人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年11月29日・30日/エリック・ロメール(1920-2010)の初期作品(3)

 ロメールの連作「六つの教訓話」にはだいたい共通したパターンがあり、そろそろ結婚でもして落ちつこうかという青年が本命と定めた女性を見つけますが、そちらが進展する前に他の女性と知りあってよろめいてしまうも、踏みとどまって先に決めた女性の方へ戻る、というものです。ただしこのパターンがすんなり踏襲されるわけではなく第1作の短編「モンソーのパン屋の女の子」ではお目当ての彼女と突然連絡が取れなくなったので日課で菓子を買っているパン屋の売り子の女の子を気楽にデートに誘う程度ですし(そしてデート当日に本命のヒロインと再会した主人公はパン屋の女の子を平然とすっぽかしてしまいます)、第2作の中編『シュザンヌの生き方』では主人公は親友の恋人シュザンヌを嫌いながら気になっており、自分の恋愛が成就するもシュザンヌが親友よりも条件の良い男に乗り換えて見くびっていたと思い、さらに自分の恋愛があっけなく終わった頃にはシュザンヌから無意識の侮蔑を感じ劣等感に襲われます。次のシリーズ初の長編『コレクションする女』では、画廊経営準備中の主人公はイギリスに恋人がいますが結婚を急いではおらず、親友の古美術商と知人の別荘に商談がてらヴァカンスに行きますが、先客の女の子がいてとっかえひっかえ男を引っ張りこんでいる。ヒロインは自粛するようになりますが今度は主人公、親友、ヒロインに妙な三角関係が生まれてしまってその状況からいかに抜け出したかがテーマになります。名手ネストール・アルメンドロスの撮影になったのもこの長編からで、アルメンドロスは「六つの教訓話」の長編4作トリュフォーの『野生の少年』'70、『恋のエチュード』'71、『アデルの恋の物語』'75で一流カメラマンの地位を固めてハリウッドに招聘され『天国の日々』'78、『クレイマー・クレイマー』'79、『ソフィーの選択』'82などにも起用されましたが、トリュフォーの『終電車』'80と『日曜日が待ち遠しい!』'83、ロメールの『海辺のポーリーヌ』'83を挟んで再びハリウッドへと往復しているのは、ロメールトリュフォーへの恩義もあるかもしれませんがハリウッドでは映画組合の規定上撮影スタッフは撮影監督と機材班に分けて雇用され、撮影監督自身がカメラを操作するのは禁止されている(機材班の撮影助手がカメラ操作を分担する)という窮屈な決まりがあるからでしょう。一方ヨーロッパ映画ではロケの場合などスタッフは監督とカメラマン、録音係の3人だけの軽いフットワークで撮影されるのも珍しくなく、アルメンドロスがハリウッドとフランスを往復するのもフランス映画出身者らしくハリウッド映画の仕事だけでは息が詰まるからだと思われます。さて、今回はエリック・ロメール初期作品の最終回、「六つの教訓話」の第5作と第6作です。実は一度ほぼ1,400文字(400字原稿用紙換算35枚相当、ただし1/3は映画紹介・あらすじ引用文ですが)を書き終えて、後はブログにアップするだけという所で一服中に下書き保存が不調を来たして全文消えてしまう、そんな最悪の徒労を経て書き直しているのが今回の感想文です。せっかくの書き直しですから一度目よりは多少なりともましな内容になっているといいのですが。

●11月29日(水)
「六つの教訓話」シリーズ (Six contes moraux)第5話『クレールの膝』Le Genou de Claire (レ・フィルム・デュ・ロザンジュ/コロンビア'70)*101min, Colour; 日本公開1989年7月/ルイ・デリュック賞
「背中の反り」La cambrure (C.E.R'99)*23min, Colour; 日本未公開(映像ソフト発売=『クレールの膝』特典映像)

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(キネマ旬報外国映画紹介より)
[ 解説 ] ある女性と生きてゆこうと決めた男性が、別の女性と出会い心動かされる姿を描く「六つの教訓話」の第5作。監督・脚本・台詞は「レネットとミラベル四つの冒険」のエリック・ロメール、撮影は「モード家の一夜」のネストール・アルメンドロスが担当。出演は「なまいきシャルロット」のジャン・クロード・ブリアリ、オーロラ・コルニュほか。
[ あらすじ ] 結婚を前にして少年時代を過ごしたアンヌシー湖畔のタロワールにある別荘にやって来たジェローム(ジャン・クロード・ブリアリ)は、そこで偶然友人の女流小説家オーロラ(オーロラ・コルニュ)と出合う。彼女はジェロームの幼な友達だったヴォルテール夫人(ミシェル・モンテル)の家に部屋を借り、本を執筆していた。夫人の家を訪ねたジェロームは、彼女の中学生の娘ローラ(ペアトリス・ロマン)に興味を抱く。そんな彼の心の動きを感じたオーロラは、ジェロームを次作の小説の主題にしようと思っていた。ジェロームとローラは次第に親密になったが、彼がローラにキスしようとすると彼女は逃げる。ある日、夫人の前夫の連れ子でローラの姉クレール(ローランス・ドゥ・モナガン)が、恋人ジル(ジュラール・ファルコネッティ)を連れてやって来た。ローラが級友のヴァンサン(ファブリス・ルキーニ)といるのを目にし、ジュロームはクレールに興味を抱き、やがて彼女の膝に心魅かれてゆく。ある日モーターボートで街に出たジェロームは、別の女と親密にしているジルを発見する。日頃から彼に反感を抱いていたジェロームは、モーターボートでクレールを送る道すがら、突然の雷雨にあい、湖畔の東屋で雨やどりをした際に、そのことを打ちあける。やがて泣き始めたクレールに、ジェロームは彼女の膝に手をおき慰めるのだった。ジェロームはオーロラに、彼の欲望が満たされたことを勝ち誇ったように告げ、婚約者のもとへ帰ってゆくが、クレールとジルは誤解をとき、和解の兆しを見せ始めていた。

 前書きの続きになりますが、本作『クレールの膝』の前作『モード家の一夜』は主人公は青年というよりも中年に足をかけた34歳のエリート技術者でミシュランの要職に就いており、あとは前述のパターン通り結婚すると決めた相手の女子大生に交際とプロポーズの計画を進めつつ高校時代の友人で現在大学の哲学教授に魅力的な離婚女性、モードを紹介されて歓談の後の降雪から一夜の宿を借りることになりますが、映画のエピローグ部分で女子大生と結婚した主人公が子連れの海水浴場でモードと再会して妻とモードが実は顔見知りだったと知らされる、そして妻とモードの共有している秘密(これがさりげなく上手に映画全編に張られた伏線だったのがようやくわかります)を知っていたら妻は自分のプロポーズを受け入れず、自分たちが結婚することもなかったかもしれないと悟りますが、妻の不安な様子はこのまま知られずに幸福な結婚生活を送りたい、という心配を示しており、主人公も驚きこそすれ妻との結婚を悔やむ気はない。夫婦は「昔の話だね」「そうよね」と具体的には触れずに子供の手を取って歩き出します。このエピローグが「六つの教訓話」のパターンからはみ出す部分です。『モード家~』でロメールはヴォイス・オーヴァー(モノローグ)が全編に使われていた第1作・第2作の中短編、モノローグを要所要所に配するにとどめたがそれでも多い『コレクション~』から、一気に2か所だけに限定しましたが、それは映画の序盤の自己紹介とエピローグで「その時ようやくモードと会ってからの妻の不安げな様子の原因に初めて気づいた。それは……」と画面外のモノローグでなければならない必然性があるのです。つまり口には出せないことだからモノローグを重ねているわけです。映画の序盤で短く自己紹介風のモノローグがあるのも相手のいない主人公の自己確認なので、小説版は一人称小説ですからモノローグずくしですが旧友なりモードなり女子大生フランソワーズなり、相手がいる時にはモノローグは不要になります。また主人公は意外と積極的で行動的なのでそういう場面でもモノローグは使われず、主人公の行動そのものが雄弁に主人公の内心を現在進行形で語っています。その点が主人公がものぐさな『コレクション~』より大幅にモノローグが減り、格別一人称の小説が原案にあると意識させないゆえんでした。これに較べれば大方のハリウッド映画の方がよほど解説のためのナレーションを多用しています。
 その点から短編小説集『六つの本心の話』(邦題・早川書房)を見ると、原著はシリーズ完結後の'74年にフランスで刊行されました。ずっと一般公開されなかった'63年製作の第1、2作の中短編『モンソー~』と『シュザンヌ~』が劇場公開されたのも同年ですから、映画に先立って書かれたこの短編集の刊行と2編の中短編の公開はタイアップ企画で実現したのでしょう。一般の観客には観ることのできない第1、2作が短編小説集にだけ含まれているのは不自然だからです。6編の収録作品では実際の映画化とは順序が逆に『モード家~』が第3話、『コレクション~』が第4話なのも気を惹きますが、6編中5編が主人公の一人称小説で中で唯一、三人称で書かれているのが本作『クレールの膝』です。しかし内容はほぼ全編が主人公が視点人物で他の作品と変わりないので、一人称に書き変えても話自体は変わらないと言えます。本作はシリーズ中唯一モノローグが使われない作品でもあり、それもロメールが本作を三人称の映画(と小説)に発想した理由になるでしょう。原案から小説化、映画化、小説版決定稿までに登場人物の台詞や仕草は撮影時に俳優に合わせて改稿した上で小説版の決定稿が作られた、とロメール自身の序文にありますが、本作がシリーズ中でも一風変わった作品になっているのは主人公のジェロームを演じるジャン・クロード・ブリアリの個性が反映しているのもあるでしょう。ブリアリはシリーズ中たぶん最年長に設定された主人公で、なにしろ幼なじみの女性の娘が女子高生と女子中学生ですから青年というよりれっきとした中年男です。この中年男が例によって故郷にヴァカンスにやってくるのですが、婚約者がいるのに連れて来ないのは結婚も間近だし別々に好きなように過ごしたいという間柄なのでしょう。一度も映画には登場しませんがブリアリはもう不惑の年は過ぎているという感じで、婚約者もブリアリと同じような大人の女性と想像がつきます。また、次に触れますが、大人の男の主人公ジェロームが本作で惹かれる相手は恋愛対象には始めからなりようがなく、それを主人公自身も承知していますし、実際に主人公の恋愛感情は本作では描かれません。もっと別のものです。
 本作がシリーズ中でもユニークな点は主人公が他の女と出逢ってよろめく、というパターンとは違うところで、最初ブリアリは幼なじみの女性の館に滞在している同年輩の親友の女流作家オーロラと再会して「近頃どう?」「結婚する。君は?」「さあ、どうかしらね」といった世間話をしますが、幼なじみの娘の女子中学生ローラが登場するとジェロームはローラをからかう、ローラは大人の男への好奇心や憧れ、反撥といかにも女子中学生らしい反応をするのでオーロラはこれは小説のネタになるわとジェロームをけしかけて、ジェロームもそれに乗っかりローラにせっせと相手をしてはオーロラに報告して恋愛談義になる、と話は運びます。ロメールの映画の主人公は『獅子座』という例外もありますが、'80年代の「喜劇と格言劇」シリーズや'90年代の「四季の物語」シリーズのヒロインまでたいがいは常識人かつ真面目で、極端な例では『モード家~』の主人公など「結婚を前提としない恋愛はしたことないし、無意味で興味もない」と公言してはばかりませんが、ブリアリはそのあたり得なキャラクターで常識人で真面目だけれど普通に助平親父でもあって、可愛い女子中学生がコケットな自覚もなしに懐いてじゃれてくるのに応えるのを助平心を見せずに演じてみせ、女友達に報告して楽しむ、といった具合です。本作の『クレールの膝』は魅力的なタイトルですが、再婚した母の相手の連れ子であるローラの姉娘の女子高生クレールが登場するのは映画の中盤近い45分目あたりからで、主人公は女子中学生の妹ローラに較べて無愛想な女子高生クレールに会って初めてローラに漠然と感じていた「10代の女の子の脚を触りたい」という欲求が「膝を撫でたい」とより具体的な形になったのに気づきます。トリュフォーも女性の脚へのフェティシズムがあった映画監督でしたが、「膝を撫でたい」とまでピンポイントで突いてくるのはちょっとした奇想でしょう。主人公はそれもオーロラに打ち明け、オーロラはますます面白がります。本作の主人公ジェロームは浮気性でも何でもありませんが、満たしたい欲求は「10代の女の子の膝を撫でる」ことなのです。
 それをオーロラが聞く、というのも本作の他のシリーズ作品との違いで、第1作から前作まで主人公が女性に関わるのはいつも親友が近くにいました。第1作では本命の女の子に出会う時はいつも親友と街を歩いている時でしたし、第2作では親友の押しかけ彼女であるシュザンヌが主人公をイライラさせます。『コレクション~』では知人の別荘で変な女の子と三角関係のようになりますし、『モード家~』で主人公をヒロインのモードに引きあわせて映画の中盤まで長談義するのも高校時代の親友です。しかしこれまでの親友はみんな男同士の親友なので、本作の女流作家オーロラとなるとセクシュアルな要素が入ってきます。『危険な関係』ではありませんし、主人公はオーロラに言われた通りにローラやクレールに粉をかけているのではありませんが、異性が異性にセクシュアルな話をすること自体がセクシュアルな含みを持つのは当然でしょう。主人公とオーロラは親友として取るべき距離はちゃんと取っているので重要なこと、例えばジェロームの婚約者については軽く流すだけですし、映画の終わりで「ぼくはもうすぐ結婚だが、君はずっと独身か」「私も婚約してるわよ」「こないだ君と車にいた男?」「そう」主人公はしまった、という顔になりますしオーロラは軽く受け流すので、異性としての魅力もお互いに感じた上で距離を取っているのでプライヴァシーに触れるデリケートな話題は出会い頭や別れ際に少しだけ、となるわけです。映画の途中でオーロラが街に出かけて男の車で帰ってくる場面があり、映画冒頭ではオーロラは主人公の婚約を聞いて受け流しているだけでしたからこの外出の時に婚約してきたのだとわかります。
 主人公はオーロラより早くパリへ帰るのですが、それはクレールの片膝を片手で撫でる絶好の機会に遭遇してまんまと自然に成功し、助平心とはちっとも思われず、クレールにとっては親愛の情のこもった慰めと同情の励ましと取れるようなタイミングがめぐってきたからでした。それがどういう具合かは映画をご覧になってのお楽しみとして、主人公ジェロームにとっての欲求はそれで満たされたのです。その場面はまずほとんど無言の映像のシークエンスで示され、次いでジェロームがオーロラにその時の状況を語る、という二重の手法で描かれます。映像で観せたことを主人公が別の登場人物への語りでくり返す、というのはロメール自身も自作解説で書いていますが変わった手法で、あまり意味も効果もないようでいてモノローグではくどくなる語りを女友達への打ち明け話という形で時制をずらして再現しているので、主人公の欲求が肉体的であるとともに抽象化された経験でもあることを示しており、セクシュアルではありますがごく微小に制限された肉体的な接触を不可欠な媒介にした審美的な欲求なので、オーロラにそれを話すのは自作自演のパフォーマンス・アートであることの確認のようなものなのです。それはありふれた恋愛や性よりも描くのが難しい事柄で、フランスの年間最優秀映画賞としてセザール賞と権威を二分するルイ・デリュック賞を本作に与えたフランスの映画界というのも大したものだという気がします。本作のブリアリのキャラクターを嫌う日本の観客は少なくないのではないでしょうか。しかしこれもまた映画の真実なので、特典映像のハイヴィジョン撮影の短編「背中の反り」'99は80歳近くなってもロメールが人体の曲線の官能性を語って止まない映画監督なのを示しています。女子高生の膝を撫でたい男の映画、思いつけば誰でもできるようで実際に作ってしまい、しかも本作は「六つの教訓話」でも屈指の完成度を誇る傑作です。こういう完璧な映画に何を言っても始まらないではありませんか。

●11月30日(木)
「六つの教訓話」シリーズ (Six contes moraux)第6話『愛の昼下がり』L'Amour l'apre's-midi (レ・フィルム・デュ・ロザンジュ'72)*97min, Colour; 日本公開1996年2月
「ヴェロニクと怠慢な生徒」Ve'ronique et son cancre (AJYMフィルム'58)*22min, B/W; 日本未公開(映像ソフト発売=『愛の昼下がり』特典映像)

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(キネマ旬報外国映画紹介より)
[ 解説 ] ヌーヴェル・ヴァーグの旗手だったエリック・ロメール監督が60年代から70年代初頭にかけて発表した恋愛喜劇の連作シリーズ「六つの教訓話」の最後の一編。製作は「ママと娼婦」のピエール・コトレル。撮影は「モード家の一夜」「クレールの膝」など'70年代のロメール映画には欠かせない名匠ネストール・アルメンドロス。美術はニコール・ラシーヌで、ロメールの現代ものでは珍しく一部の屋内シーンにはスタジオ・セットが使用されている。音楽はアリエ・ジエラッカ。録音のジャン=ピエール・リュー、編集のセシル・デキュジスは「モード家の一夜」「クレールの膝」に続いての参加。出演は主人公夫婦に実生活でも夫婦の「ゴダールの決別」のベルナール・ヴェイルレイとフランソワーズ・ヴェルレイほか。
[ あらすじ ] <プロローグ>パリの弁護士のフレデリック(ベルナール・ヴェルレイ)は郊外の高級集合住宅で、英語教師の妻エレーヌ(フランソワーズ・ヴェルレイ)と赤ん坊の娘アリアーヌと幸福に暮らしている。彼は時間に束縛されるのが嫌でジェラール(ダニエル・セカルディ)と共同で二人の若い秘書ファビエンヌ(マルヴィーナ・ペーヌ)とマルティーヌ(バベット・フェリエール)を雇って独立の事務所を開き、妻とも愛し合いながらもお互い干渉しない関係を保っている。<第1部>ある日フレデリックの事務所に、大学時代の親友の恋人だったクロエ(ズーズー)が押しかけてきた。最初は迷惑顔のフレデリックだが、クロエが同棲相手と別れて新しい部屋を借りるのに付き合ったのをきっかけに、仕事のあいまを縫って彼女と会うのが楽しみになる。ある晩、クロエが無理にでも彼の助けが必要だといい、彼が妻に嘘をついて時間を空けてやると、約束をすっぽかして行方不明になった。<第2部>それからしばらくしてフレデリック夫妻は長男のアレクサンドルが生まれた。エレーヌが職場に戻るので、夫婦は若いイギリス人の子守を雇う。子守はフレデリックの視線も気にせず裸で部屋を走り回るが、エレーヌは気にもしようとしない。そして「ギリシャに休暇に行っていた」クロエが舞い戻ってきた。やがて彼は再び彼女と付き合いはじめ、仕事もなく男から巻き上げた金が底をついてきた彼女のために仕事を世話してやる。定休日の月曜にクロエは一人で棚卸しをするから、フレデリックに来るように言う。クロエは彼の目の前で服を着替えて下着姿になった。彼女はフレデリックを愛しているといい、彼の子供が欲しいという。そして次の月曜日の昼下がり、フレデリックがクロエの部屋にいくと彼女はシャワーを浴びていた。彼に裸の体を拭かせ、そのままベッドに横たわるクロエ。ついにフレデリックタートルネックのセーターを脱ぎかけるが、そこで目の前の鏡に映った自分を見る。彼はそのまま部屋を去り、自宅に戻った。フレデリックはエレーヌに日曜日以外の昼下がりに君に会いたかったのだといい、彼女は涙を流す。二人はそのまま夫婦の寝室へ。

 まず特典映像の短編「ヴェロニクと怠慢な生徒」の成立について書くと、ロメールの監督、ゴダールの製作と主演で自主製作のサイレント短編映画「紹介またはシャルロットとステーキ」が'51年に作られ仲間内で上映されていましたが、'57年になってゴダールが続編の短編「シャルロットとヴェロニク、または男の名前はみんなパトリックって言うの」を作りました。そこでロメールもその続編「ヴェロニクと怠慢な生徒」を作り、ゴダールが「シャルロットとジュール」を'58年に作り、サイレントだった「紹介~」に音声をダビングしてサウンド・トーキー作品にし、4編の合作連作にしたのが同年です。たがいちがいに2人の監督が製作した短編連作というのも珍しく、のち著名監督になる2人とはいえ自主製作映画時代の短編作品ならではのことでしょう。だったらなぜ4編を1本の映像ソフトにまとめないのか、せめてロメール作品だけでも「紹介~」と「ヴェロニク~」は同じ巻の特典映像にまとめればいいものをと思いますが、版権とか(自主製作映画なので考えにくいですが)監督の意向とか(どちらかというとこっちが理由でありそう)色々事情があるのでしょう。「ヴェロニク~」と本編の『愛の昼下がり』の共通点を強いて上げれば、ヴェロニクは小学生の家庭教師で『愛の~』の主人公の妻は高校の英語教師というくらいです。内容はいかにも初期ヌーヴェル・ヴァーグの短編らしく、やんちゃ坊主に手を焼く若い女性家庭教師という他愛のなさに愛嬌がある小品です。どちらかというと「紹介またはシャルロットとステーキ」の方が当時のカイエ派らしいとぼけた面白みがあると思います。
 本編の『愛の昼下がり』は「六つの教訓話」の最終作で、プロローグ、第1部、第2部の3部構成からなる本作の時間配分はプロローグが25分、第1部が34分、第2部が38分になっています。プロローグでは『コレクションする女』以来大量のモノローグが戻ってきました。本作はシリーズでは唯一、既婚者が主人公で、年配は30代になったばかりというところ、娘がまだ赤ん坊ですから結婚3年目くらいでしょうか。プロローグはまるまる主人公の自己紹介のパートと言ってよく、妻のエレーヌとのまだ新婚気分の残る幸せな家庭生活、充実した自営業の職場環境、趣味嗜好や都会生活の楽しみなどが主人公の日常を追いながら語られます。ロメールらしくもない趣向ですがシリーズ最終作を意識してかプロローグの終わりには主人公が妻以外の女性と出逢ってモノにする空想が次々とくり広げられるシークエンスがあり、パリの街角でこれまでのシリーズのヒロインが続々ワンポイント出演しては主人公に口説き落とされるという空想なのですが、そっくりさんに映画と同じ衣装とメイクをしているのも含まれていそうながら『モード家~』のフランソワーズ・フェビアン、『クレール~』のベアトリス・ロマン(クレールの妹ローラの方)は本人の出演のようなのはこの2作がシリーズの近作である前作・前々作で連絡がつけやすかったのでしょう。主人公フレデリックとその妻エレーヌを演じるベルナール・ヴェルレイとフランソワーズ・ヴェルレイは実際の夫婦俳優だそうで、ともに好演で主人公にはお人好しの役がはまっており、妻のエレーヌの方はこれまでのシリーズのどのヒロインにも劣らない知的な美貌と媚びのない清潔な色気があります。プロローグでは夫婦があまりに仲睦まじく妻エレーヌが可憐で愛くるしいので、続く第1部ではエレーヌの登場場面が半減しますがやはり彼女の存在感の大きさを意識しないではいられません。
 第1部ではモノローグがなくなり、ようやく主人公のオフィスを訪ねてくるのが本作のヒロイン、クロエを演じるズーズーで、1943年生まれのズーズーは'62年にデビューしたファッション・モデルでイギリス、フランス、アメリカを股にかけたトップ・モデルだった女性で自称ブライアン・ジョーンズの本妻であり、レイ・デイヴィスを振り、ジョージ・ハリスンから紹介されたボブ・ディランランディ・ニューマンから紹介されたジャック・ニコルソンと浮き名を流したセレブでもあり、本作は本格的な映画女優への転身を図った第1歩でした。本作だけがズーズーの出演作で知られているのはすぐに薬物不法所持・使用でお縄をかけられてしまったためで、断続的にレコードや舞台やテレビ出演の活動を続けましたが捕まる→ブランク→復帰→捕まるのくり返しで2003年まで芸能活動をしていた人です。主人公は大学時代の親友の恋人で親友を散々な目にあわせたクロエを嫌っており、妻のエレーヌも「あなたの言っていたあの人ね」というくらい学生時代の嫌な思い出のヒロインなのですが、頼ってこられたら一応できることはするのが本作のお人好しの主人公なので、別れた男から盗んできた金が尽きるとクロエを手伝って男の留守宅からクロエの私物を運び出す手伝いまでする。そのうち主人公にも何となく共犯意識が芽生えてきて何くれとなく世話してやるのが当たり前のようになっていきます。第1部は家庭で良き夫である主人公とクロエとともに裏でこっそり不良化していく主人公が半々に描かれます。そしてクロエ突然失踪。第2部はほとんどクロエとのデートが生活の中心になった主人公がついにクロエから積極的な誘惑を受けるまでに大半が費やされます。主人公はクロエに子供が欲しいとまであからさまに誘惑されますが次の昼休みのデート(フランス人の昼休みは2~3時間あります)ではアパートについて行き、クロエは風呂上がりに主人公に身体を拭かせ、ベッドで待っています。主人公はワンルームのアパートの一室でタートルのセーターがうまく脱げないので洗面台の鏡の前に立つ。するとセーターの脱ぎかけで頭を覆って肩のない間抜けなことこの上ない自分の姿が映る。主人公は無言でセーターを着直し、洗面台の水道を流しっぱなしにして水音を立ててごまかし、上着をつかんで物音立てずにそっとドアから抜け出します。パリの古いアパートは螺旋状の内階段に最上階の天窓があるだけの作りですからとても暗く、クロエが追ってくるのではないかとびくびくもので主人公が階段を駆け下りる姿はユーモラスでもあり、ロメールの映画では珍しく主人公の身になって無事に逃げろよ、と思ってしまいます。
 主人公はオフィスに戻って午後の授業がなく在宅中の妻に電話します。帰宅した主人公は午後の仕事をさぼってでも君に会いたくなった、結婚したら平日の午後に一緒に過ごすことなどかえってなくなってしまったのに気づいたんだ、と妻に話します。妻はそうよね、いつの間にか当たり前になっていたけれど……と泣き出し、5時まで子供たちを預けてあるから、と夫婦は寝室に入っていきます。主人公は突然の帰宅の本当の原因を言わないので美談に見えて案外ずるいのですが、さすが本物の夫婦が演じているだけあって迫真の演技で無理矢理でも感動的なエンディングになっており、はて、映画のフレームとしては妻のウェイトがプロローグとエンディングで重要すぎて、シリーズのパターンから外れているのはいいにしてもズーズーは何のために出てきたんだ、とテーマが割れている印象も受けます。シリーズでは視点人物は常に主人公にあり、例外的に『クレールの膝』で主人公が去った後に女友達のオーロラの視点でクレールとクレールの仲違いしたボーイフレンド(それがきっかけで主人公にはクレールの膝に自然に手を置く機会が訪れたのですが)の様子が描かれましたが、オーロラは主人公の分身みたいなものなので唐突な視点の転換という感じはありませんでした。また『モード家~』では今は自分の妻となったかつての女子大生フランソワーズを新たな角度から見直す、というエンディングがありました。『愛の昼下がり』のエンディングでは視点は主人公と妻が共有することになり、観客は夫婦両者の視点を同時に引き受けながら観てしまうので、ついさっき他の女のアパートから逃げてきた主人公の都合の悪い面を妻には隠していることも主人公の立場で肯定してしまいますし、妻の視点からすると何があったか知らないけれどいつまでも新婚気分でいたつもりがそうでなくなっていて倦怠期の手前まで来ていた、けれどまだ自分たちも情熱的な愛情が残っているんだ、という方が重要なので、ロメールの映画は基本的には真面目というのは人生肯定的でもあることですが、いささか(相当)主人公に甘い結末ではあります。また、シリーズ中で本作のクロエほど類型的な誘惑型の悪女はおらず、「モンソーのパン屋の女の子」は主人公が引っかけた口ですし『シュザンヌ~』のシュザンヌ、『コレクション~』のアイデ、『クレール~』のローラは天然のコケットですし、『モード家~』のモードはむしろ結婚生活に恵まれた若き日を想像すれば本作の妻エレーヌに似ています。
 これはズーズーを起用したキャスティングにロメールの妥協、でなければ誤算があったのではないか。有名人を渡り歩くズーズーというスーパーモデルのイメージがあり、本作のクロエも活動的で積極的な性格に描かれていますが、カメラが嘘をつけないのは眼窩がくぼんで眼の下に隈ができているズーズーです。かつては整った美貌とスタイルだったのだろうと想像できなくもありませんが、本作撮影時に28、9歳にしては顔立ちといい肢体といい長い間の薬物常用癖と不摂生で肉が削げ、メイクでもどうにもならない隈と同じく肌の色も不健康で、とても活動的で積極的な日常生活を送っているようには見えません。初登場シーンでひと目見てジャンキーとわかる容貌ではどうしようもありません。主人公と絡むシーンの他はほとんど登場シーンがないのもズーズーに合わせて出番を削ったとしか思えず、他の女性登場人物と並んだら秘書役の女優2人より魅力に欠けるでしょう。汚れ役としても徹底していないのは少なくともこの映画では主人公を手玉に取りながら同時に数人の男も騙すほどの活躍をさせていないことにも表れており、そもそも本作の主人公ほどのお人好しを惑わせた程度(しかも失敗)では悪女の出来損ないでしかないのです。シリーズのパターンとして主人公はとりあえず惑うという一点だけはどの作品にも共通していますが、本作のクロエは女子高生クレールの膝頭ほどにも魅惑の対象ではなく、主人公がクロエよりももっと魅力的な妻エレーヌのもとに帰っていくのは至極当然な気がします。主演夫婦の名演でその当然が新鮮でまばゆくなっていますが、仮にエレーヌ役のフランソワーズ・ヴェルレイがクロエ役で、ズーズーがエレーヌ役だったらどうなるかと思うと(考えられない配役ですが)、主人公はフランソワーズ・ヴェルレイの方に行ってしまうでしょうし、観客にもその方が自然に見えます。つまりそんなジャンキーみたいな奥さんと別れて本当は性格良さそうな悪女とくっついた方が良かろうと観るのはごく自然で、しかし本作は悪女がジャンキー、奥さんが可憐ですから結末で感動はしても思い返すと意外性がまったくないのに気づきます。もちろん意外性ばかりが映画ではありませんし、画面構成など室内セットに凝った成果が出ていて映像センスの良さは本作も冴えています。しかし本作はトリュフォーのあまり上手くいっていない作品、『家庭』'70や『逃げ去る恋』'78を思わせるところがあり、トリュフォーの両作が夫婦生活を扱った作品なのと同様愛嬌こそあれテーマの次元で誤算があったように見えるのです。