人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年12月27日・28日/アルフレッド・ヒッチコック(1899-1980)のほぼ全作品(14)

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 新年第3回のヒッチコック映画感想文は(観たのは昨年ですが)、太平戦争中の作品のため公開が戦後に遅れた2作です(といっても、戦前日本公開されたヒッチコック作品は『暗殺者の家』'34、『三十九夜』'35、『間諜最後の日』'35の3作だけですが)。戦後もヒッチコック映画は必ずしも本国効果順には日本公開されず、'43年の『疑惑の影』は戦後日本で初めて公開されたヒッチコック作品になりキネマ旬報誌年間ベストテン外国映画第3位の好評を得ましたが、'42年の『逃走迷路』は日本公開まで37年を経た1979年の公開になりました。直前のハリウッド進出第3作『スミス夫妻』'41、第4作『断崖』'42(『疑惑の影』の翌年日本公開、キネマ旬報外国映画年間ベストテン第1位)と較べても『逃走迷路』『疑惑の影』はハリウッドでの映画製作にますます熟達し、アメリカならではの題材をこなすようになった腕前が堪能できます。この辺のヒッチコック作品になると褒めるのも隅を突つくのも野暮という感じですが、戦中製作作品でヒッチコックほど巧みにプロパガンダ臭が稀薄(『海外特派員』『逃走迷路』と『救命艇』'44)か、ほとんど戦時色のない『断崖』『疑惑の影』を作った監督も稀でしょう。今回も感想文に苦労しそうですが、何とかひねり出してみます。なお、今回も『ヒッチコック/トリュフォー 映画術』(晶文社刊、山田宏一蓮實重彦訳)からの発言は例によって多少表現を変えて引用させていただきました。

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●12月27日(水)
『逃走迷路』Saboteur (米ユニヴァーサル'42)*109min, B/W; 日本公開昭和54年(1979年)4月28日

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○解説(キネマ旬報新着外国映画紹介より) 無実の青年が警察の追跡を逃れながら真犯人を探す、ヒッチコック得意の“巻き込まれ方サスペンス”の代表作。監督はアルフレッド・ヒッチコック、脚本はピーター・ヴィアテル、ジョーン・ハリソン、 ドロシー・パーカーが担当。撮影はジョゼフ・ヴァレンタイン。編集はオットー・ルドウィグ。主演は「大いなる野望」のロバート・カミングス。ヒロインに「毒薬と老嬢」のプリシラ・レーン。共演はノーマン・ロイド、オットー・クルーガーほか。
○あらすじ(同上) カリフォルニア州グレンデールの航空機会社で働くバリー・ケーン(ロバート・カミングス)は、工場の火事で同僚のメイソンが死んだ事件の容疑者に仕立てられる。真犯人の手がかりは、燃える工場から飛び出してきた男フライ(ノーマン・ロイド)と、彼が落とした封筒にあった住所"ディープ・スプリングス牧場"だけだった。バリーは警察の手を逃れ、"ディープ・スプリングス牧場"に向かう。だが、牧場主のトビン(オットー・クルーガー)は、フライという男など知らない、と言い放つ。あきらめて帰ろうとするバリーに、トビンの孫娘の幼児がじゃれついてきた。幼児は祖父の上着のポケットから取り出した紙切れをバリーに渡す。それはフライからの電報だった。そのとき、トビンの通報によって駆けつけた警察にバリーは逮捕される。護送の途中、渋滞で車が橋の上に止まったとき、スキをついてバリーは川に飛び込んで逃げる。人目のつかない小屋に避難したバリーは、そこでミラー(ボウハン・グレイザー)というバリーを信じる盲目の紳士に助けられる。ミラーの姪パット(プリシラ・レーン)はバリーの身柄を当局に引き渡そうとするが、無実を主張するバリーに心動かされ、犯人捜しを手伝うことに。厳重な捜査網をくぐり抜けて旅を続けるうちに、バリーとパットはいつしか愛し合うようになる。マウンテン・シティーに着いたふたりは、偶然にもナチの破壊工作員たちの連絡場所を見つける。バリーはそこにやって来た工作員接触し、自分もメンバーのふりをしてニューヨークに発つ。ニューヨークで、バリーはメンバーと共にパーティーたけなわの瀟洒なマンションに連れてゆかれる。そこでは逃れたはずのパットがトビンに捕えられていた。バリーはパーティーの客たちに主催者がナチの工作員であることを告げようとするが、地下に監禁される。そこでスプリンクラーを作動して消防隊を呼び、騒ぎに乗じてマンションを逃げ出す。新聞でキアニーヤードで戦艦の進水式があることを知ったバリーは、工作員のひとりが何度も「キアニー」という言葉を口にしていたことを思い出す。やつらの目的は、戦艦爆破だったのだ。キアニーヤードに急行したバリーは、ついにフライと邂逅する。格闘の末にフライを倒し、パットも救いだしたバリーは、自分の無実を晴らすのだった。

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 ヒッチコック作品の王道を行く『三十九夜』系列の冤罪逃亡サスペンスで凝った道具立て、よく練れたプロット、程よいユーモアと情感、盛りだくさんの見せ場と意外性、あっと驚くど派手なクライマックスと一分の隙もない出来なのに何となく地味な存在感の本作ですが、それはもっぱら主演が華に欠けるロバート・カミングスとプリシラ・レインだからだろう、というのが定評になっています。このキャスティングは映画会社からの指名だったそうで、ヒロインのレインにはヒッチコックも不服だったようですがカミングスについては「才能豊かないい俳優だったんだがね」と華のなさは認めながらも擁護しています(『映画術』)。訊き手のトリュフォーたるやヒロインのレインを「ふさわしくないというか、品のない感じで……」とまで言い、「この映画は自由の女神と言った方が早いですね」といきなりまとめから入っています。確かに『三十九夜』のロバート・ドーナットとマデリーン・キャロルのような色気と気品と艶のある魅力はまったく乏しい本作の主人公カップルですが、逆にそれがアメリカらしく作品の感触を現実的にしているとも取れます。カミングスは飛行機工場の工員ですしレインは長距離トラックが行き交う国道沿いに立てられたビルボード広告のモデルです。あか抜けないカミングスとレインだからはまっているので、洒脱なドーナットとキャロルが工員と広告モデルを演じたらそれこそ不似合いではありませんか。イギリス人だって洒落者ばかりではありませんしイギリス流の野暮だってあるでしょうが、イギリス人視点でアメリカ人の野暮を突いたらたいがいは嫌みになります。本作でヒッチコックが野暮なアメリカ人男女を描く視点には嫌みがなく、むしろ暖かいもので、そこが引き受け仕事ではあった『スミス夫妻』を経て、アメリカ人流の人情の機微をつかめるようになった進展ではないかと思います。
 ちょっと詰め込みすぎたかな、とヒッチコックが反省しているように、たとえば最初の事件の後カミングスが会いにいく死んだ親友のお母さん、指名手配されて逃げ出してまず乗せてもらう好人物の長距離トラック運転手のおっさん(マーレイ・アルパー)や性善説を信じるボウハン・グレイザー演じる盲目の紳士に助けられる場面や、オットー・クルーガー演じる大農場主で実はナチ・スパイ団の親玉トビン、そのNo.2で「私も妻と子供がいてね」とやたらと家族の話をする幹部(アラン・バクスター)、プリシラ・レインと逃げ込んだサーカス団のフリークス車両の中で出会う見世物フリークスたちの親切にレインがカミングスへの疑惑を恥じるシーンなど次から次へとワンポイント出演のキャラクターたちが見せ場を作り、クライマックスの自由の女神の天辺への追跡までもパーティー会場でカミングスとレインがのっぴきならなくなって打つ大芝居、ニューヨーク港の進水式での爆発テロ、誘拐されたレインが高層ビルの窓から助けを求めるメッセージを投げ落とすもなかなか発見されないスリル、平行して描かれるカミングスの犯人追跡、ニューヨークの大映画館内での映画上映中の銃撃戦を経てようやく最後のシークエンスにたどり着く(それもまずレインが実行犯フライを演じるノーマン・ロイドを引き止め、後からカミングスが追いかけてくるといった調子)で、見せ場が豊富なのはいいことですし無駄なエピソードではなく次から次へつながるあたりはよく練られているのですが、流れが良いかというと少々くどくて見通しが悪く、今映画の進行のどのあたりにさしかかっているのかじれったくなるきらいもある。これもカミングスとレインの主役ふたりの運命に観客を十分引きつける力が弱いからで、冤罪逃亡型ではありませんが『海外特派員』のジョエル・マクリーとラレイン・デイではうまくいっていましたがカミングスとレインは良くも悪くも軽くて、どうせ助かるんだろうと突き放して観てしまう。それが本作をカリフォルニアからニューヨークへとアメリカ横断大逃走劇のスケールの割には比較的軽い作品に見せてしまっている、損な印象になっています。
 本作はトリュフォーが言う通り何といっても大クライマックスの自由の女神像のたいまつ天辺まで追い詰めた犯人との死闘で観客の度胆を抜き、一気に忘れられない映画になるわけです。日本公開時のポスターをご覧ください。ヒッチコックはこの映画のクライマックスを「計算違いだった」と言っていて、後の『北北西へ進路を取れ』'59で反省を生かして部分的なリメイクをすることになりますが、ヒッチコックの反省通り原則的には『北北西~』で改訂したような手口の方がより観客に訴えかけるサスペンスが生まれるとはいえ、本作は本作で正解だという気もします。これがヒッチコックがしくじったと言う通りカミングスと犯人のノーマン・ロイドが逆の立場だったら、ビルの3~4階くらいまでならまだしも本作の結末のようには描けないでしょう。本作の場合この結末でこそすごいものを観た、と鮮烈なショックを与えて観客を満足させてくれるので、自由の女神像のたいまつ天辺まで上がって『北北西~』のような締め方をしたのでは「なーんだ」で終わってしまいます。ノーマン・ロイドはヒッチコックに気に入られて後にヒッチコックのプロダクションのプロデューサーになる人ですが、俳優としては後にも先にも「自由の女神から~した人」で永遠不滅のキャラクターになったというわけです。『レベッカ』のダンヴァース夫人役のジュディス・アンダーソンも主役のジョーン・フォンテインローレンス・オリヴィエを食ってしまった悪女役でしたが、ノーマン・ロイドの場合は映画冒頭とラストのシークエンスだけの出演で主役たちを食ってしまったので、これほどおいしい役が当たった俳優はヒッチコック映画でも珍しいでしょう。この結末の数分間だけでも観るだけの価値はありますし、確かに結末を際立たせるためにはもっとすっきりした展開の方が良かったとも思えますが、本作のヒッチコックは好調すぎてかえってアイディアてんこ盛りになってしまったのかもしれません。

●12月28日(木)
『疑惑の影』Shadow of a Doubt (米ユニヴァーサル'43)*108min, B/W; 日本公開昭和21年(1946年)12月17日

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○解説(キネマ旬報新着外国映画紹介より) 「レベッカ」「汚名」「白い恐怖」のアルフレッド・ヒッチコック監督。主演女優テレサ・ライトはニューヨークの劇場出身。「ミニヴァー夫人」で助演女優賞をうけ「ヤンキースの誇り」でゲイリー・クーパーの相手役を演じた。ジョセフ・コットンは先般封切られた「恋の十日間」でお馴染。1942年作品。
○あらすじ(同上) カリフォルニア州サンタ・ローザの町に住むニュートン一家(ニューマン氏=ヘンリー・トラヴァース、ニューマン夫人=パトリシア・コリンジ、妹アン=エドナ・メイ・ウォナコット、弟ロジャー=チャールズ・ベイツ)は平和な生活を続けていたが長女のチャーリー(テレサ・ライト)は家庭を生々としたものにしたいと思い、そのためには母の弟のチャーリー叔父(ジョゼフ・コットン)に来てもらいたいと思っていた。当のチャーリー叔父はある犯罪のため身に迫る危険を知って加州へ高飛びして偶然にもニュートン一家に仮寓することになった。一家は悦んで彼を歓待した。ある日、ジャック・グラハム(マクドナルド・ケイリー)とサンダース(ウォーレス・フォード)という二人の男がニュートン家を訪れて来た。彼等は政府の調査員として米国の中流家庭の調査に来たとのふれこみだったが、チャーリー叔父は彼等が探偵であることを見破り二人を避けていた。ところがうっかりしたところを写真に撮られたので怒ってフィルムを奪ったが、そのただならぬ様子に傍らにいたチャーリーは怪しんだ。その夜チャーリーはジャックから、彼等が叔父をある殺人事件の容疑者としてその確証を握りに東部の警察から派遣されて来たのだといわれ協力を求められたが、叔父を信用しているチャーリーは、彼の申し出を固く断った。だが叔父が破り棄てた新聞の記事にも疑いを持った彼女は、早速図書館へ行き新聞の綴込みを調べると、金持ちの未亡人を次々に殺害して金を奪った犯人が西部へ逃亡した形跡があり、目下厳探中であると書かれてあった。そして最後の被害者の名前が、叔父から土産にもらった指輪の裏に刻まれている頭文と符合しているので、もはや叔父の犯罪を認めないではいられなかった。チャーリーは家族の名誉を守るために、叔父が捕縛される前に家から出そうと決心した。叔父に対して自分が総てを知っていると匂わせたり、証拠となるべき指輪を示して退去を迫ったが、叔父は平気な顔で滞在を続けるのであった。そして逆に自分の身の安全を計るために、事実を知っているチャーリーを殺そうとして、排気ガズを充満させたガレーヂに彼女を閉じこめたが幸いにも彼女は救われることが出来た。やがて叔父は自ら出発すると言い出した。彼は町で知り合った金持ちの未亡人と密かに他所へ行く予定だったのだ。出発の日叔父を見送りに列車内に入ったチャーリーの手を叔父はしっかり握り、列車が動き出しても話さず、彼女を列車の連結機から突き落して殺そうと計った。しかし転落し列車に轢かれたのはチャーリー叔父だった。サンタ・ローザの教会で彼の葬式が行なわれた時、チャーリーとジャックは二人だけが知っている事実を胸に秘めて参列していた。

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 ジョゼフ・コットン(1905-1994)はオーソン・ウェルズが監督第1作『市民ケーン』'41のためにハリウッドへ招かれた時にウェルズ主宰の劇団、マーキュリー一座の一員として一緒にハリウッド入りした人。ヒッチコックフリッツ・ラングの弟子だったようにウェルズはヒッチコックの弟子のような存在でしたから(直接師事したというわけではなく、影響関係・作風の継承として)ラングもヒッチコックから逆影響を受けた様子が見られる作品がありますし(『外套と短剣』'46)、『市民ケーン』には『レベッカ』の影響が見られる映像処理がある上にコットン主演の本作『疑惑の影』にインスパイアされたとおぼしい『ストレンジャー(ナチス追跡)』'46もあります。『外套と短剣』『ストレンジャー(ナチス追跡)』には『海外特派員』からヒントを得たと思われる着想もあって、ラングはハリウッド進出後は脚本は書きませんでしたし、『ストレンジャー(ナチス追跡)』はウェルズ作品には珍しく外部ライター(ジョン・ヒューストン!)の脚本ですから必ずしもラングやウェルズ自身がヒッチコックを意識したとは限りませんが、身内のコットンの主演したヒッチコック作品となればウェルズが本作を観て対抗心を燃やしてもおかしくないでしょう。『ストレンジャー~』はウェルズの監督第4作ですが、それまでの3作はコットン主演ないし準主演だったのに『ストレンジャー~』はウェルズ自身とE・G・ロビンソンの主演(ロビンソンがワイルダーの『深夜の告白』'44と同じく探偵役)でコットンを起用していないのは、コットンが売れっ子になってきたのもありますが(『ガス燈』'44、『ラヴ・レター』'45、『白昼の決闘』'46、『ミネソタの娘』'47、『ジェニイの肖像』'48、『第三の男』'49、『旅愁』'50と出世街道まっしぐらでした)、コットンを起用したら『疑惑の影』と比較される、と考えたのかもしれません。
 顔がカエルみたいだ、と言われることもあるコットンですが、演技の幅は広く、『君去りし後』'44のようなホームドラマや『ジェニイの肖像』『旅愁』のようなメロドラマも『白昼の決闘』のようなドロドロの愛憎西部劇もこなし、本作『疑惑の影』や名高いウェルズとの共演作『第三の男』を先に観てミステリー映画『ガス燈』(この時イングリッド・バーグマンと不倫の噂が立ちます)を観るとコットンが真犯人にも探偵にも見えて倍楽しめます。ヒッチコック作品には後に『山羊座のもとに』'49でバーグマンと共演していてこの感想文(18)で取り上げますが(何を隠そう今日これから観直すところ)、記憶だと確かこれまた癖のある嫌なやつ役でした。『断崖』や『汚名』'46はケイリー・グラント、『白い恐怖』'45はグレゴリー・ペック主演ですが、この辺の妖しいヒッチコック作品はどれもコットンでも行けるような気がします。ただしグラントやペックのような二枚目の色気には欠けるのでコットンが演じたらドライに過ぎるような作品になったかもしれず、その点一種の優生思想を持つ傲慢な役柄の本作は相手が女学生役のテレサ・ライトで叔父と姪という設定です。偶然ですが翌年『君去りし後』でジェニファー・ジョーンズシャーリー・テンプルの姉妹に対するコットンの役と同じポジションで、『君去りし後』のコットンは兵役の休暇のたびに一家を訪ねますが、本作のコットンは人前では杖をつきひとりになるとすたすた歩いていますから、どうやら病気か怪我か体調不良で徴兵忌避をしているようです。また『スミス夫妻』『断崖』の2作がRKO作品だったように(助監督はジュールズ・ダッシンでした)『逃走迷路』『疑惑の影』は2作契約(次作『救命艇』'44は20世紀フォックス)だったらしいユニヴァーサル作品で、前作・本作の本国公開時のポスターを見るとスリラー映画のヒッチコックを映画会社もプッシュし始めたのがうかがえます。先に『断崖(Suspicion)』あってこその『疑惑の影(Shadow of a Doubt)』であり、『断崖』は新妻が夫を、本作は女学生の姪が叔父を犯罪者と疑う話で、『断崖』でスター俳優のグラントではできなかったのを演劇畑出身のコットンなら可能なのが『疑惑の影』での起用につながったのだと思います。
 ヒッチコックが本作をもっとも好きな自作に上げたという伝聞に基づいてトリュフォーヒッチコック本人に本作だけでは「ヒッチコック・タッチ」はほとんど伝わらないのではないか(トリュフォーの見方では『汚名』こそ代表作にふさわしい、という意見です)に、「私はそんなことは言っておらんよ」ととぼけていますが、ヒッチコックはインタビュワーによってけっこう調子に乗る人なのでたぶん言っていたでしょう。本作はアカデミー賞原案賞にノミネートされ、原案者はユニヴァーサル社文芸部の女性社員の夫の持ち込みだそうですがシナリオは二転三転し、ヒッチコックはピュリッツアー賞受賞劇作家(小説『サン・ルイ・レイ橋』'28、戯曲『わが町』'38、戯曲『危機一髪』'43で3度受賞)のソーントン・ワイルダー(1897-1975)にアドヴァイスを求め、一緒にカリフォルニアのサンタ・ローザ市をロケハンしてシナリオを詰めていき、ワイルダーとの仕事に感謝と敬服の気持が深かったそうですから、本作への愛着は他の自作とはニュアンスが違うものだったとも思えます。『断崖』や『スミス夫妻』にしても上流有閑階級の話だったので、アクション型サスペンス・スリラー映画は措くとしてもアメリカの平凡な地方都市の庶民社会の家庭を舞台に、どす黒い悪意を持つ犯罪者がまぎれ込むという趣向の映画、しかもホームドラマ(Homeにまぎれ込んだHomicideという皮肉)は中年になってアメリカの映画監督に転身したヒッチコックには相当な冒険だったはずです。『わが町』の劇作家ワイルダーの協力がヒッチコックに自信を与えてくれたからこそ実現できた企画で、サスペンス・スリラーと言ってもある種無国籍な応用の利く冤罪逃亡型の前作『逃走迷路』とは一転した、1家庭の中で展開する静かな戦いを描いた微妙なニュアンスのものです。ヒッチコック映画のお母さんは怖い役割の場合が多いのですが本作のお母さんは理想的なアメリカ庶民家庭の主婦であり、銀行の窓口係のお父さん(アメリカの銀行員はエリート職でも何でもないのは本作やフリッツ・ラングの『スカーレット・ストリート(緋色の街)』'45からもわかります)は推理小説マニアで町の推理小説マニアの友人の青年ハービー(ヒューム・クローニン、のちに『ロープ』'48やテレビシリーズ「ヒッチコック劇場」などの脚本家になります)と殺人談義をするのが唯一の趣味、妹アンはおませで弟ロジャーはいつも子供あつかいされるけれど言い返せない、と絵に描いたような20世紀中葉のアメリカ地方都市市民家庭です。ヒッチコックホームドラマは特殊な『ジュノーと孔雀』の例もありましたが、平凡な家庭のホームドラマでありながら完璧に犯罪サスペンス・スリラーでもあり、ヒロインと刑事以外には誰もそれを知らない(表向きもう一人別の容疑者が事故死して解決したことになる)という皮肉で苦い結末は、同時代の多数のフィルム・ノワールにも滅多に見られないものです。トリュフォーが『汚名』を上げる趣味もわかりますが、『ロープ』とともに『サイコ』'60につながっていくような本作は、田舎町で善男善女が男の他殺体を発見しては別の場所に埋めるをくり返すブラック・コメディ『ハリーの災難』'56の原点でもあるでしょう。「ヒッチコック・タッチ」がほとんど伝わらない、とはトリュフォーの言いすぎで、『断崖』『汚名』と系列は同じ疑惑サスペンスの傑作でもあり、田舎町スリラーでもあり、逃走型サスペンスと逆の振り幅でもっとも成功した心理サスペンス・スリラーです。淀川長治氏は晩年近い座談集の著書で本作を映画史ベストテンに上げています(※註)。観る人の好みで異なりこそすれ、決して過褒ではないと思いますが、どうでしょうか。

(※註)
淀川長治選・映画史ベストテン
『黄金狂時代』(チャップリン、1924)
『グリード』(ストロハイム、1923)
駅馬車』(フォード、1939)
『ベニスに死す』(ヴィスコンティ、)
『アマルコルド』(フェリーニ、1971)
『81/2』(フェリーニ、1963)
『野いちご』(ベルイマン、1957)
『疑惑の影』(ヒッチコック、1943)
ミモザ館』(フェーデェ、1935)
天井桟敷の人々』(カルネ、1944)
(『映画となると話はどこからでも始まる』勁文社、1985年刊より/監督名表記は原文のまま)