俳優で、ドリアン・グレイも台詞の吹き替えを無名時代のモニカ・ヴィッティが担当したそうだからコクランもブレアも本人の声ではないかもしれない。イタリア映画は吹き替えが常套で外国映画など映画館上映でもイタリア語吹き替えが一般的だそうだし、フェリーニ『道』のアンソニー・クインに倣ってハリウッド映画の俳優を使うのがスポンサー要求だったのかもしれない。結果は吹き替えかどうかはともかく、コクランもブレアもグレイ(イギリス人女優か?)も名演で、イタリア人スター女優のアリダ・ヴァリ(『第三の男』『夏の嵐』など)と共演して遜色ない。作品のシンプルで深みのある力ではアントニオーニ作品中いちばんわかりやすくインパクトも強く、アントニオーニの諸作の本質的な部分も凝縮されているのでこの監督の作品を初めて観るなら本作をお勧めしたい。いちばん最初に『情事』や『欲望』を観るとアントニオーニ嫌いになるか他の作品に違和感があるかどちらかになってしまう。本作の日本初公開時に採録シナリオを掲載した映画誌「映画批評」で、当時の編集長の品田雄吉氏が編集後記で『さすらい』への驚嘆を記し、映画史上画期的な作品なのではないか、と書いていたのをバックナンバーを読んで知って品田氏の見識に賛嘆したが、有名作品なので推理小説の古典的作品のように嫌でもネタバレ紹介を見ずには先入観なしに観られない作品なのが惜しい、ってつまりこういう紹介なのだが、本作の大胆な結末は映画のトーキー化以後のリアリティの水準では不可能になっていたもので、サイレント時代ならばサイレント映画のリアリティは現実法則から相当逸脱していても崩れなかったので融通が効いた。フランスのヌーヴェル・ヴァーグ、また理論派のアラン・レネらが登場する直前に本作が品田氏をそこまで瞠目させたのはプロット、キャラクター、設定、ストーリーなど映画の構成要素とされる常識的話法にまったく頓着しない映画話法の解体、それを裏打ちする映像文体の確立、さらにこうした作品が現れた歴史的必然と本作の延長上に考えられる映画史的影響力、さらにヴァリエーションの汎用性、などといったものをアントニオーニ作品を『さすらい』だけを初めて観て品田氏の慧眼は見抜いたということだろう。もし『さすらい』が最新作の時点でアントニオーニ作品を『さすらい』だけ観て(案外その方が本質に直接迫れたかもしれないが)品田氏のように「映画史上画期的な作品」と直観できた人はそう多くはあるまいし、自分が同時代人だったら半分はイカモノかもと留保をつけたに違いないが、本作の射程はモンテ・ヘルマンの陰気なホッドロッド映画『断絶』'71やサム・ペキンパーの陰惨な賞金首映画『ガルシアの首』'74まで届くことになる。ヒッチハイク中に散歩中の精神病院患者の集団とすれ違い幼いロザーナが泣き出しアルドが「おとなしい人たちなんだよ」と慰める、あってもなくてもいい場面などベルイマンが「おれがやってたのに!」と地団駄を踏んで悔しがったに違いないが、他人の映画から影響を受けるような映画監督の作品でないのはひと目でわかる。アントニオーニ作品は『情事』と『夜』の影響力、『欲望』の影響力と異なる系譜が引けるのだが、『さすらい』は時期的に早いのと骨格が太く一種無国籍的な普遍性があることもあって独自の影響力を持つ作品になった。『女ともだち』同様撮影中断を挟んだ難産作品になったが映画の統一感は製作進行トラブルを感じさせない。昔深夜テレビ放映で観たヴァージョンは途中のエピソードをざっくりカットしたテレビ用短縮版だったのも懐かしい。本作の国際的成功で次作『情事』の製作に入ったアントニオーニは途中で完全な製作中断まで遭いながら3年がかりで生涯最大の問題作を世に問うことになる。『さすらい』で驚いた観客は『情事』で前作以上の衝撃を受けることになり、1960年のカンヌ国際映画祭は『情事』とフェリーニ甘い生活』の一騎打ちとなる。

イメージ 12

イメージ 13