人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年9月29日・30日/重鎮ウィリアム・ディターレ(William Dieterle, 1893-1972)作品を観る(4)

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 前回ご紹介した『旅愁』'50後のディターレは、おそらく『旅愁』のイタリア・ロケ時に平行して製作が開始されたと思われるアンナ・マニャーニ主演主演のイタリア映画『噴火山の女』'50を撮り、アメリカに戻って2本のフィルム・ノワール『不倫の報酬』'50(エドモンド・オブライエン主演)と『虐殺の街』'50を撮ります。'50年だけで4本も撮っているわけです。後者に主演したリザベス・スコットを再び起用した西部劇が今回ご紹介する『赤い山』'51で、スリラー作品『北京超特急』'51(ジョゼフ・コットン主演)とフィルム・ノワール『黒い街』'52を挟み、今回ご紹介のもう1本のリタ・ヘイワース主演の聖書劇『情炎の女サロメ』'53が製作されます。ディターレのハリウッド作品は『巨象の道』'54、『楽聖ワグナー』'55と続いて『勇者カイヤム』'57の後ディターレは元共産党員容疑からパスポートを没収され、やむなくイタリアに亡命して『Dubrowsky』'59、『アンコールワットを狙え』'60を撮り、母国西ドイツに帰国して『Ich fand Julia Harrington』'60と『Carnival Confession』'60の後はテレビ用作品の監督になりますが、1964年に翌年引退するジンジャー・ロジャースの主演作『The Confession』を前任監督降板から引き継ぐ仕事が回ってきて、これが全88作の監督作を持つディターレの最後のハリウッド作品になりました。遺作になったのは西ドイツでのテレビ用作品『Samba』'66でした。監督デビューが1920年ですからドイツ出身でハリウッドでも成功した監督としてはルビッチ、ラングと並ぶキャリアで、かつ現役期間がもっとも長かったのがディターレなのは意外な感じがします。今回の2作などもディターレのハリウッド作品の終わり近いのでポスターもあまりないだろうと思いきや、イタリア、ドイツ、フランス、スペイン版(南米圏)ポスターを含めて無数にあって、戦後にもディターレは娯楽映画のヒットメーカーとして話題作を託されていたんだな、と認識を新たにしました。今回の2作はともに初見の作品だっただけに、特に秀作でも佳作でもありませんが抜群の安定感にゆったりとして楽しむことができました。ディターレ作品鑑賞は今回で終わりですが、また未見の作品を観る機会があれば、なかなか映像ソフトが集まらないロバート・シオドマクかそこそこ集まるエドガー・G・ウルマー、集めてもいないのに集まってくるマイケル・カーティスらドイツ出身監督仲間の作品ともどもご紹介したいと思います。なお今回も「キネマ旬報」の「近着外国映画紹介」を作品紹介に引用させていただきました。昔はこういう風に映画の紹介文が書かれていたんだな、とこれもまた味わいのある文献資料です。

●9月29日(金)
『赤い山』Red Mountain (パラマウント'51)*80min, Technicolor; 日本公開昭和29年7月30日(1954/7/30)

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(キネマ旬報近着外国映画紹介より)
ジャンル 戦争
製作会社 パラマウント映画
配給 パラマウント映画会社
[ 解説 ] 「愛しのシバよ帰れ」のハル・ウォリスが製作するテクニカラー 映画で、南北戦争を描いた1952年作品。「十三号棧橋」のジョージ・F・スレヴィンとジョージ・W・ジョージがチームで書いたストーリーを、この2人にジョン・メレディス・ルーカスが協力して脚色した。監督は「情炎の女サロメ」のウィリアム・ディターレである。撮影は「地獄の英雄」のチャールズ・ラング.、音楽は「綱渡りの男」のフランツ・ワックスマンの担当。「零下の地獄」のアラン・ラッドをめぐって、「底抜けびっくり仰天」のリザベス・スコット、「怒りの河」のアーサー・ケネディ、「オクラホマ無宿」のジョン・アイアランドが共演し、以下「盗賊王子」のジェフ・コーリー、「百万弗の人魚」のジェームズ・ベル、バート・フリード、ネイヴィル・ブランドらが助演する。
[ あらすじ ] 1865年、南北戦争も終わりに近づいた頃、ある日コロラドのブロークン・ロウ鉱物検査官事務所に賊が押し入り、検査官ブレイドンが殺された。残された南軍の弾丸から、南部の青年レーン(アーサー・ケネディ)が犯人と目され、保安官以下の群衆はキャニヨン・シティへ金鉱登録に向かう彼を追いつめて私刑にかけようとした。あわや死刑の瞬間、物かげから彼を助け出したのは南軍大尉のブレット・シャーウッド(アラン・ラッド)で、2人は追手を巻いて安全地帯へ逃げのびた。ブレットは、南軍のゲリラとなって北軍を苦しめているクワントレル(ジョン・アイアランド)の部隊に参加しようと放浪途中で、ブレイドンを殺してレーンの仕業とみせかけた真犯人こそ実は彼だった。それを知ったレーンは直ちに保安官の許へ引き立てようとしたが、ブラッドは素早く逃げ去った。レーンはやがて恋人クリス(リザベス・スコット)とめぐり合い、2人はブレットを追いつづけて、ついに2人の男の間で大格闘が行われた。レーンは崖から落ちて足を挫いたが、それを手厚く看護するブレットを見て、南部嫌いのクリスにも不思議な感情が芽生えた。折よくこの地にクワントレル一隊が通りかかり、ブレットは直ちに加盟を申し込んだ。しかし、クワントレルは私利を肥すだけの戦争泥棒で、彼は次第にレーンを邪魔にしはじめたので、ブレットは、レーンが金鉱のありかを知っていると吹き込んだ。クワトレルはそれを信じ、クリスを町へ走らせて医者を呼びよせたが、レーンは金鉱の秘密をしゃべろうとはしなかった。ブレットはクワントレル一味と手を切り、クリス、レーンと共に洞穴にたてこもった。クワントレルは部下をあげて3人を襲撃、重囲を脱して町へ急を知らせたブレットの働きで、州の軍隊がこのゲリラを一掃した。ブレットは逃げるクワントレルを追って格闘、ついに彼を倒したものの、自らも気を失い、目覚めた時既に戦争は終わっていた。レーンはブレイドン殺しの罪を負いつつ死んでいった。

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 キネマ旬報はジャンルを「戦争」としていますが、これはどう見ても西部劇でしょう。アラン・ラッドは『シェーン』'53や『ジャイアンツ』'55以前で、西部劇では『ネブラスカ魂』'48があるものの出世作『拳銃貸します』'42、『ガラスの鍵』'42、『青い戦慄』'46などフィルム・ノワールの俳優だったので、フィルム・ノワール女優のリザベス・スコットと共演した本作は燦々と陽光の射す西部劇ながらストーリーはフィルム・ノワールそのものなのが面白い趣向になっています。まず検察官を殺害してアーサー・ケネディに冤罪をなすりつけたのがアラン・ラッドでは一体どちらの肩を持ったらいいのかわからない。しかもラッドはケネディを助けて共に逃げ延び、ケネディの恋人のリザベス・スコットも合流して敵対しているのか共闘しているのかわからない関係になっていく。キネマ旬報あらすじには書いてありませんが結末で戦闘中にケネディが死んでラッドは戦前に検察官とケネディが組んで金鉱の地所の権利をラッドから騙し取ったことを明かし、ラッドとスコットが結ばれるという種明かしがありますが、それにしても私欲による報復殺人と冤罪の策謀を主人公がしてはいかんだろう、と西部劇の常識では思ってしまいながら、観ているうちにどさくさ紛れの展開が続いて怪我をしたケネディはほとんど活躍の場がなくなりラッドとスコットが協力して乗り切っていく流れになるので、この結末もケネディが恋人のスコットをラッドに譲って死んでいく、というムードになっています。ラッドの行動も金鉱の地所の権利を取り戻すためにしてはずいぶん回りくどいどころかまったく無駄足なのではないかと思われるようなもので、この西部劇ノワールは原案・脚本そのものに決定的な欠陥があるのですが、利害関係で対立しながら成り行き上共闘せざるを得なくなった二人の男と一人の女、というシチュエーションの魅力でどんなご都合主義もOKという気になってくるのが映画、特に西部劇、しかも筋立てはフィルム・ノワールと約束事につべこべ言わせないジャンル映画の強みでしょう。アーサー・ケネディがアラン・ラッドから地所の権利を詐取したようにはどうしても見えないもののラッドがそれを明かすのはケネディの死後ですから真相は知りようがないですし、ラッドが虚言を述べているとすれば検察官殺害に始まる本作でのラッドの行動にも意味はありませんから言葉通り受け取るしかありません。南北戦争当時に義勇軍の建て前で強盗団が横行したのは多くの西部劇映画に出てきますが、本作はラッドが強盗団を利用して身を潜めようとすることでさらにドラマを紛糾させており、これもフィルム・ノワールめいた筋立てです。未開の西部はだだっ広い分行方を追跡しようとすれば点在する集落や町、水場など身を潜めていられる場所は限られており、主人公たち三人も逃走してもすぐ追い詰められることになる上に怪我人を抱えているのでバラバラに逃げる訳にはいかず、そこで西部劇とフィルム・ノワールの両方の要素が生きてくるのが本作の取り柄になっています。リザベス・スコット出演作品はそう多くないのでそれだけでも本作は貴重で、どちらもいわくありげな役柄のラッドとケネディの好演もあり、変わりつつあった戦後の西部劇として面白い仕上がりで、ディターレらしいと思われるのはカット・バックや回想などで説明せずに現在形の映像だけでぐいぐいドラマを進めていく線の太さでしょう。それがあればあるいは本作もわかりやすく説得力のあるストーリーになったかもしれませんがサスペンスや勢いは減じたはずですし、そこらへんは大胆に割り切ったのが本作だったに違いありません。

●9月30日(土)
『情炎の女サロメ』Salome (コロムビア'52)*103min, Technicolor; 日本公開昭和28年8月4日(1953/8/4)

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(キネマ旬報近着外国映画紹介より)
ジャンル ドラマ
製作会社 コロンビア映画
配給 コロンビア映画会社
[ 解説 ] サイレント時代に二度映画化されたことのある『サロメ』三度目の映画化で、主演のリタ・ヘイワースが主宰するベッグワース・プロの1953年作品。バディ・アドラーが製作し、「噴火山の女」のウィエアム・ディターレが監督したテクニカラー映画。「情無用の街」のハリー・クライナーと「激情の断崖」のジエッシ・L・ラスキイ・ジュニアが共同で書き下ろしたストーリーをハリー・クライナーが脚色した。撮影は「旅愁」のチャールズ・ラング、作曲は「廃墟の守備隊」のジョージ・ダニングの担当。なおヘイワースの女流舞踊家ヴァレリイ・ベティスの振付。「ゼンダ城の虜(1952)」のスチュワート・グレンジャーと「パラダイン夫人の恋」のチャールズ・ロートンがヘイワースと共演し、ジュディス・アンダーソン「タイクーン」、セドリック・ハードウィック「砂漠の鬼将軍」、アラン・バデル、ベイジン・シドニイ「黒騎士」、モーリス・シュワルツらが助演。
[ あらすじ ] 紀元前1世紀、シーザーの支配するローマ帝国が繁栄を誇っていた頃。ガリラヤ王国は淫蕩なヘロデ王(チャールズ・ロートン)と邪心の王妃ヘロディアス(ジュディス・アンダーソン)が統治しており、民心動揺の世相下にあった。折から、ヨハネ(アラン・バデル)という予言者が救世主の出現近きを説き、王と王妃を攻撃していた。ヘロディアスはかつて王の弟の妻であり、地位ゆえに寝返った背徳の女で、ヨハネを憎み王に彼の処罰を迫ったが、王は報復を怖れて聞き入れなかった。その頃ローマでは、ヘロディアスの娘サロメ(リタ・ヘイワース)がシーザーの逆鱗にふれて追放された。帰国の船上、彼女はエルサレムに総督として赴任するポンティアス(ベイジル・シドニー)、ガリラヤ駐屯の司令官クローディアス(スチャアート・グレンジャー)と一緒になったが、クローディアスはサロメに一目で魅せられた。彼はヨハネの秘かな信者で勇武な男であったが、サロメは彼に激しい憎悪を見せた。一行はガリラヤ王城に着き、ポンティアス歓迎の宴が開かれた。ヘロデ王は初めて見る義娘サロメの美しさに淫な眼を輝かせた。ヨハネが城下に来たとの報に、サロメは変装して彼を見に行ったが、ヨハネが母を人でなしといって攻撃するのを聞いて怒りに身を震わせた。だが母から王のために踊ってヨハネの処罰を説得してほしいと頼まれたとき、それは即ち王に身を委せることなのでサロメは失望に打ち沈んだ。彼女はクローディアスにヨハネを殺してほしいと頼み、彼の憤激をかった。王妃はヨハネの元に刺客を差し向けたが、クローディアスは危機寸前それを阻んだ。王はヨハネを捕らえ投獄した。やがて王城でヘロデ王の誕生祝いの宴が開かれた。王妃は再びサロメに王のために踊ることを迫ったが、そこへクローディアスが来、サロメを連れ牢獄のヨハネを訪れた。クローディアスは救世主イエスの出現を告げた。ヨハネは喜び目を輝かせ、サロメも翻然と悟って、この邪悪な王城を出ることを決心した。サロメは王にヨハネ助命を説得するため7枚のヴェールの踊りを踊った。王は彼女の美しさに身も心もなく、王妃が請うままにヨハネの処罰を承諾してしまった。獄ではクローディアスの一隊と王の傭兵との乱戦が展開されていた。サロメの踊りがやがて終ろうというとき、処刑係がヨハネの生首を持って現れた。恐怖と失望におののくサロメの前にクローディアスが現れ、王と王妃を難詰した。王は悔恨してその場を去ったが、王妃は平然としていた。数日後、イエスの説教に耳を傾ける群衆の中に、サロメとクローディアスの姿もあった。

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 もっとあるかと思ってしまいますが、本作以前に「サロメ」映画は1910年の短編、1918年のセダ・バラ版、1922年のアラ・ナジモヴァ版(いずれもサイレント作品)だけのようです。セダ・バラ版は現存しませんがナジモヴァ版は驚異的に大胆な実験映画で、これが興行的に惨敗したためにサイレント時代最大の女優ナジモヴァの凋落を招いたいわくつきの作品で、現在ではアート・フィルムの歴史的傑作として再評価されていますが、ナジモヴァ版の不評のため30年間も「サロメ」映画が作られなかったのかもしれません。穏健派のヘロデ王の後妻ヘロディアスが預言者ヨハネの宣教活動を疎んじ、娘サロメの舞踏の褒美にヨハネの首を穫らせた、というのは史実とされており、新約聖書のマルコ、マタイ、ルカ福音書(成立順)に記述があります。このバプティスマのヨハネイエス・キリストを見出して洗礼を授け、後継者であり真の神の子であると喝破した人物です。ちなみにエルサレム総督ポンティアスとして本作に登場するのが後のキリストの裁判で裁判官を務めるポンティオ・ピラトで、やはり穏健派でキリストの処刑に反対していましたが、市民の反キリスト感情が暴動寸前まで高まってしまっていたためやむなくキリストに有罪判決を下すことになった実在人物で、本作は世情・世論や実際の政治情勢の腐敗にも無知だったサロメヨハネへの敵対感情からクローディアスの示唆によって悔い改め、王にヨハネ釈放の直訴のために踊るが一足先に野心家の母ヘロディアスによってヨハネが斬首されてしまう、というストーリーに変えられています。王宮から駆け落ちしたサロメとクローディアスがイエスの宣教を聞きに佇む姿で終わるサロメ映画になるとは何とも意外で、キリスト教圏ではサロメヨハネ処刑に一役買った悪女というイメージですからジュディス・アンダーソン(『レベッカ』のあの人です)という最強の悪女が悪役になってなんとか納得いく話になっているところでしょうか。このアンダーソンの王妃ぶりも実に迫力があって、堂々とした美女を演じても通る上に邪悪演技には元々定評がありますし、ヘロデ王チャールズ・ロートンですから本作の大作ぶりは言わずもがなでしょう。本国公開の1953年3月から日本公開が8月、イギリスやヨーロッパ諸国でも同年中に公開されています。リタ・ヘイワース出世作血と砂』'41から代表作『ギルダ』'46ときてコロムビア映画社と年俸25万ドル+出演作品の収益50%の出演報酬の契約を結び、『カルメン』'48ときて'51年には専属契約解除の後、本作は35歳の主演作、ヘイワース自身のプロダクションでの作品ですから女優生命を賭けた一作でもあり、チャールズ・ロートンやジュディス・アンダーソンなど性格俳優ながらヘイワースより格上の大物を起用したのは本作に当たりを賭けたプロデューサー的計算でしょう。実際に本作はヘイワースのサロメの出演場面は映画が始まってからかなり後で、出番も見せ場には集中していますが少なく、前半はほとんどヘロデ王とヘロディアス王妃を主役に進んでいきます。大物俳優に花道を作ってもらって満を持してヒロイン登場、という効果は出ていますし、世紀の変わり目のガリラヤの雰囲気が豪勢なテクニカラー映像で拝めるのが本作の魅力ですから十分に効果を上げているのですが、ヘイワースがまだ20代だったらもっと前半から出番を増やしたのではないか、とも思われ、聖書ではっきり書かれてはいませんがサロメはまだ少女だったというのが伝承ですからヘイワースの年齢では本来きついわけです。オスカー・ワイルドの戯曲で創作され有名になった「7枚のヴェールの踊り」はヘイワース自身がやってこそ(特別に振り付け監修を迎えています)ですが、ドラマの中で他の登場人物と絡む場面があまり多いとヘイワースの実年齢から来る存在感と乙女サロメのイメージにギャップが出てくる。'40年代を代表するセックス・シンボルだっただけに清純な役が難しい、という難題をどうこなしたかというと、本当に最小限の出演場面しかないヒロインという手段で乗り切ったのがこの作品です。実に際どい手で、下手をすると主演女優の責務を軽減させたのが見え見えの出来になってしまうのですが、演出の手腕か助演俳優たちの見せ場か題材の華やかさか(この時代のハリウッド映画のテクニカラー時代劇はとにかく華やかです)、ヘイワース登場まで十分に楽しませてくれるばかりかヘイワースの出演場面の少なさも不自然には感じません。聖書の中でもヘロデ王サロメのエピソードはシンプル極まりなく、映像で引っ張りそれほどの尺も求められなかったサイレント時代はともかくトーキー時代に映画化されなかったのも作劇的に短編以上の仕様には耐えない題材だったからと思われますが、本作はサロメをヒロインとしてもヨハネ処刑~イエスの時代の台頭という聖書本来の叙述に沿った作りの聖書劇になっているので見応えがあるものになっています。こう言うと聖書劇など面白いのかと疑問が持たれそうですが、ハリウッドの聖書劇が本気を出すと凄いのはサイレント時代からの伝統で、本作も抜群の安定感で楽しめる作品です。アメリカ合衆国内の興行収入475万ドル、フランスでの観客動員数3,0047,090人(!)というのは桁を間違えているのではないかというくらいの記録ですが、本当にそういう記録があるのです。