人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(18); 八木重吉詩集『秋の瞳』大正14年刊(viii)信仰詩人としての八木重吉と山村暮鳥(6)

[ 八木重吉(1898-1927)大正13年1924年5月26日、長女桃子満1歳の誕生日に。重吉26歳、妻とみ子19歳 ]

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八木重吉詩集『秋の瞳』
大正14年(1925年)8月1日・新潮社刊

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[ 山村暮鳥(1884-1924)、明治41~42年(1908~09年)秋田県聖救主教会伝道師(牧師)として横手町~湯沢町伝道所に赴任中の近影(24~25歳) ]

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山村暮鳥詩集『聖三稜玻璃』初版
四方貼函入り型押し三方山羊革表紙特製本
にんぎょ詩社・大正4年(1915年)12月10日発行

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(着色型押し三方山羊革表特紙本)

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山村暮鳥詩集『風は草木にささやいた』
大正7年(1918年)11月15日・白日社刊

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 詩壇とまったく交際せず第1詩集『秋の瞳』でデビューした中学校の英語教師の詩人・八木重吉(1898-1927)がもっとも意識していたと思われる先達詩人は、頻繁な作風の変転で生前も没後90年以上を経た現在も評価の安定しない牧師詩人・山村暮鳥でした。暮鳥には生前、
『三人の處女』'13(大正2年5月刊)
『聖三稜玻璃』'15(大正4年12月刊)
『小さな穀倉より』'17(大正6年9月刊)*詩論集
『風は草木にささやいた』'18(大正7年11月刊)
『梢の巣にて』'21(大正10年5月刊)
『穀粒』'21(大正10年7月刊)*自選詩集
『雲』'25(大正14年1月刊)*生前印刷完了済み
 がありますが(他に未刊詩集、童話集、小説、随筆、翻訳が多数ありました)、八木が『秋の瞳』編纂・刊行までに読んでいたのは、刊行前月に暮鳥が急逝して遺作となった『雲』を含めて暮鳥生前刊行の上記の詩集、詩論集がほぼすべてと思われます。
 暮鳥は現代詩の口語運動の先駆けとなった明治末の早稲田詩社から出た詩人で、その時期の作品を収めた詩集が第1詩集『三人の處女』です。その後に萩原朔太郎室生犀星北原白秋門下生らと同人誌活動を共にしていた時期の作品が犀星が発行人になって刊行された第2詩集『聖三稜玻璃』で、このタイトルは「聖なるプリズム」という意味ですが、あまりに当時の日本の現代詩からは奇抜で破格な内容の詩集だったため批判が集中し(盟友の犀星、萩原ですら留保つき評価でした)、また暮鳥が詩作と同等に熱心に英訳から重訳で翻訳紹介していたボードレール詩集、ドストエフスキー書簡集と評伝の誤訳が糾弾され(暮鳥は明治の象徴派詩人蒲原有明、早稲田詩社の同人仲間だった三富朽葉のように語学に堪能ではありませんでした)ほとんど東京の詩壇から追放されたも同然となり、折から牧師職の方も信徒の獲得が芳しくないのを理由に教会本部から左遷されてしまいます。詩論集『小さな穀倉より』は詩集『聖三稜玻璃』と対をなす、詩論による暮鳥の詩的声明でしたが、そうした状況の中ではまったく注目を集めませんでした。
 地方教会に赴任した暮鳥は若い文学青年の信徒たちと同人誌活動を始め、作風の一転した大作詩集『風は草木にささやいた』、また前詩集の作風をますます発展させた『梢の巣にて』を刊行します。この2詩集はロマン派と象徴主義の折衷的な『三人の處女』、一気に暮鳥流の神秘主義に突入した破壊的な言語実験詩集『聖三稜玻璃』とは一変した、平易で散文的な文体で人生や信仰、理想を自問自答した長詩からなる雄弁な詩集でした。暮鳥は自選詩集『穀粒』を刊行後に病状(結核)悪化から牧師休職を余儀なくされ、回復の見込みなしと教会本部から解雇され晩年3年間を病床で過ごし、『風は草木にささやいた』の改訂版、生前未刊に終わった詩集『聖三稜玻璃』前後の詩集未収録詩編・近作の未発表詩編からなる補遺詩集『黒鳥集』(昭和30年にようやく刊行)の編纂の他に地方新聞連載の長編小説4作、童話集10冊、ドストエフスキー評伝1冊によるわずかな原稿料で生活していましたが、'24年(大正13年)夏には印刷が始まっていた詩集『雲』はまたしても作風の変転があり、平易な文体の牧歌的な短詩ばかりで'25年(大正14年)1月刊行予定で製本に取りかかっていましたが、暮鳥の容態は重篤に陥り刊行を見ずに大正13年12月8日逝去しました。

 八木重吉は学生時代にやはり明治20年代のキリスト教の伝道師詩人だった北村透谷全集を愛読し、友人が通っていた学校の英語教師だった透谷未亡人に面会を求めて訪ねたそうですから信仰と詩の問題には早くから関心があったと思われます。透谷と透谷夫人はクリスチャン同士として教会で出会ったのが馴れ初めでした。また透谷は社会制度や遊興ではない真正の恋愛の至上性をキリスト教的立場による人間観から初めて明治の日本で論じた人です。透谷には全集に多くの批評文があり分量・編数とも20編ほどの詩集よりもはるかに論文の方が多く、それは当時の伝道師がほとんど無給だったので毎週1編以上の批評文を新聞雑誌に執筆するのが女子校の英語教師を兼ねていたのと同じくらい必要な収入源だったからですが、八木も学生時代に家庭教師をしていた女生徒と恋愛し大量の恋愛書簡を残しています。透谷全集でも婚約中の夫人に宛てた手紙が最重要論文に匹敵する書簡文学と目されていました。
 明治時代には英語学習と英文学学習がキリスト教教会と密接に結びついており、宗教機関が役所、学校、劇場を兼ねるのは古今東西あらゆる文化圏にある風習ですが、明治日本にとっては西洋文化の摂取の場として重要だったのです。そうした気風は八木の時代には逆に英語・英文学学習から入ってキリスト教信仰への関心に移っていったと思われます。透谷の西洋文学への関心は主にイギリス19世紀のロマン派詩にあり、それは八木の関心と重なるものでした。八木はロマン派文学研究者の大正の英文学者の詩人・日夏耿之介(1890-1971)の名をノートに記載し「全集申込み」(実際は当時まだ日夏の著作集、全集の予定はありませんでしたから、既刊・刊行予定の全著作購読を書店に注文したということでしょう)と書いていますが、日夏のロマン派文学への関心は18世紀のゴシック文学から19世紀末のデカダンス文学にまで広がるもので、私生活ではカトリック教徒に帰依した人ですが、文学の上ではキリスト教を発想形式としてとらえてそのさまざまな変容を研究していたので、その興味は審美的なものでした。

 日夏は透谷を明治20年代最高の詩人と評価していた一方で、暮鳥を「死して天才と持て囃す風潮があるが一介の駄詩人に過ぎぬ」と一蹴していますが、暮鳥の詩人としての業績は日夏の4冊の詩集より大きいのは明らかです。日夏の詩も風変わりで一家の風格がある面白いものですが、暮鳥のように詩人本人の意図を超えてわけのわからない大きさに達しているものではなく、あくまで日夏自身の意図を実現するだけにとどまっています。これは批判して言うのではなくて、詩人は言葉をつかって世界を作るのですからたいがいの詩人は自分の手のうちにある言葉で作品をつくります。その基準が詩人ごとの趣味によるのは当然のことで、用語や文体が適切で意図を効果的に実現しているほどまとまりの良い詩ができあがるのはいうまでもありません。ましてや詩人は言語感覚が命といってもいいので、日夏の否定的評価は暮鳥の『聖三稜玻璃』の傑作のひとつである、


 あらし
 あらし
 しだれやなぎに光あれ
 あかんぼの
 へその芽
 水銀歇私的利亞(ヒステリア)
 はるきたり
 あしうらぞ
 あらしをまろめ
 愛のさもわるに
 烏龍(ウウロン)茶をかなしましむるか
 あらしは
 天に蹴上げられ。
  (「だんす」全行)


 ――の造語や漢字とかなの表記法、明確な脈絡を欠いた連想法と、表現主体も客体もない構成には顔をしかめたでしょうし、やはり『聖三稜玻璃』の佳編である、


 岬の光り
 岬のしたにむらがる魚ら
 岬にみち盡き
 そら澄み
 岬に立てる一本の指。
  (「岬」全行)


 つりばりぞそらよりたれつ
 まぼろしのこがねのうをら
 さみしさに
 さみしさに
 そのはりをのみ。
  (「いのり」全行)

 ――も一編の詩の体をなさないと切って捨てたでしょう。また『風は草木にささやいた』中のもっとも痛切な作品のひとつ、


 キリストよ
 こんなことはあへてめづらしくもないのだが
 けふも年若な婦人がわたしのところに来た
 そしてどうしたら
 聖書の中にかいてあるあの罪深い女のやうに
 泥まみれなおん足をなみだで洗つて
 黒い房房したこの髮の毛で
 それを拭いてあげるやうなことができるかとたづねるのだ
 わたしはちよつとこまつたが
 斯う言つた
 一人がくるしめばそれでいいのだ
 それでみんな救はれるんだと
 婦人はわたしの此の言葉によろこばされていそいそと帰つた
 婦人は大きなお腹(なか)をしてゐた
 それで独り身だといつてゐた
 キリストよ
 それでよかつたか
 何だかおそろしいやうな気がしてならない
  (「キリストに与へる詩」全行)


 ――を雑な文体による通俗的人道主義詩と軽蔑したでしょうし、なおのこと似たような短詩ばかりの『雲』の、


 かうもりが一本
 地べたにつき刺されて
 たつてゐる

 だあれもゐない
 どこかで
 雲雀(ひばり)が鳴いてゐる

 ほんとにだれもゐないのか
 首を廻してみると
 ゐた、ゐた
 いいところをみつけたもんだな
 すぐ土手下の
 あの新緑の
 こんもりした灌木のかげだよ

 ぐるりと尻をまくつて
 しやがんで
 こつちをみてゐる
  (「野糞先生」全行)


 ――は低俗もきわまりなく、また、


 しつかりと
 にぎつてゐた手を
 ひらいてみた

 ひらいてみたが
 なんにも
 なかつた

 しつかりと
 にぎらせたのも
 さびしさである

 それをまた
 ひらかせたのも
 さびしさである
  (「手」全行)


 ――も知性の欠如の見本のようなセンチメンタリズムと見えたと思われます。しかしこれらは日夏耿之介の詩にはないもので、日夏もなかなか奇想に富んだ詩を書いた詩人ですが、第1詩集と第2詩集から1編ずつ上げると、


 昏黒(くらやみ)の霄(そら)たかきより 裸形の女性(をんな)墜ちきたる
 緑髪(かみ)微風(そよかぜ)にみだれ
 双手は大地をゆびさす
 劫初の古代(むかし)よりいままで 恒に墜ちゆくか
 一瞬のわが幻覚(まぼろし)か
 知らず 暁(あけ)の星どもは顔青ざめて
 性急に嘲笑(あざわ)らふのみ
  (「墜ちきたる女性」全行・詩集『転身の頌』'17=大正6年より)


 これはひとりの全裸の女が永遠に地上に落下している幻覚を見るという、時間が止まったような奇想天外な着想を簡潔にまとめており、


 夜の灯に見る神楽面さながらの聖貌(おんかお)を
 神よ 爾(おんみ)の滑稽(おど)けたる悲しげな渋面(グリマース)を 瞻(み)せてくれい
 儂(わし)を制作った神さまよ 神さまよ
 任意に儂を破壊したまへ
 儂ばかりかは艸(くさ)も樹も大世界をも破壊したまへ
 気前良き爾ら神さまは
 復(ま)たかかるややこしい小細工を始めるだらう

 よけいなことだ
 欠伸(あくび)せずに神さまよ 神さまよ 神さまよ
 夙(はや)くとり懸って下されい
 大破壊を または 絶後の統制を
 どちらでも同(おんな)じことだ
  (「儂を制作った神さまよ」全行・詩集『黒衣聖母』'21=大正10年より)


 こちらはさらにわかりやすく、「大破壊を または 絶後の統制を」という行が効いています。この2編はいつも凝りすぎの観がある日夏耿之介の詩の中でもすっきりして成功した作品です。しかしこれを先に引いた暮鳥の詩や、八木重吉の『秋の瞳』の、以下のような詩と較べると日夏の詩には詩が真に詩であるための微妙な何かが欠けているのが感じられます。


 息を ころせ
 いきを ころせ
 あかんぼが 空を みる
 ああ 空を みる
  (「息を 殺せ」全行)


 空が 凝視(み)てゐる
 ああ おほぞらが わたしを みつめてゐる
 おそろしく むねおどるかなしい 瞳
 ひとみ! ひとみ!
 ひろやかな ひとみ、ふかぶかと
 かぎりない ひとみのうなばら
 ああ、その つよさ
 まさびしさ さやけさ
  (「空が 凝視(み)てゐる」全行)


 ああ
 はるか
 よるの
 薔薇
  (「(夜の薔薇(そうび)」全行) 


 ぐさり! と
 やつて みたし

 人を ころさば
 こころよからん
  (「人を 殺さば」全行)


 すずめが とぶ
 いちじるしい あやうさ

 はれわたりたる
 この あさの あやうさ
  (「朝の あやうさ」全行)


 しろい きのこ
 きいろい きのこ
 あめの日
 しづかな日
  (「あめの 日」全行)


 ちさい 童女
 ぬかるみばたで くびをまわす
 灰色の
 午后の 暗光
  (「暗光」全行)


 あき空を はとが とぶ、
 それでよい
 それで いいのだ
  (「鳩がとぶ」全行)


 わたしの まちがひだつた
 わたしのまちがひだつた
 こうして 草にすわれば それがわかる
  (「草に すわる」全行)


 秋が くると いふのか
 なにものとも しれぬけれど
 すこしづつ そして わづかにいろづいてゆく、
 わたしのこころが
 それよりも もつとひろいものの なかへくづれて ゆくのか
  (「秋」全行)


 れいめいは さんざめいて ながれてゆく
 やなぎのえだが さらりさらりと なびくとき
 あれほどおもたい わたしの こころでさへ
 なんとはなしに さらさらとながされてゆく
  (「黎明」全行)


 巨人が 生まれたならば
 人間を みいんな 植物にしてしまうにちがいない
  (「人間」全行)


 花が 咲いた
 秋の日の
 こころのなかに 花がさいた
  (「秋の日の こころ」全行)


 赤い 松の幹は 感傷
  (「感傷」全行)


 まひる
 けむし を 土にうづめる
  (「毛蟲を うづめる」全行)


 かへるべきである ともおもわれる
  (「おもひ」全行)


 白き 
 秋の 壁に
 かれ枝もて
 えがけば

 かれ枝より
 しづかなる
 ひびき ながるるなり
  (「秋の 壁」全行)


 このひごろ
 あまりには
 ひとを 憎まず
 すきとほりゆく
 郷愁
 ひえびえと ながる
  (「郷愁」全行)


 ひとつの
 ながれ
 あるごとし、
 いづくにか 空にかかりてか
 る、る、と
 ながるらしき
  (「ひとつの ながれ」全行)


 宇宙の良心――耶蘇
  (「宇宙の 良心」全行)


 彫(きざ)まれたる
 空よ
 光よ
  (「空 と 光」全行)


 せつに せつに
 ねがへども けふ水を みえねば
 なぐさまぬ こころおどりて
 はるのそらに
 しづかなる ながれを かんずる
  (「しづかなる ながれ」全行)


 これは ちいさい ふくろ
 ねんねこ おんぶのとき
 せなかに たらす 赤いふくろ
 まつしろな 絹のひもがついてゐます
 けさは
 しなやかな 秋
 ごらんなさい
 机のうへに 金糸のぬいとりもはいつた 赤いふくろがおいてある
  (「ちいさい ふくろ」全行)


 なくな 児よ
 哭くな 児よ
 この ちちをみよ
 なきもせぬ
 わらひも せぬ わ
  (「哭くな 児よ」全行)


 かの日の 怒り
 ひとりの いきもののごとくあゆみきたる
 ひかりある
 くろき 珠のごとく うしろよりせまつてくる
  (「怒り」全行)


 やなぎも かるく
 春も かるく
 赤い 山車(だし)には 赤い児がついて
 青い 山車には 青い児がついて
 柳もかるく
 はるもかるく
 けふの まつりは 花のようだ
  (「柳もかるく」全行)


 日夏耿之介の詩と較べてみれば、明らかに山村暮鳥八木重吉は直観力でじかに詩をつかみとる力のある詩人なのがわかります。それは両者がともにキリスト者であったことに由来を求めることもできるでしょう。それは世界が世界であることへの畏怖でもあり、日夏の詩にはその畏怖の感覚がありません。しかし暮鳥と八木を較べれば見かけよりもずっとその詩自体から受ける印象は異なるので、詩の微妙さはその相違にも表れていると言っていいでしょう。ことに暮鳥のように作風の変遷が大きい詩人の場合なおさらじかに八木と比較するのは一部の詩の表面的な類似に惑わされかねないのです。

(引用詩のかな遣いは原文に従い、用字は当用漢字に改め、明らかな誤植は訂正しました。)
(以下次回)