●1月31日(水)
『建国史 尊王攘夷』(日活太秦撮影所'27)*100min(オリジナル266min), B/W, Silent
監督・池田富保(1892-1968)
原作・池田富保
脚色・池田富保、清瀬英次郎
撮影・松村清太郎、井隼英一
出演・大河内傳次郎、尾上多見太郎、谷崎十郎、山本嘉一、岡田時彦、酒井米子、沢村春子、桜木梅子、徳川良子
○あらすじ(DVDパッケージより) 憂国の士・井伊直弼を主人公に、大老就任、尊王攘夷派と開国派の血闘、井伊の開国へと至る苦悩、それゆえに「桜田門外の変」で水戸浪士に暗殺されるまでを描く。チャンバラ活劇から喜劇的タッチまで、放縦にして重厚な池田富保の代表作。
○ストーリー(日本語版ウィキペディアより) 幕末、安政5年6月(1858年7月)、アメリカ合衆国の全権総領事タウンゼント・ハリスが神奈川沖に投錨した。幕府側の代表である井上信濃守(中村仙之助)、岩瀬肥後守(実川延一郎)と交渉するが、開国と友好を求めるハリスらに井上らは強硬姿勢を見せる。ハリスらは清国がイギリスに上海を乗っ取られた例を挙げ、友好の必要を説く。その報告が江戸城に伝えられると、幕府大老の井伊直弼(大河内傳次郎)は、客観的な国力の違いから、命を張っても開国すべきだとの姿勢である。13代将軍家定(市川百之助)も病に伏せている。一方、水戸齊昭(山本嘉一)らは開国に反対であり、水戸藩士たちも同様である。水戸の巷で開国反対を説くヒゲの大男・関鉄之助(新妻四郎)がいる。正義漢で直情型の関は、有村治左衛門(尾上多見太郎)、森山繁之助(谷崎十郎)の仲間である。やがて、頼三樹三郎(岡崎晴夫)、鵜飼吉左衛門(中村時五郎)、梅田源次郎(三桝豊)ら危険人物たちを井伊直弼は次々に捕らえさせる、のちに安政の大獄と呼ばれる強硬手段に出る。なかでも梅田は、乳飲み子をかかえる病弱な妻おせつ(沢村春子)と別れる羽目になり、連行される梅田を、おせつは病身を押して道にまろびながらも追うのだった。有村らは、水戸齊昭に暇を乞い、井伊直弼を討つ決意を固める。有村は新しい刀を購って準備を進めるが、森山はシャイな関を芸妓遊びに連れ出し、芸妓のおあき(酒井米子)とくっつけようとする。安政7年3月2日(1860年3月23日)いよいよ、明日決行、夜には雪が降る。翌朝、江戸城桜田門で斬りかかる有村ら。いよいよ籠のなかから井伊直弼が現れる。井伊も命をかけて開国を推進する身、有村も命がけである。井伊は国賊と叫ばれるが、お互い思想が違うが、国を思う心は同じだと動ぜず、そんなに井伊の首が欲しければ、と雪の庭に座する。有村、関、森山たちは井伊の首を取り、勝鬨を挙げる。
開巻一番波濤とともに字幕「黒船だ!」逃げまどう人々、家財道具を積んだ大八車、砲兵隊の出陣、「戦争だ!」、星の数が4列しかない星条旗がひるがえる船上のペリー館長とハリス総領事、報告を受ける大河内傳次郎の井伊直弼、ハリス総領事との会談、気勢を上げる開国絶対反対の尊王派、英仏連合軍による清国侵略を引き合いにアメリカとの同盟と引き換えの開国を迫るハリス、と本作冒頭はなかなか快調に進んでいきます。安全保障条約を餌に弱小国を衛星国に取りこんできたアメリカの手口はなるほどこういうものだったのか、これが後にはソヴィエトや中国、アラブ諸国の脅威から守ってやるぜの安全保障軍事外交に変化していくわけだなと歴史のお勉強にもなります。このあたりまではけっこう面白い。映画が歯切れ悪くなってくるのは開国派と攘夷派で国政が分裂し事実上の内戦状態が勃発していくあたりからで、映画は当初開国派の井伊の観点で進んでいきますから観る側も何とか攘夷派と折り合いをつけようという井伊の気持になって観る。ところが急進派を取り締まる井伊の政策が進むと映画は井伊に弾圧された攘夷派の方に同情的になっていく。あらすじで言えば「なかでも梅田(攘夷派の水戸藩の壮士)は、乳飲み子をかかえる病弱な妻おせつ(沢村春子)と別れる羽目になり、連行される梅田を、おせつは病身を押して道にまろびながらも追うのだった」というあたりです。だんだん井伊直弼がフランス革命でいえばロビスピエール化してきて(なんと『ナポレオン』との偶然の一致)、この『尊王攘夷』はかなりグリフィスの『イントレランス』'16を意識していると思われ、開国派と攘夷派の和睦をテーマに始まったように見えるのに、映画のかなり早い段階から同じグリフィスでも南北戦争と敗戦後の南部の混乱を描いた『国民の創生』'15になってしまう。つまり進歩派の北部が保守派の南部を虐げたという歴史観に変わってしまい、グリフィスは後の『アメリカ』'24で北部の立場から南北戦争を正当化する作品を作りますが、『国民の創生』では諸悪の根源(!)リンカーンが映画のちょうど折り返し地点で助監督ラオール・ウォルシュ演じるジョン・ウィルクス・ブースに暗殺されます。それから敗戦後の南部の混乱が描かれて奴隷制度の廃止で野放しになった黒人を取り締まれ(!)と話はどんどん暴走していくのですが、1915年のアメリカではこの映画は歴史的大ヒット、サイレント時代通算3位のヒット作になったのです。『尊王攘夷』はリンカーンになれなかったロビスピエールのような井伊直弼が暗殺されて終わってしまうので、これが前後編の前編という意味の半分ではなくて映画全編がこれが結末になっている。井伊直弼を意に反して圧制的政策に向かわなければならなかった悲劇的政治家として描けばそれでも一貫性があったはずですが、井伊の立場から映画が始まっていながら話はどんどん尊王攘夷派壮士たちへと同情的に進んでいく。原作とシナリオは誰だと言えば監督・池田富保本人なのです。池田の没年は'68年ですから(つまり本作製作の40年後です)'30年代の日本の大東亜共栄圏提唱と日中戦争~太平洋戦争、さらに日本敗戦後のアメリカの占領政策、朝鮮戦争~'60年の安保条約への歩み、また'70年安保を控えた反アメリカ的風潮のうちに亡くなっているので本作の歴史観に矛盾を感じなかったかもしれない。しかしこの歴史観の是非以前に映画自体が一貫性を欠いています。『国民の創生』ですら統一国家以前のアメリカの南部国民の視点に徹していることで映画としては首尾一貫しており、グリフィス自身の原作・脚本による(『国民の創生』は南部出身作家の原作小説によるものでした)次作『イントレランス』は人類の不寛容の歴史を糾弾するものになった。『尊王攘夷』は井伊直弼の開国政策と攘夷運動の壮士たちを平行して描いて『イントレランス』的に始まりながら、いつの間にか(『国民の創生』で白人自警団、クー・クラックス・クランがそう描かれたように)攘夷派を正当化して、日本人のアメリカへの文化的憧憬と政治的反感を反映したような矛盾をはらんだ作品になってしまった印象を受けます。何かおかしいぞ、どうなるんだろうと思っていたらおかしなまま終わってしまって退屈しなかったし長くは感じませんでしたが、あるいはオリジナル4時間半版ではもっと井伊直弼の苦汁が描きこまれていたのかもしれませんが、それでもやはり結末まで観て釈然としないままだったと思うのです。
●2月1日(木)
『百萬両秘聞 第一篇』 (マキノ・プロダクション御室撮影所'27)*57min(オリジナル110min), B/W, Silent
監督・マキノ省三(1878-1929)
原作・三上於菟吉
脚色・山上伊太郎(1903-1945)
監督補・松田定次(1906-2003)、鈴木桃咲(桃作、1901-1941)
撮影・松浦茂
出演・嵐長三郎(春水主税)、山本礼三郎(若井善太郎)、尾上松緑(塚屋吉兵衛)、市川小文治(通り魔の半次)、松浦築枝(藤尾)、住乃江田鶴子(妾お染)、鈴木澄子(天花院お花)
○あらすじ(DVDパッケージより)「日本映画の父」マキノ省三が仕掛けた時代劇版ミステリー。幽霊野という荒野にのぞむ老夫婦の家を一人の若侍春水主税が訪れ、荒野へ旅立つ。そしてこの若侍を追う盗賊通り魔の半次。その夜、夫婦の息子も訪ねて来て、若侍が幽霊野に旅立ったと聞くや自らも荒野に向かう。荒野の先、古塚に百万両が眠る絵図があるという話で……。
さてようやく牧野省三自身の監督作が出てきました。この頃には名義をプロダクション名のカタカナ表記に倣ってマキノとしていたようです。マキノ省三(1878-1929)は本格的な映画のトーキー化直前に病没していますが、最初の監督作品が1908年、320本目の監督作が急逝の前年'28年ですから日本のD. W. グリフィス(1875-1948、監督デビュー1909年、生涯監督数520本中トーキー以後2作、引退'31年)とキャリアが比較されるのももっともで、独立プロから当時の2大映画社(日活・松竹)のうち日活の撮影所長を就任した後再び独立、子息のマキノ雅弘(1908-1993、監督デビュー18歳、20歳の作『浪人街』'28でキネマ旬報年間1位、生涯監督数261本、引退'72年)は牧野プロ解散後大映の前身・第一映画社のトーキー監修者になり監督復帰後戦前は日活、戦後は東宝から始めて東映に移籍後は東映映画の路線を決定する重鎮となった人で、親子2代で大手5社、特に省三は日活、雅弘は東映の基礎を築いた人です。マキノ雅弘監督作品は散佚作品こそあれ多数の名作が残されているが牧野省三監督作品は観るのが難しい。現存作品が少なすぎるばかりかそれもほとんど短縮版や欠損版で、牧野の指揮(プロデュース)で膨大に製作された門下生による牧野プロ作品が散発的にせよ相当現存しており、そちらに小品が多い分短縮や欠損の損傷が比較的少ないため牧野プロ作品の真髄はむしろ牧野本人の損傷作品より門下生たちの現存作品の方が堪能できる。そういう年代物ならではのジレンマがあるので芸術派の雄として日本映画をリードした村田實(1894-1937、監督作品44作・現存作品2本)とは異なるニュアンスながら現代の観客には全貌がつかめない映画監督です。スウェーデンやデンマークのように年間新作映画本数30本台、ポーランドやチェコスロバキアの年間20本台のような国の方がまだ映画の廃棄率が低く、国家製作のソヴィエトなら検閲通過作品ならほぼ保存されていて、最大の映画大国アメリカではサイレント映画の現存率20%台、アメリカに次ぐ独伊仏のうち内陸国のドイツ映画は輸出率が高い分だけかなり現存、自国文化へのプライドが高いイタリアとフランスでも相当現存しているのに較べ戦前日本の国産映画廃棄率の高さは気前が良すぎるほどで、トーキー以降の新作でもがんがん廃棄されていたのが日本映画の展望を困難にしており、過去に豊かな映画遺産が乏しい印象を広げてしまっていることから「どうせ日本映画」「価値のあるのは新作のうちだけ」という映画観が連綿と続くことになります。『路上の霊魂』'21や『逆流』'24、『雄呂血』'25、『狂つた一頁』'26、『怒苦呂』'27、『十字路』'28、『浪人街』'28、『忠治旅日記』'28、『若き日』'29、『東京行進曲』'29は2018年にも世界中で観られているけれど2010年年代の新作映画で現在から90年後あまりの2108年にも観られている映画があるかと想像するとどうでしょうか。日本人は昔の映画なんか観なくて海外のマニアだけが観ている状況は現在どころではないのではないでしょうか。肝心な本題、本作『百萬両秘聞』の内容に触れないままに愚痴ばかりこぼしてしまいましたが、冒頭述べた通り実はこの前後篇(オリジナルは三部作)は独立した内容の連作ではなくオリジナル三篇通して1本の長編映画の作りです。大作長編をオリジナルでは三篇、短縮版総集編では前後二篇に分けているので、マツダ映画社版ではすっきり1本の長編にまとめています。総集編で全長2時間強の長さもマツダ映画社版のように伴奏音楽と弁士解説つきのサウンド版なら前後篇を合わせた方が観やすいので、今回観たのは完全サイレントの前後篇分割版ですが、感想文なら1本の長編として書くことになります。そういう次第で感想文は『第二篇』、フィルム通りに呼ぶなら『后篇』に譲ります。なんだか逃げ腰ですいませんが、映画もかなりの難物なのです。
●2月2日(金)
『百萬両秘聞 第二篇』(マキノ・プロダクション御室撮影所'27)*67min(オリジナル85min), B/W, Silent
監督・マキノ省三(1878-1929)
原作・三上於菟吉
脚色・山上伊太郎(1903-1945)
監督補・松田定次(1906-2003)、鈴木桃咲(桃作、1901-1941)
撮影・松浦茂
出演・嵐長三郎(春水主税)、山本礼三郎(若井善太郎)、尾上松緑(塚屋吉兵衛)、市川小文治(通り魔の半次)、松浦築枝(藤尾)、住乃江田鶴子(妾お染)、鈴木澄子(天花院お花)
○あらすじ(DVDパッケージより)「百萬両秘聞」後編。隠された百万両を求めて旅をする春水主税と半次。そしてこの男二人に絡む二人の女が宝探しをよりスリリングにしていく。主演の嵐長三郎は嵐寛寿郎を名乗る前の芸名である。
ただ本作は監督補に後にマキノ雅弘に誘われ戦後東映映画の大ヒット監督になる松田定次、早逝したものの牧野プロ末期に他社に移籍し'30年代の時代劇監督として地道に活躍した鈴木桃咲(桃作)がおり、マキノ省三は翌年の牧野プロ総力結集の大作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』のプリプロダクションで助監督たちを割り振り地方ロケの先行撮影にも入っていたようですからオリジナルでは三部作で総計5時間近かったと推定される本作は全カットにマキノが立ち会う製作体制は取れず、第二班監督、第三班監督という具合に役者がかぶらないシーンは平行して中抜き撮影していったのではないか。そのくらいしないと10月29日、11月18日、12月1日で三部作、さらに次作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』の封切り予定日が翌昭和3年(1928年)3月14日ですから間に合わなかったでしょうし、それでも広告代理店の介在抜きには企画自体の実現も困難な現在の映画界では考えられない製作・上映ペースです。全長約5時間を前後篇に短縮分割編集した現存版は『第一篇』ではいろいろあって結局本気で利害の対立した主悦と半次が1対1の決闘でにらみ合ったところで「終」、『后篇』は決闘をすっ飛ばしてすでに別行動を取っている主悦と半次の様子がカットバックされ、何だかんだでまたこの二人は壺の発見までは協力しあうことになり、それがお染の思惑から悪徳家老に漏れて主悦は裏切り者、半次は盗賊として命を狙われる身となり嫌でも共闘する羽目になります。これが半次に壺を盗ませたいお染と主悦に惚れてしまったお花にどう働き、主悦の恋人藤尾がどう肩身が狭くなるかこの短縮総集編は上手く整理しているとは言えず、映像的にも沼田紅緑の『小雀峠』、二川文太郎の『影法師』にはあった統一感がなく、また今回の『尊王攘夷』の監督・池田富保も牧野省三が日活撮影所所長時代に撮った『実録忠臣蔵』'21(大正10年・日活版)で俳優デビューしたのが映画界入りのきっかけでそのまま日活で監督に転じ、戦後は東映で俳優に戻った牧野プロ以外の牧野門下生とも言えますし、ひとりの映画監督の映像的美意識は内容の混乱に拘わらず全編に感じられるものでした。4時間半~5時間の映画をほぼ半分に短縮編集してあるのは『尊王攘夷』も『百萬両秘聞』も変わりません。『影法師』も2時間半ある前後篇を半分の長さにした短縮編集版でした。しかし編集によって生じただけではない映像感覚の不統一が『百萬両秘聞』にはあり、撮影のクレジットはひとりのカメラマンだけですがそれはマキノ監督班のカメラマンであって第二撮影班、第三撮影班はどうだったか。全体はマキノ省三の監督作品だとしても短縮編集によって良く言えばシーンごとの独立性が高く、悪く言えば寄せ集めで調子にムラがあり、変化は富んでいるのにエピソードの順序を入れ替えてもあまり大差のないような大作になった印象を受けます。オリジナル全長版ならつぎはぎ感も目だたず第一・第二・最終篇と分けた効果もあったかもしれません。主人公主悦と通り魔半次の腐れ縁道中始末、毒婦お染とお花の策謀など光る見せ場があちこちあるのに見せ場に集中していかない遠心的な進み方をしていくので楕円的な構成と言えば巧緻なようですが、それが狙いだとしたらこの合本短縮編集版では多元的な効果を上げて成功しているとは見えない難点があります。主悦と半次、お花とお染のそれぞれに焦点があり、しかも悪代官的家老や受難の可憐な乙女の藤尾がいてそれらを全部組みこんだ結果、進行ばかりか結末も何だか曖昧なものになっている。半端な勧善懲悪が図式をひっくり返しているとも言えないし何に収斂させたかったのか投げ出してしまったような結末です。牧野省三の口癖は「映画は、一・"スジ"、二"・ヌケ"、三・"ドウサ"」だったそうですが本作は筋に凝りすぎて収拾がつかなくなっている気味が短縮編集版にはある。この現存版だって十分面白いのですが面白く観ながらも感想となると上記の通り疎略な面が相当目立つのです。では積極的な魅力はとなれば男女ふたりずつ、主悦・半次、お花・お染のキャラクターが活かされている場面で、要約すれば本作は悪知恵と騙しあいのアクション映画ですから悪くて狡い人物ほど生き生きとしているので、筋立てはその方便でしかありません。牧野省三はそんなことは先刻ご承知で一スジ二ヌケ三ドウサと言っていたはずですが、本作の筋の工夫はエピソード単位の発想で演出の意識もエピソード単位のため映画全体の流れがよく見えない、今観ているシーンが映画全体のどの辺りに来ているのかわからない構成になっていて、プロデューサーも兼ねるマキノの監督ならば脚本の決定権もあるので脚本家に責任ありとは言えないでしょう。この盛りすぎをプロデューサー的大作主義またはスター主義と見るか、純粋に創作意欲の発露と見るかでは見方が異なるようでいて、案外どちらも変わらないような気がするのです。