人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(18); 八木重吉詩集『秋の瞳』大正14年刊(iii)

(大正13年1924年5月26日、長女桃子満1歳の誕生日に。重吉26歳、妻とみ子19歳)

イメージ 1

 日本の現代詩確立期の詩人の第1詩集の中でも、無教会派キリスト教詩人・八木重吉(1898.2.9-1927.10.26)の自序+全117編すべて未発表作品からなる第1詩集『秋の瞳』(大正14年=1925年8月刊)ほど一見平易な見かけでありながら読み方の難しい詩集はありません。愛読者の多い詩人なのでたいがいの詩集シリーズには八木重吉の巻があり、高村光太郎萩原朔太郎室生犀星金子光晴三好達治西脇順三郎ら現代詩の本流を作ってきた詩人たちよりもある意味もっと親しまれている、宮澤賢治中原中也に並ぶ読まれ方をしている詩人でしょう。これに先には石川啄木、後には立原道造を加えてもいいと思いますが、まず夭逝詩人であることで共通しています。また、立原だけは生前沒後を通して青年詩人のスター格でしたが、啄木、賢治、中原などは生前詩人仲間の間でしか注目されなかった。啄木の場合亡くなる前年の歌集『一握の砂』'10が大評判になりましたがあくまで歌集『一握の砂』への反響です。浄土宗の詩人・宮澤賢治八木重吉に近いデビューをした人で、同人誌活動や詩誌への詩作発表の経歴なしにいきなり第1詩集『春と修羅』'24を自費出版しています。宮澤、八木は第1詩集がごく一部の若手詩人たちの注目を集めて新作詩の発表舞台を得ますが、生前に第2詩集の発表には至りませんでした。石川啄木は二十歳前に第1詩集を発表して与謝野鉄幹・晶子の主宰詩歌誌の同人でしたし、新聞記者だったので地方新聞の穴埋め記事に自作詩を発表することもできました。中原中也は友人に恵まれた詩人で迷惑をかけつつも人柄と詩才を愛されたので第1詩集以前から活発な詩作発表があり、八木の場合は夭逝前年に編まれた第2詩集『貧しき信徒』'28未収録作品も発表・未発表ともに詩集収録作品を上回る分量が残されていました。

 八木重吉は突然全編未発表作品の第1詩集でデビューし、夭逝までの2年間には誘われて各種の詩誌に作品発表もしましたが、第2詩集編集の後すぐに夭逝しており、第1詩集と第2詩集には合わせて約220編の短詩が収められていますが、八木生前から自分の同人誌「銅鑼」への寄稿を熱心に勧誘し、沒後には「銅鑼」の発展した「歴程」で重吉未亡人富子に募って未発表作品の紹介に務めていた草野心平が「歴程」の師表する高村光太郎の推挽を得て刊行した『八木重吉詩集』(山雅房昭和17年='42年7月刊)では357編が集成されました。うち『秋の瞳』『貧しき信徒』からは抄出ですから単行本初収録詩編は200編以上になります。これは戦後に新たに新版『八木重吉詩集』(創元社、昭和23年='48年3月刊)に改訂復刊され、山雅房版『八木重吉詩集』から200編を選び「『詩稿ノートより』」として新発見詩編17編を足したもので、文庫化もされ戦後の八木重吉の読者を広げた選集です。さらにキリスト教詩人としての面から編まれたのが『信仰詩集 神を呼ばう』(新教出版社、昭和25年='50年3月刊)で、それまでの『八木重吉詩集』からテーマ別に作品選択し晩年の病床での「ノオト」からの初収録詩稿を多く追加した全261編の詩集でした。

 八木重吉詩集に画期を期したのは昭和33年('58年)4月(翌年一部改訂)、彌生書房から刊行された『定本 八木重吉詩集』でした。これは重吉未亡人富子が歌人の吉野秀雄と再婚し、吉野家の子息子女たちが協力して遺稿を整理しまとめ上げたもので、既刊詩集全編に加えて未発表詩編を系統的に編集したもので、全834編中初収録詩編は119編でした。また『定本』刊行直後に「歴程」同人で高村光太郎に八木の遺族から山雅房版詩集に続いて八木重吉の未発表詩集(そのために高村が書いた序文が『定本 八木重吉詩集』の序文に転用されていました)の編纂を託され、高村から実務を委託されていた詩人・宮崎稔(宮崎は高村の戦後詩集『典型』'50の編纂・校訂者でもありました)の遺品から戦時の事情で編纂のかなわなかった詩稿ノート11冊が発見され、これも吉野家の編集によって完全未発表詩稿360編が『<新資料 八木重吉詩稿> 花と空と祈り』(彌生書房、昭和34年='59年12月刊)として刊行されました。しかしこの1,200編あまりでも八木重吉の遺稿詩の4割が公刊されたに過ぎず、昭和57年('82年)に遂に刊行された筑摩書房からの初の『八木重吉全集』全3巻は詩人本人が『秋の瞳』『貧しき信徒』以外にまとめていた小詩集、習作ノートの現存する約60冊を収録し、『秋の瞳』『貧しき信徒』のほとんどの詩編はこれら小詩集から選り抜いたものと判明するとともに習作ノートと小詩集との重複詩やヴァリアントも多いのですが、一応独立した短詩として区分できる八木重吉詩編の総数は『八木重吉全集』で読むことができる残存作品だけで2,800編におよぶことになりました。つまり第1詩集『秋の瞳』、病床で編まれた遺稿となった第2詩集『貧しき信徒』の220編、多く見積もっても詩集未収録の生前発表作品や発表前提で遺されていた詩稿を集成した最初の全詩集『八木重吉詩集(山雅房版)』初収録詩編約200編を足しても、散佚詩稿を数えれば3,000編以上と推定される創作からの精選作品にすぎない、ということになります。

 八木重吉の詩作は大正11年('22年)春の兵庫県の御影の中学校教員に赴任した頃に始まり、沒年の昭和2年('27年)の6月末には結核重篤によって依頼退職、10月の逝去まで半年近く危篤状態が続いており、第2詩集『貧しき信徒』は前年末までにはまとめられており、沒年の発表作のほとんどは『貧しき信徒』からの先行発表詩編でした。正味5年間で3,000編となると自選詩集『秋の瞳』『貧しき信徒』また詩集未収録発表作・発表用作品をほぼ網羅した『八木重吉詩集(山雅房版)』の計約400編と自選されなかった作品の区別にどれだけ意味があるだろうか、という気にもさせられます。『定本 八木重吉詩集』さえも遺稿から精選して全834編、うち初発掘詩編119編にまとめ上げたわけですし、それでも『<新資料 八木重吉詩稿> 花と空と祈り』にまとめられた小詩集11冊からのセレクト(同書では360編)を欠いています。『定本 八木重吉詩集』に至っても全遺稿からの一定の基準による全詩集とは言えず、その点では資料的な限界、時局的な限界(宮澤賢治全集は滑り込みで用紙統制前に刊行が実現しました)があった戦中刊行でありながら、山雅房版『八木重吉詩集』は収録詩編数こそ少ないとは言え発表作品と八木自身の浄書原稿のある発表用詩編に限定した分編纂基準は明確でした。

 八木重吉内村鑑三に感化された無教会派キリスト教教徒でしたが、それまで日本のキリスト教詩人と言えばキリスト教牧師(伝道師)を生業としていた詩人には明治に宮崎湖處子(1864-1922)と北村透谷(1868-1894)、大正に山村暮鳥(1884-1824)がおりましたが、彼らは教会組織では非常に冷遇された上に詩人であることでも反感を買い不遇な生涯を送りました。作品を参観しても湖處子、透谷、暮鳥には明らかな宗教的神秘体験の痕跡があり、思想家的存在でもあった透谷はともかく、湖處子や暮鳥の場合は詩人仲間からもうさんくさいポーズであると疎まれてしまったのです。湖處子が透谷の夭逝、暮鳥が湖處子の断筆と入れ替わるようにして出てきたキリスト教詩人ならば、八木重吉は暮鳥の逝去を継ぐように登場してきた無教会派キリスト教詩人でした。日本語版ウィキペディアの簡単な略歴を上げると、

八木 重吉(やぎ じゅうきち)
生年: 1898-02-09
没年: 1927-10-26
人物について: 早世の詩人。1898(明治31)2月9日、東京府南多摩郡堺村(現在の町田市)に生まれ、東京高等師範学校に進む。在学中、受洗。卒業後、兵庫県御影師範の英語教師となる。24歳で、17歳の島田とみと結婚。この頃から、詩作に集中し、自らの信仰を確かめる。1925(大正14)年、第一詩集『秋の瞳』刊行。以降、詩誌に作品を寄せるようになるが、1926年、結核を得て病臥。病の床で第二詩集『貧しき信徒』を編むも、翌1927(昭和2)年10月26日、刊行を見ぬまま他界。『貧しき信徒』は翌年、出版された。

 八木は当時すでに文芸書出版の大手だった新潮社の編集部員で作家でもあった加藤武雄と姻戚関係(又従兄弟)で親好があり、第1詩集『秋の瞳』は少部数の自費出版が当たり前だった(今日でもそうですが)無名詩人の処女出版では異例の大手出版社からの刊行となりました。『秋の瞳』には、八木自身の自序の前にの加藤武雄による推薦文が掲載されています。大正時代の日本では宗教文学のブームがあり、半分自費出版だったとしても『秋の瞳』の商業出版はその流行を抜きにしては考えられません。また八木重吉は詩の同人誌活動や詩誌への投稿もしたことがなかったので、この詩集は第1詩集にもかかわらずほとんど全編が書き下ろしなのも異例のことでした。すべて短詩の全117編にはセクション分けはなく、各詩の創作年月が突き止められたのは初出の未発表小詩集が明らかにされた昭和57年('82年)の『八木重吉全集』第1巻(筑摩書房刊)の編纂によってでした。

 前回・前々回では2回に分けて詩集『秋の瞳』全117編をご紹介しましたが、今回は詩集の中でなくもがな、と思われる詩編を省いた76編に巻末5編を足し、元の詩集での作品順番号を振り、全集によって判明している創作時期を詩編ごとに記しました。詩集の編纂では巻頭数編と巻末数編の詩編選択・配列にはどんな詩人でも気を使うと思うのですが、『秋の瞳』は巻頭詩編数編の選択と配列は上乗ですが巻末数編は出来も並びも良くないと思います。(113)~(117)の巻末5編のうち(113)はまだ佳編ですが独立性が弱く、(114)が(113)を受けるとすれば(26)と詩想が重なりすぎているし(26)より(114)ははっきり出来が悪い。いっそ(112)で詩集が終わっている方がまとまりが良いが悪い詩ではないものの詩集を締めくくるほど良くもない、というあたりを詩編ごとの創作時期から推察してみてください。また、詩想が十分こなれていないと思われる詩編を除いたこの抄出から見ると、意外なほど高橋新吉(1901-1987)や尾形亀之助(1900-1942)ら同時代のダダイズム詩人に似ているのがお分かりいただけるでしょうか。


 私は生れたての赤ん坊のやうに生きたい
 時々野蛮な声を出して
 空腹を訴へるのを私の仕事としたい
  (高橋新吉高橋新吉詩集』「5」
  全行・昭和3年)


 曇天の下をヒタ走りに走つて
 私は櫨(はぜ)の木に登つた
 そして赤い舌を出した

 それから雨が降つたのだ
  (高橋新吉高橋新吉詩集』「57」
  全行・同上)


 私は菊を一株買つて庭へ植ゑた

 人が来て
「つまらない……」と言ひさうなので
 いそいで植ゑた

 今日もしみじみ十一月が晴れてゐる
  (尾形亀之助「家」全行・昭和2年作・
  詩集『雨になる朝』昭和4年収録)


 松林の中には魚の骨が落ちてゐる
 (私はそれを三度も見たことがある)
  (尾形亀之助「白に就て」全行・
  昭和2年作・同上)

 キリスト教詩人、信仰詩人との先入観なしに詩の言葉だけに向かえばなるほど、先に宮澤賢治を誘ったように草野心平が同人に勧誘し、同人参加が無理なら寄稿だけでもと「歴程」の前身「學校」のそのまた前身「銅鑼」に誘い、最初の『宮澤賢治全集』の編者になり石川善助、逸見猶吉らの遺稿詩集の編者になったように最初の全詩集『八木重吉詩集』の編者になったのもわかります。ただしその時点では、宮澤賢治の膨大な遺稿のように遺稿すべてを作品とする見方はされず、重吉が小詩集単位でまとめていた稿本は実際それらから『秋の瞳』や『貧しき信徒』の収録詩編が選出されていたため創作ノートと見なされ、小詩集・習作ノートほぼ60冊は出版対象としての作品と考えられなかったのです(同様に本格的な公刊詩集以外に多数の小詩集を書いた詩人に竹内勝太郎、岡崎清一郎、立原道造らが思い出されます)。

 そのように八木重吉大正11年('22年)春から沒年の昭和2年('27年)春までの正味5年間に判明・現存しているだけでも60冊あまりの小詩集・習作ノートを残しており、それが没後55年目の昭和57年('82年)になってようやく全集に翻刻された、ということになります。ずっと遺稿を護ってきた富子未亡人は77歳でまだ健在でした。八木の小詩集は罫線紙、半紙など用紙も筆記用具もさまざまですが少なくは10編前後、多くは50編前後をほとんどは表紙と表題、小詩集編纂時の年月日を書きこんで遺されており、『秋の瞳』や『貧しき信徒』への採択時には小詩集から浄書稿が起こされました。草稿から小詩集に合本された時に修正がなされたり、浄書時に改作されることもしばしばあり、また見本刷りの段階で著者校が行われたり(『秋の瞳』)、遺された自筆原稿と詩誌発表型で異動があったりと(『貧しき信徒』『八木重吉詩集(山雅房版)』)詩編ごとの最終型の決定には一定の基準が必要です。そもそも『定本 八木重吉詩集』『<新資料 八木重吉詩稿> 花と空と祈り』に至っても遺稿すべてを収録する方針ではなく、またそれまでまちまちな形で小詩集からの抜粋発表がされてきたため小詩集の復原に錯簡があり、その上新たに定本として『秋の瞳』『貧しき信徒』収録作に匹敵、または準じる佳作のみを選り抜いて編集したため小詩集の単位ごと再編集される錯誤が生じました。

 八木重吉は大変な読書家で、英語教師でもあったことから熱心な19世紀イギリスのロマン派詩の研究者であり、日本の詩人ではもっとも北村透谷を全集で愛読し、明治大正のめぼしい詩人はほぼ読破していましたが、いわゆる作家志願の文学青年ではなかったので同人誌参加して作品発表する興味は稀薄で、小詩集を何十冊もまとめているうちに自信作を集めた詩集を公刊したくなったようです。公刊目的が先ならそのために詩を書いたはずで、小詩集を次々とまとめていたのは自分自身で書いた詩を把握し、手応えを感じたかったからでしょう。第1詩集『秋の瞳』は次の小詩集から選ばれた自選詩集です。年月日は小詩集編纂の日付で、月だけの場合は収録作の創作月、「大正12年」とだけ記されている場合は大正10年度('21年)、大正11年度('22年)の創作を大正12年にテーマ別小詩集に編纂したものも含まれるようです。また「初稿不詳」の詩編は小詩集にも見えず自筆原稿も遺されていないので『秋の瞳』のための書き下ろしと推定されています。全集解題の原稿調査結果では詩集『秋の瞳』の収録詩編全117編の初稿創作年は、大正10年=2編、大正11年=15編、大正12年=71編、大正13年=9編、原稿不明により年代不詳=20編となるそうです。

[ 詩集『秋の瞳』収録詩編初出小詩集一覧 ]
1○木蓮(一九二三・一=大正12年1月)詩46編、『秋の瞳』初稿1編初出、創作時期大正11年6月、7月
2○あしたの嘆き(一九二三・一=大正12年1月)詩28編、『秋の瞳』初稿1編初出、創作時期大正11年6月、7月
3○感触は水に似る(1923)詩25編、『秋の瞳』初稿2編初出、創作時期大正10年
夾竹桃(一九二三)詩17編、『秋の瞳』初稿なし、創作時期大正11年
5○龍舌蘭(1923)詩10編、『秋の瞳』初稿2編初出、創作時期大正11年
6○白い哄笑(一九二三)詩18編、『秋の瞳』初稿2編初出、創作時期大正11年
7○虔しい放縦(一九二三)詩39編、『秋の瞳』初稿3編初出、創作時期大正11年
8○矜持ある風景(大正12年)詩22編、『秋の瞳』初稿2編初出、創作時期大正11年秋~冬
9○不安な外景(--23=大正12年)詩12編、『秋の瞳』初稿1編初出、創作時期大正11年暮~大正12年初頭
10○庭上寂(1923=大正12年)詩12編、『秋の瞳』初稿4編初出、創作時期大正11年秋~大正12年初頭
11×巨いなる鐘(一九二三)詩12編、『秋の瞳』初稿なし
12○静かなる風景(一九二三)詩11編、『秋の瞳』初稿5編初出
13○石塊と語る(1923=大正12年)詩21編、『秋の瞳』初稿3編初出
14○私は聴く(一九二三=大正12年)詩17編、『秋の瞳』初稿3編初出
15○暗光(1923=大正12年)詩11編、『秋の瞳』初稿1編初出
16○壺(1923=大正12年)詩8編、『秋の瞳』初稿3編初出
17×草は静けさ(1923=大正12年)詩20編、『秋の瞳』初稿なし
18○土をたたく(4/1923=大正12年4月)詩18編、『秋の瞳』初稿1編初出
19○痴寂なる手(一九二三=大正12年5月20日)詩40編、『秋の瞳』初稿6編初出
20○焼夷(1923.6=大正12年6月)詩37編、『秋の瞳』初稿2編初出
21○丘をよぢる白い路(一九二三・八・二四=大正12年8月24日)序文+詩31編、『秋の瞳』初稿12編初出
22○鳩がとぶ(大正12年9月28日)詩37編、『秋の瞳』初稿13編初出
23○花が咲いた(大正12年10月18日)序文+詩27編、『秋の瞳』初稿7編初出
24○大和行(一九二三・一一・六=大正12年11月6日)序文+詩20編、『秋の瞳』初稿6編初出
25○我子病む(大正12年12月9日)詩27編+散文1編、『秋の瞳』初稿8編初出
26×不死鳥(Jan.1st, 1924)詩25編、『秋の瞳』初稿なし
27×どるふいんの うた(一九二四・一・二〇)詩11編、『秋の瞳』初稿なし
28×幼き怒り(大正13年4月7日)詩51編、『秋の瞳』初稿なし
29○柳もかるく(大正13年4月15日)詩48編、『秋の瞳』初稿4編初出
30○逝春賦(大正13年5月23日)詩51編、『秋の瞳』初稿3編初出
31×鞠とぶりきの独楽(一九二四・六・一八)序文+詩57編、『秋の瞳』初稿なし
32○(欠題詩群)一(大正13年10月)詩96編、『秋の瞳』初稿1編初出
33○(欠題詩群)二(大正13年10月)詩109編、『秋の瞳』初稿1編初出
34×神をおもふ秋(大正13年10月26日)詩76編、『秋の瞳』初稿なし
35×純情を慕ひて(大正13年11月4日)詩73編、『秋の瞳』初稿なし
36×幼き歩み(大正13年11月14日)詩53編、『秋の瞳』初稿なし
37×寂寥三昧(大正13年11月15日~23日)詩44編、『秋の瞳』初稿なし
38×貧しきものの歌(大正13年12月9日)詩57編、『秋の瞳』初稿なし
39×ものおちついた冬のまち(大正14年1月14日)詩82編、『秋の瞳』初稿なし
40×み名を呼ぶ(大正14年3月)詩63編、『秋の瞳』初稿なし
●秋の瞳(大正14年=1925年8月1日新潮社刊)

 以上の通り40冊もの小詩集を重ねて、うち×をつけた14冊からは1編も採らず(その14冊からは第2詩集『貧しき信徒』に採ってもいません)、さらに小詩集に編まなかった単独の詩編も大正10年~11年に77編、大正13年~14年に4編が遺されていますから(八木重吉が詩誌に詩作発表するようになったのは『秋の瞳』刊行以後に勧誘されてからですから、大正14年までの実際の創作編数は現存原稿以外にはわかりません)、小詩集40冊編纂作品1,455編、1編も『秋の瞳』に選ばなかった14冊の641編を対象外としても26冊・814編からの選択ですし、『秋の瞳』収録全117編中小詩集に初稿があるものは97編で初稿不詳詩編20編は書き下ろしと見られる質の高いものですから『秋の瞳』編集に着手した大正13年10月以降にはこれらは最初から小詩集から除外していたのでしょう。なので詩集『秋の瞳』刊行に近づいた時期の小詩集「神をおもふ秋」(大正13年10月26日)、「純情を慕ひて」(大正13年11月4日)、「幼き歩み」(大正13年11月14日)、「寂寥三昧」(大正13年11月15日~23日)、「貧しきものの歌」(大正13年12月9日)、「ものおちついた冬のまち」(大正14年1月14日)、「み名を呼ぶ」(大正14年3月)の7冊は当初から『秋の瞳』初稿詩編編入しなかったと考えられます。書き下ろし以外の小詩集からの選出詩編は814編から97編を選んで浄書改稿していますから、律儀にも程があると言うか、普通公刊詩集の企画が決まれば「神をおもふ秋」(大正13年10月26日)~「み名を呼ぶ」(大正14年3月)の7冊、448編におよぶ当初から完全に発表目的ではない詩集を八木重吉以外の事情の誰が書き得たでしょうか。また八木がいかに内向的な性格だったにせよ大正13年10月までの「(欠題詩群)一」「(欠題詩群)二」までに小詩集33冊・1,007編、単独詩編も少なくとも80編以上を筐底に匿していたとなれば1冊の代表詩選集を公刊したくならない方がよほど奇特でしょう。こうして詩集『秋の瞳』の成立背景を調べていくと一見平易な八木重吉の詩が日本の口語自由詩型現代詩に占める特異な位置を改めて突きつけられるような気がします。八木重吉の言語感覚には宮澤賢治より2歳だけ年下、三好達治より2歳年長とはにわかに納得しがたい別方向の鋭敏さと柔軟さがあるのです。

詩集『秋の瞳』大正14年(1925年)8月1日新潮社刊

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4


 秋 の 瞳

 八木重吉


  序

 私は、友が無くては、耐へられぬのです。しかし、私には、ありません。この貧しい詩を、これを、読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にしてください。


   (1)息を 殺せ

 息を ころせ
 いきを ころせ
 あかんぼが 空を みる
 ああ 空を みる
  (初稿不詳)


   (2)白い枝

 白い 枝
 ほそく 痛い 枝
 わたしのこころに
 白い えだ
  (詩集「石塊と語る」大正12年より)


   (3)哀しみの 火矢(ひや)

 はつあきの よるを つらぬく
 かなしみの 火矢こそするどく
 わづかに 銀色にひらめいてつんざいてゆく
 それにいくらのせようと あせつたとて
 この わたしのおもたいこころだもの
 ああ どうして
 そんな うれしいことが できるだらうか
  (詩集「鳩がとぶ」大正12年9月28日より)


   (4)朗(ほが)らかな 日

 いづくにか
 ものの
 落つる ごとし
 音も なく
 しきりにも おつらし
  (詩集「庭上寂」大正12年より)


   (5)フヱアリの 国

 夕ぐれ
 夏のしげみを ゆくひとこそ
 しづかなる しげみの
 はるかなる奥に フヱアリの 国をかんずる
 (初稿不詳)


   (6)おほぞらの こころ

 わたしよ わたしよ
 白鳥となり
 らんらんと 透きとほつて
 おほぞらを かけり
 おほぞらの うるわしいこころに ながれよう
  (初稿不詳)


   (7)植木屋

 あかるい 日だ 
 窓のそとをみよ たかいところで
 植木屋が ひねもすはたらく

 あつい 日だ
 用もないのに
 わたしのこころで
 朝から 刈りつづけてゐるのは いつたいたれだ
  (詩集「丘をよぢる白い路」大正12年8月24日より)


   (8)ふるさとの 山

 ふるさとの山のなかに うづくまつたとき
 さやかにも 私の悔いは もえました
 あまりにうつくしい それの ほのほに
 しばし わたしは
 こしかたの あやまちを 讃むるようなきもちになつた
  (詩集「丘をよぢる白い路」大正12年8月24日より)


   (9)しづかな 画家

 だれでも みてゐるな、
 わたしは ひとりぼつちで描くのだ、
 これは ひろい空 しづかな空、
 わたしのハイ・ロマンスを この空へ 描いてやらう
  (詩集「花が咲いた」大正12年10月18日より)


   (10)うつくしいもの

 わたしみづからのなかでもいい
 わたしの外の せかいでも いい
 どこにか 「ほんとうに 美しいもの」は ないのか
 それが 敵であつても かまわない
 及びがたくても よい
 ただ「在る」といふことが 分りさへすれば、
 ああ ひさしくも これを追ふにつかれたこころ
  (詩集「大和行」大正12年11月6日より)


   (11)一群の ぶよ

 いち群のぶよが 舞ふ 秋の落日
 (ああ わたしも いけないんだ
 他人(ひと)も いけないんだ)
 まやまやまやと ぶよが くるめく
 (吐息ばかりして くらすわたしなら
 死んぢまつたほうが いいのかしら)
  (詩集「大和行」大正12年11月6日より)


   (12)鉛と ちようちよ

 鉛(なまり)のなかを
 ちようちよが とんでゆく
  (詩集「大和行」大正12年11月6日より)


   (13)花になりたい

 えんぜるになりたい
 花になりたい
  (初稿不詳)


   (14)無造作な 雲

 無造作な くも、
 あのくものあたりへ 死にたい
  (詩集「大和行」大正12年11月6日より)


   (16)咲く心

 うれしきは
 こころ 咲きいづる日なり
 秋、山にむかひて うれひあれば
 わがこころ 花と咲くなり
  (詩集「我子病む」大正12年12月9日より)


   (17)劒(つるぎ)を持つ者

 つるぎを もつものが ゐる、
 とつぜん、わたしは わたしのまわりに
 そのものを するどく 感ずる
 つるぎは しづかであり
 つるぎを もつ人(ひと)は しづかである
 すべて ほのほのごとく しづかである
 やるか!?
 なんどき 斬りこんでくるかわからぬのだ
  (詩集「痴寂なる手」大正12年5月20日より)


   (18)壺(つぼ)のような日

 壺のような日 こんな日
 宇宙の こころは
 彫(きざ)みたい!といふ 衝動にもだへたであらう
 こんな 日
「かすかに ほそい声」の主(ぬし)は
光を 暗を そして また
 きざみぬしみづからに似た こころを
 しづかに つよく きざんだにちがひあるまい、
 けふは また なんといふ
 壺のような 日なんだらう
  (詩集「壺」大正12年より)


   (20)かなしみ

 このかなしみを
 ひとつに 統(す)ぶる 力(ちから)はないか
  (詩集「我子病む」大正12年12月9日より)


   (21)美しい 夢

 やぶれたこの 窓から
 ゆふぐれ 街なみいろづいた 木をみたよる
 ひさしぶりに 美しい夢をみた
  (詩集「我子病む」大正12年12月9日より)


   (23)死と珠(たま)

 死 と 珠 と
 また おもふべき 今日が きた
  (詩集「我子病む」大正12年12月9日より)


   (24)ひびく たましい

 ことさら
 かつぜんとして 秋がゆふぐれをひろげるころ
 たましいは 街を ひたはしりにはしりぬいて
 西へ 西へと うちひびいてゆく
  (詩集「我子病む」大正12年12月9日より)


   (25)空を 指(さ)す 梢

 そらを 指す
 木は かなし
 そが ほそき
 こずゑの 傷いたさ
  (詩集「白い哄笑」大正12年より)


   (26)赤ん坊が わらふ

 赤んぼが わらふ
 あかんぼが わらふ
 わたしだつて わらふ
 あかんぼが わらふ
  (詩集「丘をよぢる白い路」大正12年8月24日より)


   (28)甕(かめ)

 甕 を いくつしみたい
 この日 ああ
 甕よ、こころのしづけさにうかぶ その甕

 なんにもない
 おまへの うつろよ

 甕よ、わたしの むねは
『甕よ!』と おまへを よびながら
 あやしくも ふるへる
  (詩集「静かなる風景」大正12年より)


   (29)心 よ

 こころよ
 では いつておいで

 しかし
 また もどつておいでね

 やつぱり
 ここが いいのだに

 こころよ
 では 行つておいで
  (詩集「感触は水に似る」大正12年より)


   (30)玉(たま)

 わたしは
 玉に ならうかしら

 わたしには
 何(なん)にも 玉にすることはできまいゆえ
  (初稿不詳)


   (31)こころの 海(うな)づら

 照らされし こころの 海(うな)づら
 しづみゆくは なにの 夕陽

 しらみゆく ああ その 帆かげ
 日は うすれゆけど
 明けてゆく 白き ふなうた
  (詩集「鳩がとぶ」大正12年9月28日より)


   (32)貫(つら)ぬく 光

 はじめに ひかりがありました
 ひかりは 哀しかつたのです

 ひかりは
 ありと あらゆるものを
 つらぬいて ながれました
 あらゆるものに 息(いき)を あたへました
 にんげんのこころも
 ひかりのなかに うまれました
 いつまでも いつまでも
 かなしかれと 祝福(いわわ)れながら
  (詩集「鳩が飛ぶ」大正12年9月28日より)


   (33)秋の かなしみ

 わがこころ
 そこの そこより
 わらひたき
 あきの かなしみ

 あきくれば
 かなしみの
 みなも おかしく
 かくも なやまし

 みみと めと
 はなと くち
 いちめんに
 くすぐる あきのかなしみ
  (詩集「虔しい放縦」大正12年より)


   (38)静寂は怒る

 静 寂 は 怒 る、
 みよ、蒼穹の 怒(いきどほり)を
  (詩集「矜持ある風景」大正12年より)


   (39)悩ましき 外景

 すとうぶを みつめてあれば
 すとうぶをたたき切つてみたくなる

 ぐわらぐわらとたぎる
 この すとうぶの 怪! 寂!
  (詩集「不安な外景」大正12年より)


   (40)ほそい がらす

 ほそい
 がらすが
 ぴいん と
 われました
  (詩集「静かなる風景」大正12年より)


   (42)彫られた 空

 彫られた 空の しづけさ
 無辺際の ちからづよい その木地に
 ひたり! と あてられたる
 さやかにも 一刀の跡
  (詩集「静かなる風景」大正12年より)


   (43)しづけさ

 ある日
 もえさかる ほのほに みいでし
 きわまりも あらぬ しづけさ

 ある日
 憎しみ もだえ
 なげきと かなしみの おもわにみいでし
 水の それのごとき 静けさ
  (詩集「静かなる風景」大正12年より)


   (44)夾竹桃

 おほぞらのもとに 死ぬる
 はつ夏の こころ ああ ただひとり
 きようちくとうの くれなゐが
 はつなつのこころに しみてゆく
  (初稿不詳)


   (46)哀しみの海

 哀しみの
 うなばら かけり

 わが玉 われは
 うみに なげたり

 浪よ
 わが玉 かへさじとや
  (詩集「あしたの嘆き」大正12年1月より)


   (47)雲

 くものある日
 くもは かなしい
 くもの ない日
 そらは さびしい
  (詩集「木蓮大正12年1月より)


   (48)在る日の こころ

 ある日の こころ
 山となり

 ある日の こころ
 空となり

 ある日の こころ
 わたしと なりて さぶし
  (詩集「痴寂なる手」大正12年5月20日より)


   (49)幼い日

 おさない日は
 水が もの云ふ日

 木が そだてば
 そだつひびきが きこゆる日
  (詩集「土をたたく」大正12年4月より)


   (59)霧が ふる

 霧が ふる
 きりが ふる
 あさが しづもる
 きりがふる
  (詩集「丘をよぢる白い路」大正12年8月24日より)


   (60)空が 凝視(み)てゐる

 空が 凝視(み)てゐる
 ああ おほぞらが わたしを みつめてゐる
 おそろしく むねおどるかなしい 瞳
 ひとみ! ひとみ!
 ひろやかな ひとみ、ふかぶかと
 かぎりない ひとみのうなばら
 ああ、その つよさ
 まさびしさ さやけさ
  (初稿不詳)


   (61)こころ 暗き日

 やまぶきの 花
 つばきのはな
 こころくらきけふ しきりにみたし
 やまぶきのはな
 つばきのはな
  (初稿不詳)


   (63)夜の薔薇(そうび)

 ああ
 はるか
 よるの
 薔薇
  (詩集「焼夷」大正12年6月より) 


   (64)わが児(こ)

 わが児と
 すなを もり
 砂を くづし
 浜に あそぶ
 つかれたれど
 かなし けれど
 うれひなき はつあきのひるさがり
  (詩集「(欠題詩群)一」大正13年10月より)


   (65)「つばね」の 穂

 ふるへるのか
 そんなに 白つぽく、さ

 これは
「つばね」の ほうけた 穂

 ほうけた 穂なのかい
 わたしぢや なかつたのか、え
  (詩集「焼夷」大正12年6月より)


   (66)人を 殺さば

 ぐさり! と
 やつて みたし

 人を ころさば
 こころよからん
  (初稿不詳)


   (70)静かな 焔

 各(ひと)つの 木に
 各(ひと)つの 影
 木 は
 しづかな ほのほ
  (詩集「石塊と語る」大正12年より)


   (74)しのだけ

 この しのだけ
 ほそく のびた

 なぜ ほそい
 ほそいから わたしのむねが 痛い
  (初稿不詳)


   (77)朝の あやうさ

 すずめが とぶ
 いちじるしい あやうさ

 はれわたりたる
 この あさの あやうさ
  (初稿不詳)


   (78)あめの 日

 しろい きのこ
 きいろい きのこ
 あめの日
 しづかな日
  (初稿不詳)


   (79)追憶

 山のうへには
 はたけが あつたつけ

 はたけのすみに うづくまつてみた
 あの 空の 近かつたこと
 おそろしかつたこと
  (初稿不詳)


   (80)草の 実

 実(み)!
 ひとつぶの あさがほの 実
 さぶしいだらうな、実よ

 あ おまへは わたしぢやなかつたのかえ
  (詩集「私は聴く」大正12年より)


   (81)暗光

 ちさい 童女
 ぬかるみばたで くびをまわす
 灰色の
 午后の 暗光
  (詩集「暗光」大正12年より)


   (83)鳩が飛ぶ

 あき空を はとが とぶ、
 それでよい
 それで いいのだ
  (詩集「鳩がとぶ」大正12年9月28日より)


  (84)草に すわる

 わたしの まちがひだつた
 わたしのまちがひだつた
 こうして 草にすわれば それがわかる
  (詩集「鳩がとぶ」大正12年9月28日より)


   (85)夜の 空の くらげ

 くらげ くらげ
 くものかかつた 思ひきつた よるの月
  (詩集「鳩がとぶ」大正12年9月28日より)


 (86)虹

 この虹をみる わたしと ちさい妻、
 やすやすと この虹を讃めうる
 わたしら二人 けふのさひわひのおほいさ
  (詩集「鳩がとぶ」大正12年9月28日より)


   (87)秋

 秋が くると いふのか
 なにものとも しれぬけれど
 すこしづつ そして わづかにいろづいてゆく、
 わたしのこころが
 それよりも もつとひろいものの なかへくづれて ゆくのか
  (詩集「鳩がとぶ」大正12年9月28日より)


   (88)黎明

 れいめいは さんざめいて ながれてゆく
 やなぎのえだが さらりさらりと なびくとき
 あれほどおもたい わたしの こころでさへ
 なんとはなしに さらさらとながされてゆく
  (詩集「鳩がとぶ」大正12年9月28日より)


   (91)人間

 巨人が 生まれたならば
 人間を みいんな 植物にしてしまうにちがいない
  (詩集「花が咲いた」大正12年10月18日より)


   (96)かすかな 像(イメヱジ)

 山へゆけない日 よく晴れた日
 むねに わく
 かすかな 像(イメヱジ)
  (詩集「大和行」大正12年11月6日より)


   (97)秋の日の こころ

 花が 咲いた
 秋の日の
 こころのなかに 花がさいた
  (詩集「花が咲いた」大正12年10月18日より)


   (99)白い 路

 白い 路
 まつすぐな 杉
 わたしが のぼる、
 いつまでも のぼりたいなあ
  (詩集「花が咲いた」大正12年10月18日より)


   (100)感傷

 赤い 松の幹は 感傷
  (詩集「丘をよぢる白い路」大正12年8月24日より)


   (101)沼と風

 おもたい
 沼ですよ
 しづかな
 かぜ ですよ
  (詩集「丘をよぢる白い路」大正12年8月24日より)


   (102)毛蟲を うづめる

 まひる
 けむし を 土にうづめる
  (初稿不詳)


   (104)おもひ

 かへるべきである ともおもわれる
  (詩集「痴寂なる手」大正12年5月20日より)


   (105)秋の 壁

 白き 
 秋の 壁に
 かれ枝もて
 えがけば

 かれ枝より
 しづかなる
 ひびき ながるるなり
  (詩集「庭上寂」大正12年より)


   (106)郷愁

 このひごろ
 あまりには
 ひとを 憎まず
 すきとほりゆく
 郷愁
 ひえびえと ながる
  (詩集「庭上寂」大正12年より)


   (107)ひとつの ながれ

 ひとつの
 ながれ
 あるごとし、
 いづくにか 空にかかりてか
 る、る、と
 ながるらしき
  (詩集「庭上寂」大正12年より)


 (108)宇宙の 良心

 宇宙の良心――耶蘇
  (詩集「私は聴く」大正12年より)


   (109)空 と 光

 彫(きざ)まれたる
 空よ
 光よ
  (詩集「壺」大正12年より)


   (110)おもひなき 哀しさ

 はるの日の
 わづかに わづかに霧(き)れるよくはれし野をあゆむ
 ああ おもひなき かなしさよ
  (詩集「逝春賦」大正13年5月23日より)


   (111)ゆくはるの 宵

 このよひは ゆくはるのよひ
 かなしげな はるのめがみは
 くさぶえを やさしき唇(くち)へ
 しつかと おさへ うなだれてゐる
  (詩集「逝春賦」大正13年5月23日より)


   (112)しづかなる ながれ

 せつに せつに
 ねがへども けふ水を みえねば
 なぐさまぬ こころおどりて
 はるのそらに
 しづかなる ながれを かんずる
  (詩集「逝春賦」大正13年5月23日より)


   (113)ちいさい ふくろ

 これは ちいさい ふくろ
 ねんねこ おんぶのとき
 せなかに たらす 赤いふくろ
 まつしろな 絹のひもがついてゐます
 けさは
 しなやかな 秋
 ごらんなさい
 机のうへに 金糸のぬいとりもはいつた 赤いふくろがおいてある
  (詩集「(欠題詩群)二」大正13年10月より)


   (114)哭くな 児よ

 なくな 児よ
 哭くな 児よ
 この ちちをみよ
 なきもせぬ
 わらひも せぬ わ
  (詩集「柳もかるく」大正13年4月15日より)


  (115)怒り

 かの日の 怒り
 ひとりの いきもののごとくあゆみきたる
 ひかりある
 くろき 珠のごとく うしろよりせまつてくる
  (詩集「柳もかるく」大正13年4月15日より)


   (116)春

 春は かるく たたずむ
 さくらの みだれさく しづけさの あたりに
 十四の少女の
 ちさい おくれ毛の あたりに
 秋よりは ひくい はなやかな そら
 ああ けふにして 春のかなしさを あざやかにみる
  (詩集「柳もかるく」大正13年4月15日より)


   (117)柳も かるく

 やなぎも かるく
 春も かるく
 赤い 山車(だし)には 赤い児がついて
 青い 山車には 青い児がついて
 柳もかるく
 はるもかるく
 けふの まつりは 花のようだ
  (詩集「柳もかるく」大正13年4月15日より)


(詩集『秋の瞳』全117編より76編抄出)


(引用詩のかな遣いは原文に従い、用字は当用漢字に改め、明らかな誤植は訂正しました。)
(※以下次回)