さて、第4作『道』1954(ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞、アカデミー賞外国語映画、NY批評家協会賞外国映画賞受賞など)で世界的人気名声を博したフェリーニは『崖』1955、『カビリアの夜』1957(アカデミー賞外国語映画賞、カンヌ国際映画祭女優賞ほか受賞)も続く好評に迎えられます。一方同時代イタリアのポスト・ネオレアリスモの映画監督でフェリーニに並ぶ存在に『女ともだち』1955(ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞)、『さすらい』1957(ロカルノ国際映画祭金豹賞受賞)のミケランジェロ・アントニオーニ(1912-2007)がいました。奇しくも1960年には両者の新作が評価を二分することになったのです。フェリーニの新作『甘い生活』(イタリア公開1960年2月5日)はカンヌ国際映画祭パルム・ドール(グランプリ)受賞、NY批評家協会賞外国映画賞を受賞し、アントニオーニの新作『情事』(イタリア公開1960年6月20日)はカンヌ国際映画祭審査員賞、英国映画協会サザーランド杯を受賞しました。しかし不気味なほど静謐なアントニオーニ作品とフェリーニ作品はまったく異なる方向性を持ったものだったのは面白い現象です。
4月3日(月)
『甘い生活』(イタリア/フランス'60)*175mins, B/W
・主要登場人物は3人だけ、しかも1人は前半1/3で姿を消してしまい事件らしい事件は何も起こらないまま終わるアントニオーニ『情事』と較べて本作の何と賑やかなことか。昔硬派の文学青年、今は暴露記事専門のフリーランス記者になっている主人公の仕事と私生活から現代ローマの頽廃を描くオムニバス映画風大作だが、実はメロドラマなど信じてもいなければ心底女嫌いなワイラーの皮肉な観光映画『ローマの休日』ほどにも徹底していない。『ローマ~』の記者は王女を騙して何の悔いもない非情な悪党だが本作のマルチェロ・マストロヤンニは千両役者ぶりを除けばただのお人好しなだけで、フェリーニの意図では残酷な現実に晒されて夢破れた人物のはずだがこの作品は軽薄な人物は出てきても悪のヴィジョンはないから皮肉でも何でもなく観光映画以上でも以下でもなくなっている。ヘリコプターで運ばれる巨大キリスト像を見上げる水着女性たちの歓声から始まり、漁師たちが引き上げた巨大なエイの死骸から振り向くと岩場の遠くに海の家勤めの少女のジェスチャー(以前主人公と知りあい、タイプライター習おうかしらという話を打診しているが、主人公は「聞こえないよ」としか言わない)で終わる映画だが、映像に象徴や多義性を託せるだけ託して見世物としてはヴォリューム満点だが内実は疑わしい作品になった。作品世界が『青春群像』から広がりも深まりもしていないばかりか、道具立てに努力の大半を費やした分むしろ焦点はぼやけてしまった。ニコが主役になるお化け屋敷のエピソードなどなくてもまったく問題ない(若き日のニコことクリスタ・パフゲンが拝めるのは嬉しいが)。アニタ・エクバーグを歓待するエピソードは『ローマの休日』のパロディとしか思えないが『ローマの休日』自体が『或る夜の出来事』の観光映画版パロディなのだから屋上屋で、一体この映画では『青春群像』や『道』にはあったユーモアやペーソスが消えている代わりに何が加わったか、と言えばマストロヤンニというフェリーニのペルソナを押し出した。その効用は絶大だが、一方では走行中の車中シーンのショットの汚さといい、さりげなくきちんと描かれてしかるべきショットに手抜きが目立つ。無から有をつかみ出すようなアントニオーニへの対抗意識があったとしたら完全に裏目に出た。塚本邦雄の寺山修司宛公開書簡でゴダールの『軽蔑』を絶賛し、同作に較べれば「『甘い生活』なんて甘いものだ」と一蹴した評があるが、『甘い生活』が評価の高い人気作品なのも結局は映画としての甘さから来るもので、フェリーニのどこか俗っぽい感覚も人気の秘訣になっているように思える。もちろんこれは作品がれっきとした成功作だからこそ言えることでもある。
4月4日(火)
『81/2』(イタリア'63)*138mins, B/W
・『甘い生活』と並んで観直した回数ではフェリーニ作品中1、2を争う。そしてこの2作とも最初に観た時がいちばん面白く、観直すたびに面白くなくなっていく。折れ線ではなく右肩下がりに一直線、と言っても良い。『甘い生活』と本作の間にオムニバス映画『ボッカチオ'70』1962への参加があり(他にマリオ・モニチェリ、ルキノ・ヴィスコンティ、ヴィットリオ・デ・シーカ参加)、フェリーニの第2話『アントニオ博士の誘惑』はアニタ・エクバーグが巨大化する妄想エロチック・コメディだった。フェリーニにはちゃんとコメディへの志向もあったことがわかる。ところで『81/2』もアカデミー賞外国語映画賞、NY批評家協会賞外国映画賞受賞ともはや有力国際映画賞常連となっているが、アントニオーニの『情事』の次の監督作品『夜』1961(ベルリン国際映画祭金熊賞受賞)についてジョナス・メカスが映画の冒頭で「ヘリコプターが飛ぶ。だがありがたいことにキリスト像は運んでいない」と暗にフェリーニを皮肉ったように、また『夜』の次作の『太陽はひとりぼっち』1962(カンヌ映画祭審査員特別賞受賞)について「『夜』の次に本作が来るのは予想ができた。だが『太陽はひとりぼっち』の次にはアントニオーニはどんな映画を撮るのかわからない」と驚きをもって賞賛したようには『81/2』には驚きがない。三文記者に落ちぶれた文学青年のなれの果ての自己憐憫を映画監督に置き換えれば当然こうした映画になるので、『甘い生活』でマストロヤンニというペルソナを得たフェリーニならばむしろ本作の着想は『甘い生活』製作中には芽生えていたのではないか。本作も恣意的なエピソードに満ちていて映画が象徴と多義性の重みでふらついている。やたらと長いハーレム妄想は明らかにギャグなのだが笑えない面白さですらない。43歳の映画監督、といえば踏みにじってきた他人の人生の総量は計り知れず、「人生は祭り」かもしれないが映画は生まれる先から死んでいく墓場くらいのニヒリズムくらい持ち得ていないわけはない。そこで結局またしてもフェリーニ映画は核心をうやむやにして偽物のハッピーエンドで結ばれる。硬派のインディペンデント映画作家メカスがアントニオーニ、レネ、ゴダールを賞賛してもフェリーニについては言及すらしないのもわかるような気がする。的確かつ簡潔な評言でフェリーニ作品を褒めるのは簡単そうでいて難しいとつくづく思う。
4月5日(水)
『魂のジュリエッタ』(イタリア/フランス'65)*132mins, Deluxecolor
・精神分析的映画、といってありがたがるような人にはベルイマンやフェリーニはイコンなのだが、その辺がいちばんやばく露出したのも『甘い生活』『81/8』『魂のジュリエッタ』(ゴールデン・グローブ外国映画賞、NY批評家協会賞外国映画賞受賞)の3作なのではないか。ベルイマンは措いといて、フェリーニの良い映画では現代人の内面やら潜在意識などまるで問題とされていない。実際は上記の3作品だって怪しいもので、それらしいものをちらつかせて文学などまるで読まないし映画の良し悪しもわかならい客を高尚そうな意匠だけ借りて釣っているだけで、本音は見世物師に近い感覚で映画を作っていたのではないか。フェリーニ自身を暗示する主人公を据えた『甘い生活』と『81/2』ではとにかく映画全編を太い筋で一貫することができたから論議の余地こそあれ成功した。つまりマストロヤンニ演じるフェリーニのペルソナはけっこういい加減な男で、ややこしくなってくると適当な所でメタ映画的なオチでカタをつけてしまうのだった。後はお客様の解釈でどうぞ、という逃げ場もある。アントニオーニとの比較はやめる。さてフェリーニ自身を投影した2作の後は夫人マシーナ主演の『魂のジュリエッタ』に向かった。女性版『81/2』と言われるように手法は現在過去虚実(想像、妄想、幻覚)入り乱れた初のカラー長編絵巻で、フェリーニは夫人マシーナ個人のパーソナリティを女性一般のパーソナリティに置き換えられると考えてマシーナ夫人でもなく女性一般でもない何だかわからない対象にぶつかってしまったのではないか。そこでヒロインが夫の浮気疑惑から心の平静を得るため東洋思想学習会やら精神分析やらで「本当の自分」を探す物語になる。もともと西洋人が大好きなテーマだが、それで現実の問題が解決するわけでは当然ない。マシーナの演技が『道』や『カビリアの夜』とは別人のように固い。「夫の浮気」が妻のアイデンティティの崩壊につながる、というテーマの前提自体「女性全般」に結びつけるには無理がある。一夫一妻制は歴史的にも地域的にも社会階層的にも限定された制度でしかないし、夫婦といえども人格までもが相手に依存するものではない。するとこれはよほどの夫、たとえば絶対的権力者の妻ならではの事態で、フェリーニとマシーナの関係が普遍的であるように錯覚して作られた映画なのではないか。そうだとすればこれほど身も蓋もない映画は歴代主演女優を軒並み愛人にしてきたベルイマンが歴代主演女優揃い踏み映画を作った例などが真っ先に思い浮かび、おそらく『魂のジュリエッタ』ほど意欲的な失敗作はフェリーニにも不覚だったと思うが本作でコケたから次作の長編『サテリコン』1969以降'70年代の外向的大風呂敷路線が始まる。『81/2』からいきなり『サテリコン』はあり得なかったわけで、映画監督のフィルモグラフィーというのも後から作ったみたいによくできているものだと感心させられる。
(以下次回)