人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年9月27日・28日/重鎮ウィリアム・ディターレ(William Dieterle, 1893-1972)作品を観る(3)

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 今回・次回ご紹介するのは第2次世界大戦後のディターレ作品で、前回の『ノートルダムの傴僂男』'43(そういえば同作、何か似た作品があったなと思ったらジャン・ルノワールの反ナチ映画でチャールズ・ロートンモーリン・オハラ主演の『自由への闘い』'43でした。意外なところでつながっているものです)からはほぼ10年飛んでしまいますが、その間の代表作には、ジョン・ヒューストン脚本の、
『革命児ファレス』Juarez (1939)
『偉人エーリッヒ博士』Dr. Ehrlich's Magic Bullet (1940)
 に続き、
『悪魔の金』The Devil and Daniel Webster (1941)
『恋の十日間』I'll Be Seeing You (1944)
『ラヴレター』Love Letters (1945)
 等があります。ヴィデオソフト普及前には戦後作品『欲望の砂漠』Rope of Sand (1949)、『黒い街』The Turning Point (1952)などとともにくり返しテレビ放映されていたものです。そこで今回のジョセフ・コットン(1905-1994)主演のラヴ・ロマンス映画2作は、アメリカ本国でのヒットを受けた話題作として日本公開されたタイミング、甘美な内容と合わせておそらく日本でもっとも愛されてきたディターレ作品になりました。同様のことは諸外国でも言えるようで、映画史上の名作というと『真夏の夜の夢』『科学者の道』『ゾラの生涯』で特筆されるディターレですが真に愛されているのは珠玉の小品『ジェニイの肖像』『旅愁』なのは膨大な諸外国版ポスターが存在すること(あまりに多いので本国版ポスター3点ずつに絞りましたが)、映像ソフトのロングセラー作品になっていること、原作小説のある『ジェニイの肖像』の原作がくり返し翻訳され日本でも版を重ねていることの他にも、『ジェニイの肖像』と『旅愁』を焼き直したような作品が今でも多く製作されているのが何よりこの2作の人気を物語っているようです。この2作の基本アイディアはよほどアメリカ人好みなのか同時期にも類似作があり、必ずしもディターレ作品の影響ばかりとは言えませんが、アメリカ人のみならず日本人やヨーロッパ人好みでもあるのは『ジェニイの肖像』と『旅愁』の直接の影響が大きいのではないかと思われます。今回もキネマ旬報の近着外国映画紹介から解説文を引用させていただきましたが、キネマ旬報は資料性から映画の結末までを記載しているので、未見の方はあらすじの最後の数行は読まないほうが楽しめるかもしれません。結末を知っていても作品鑑賞の本質には変わりはありませんが、この2作はサスペンス/スリラー的要素で引っ張っていく面も強い作品です。感想文では結末については直接触れない書き方に留意しました。

●9月27日(水)
『ジェニイの肖像』Portrait of Jennie (セルズニック/MGM'48)*86min, B/W, Color Tinted & Technicolor; アカデミー賞撮影賞白黒部門(ジョセフ・オーガスト)ノミネート・特殊効果賞受賞、ヴェネチア国際映画祭男優賞受賞(ジョセフ・コットン)/日本公開昭和26年7月3日(1951/7/3)

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(キネマ旬報近着外国映画紹介より)
ジャンル ドラマ
製作会社 セルズニック映画
配給 東宝洋画部
[ 解説 ] 「レベッカ」のデイヴィッド・O・セルズニック製作になる1947年度作品で、ロバート・ネイザン(「気まぐれ天使」)の同名の小説からレオナルド・バーコヴィッチ(気まぐれ天使)が潤色、「仔鹿物語」のポール・オスボーンがピーター・バーニースと協同で脚色し、「欲望の砂漠」のウィリアム・ディーターレが監督した。撮影は「悪魔の金」のジョセフ・オーガスト、音楽は「西部の男」のディミトリ・ティオムキンで、ドビュッシイの曲を使用している。「ガス燈」のジョセフ・コットン、「聖処女」のジェニファー・ジョーンズをめぐって、「ミネソタの娘」のエセル・バリモア「奥様は魔女」のセシル・ケラウェイ、往年のスター、リリアン・ギッシュが出演する。なお本作品は幻想的雰囲気を強調するため、さまざまな特殊技巧を使用しているので評判となっている。
[ あらすじ ] 1938年の冬、貧しい画家のイーベン・アダムス(ジョセフ・コットン)はセントラル・パークでジェニーと名乗る可愛い少女(ジェニファー・ジョーンズ)と出合った。彼の描いた少女のスケッチは画商のマシューズ(セシル・ケラウェイ)やスピニー嬢(エセル・バリモア)の気に入り、彼もようやく芽が出かけた。公園のスケートリンクで再びジェニーに出合ったアダムスは、彼女が暫くの間ににわかに美しく成長したのにうたれ、早速その肖像画を描く事を約した。約束の日彼女は来ず、彼女の両親がいるという劇場を訪ねたアダムスは、その劇場が既に数年前に潰れて当時からジェニーは尼僧院に入れられていることを発見した。数ケ月後、消息不明だったジェニーは成熟した女性になって突然アダムスの画室に現れた。彼は直ちに肖像画制作にかかるが、未完成のまま彼女は姿を消してしまった。しかしモデル不在のまま完成したその画は非常な評判となり、アダムスは一躍画壇の寵児となった。ジェニーを求めて尼僧院を訪れたアダムスは、彼女が1920年ニュー・イングランドを襲った津波で溺死したことを聞いた。彼はすぐさま現場の岬へかけつけてボートを漕ぎ出したが、とたん、彼のボートも猛烈な暴風で叩き潰された。命からがら崖にはい上った彼はジェニーのボートが近づいて来るのを見、夢中で救い上げたが、襲いかかった波は二人を呑んでしまった。アダムスが気がついた時、周囲の人々は誰ひとりとしてジェニーを知らなかった。彼女はただアダムスの心の中だけに永久に生きている女性なのであった。

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 成就しない愛、なぜなら一方は知りあう前から死んでいるから、というテーマはポーの作品にもくり返し現れるアメリカ文学の古典的主題で、それも死んでいるのは理想化された女性と決まっており、これはピグマリオン・コンプレックスと並んで映画でも人気のある主題です。ヒッチコックの『めまい』がその頂点で、男のネクロフィリアが哀切で興味深いというより徹底的に理想化された女性像を描くとするとすでに亡くなっている方が都合がいい、ということでしょう。またファンタジー小説で多用されるアイディアですが、異なる時間軸を生きている男女の恋、という設定があり、本作はその両方を合わせた作品です。ジョセフ・コットンは青年画家の設定には年輩ですが実年齢不詳の万年青年みたいな風貌なので役柄にうまくはまっており、ジェニファー・ジョーンズはセルズニック夫人でとにかく役に恵まれた女優で、本来は『慕情』や『白昼の決闘』のような暑苦しい熱愛ロマンス向けの容貌でけっこう派手目で大味な美人なのですが、『聖処女』といい本作といい清純に徹した役をやらせても上手い。他のキャストも渋く、カメオ出演に近い地味な役ですが尼僧院で登場するメアリー尼僧はリリアン・ギッシュだったりしますし、エセル・バリモアは俳優一家のバリモア家出身で兄はライオネル・バリモア、弟はジョン・バリモアという人でやり手のヴェテラン女性ビジネスマンの雰囲気がよく出ており、セルズニックはリリアン・ギッシュとバリモア家には恩義があるのか『白昼の決闘』でもライオネル・バリモアとリリアン・ギッシュが老夫婦だったのを思い出します。ヒロインはワンポイントではなく登場するたびに成長している、というのも見せ所で(これも多くの後続作のお手本になっています。須川栄三の遺作で山田太一原作『飛ぶ夢をしばらく見ない』'90のように若返っていくパターン、主人公だけが歳を取りヒロインまたはいつまでも若いパターン、男女逆のパターンなど)、原作の着想ですが主人公が画家でヒロインと再会する折々肖像画を描き残す、というのが本作のミソでしょう。こういう異時間軸恋愛物は以降どしどし出ましたが、肖像画というアイディアまで踏襲してしまうとパクリになってしまいます(もっとも主人公が謎のヒロインまたはヒーローの年齢の変わらない過去の絵画、または写真を見つけて正体に気づく、というパターンはよくあります)。本作のヴェネチア国際映画祭男優賞受賞(ジョセフ・コットン)は『市民ケーン』以来のコットンのキャリアを思えばまず妥当で、アカデミー賞撮影賞白黒部門(ジョセフ・オーガスト)ノミネート・特殊効果賞受賞はもっとあげてもいいのではないかと思いますがセルズニック製作作品は『風と共に去りぬ』『レベッカ』を筆頭に散々アカデミー賞を獲得してきたので本作は技術部門のみになったのでしょう。ディターレ作品はいつもそうですが、本作も撮影が本当に見事です。特殊効果賞は6人の技術スタッフに与えられていますが、クライマックスになる嵐の海の凄まじい波濤(ここからB/Wフィルムの染色カラーになる)のどうやって撮影したかを思うととんでもないスペクタクル映像はスクリーンプロセスや3Gでは再現できるものではなく、これはネタバレしてもいいと思いますがヒロインの最後の肖像画を写した映画のラスト・カットだけテクニカラーになるのはこの映画を伝説的作品にした素晴らしいアイディアで、B/W作品の1箇所だけカラー(または染色)にして効果を狙った例は『戦艦ポチョムキン』から『天国と地獄』まで数多くありますが(特にカラー作品の一般化の前には多く、サイレント時代からすでにテクニカラーは使用されています。また低予算の成人映画では見せ場だけカラーにする手法も多く使われました)、本作ほど印象に残る、余韻を残すパートカラー使用は即座には思いつかないほどです。まったく逆ですが、カラー映画なのにクレジット・タイトルとショッキング・シーンのみB/W映像になるロジェ・ヴァディムの『血とバラ』'60くらいでしょうか。映画の格調ではディターレにヴァディムを引き合いに出すなど無礼千万なので、コットンにとってもジョーンズにとってもディターレにとっても実際は異色作なのですが、本作は珠玉の純愛ファンタジー映画として長く残る作品です。静かな語り口のせいか、サイレント映画的な雰囲気があるのも良い味を出しています。こういう作品をさり気なく送り出してくるのもまだハリウッド映画の良心が生きていた時代を感じさせます。

●9月28日(木)
旅愁』September Affair (パラマウント'50)*104min, B/W; ゴールデン・グローブ賞音楽賞(ヴィクター・ヤング)受賞/日本公開昭和27年4月24日(1952/04/24)

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(キネマ旬報近着外国映画紹介より)
ジャンル ラブロマンス / ドラマ
製作会社 パラマウント映画
配給 パラマウント日本支社
[ 解説 ] イタリイを舞台にした恋愛メロドラマ1950年作品で、製作は「欲望の砂漠」のハル・B・ウォリス、監督は「ジェニーの肖像」のウィリアム・ディーターレ。フリッツ・ロッターの原作より「別働隊」のロバート・ソーレンが脚色、撮影は「囁きの木陰」のチャールズ・ラング・ジュニア、欧州ロケの撮影は「殺人幻想曲」のヴィクター・ミルナー、作曲は「テキサス決死隊(1949)」のヴィクター・ヤングの担当。主演は「白昼の決闘」のジョセフ・コットンと「レベッカ」のジョーン・フォンテーンの初顔合せで、「女だけの都」「宝石館」などのフランソワーズ・ロゼエ(アメリカ映画初出演)、「モナリザの微笑」のジェシカ・タンディ、「頭上の敵機」のロバート・アーサー、ジミー・リンドンらが助演。なお、主題歌「セプテンバー・ソング」は10年前のブロードウェイ・ショウのヒット・ソングで、故ウォルター・ヒューストンの吹き込み。
[ あらすじ ] イタリイから米国へ向かう旅客機に、若いピアニスト、マニナ・スチュアート(ジョーン・フォンテーン)と紐育の技師デイヴィッド・ローレンス(ジョセフ・コットン)が乗り合わせた。マニナはコンサートの契約で、デイヴィッドは妻キャサリン(ジェシカ・タンディ)と離婚するために帰るところだった。だが機が故障を起こしてナポリに不時着した。マニナとデイヴィッドは昼食をとりに町へ出、帰ってみると機は出発してしまっていた。2人は数日間ポンペイとキャプリ島に旅行することにした。キャプリ滞在中、2人の友情は恋に発展していった。そして2人はあの旅客機が墜落し乗客は2人を含めすべて死んだと報告されたことを知った。デイヴィッドとマニナの新しい生活がこのときから始まった。マニナのピアノ教師であり親友であるマリヤ・サルヴァティニ(フランソワーズ・ロゼエ)1人だけがこの2人の恋に忠告をするのだった。その頃デイヴィッドの妻が息子(ロバート・アーサー)と一緒にイタリイに来て真相を知った。キャザリンはまだ夫を愛してはいたが、夫の新しい幸福をそのままに、アメリカへ帰った。デイヴィッドは、この生活を幸福と思いながらも、いつしか無意識のうちに仕事に憧れ、息子を思ってやまなかった。やがてデイヴィッドとマニナも渡米し、マニナの演奏会は大成功だった。だが彼女は今の生活が真実のものでないことに気づき、南米への演奏旅行に1人旅立っていくのだった。

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 これも不思議な映画で、偶然の縁で知りあった仕事・家庭生活に倦怠期を迎えた中年男と、キャリアに迷いが生じている美貌のピアニストがイタリアのカプリ島の風物に酔ってたちまち恋に落ち(キスまで映画開始から30分)、乗りそびれた旅客機が墜落してそのままイタリア在住を決め込みますが、戦前の『孔雀夫人』や『邂逅(めぐりあい)』、戦後の本作や『ローマの休日』などアメリカ映画で描かれるイタリアの極楽浄土の恋愛天国ぶりはいくら何でも都合良すぎて、この映画はコットンとフォンテインが隠れ家恋愛を続けるか打ち切るかだけが焦点になってくるのですが、息子もそろそろ成人で建築会社経営も一代で築いた会社社長のコットンが、暇を持て余すとついつい自分の身元を隠しつつナポリ近郊のダム建設に乗り出してしまうあたりからフォンテインの不安が持ち上がってきます。アメリカ映画初出演というフランソワーズ・ロゼーがフォンテインのピアノの師で、かつコットンの預金の引き出し受け取り人になったことからコットンの夫人と息子がイタリアを訪ねてきて、墜落事故死者リストに写真つきで報道されていたフォンテインの生存に気づきコットンの生存を知るのですが、フォンテインの方はだんだんいたたまれなくなってくる。結局予定されていたニュヨークでのピアノ・リサイタルを大成功させて、フォンテインはこれを最後にピアニストを引退してコットンとイタリアに戻る、と言っていたわけですが、ラストの数分間までコットンもフォンテインも自分たちの運命を決定しないので、説得力はあるエンディングですが予想通りだった場合でも予想がひっくり返った場合でも非常に唐突な印象の残る結末になっています。駆け落ちするはず(あるいはまず無理)という結末が二転三転、という例はいろいろあるでしょうし男女の仲の話ですから土壇場までわからない作りの映画は山ほどあり『モロッコ』や『風と共に去りぬ』『カサブランカ』のようにエンディングで語り草になった映画もありますが、本作の突き放したような結末は大半甘美なラヴ・ロマンスの調子で進んできた映画全編の基調を覆して、ムードに浸ってきた観客を置き去りにして終わってしまうような大胆さがあります。取って付けたような結末というわけではなくこうなる伏線もちゃんとあるのは、映画の中盤から視点人物が固定されることでも納得のいくものですが、それがどういう決断になるかまでは主役カップルの心は読めないので、現実的でもあり映画としても矛盾はありませんが実に身も蓋もないエンディングで、フリッツ・ラングのやはり身も蓋もない結末のメロドラマ『熱い夜の疼き』'52ほどではないものの、思い切り甘口のメロドラマを辛口の結末で締める味わいがかえって中年以上の観客男女には切ない大人のメロドラマになっています。少なくとも戦前にはこうした結末はもっと明るく描かれたはずですが設定自体が不倫とも何とも言えないようなものですから微妙で、本作が今でも人気の高いメロドラマなのもそうした全編を覆う翳りがあらばこそでしょう。イタリア・ロケの観光メロドラマという側面でも満足がいく作品ですから暗いばかりではない映画ですが、甘さと苦みの塩梅を効かせたこの味は戦後作品ならではという感じがして、『ジェニイの肖像』と本作は意図的にコインの表裏のように作られた作品に思えます。