映画に限ったことではないでしょうが、詳しい人はやたらと詳しく、知らない人はほとんど知らないジャンルというのはあるもので、ウィリアム・A・ウェルマンがどのくらい今でも知られているのかわかりませんが、映画に相応の関心がないと引っかかってこない監督になるのかもしれません。筆者は去年今年の年末年始はヒッチコック作品(全長編)を観直して過ごし、先月はジャン・ギャバン主演作を初期から30作観直しましたが、身近な人数人にヒッチコックやジャン・ギャバンの名前を出しても名前は聞いたことがある、作品は1作も知らないと実に現実を思い知らされるものでした。ヒッチコックやジャン・ギャバンにしてそんな具合ですから(筆者の身近だけかもしれませんが)、今回の感想文の3作品も何かのきっかけがないとご覧の方は少ないかもしれませんが、前2回のような有名作は含まれないものの(比較的有名なのはゲイリー・クーパー主演作『ボー・ジェスト』で、他2作はほとんどご覧の方がないでしょう)、いずれも味わいのあるしみじみ良い映画です。感想文でそうした良さをお伝えできていればいいのですが、ウェルマンという映画監督を覚えていただければ幸いです。
●5月17日(木)
『ボー・ジェスト』Beau Geste (パラマウント'39)*112min, B/W; 日本公開昭和年(1952年)12月27日・アカデミー賞助演男優賞(ブロデリック・クロフォード)/室内装置賞ノミネート
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) 英国作家パーシヴァル・クリストファー・レンの原作小説(1924年)の再映画化で、アフリカ外国人部隊に身を投じた3人兄弟の愛情を描くもの。「戦場」のウィリアム・ウェルマンが製作・監督に当たった1939年作品。脚色は「猛獣と令嬢」のロバート・カースン、撮影はテオドル・スパークールとアーチー・スタウトの担当。出演者は「誰が為に鐘は鳴る」のゲイリー・クーパー、「絶海の嵐」のレイ・ミランド、「荒野の三悪人」のロバート・プレストン、「暴力帝国」のブライアン・ドンレヴィ、「愛欲の十字路」のスーザン・ヘイワード、「アニーよ銃をとれ」のJ・キャロル・ナイシュ、「栄光の星の下に」のブロデリック・クロフォードら。
○あらすじ(同上) 英国ブランドン卿邸宅には卿の夫人(ヘザー・サッチャー)、姪イソベル、それに孤児を養子として引き取ったジェスト3兄弟らが住んでいた。ジェスト3兄弟は勇ましい遊びが好きで外国人部隊の砂漠の戦闘に憧れていた。ブランドン卿は道楽者で邸には寄りつかないので、生活は楽でなく、夫人は秘宝の「青い水」を模造品に代えて生活をしのいでいたが、ボー・ジェストはこれを知っていた。15年の月日が流れ、今ではジョン(レイ・ミランド)とイソベル(スーザン・ヘイワード)は愛し合う仲だった。ある日突然卿が金策に帰り、「青い水」を売ることになった。夫人はそれが模造品なので困惑した。その夜その秘宝が何者かに盗まれ、ボー(ゲイリー・クーパー)は盗んだのは自分だという書置を残して家出した。しかもそれから次々とディグビー(ロバート・プレストン)もジョンも宝石を盗んだのは僕だと書いて出ていった。アフリカ外国人部隊に落ち合った3人はいち夜「青い水」について話した。これを聞き取ったマーコフ軍曹(ブライアン・ドンレヴィ)は、ボーが隠し持っているものと睨み、奪い取る機会を狙うようになった。間もなくディグビーはトコツの砦に配属され、ボーとジョンはマーコフ軍曹の指揮で原住民軍の攻撃に当たった。原住民軍の猛攻でついにボーも傷ついて倒れ、生き残ったのはマーコフとジョンの2人だけとなった。マーコフは虫の息のボーから「青い水」を奪い取った。怒ったジョンはボーの最後の協力でマーコフを刺した。ボーはこの手紙と包みをブランドンの叔母に届けてくれと云って息を引取った。この時救援隊が到着し静まり返った城内に単身斥候を命ぜられたディグビーはボーの死骸を発見するとそのまま城から姿を消した。ジョンと落ち合ったディグビーは原住民軍に合い、ジョンを逃すための犠牲となった。数カ月後ブランドン邸で夫人もイゾベルもボーとディグビーの死を悲しんだが、ジョンの無事を喜んで迎えた。ボーの手紙を読んだ夫人は初めてボーの立派な振舞いを理解した。
アラブ人に襲撃された砂漠の中の外人部隊の城塞に援軍が到着しますが、呼びかけに一発の銃弾が応戦してきます。しかし見たところ十数人の兵士たちは全員持ち場の銃眼でライフルを構えたまま戦死しているのです。援軍兵のひとり、ジェスト兄弟の弟ディグビー(ロバート・プレストン)が城塞に入り生者がいないのを確認し「青い水を盗んだのは私です」という謎の書きつけをみつける。まったく謎だ、報告しても信用されまいと援軍隊長が部隊を引き返そうとすると城塞が炎上し始めている。その上証拠も消えてしまった、と嘆く隊長。それから映画は「15年前……」と、キネマ旬報あらすじの通りイギリスのブランドン卿邸宅で令嬢イゾベルとボー、ジョン、ディグビーのジェスト3兄弟の子供時代の騎士遊びが描かれ、すぐに令嬢イゾベル(スーザン・ヘイワード)、ボー(ゲイリー・クーパー)、ジョン(レイ・ミランド)、ディグビーの成人した姿になります。そして家宝の宝石「青い水」の紛失がブランドン卿夫人(ヘザー・サッチャー)から告げられます。本作は後からブロデリック・クロフォードも重要な役で登場しますので、アカデミー賞受賞歴のある俳優が4人もキャスティングされた初の作品(クーパー、ミランド、ヘイワード、クロフォード)としても知られます。そして「おれが盗んだ」と書き置きを残してクーパーが失踪してしまいます。茫然とする兄弟たち。一方クーパーはサディスティックなマーコフ軍曹(ブライアン・ドンレヴィ)の小隊に入隊します。ミランドとプレストンも外人部隊に入隊、3兄弟は合流しますが、本当の宝石泥棒は俺だと3人とも言い張る。観客はこの辺りで3人が意地を張って本当に盗んだ自分以外の兄弟をかばいあっているのだと思います。盗み聞きしていた兵士ラシノフ(J・キャロル・ナイシュ)が兄弟たちから宝石泥棒を図って捕らえられ、ドンレヴィはラシノフから宝石の一件を知ります。本作はハーバート・ブレノン監督、ロナルド・コールマン主演の同名作品('26年、キネマ旬報4位)の忠実なリメイクだそうで'66年にも再リメイクがあり、筆者はこのウェルマン=クーパー版しか観ていませんが、ロナルド・コールマン版は高名な割に再上映されないのです。サイレントでよくこの込みいったプロットをこなしたものです。ドンレヴィはあの手この手でジェスト3兄弟(主にクーパー)にスキを作り宝石を盗もうとしますがうまくいかない。プレストンは転属し、脱走兵のシュワルツ(アルバート・デッカー)の処刑にクーパーとミランドを処刑人に選び命令服従を強要するがクーパーらは拒絶し、折しも敵軍の襲撃と応戦で事態は混乱し戦死者も出るが軍曹ドンレヴィは戦死者の死体にライフルを持たせ銃眼に据えて「実際の戦力より多く見せるのだ」と非情さを露わにし、銃眼に据えられた戦死兵の数は次々増えていく。そして虫の息のクーパーをめぐってミランドとドンレヴィの対決になり、ミランドはドンレヴィを倒して援軍の接近に発砲して注意を逸らし、城塞の裏から逃走する。映画はここで援軍到着時の不可能状況に戻るのですが、現場を真っ先に偵察したジェスト兄弟の末弟ディグビーがいかに状況を知り隠蔽工作を行ったかが詳しく描かれます。それからジョンは隊を離れ砂漠を帰還する途中でブロデリック・クロフォードとともに別の外人部隊に加わっていたディグビーと合流し、ディグビーが進んで犠牲となり、帰国したジョンはブランドン卿の邸で夫人とイゾベルにボーとディグビーの死を報告に訪ねます。ボーの遺書は映画の最初の子供時代の騎士遊びの場面の最中、甲冑の中に入っていたボーが訪ねていたヘクター卿が偽物にすり替えた「青い水」を取り戻して本物に戻し、ブランドン卿の帰宅で露見しないためやむを得ず盗んだというものでした。夫人とイゾベルはボーの義侠心を理解し、3兄弟の陳謝を捧げます。
何だか持って回った話でボー(クーパー)がさっさと兄弟と夫人、イゾベルに事情を話して全員で口裏を合わせれば3兄弟への盗難疑惑や外人部隊への入隊と散々な戦闘、あげくの果ての兄弟のうち2人戦死という事態にはならなかったではないかというような拍子抜け感はしますし、その辺がイギリスの冒険小説原作らしい古風な因果譚という感じもしますが、本当に'26年のサイレント版はどうなっていたんだろうと、ビリー・ワイルダーの『熱砂の秘密』'42のオリジナル、未見のモーリス・スティッツレル監督のポーラ・ネグリ主演作『帝国ホテル』'27のように想像もつきません。それはウェルマンの本作やワイルダーの『熱砂の秘密』がリメイクとは思えないくらい鮮やかで、サイレントでは表現しきれなかったのではないかと思うほどプロットが入り組んでいるからですが、『ボー・ジェスト』'26が4位、『帝国ホテル』が7位だった昭和2年度キネマ旬報外国映画ベストテンは1位『第七天国』'27、2位『ヴァリエテ 曲芸団』'25、3位『ビッグ・パレード』'25という堂々たるサイレント映画の円熟期を思わせるもので、『ヴァリエテ』『ビッグ・パレード』の日本公開は少し遅れたのは本国の大ヒット作で本国公開直後にはまだ上映権料が高かったか前宣伝に時間をかけたかのどちらかでしょう。本作が鮮やかなのは宝石の行方と盗難目的の方ではなくて、冒頭のほぼ全員が銃眼に就いてライフルを構えたまま死んでいる異様な城塞という不可解で不可能な状況の発見、全滅しているはずの城塞なのに発砲してきた1発の応戦の意味、そして映画のクライマックスの戦闘で冒頭の不可解・不可能な状況がいかに成立したかが説明的ではなく城塞での籠城戦のアクション描写だけで観客に納得ができるように描かれ、それだけでも鮮やかな解明の手口に驚愕しますが、続いて援軍が到着し、斥候ディグビーの調査が映画冒頭と結末ではまったく同一ながら冒頭では証拠隠蔽工作だけは絶妙にカットされていたと気づかされると舌を巻かずにはいられません。本作はいわゆるミステリー映画ではなく異国冒険戦争映画ですが上記のような構成自体が映画全体の大トリックになっており、冒険映画だから単なるムード作りだろうと思っていた冒頭の状況が、客観的に最後の籠城戦の帰結になるという解明は観客が予想できない展開なため謎解き仕立てのミステリー映画よりも大きな意外性と驚きがあります。これほど満足できる映画にケチのつけようがありませんが(ただし腹黒軍曹役のブライアン・ドンレヴィならともかく、本作でアカデミー賞助演男優賞ノミネートのブロデリック・クロフォードはほとんど印象に残りません)それでも本作は英語版ウィキペディアによると'26年サイレント版の「"Scene by Scene" Remake」("一語一句"リメイク、とでもすべきでしょうか)とありますから、長所も本作の手柄ではないのでしょうか。それでもこういう男くさい映画のウェルマンは実に良いものです。スーザン・ヘイワードが出ていながらまったく見せ場がないほどなのです。
●5月18日(金)
『大空の戦士サンダーバード』Thunder Birds; Soldiers of the Air (20世紀フォックス'42)*78min, Technicolor; 日本未公開(テレビ放映、映像ソフト発売)
○解説(キネマ旬報映画データベースより)『つばさ』で第1回アカデミー作品賞を受賞したウイリアム・A・ウェルマン監督による航空戦争映画。アメリカのサンダーバード基地。戦闘飛行士の訓練を受けるため、イギリスから来た男と教官の確執と絆、そしてふたりが愛する女性とのロマンスを描く。【スタッフ&キャスト】監督:ウイリアム・A・ウェルマン 出演:ジーン・ティアニー/プレストン・フォスター/ジョン・サットン/ジャック・ホルト
太平洋戦争勃発直後のアメリカ軍空軍飛行士養成学校に第一次大戦のエース・パイロット、ブリット(プレストン・フォスター)が教官に就くために到着し、サンダーバード基地の司令官で旧友のマック(ジャック・ホルト)に迎えられ、部隊リーダーのバレット(実際の第一次大戦のエース・パイロット、レジナルド・デニー)に引きあわされます。ブリットは実戦にはもう老いているからと説明しますが、実の動機はサンダーバード基地近くに昔なじみのガールフレンド、ケイ(ジーン・ティアニー)が祖父グランプス(ジョージ・バルビエ)と住んでおり、グランプスもまたブリットの旧友でした。ケイと再会してふたりはすぐに恋に落ちますが、ブリットが受け持ったクラスのイギリス人訓練生ピーター(ジョン・サットン)は兄を戦死で亡くしたばかりの青年で、その祖母スタックハウス卿夫人(デイム・メイ・ホイットニー、「デイム」は「サー」の女性型ですから本物の貴族女優です)はウィンストン・チャーチル首相直々に軍備増強を要請できるほどの上流階級の名士なのが描かれます。飛行機に乗ると吐いてしまうほどまるで初心者のピーターの特別訓練をブリットは約束することになります。ピーターはケイに出会って恋に落ち、ケイはイギリス上流階級子息のピーターのデートの誘いを受けますが、ケイはブリットを魅力ある年上の男性として愛しつつも結婚するにはブリットは多忙な上に貧しいと感じているのを率直にピーターに語り、ブリットはグランプスと旧交を温め、グランプスもまたケイがどちらの男を選ぶかはケイ次第と考えているのに気づきます。ピーターはブリットにケイに求婚する意を打ち明けます(スタンダード「There Will Never Be Another You」のストリングス・アレンジが流れます。同曲のさまざまなアレンジが本作のテーマ曲になります)。ピーターは飛行士としてなかなか上達せずブリットは当然出撃許可を出しませんがそれが上層部では問題になります。ケイとピーターはますます親しくなりますがブリットはむしろふたりを見守ることが多くなります。やがて訓練飛行で砂嵐に巻きこまれブリットとピーターは負傷し、ピーターの操縦技術の未熟さがピーターの除隊問題とブリットの教官不適性問題に発展します。ピーターの単独飛行訓練をブリットとケイが見守る中、ピーターはようやく軟着陸をこなします。そしてブリットは新たな任地で教官に就きます。
映画は最後に(冒頭と同じく)さまざまな空軍パイロットたち(中国系パイロットの顔も入る)の飛行中のコクピット映像に字幕で「彼らの活躍でドイツを退け、中国を日本人から解放し、東京を占領する日も近いだろう」と現実にそうなった通り(……)の戦意発揚メッセージが入りますが、本当に国策翼賛映画らしい場面はそれだけなので嫌な印象は受けません。本作は戦争映画ですが、実戦場面はなく、軍事教練だけの戦争映画だからかもしれません。ウェルマン好みのふたりの男とひとりの女、という設定が本作でもドラマの軸になっていますが、本作は『ボー・ジェスト』の次作『消えゆく灯』'39から軍務で一時映画監督を休んで3年ぶりの作品になり、フォードの『真珠湾攻撃』'41やホークスの『空軍』'43、ウォルシュの『決死のビルマ戦線』'45に較べると映画本編自体は意外なほど好戦的ではなく、青年ピーターもヒロインに「戦争よりも平和が大事だと思う」と、ピーターの怯懦さではなく性格の誠実さを表すための台詞として語らせており、確かにウェルマンの映画ではフォードやホークスの映画よりも主人公はもちろん悪人すらもあまり死にません。ウェルマンの最初の夫人はウェルマンが第一次大戦従軍中に夫の任地近くに住んでいて爆撃で亡くなったそうですし(その割には『つばさ』の撮影では死傷者続出だったそうですが)、本作翌年の『牛泥棒』'43は西部劇ながらリンチ裁判を描いて独善的な正義に疑問を投げかけた真摯で衝撃的な傑作になりました。戦時作品については日本の軍艦への報復爆撃を喜々として描いたフォードやホークス、日本軍を人間ではないと訴えたウォルシュの方がよほどあからさまに好戦的な作品なので、一見さぞやタカ派だろうと思われるウェルマンの方が平和解決を呼びかける姿勢なのは考えさせられます。青空を基調に鮮やかなオープン・セットとロケによる自然な発色の美しく解像度の高いカラー映像だった『翼の人々』'38よりもさらに美しいテクニカラー撮影が堪能できる本作は、この頃のジーン・ティアニー(1920-1991)ならフォードの『タバコ・ロード』'41やスタンバーグの『上海ジェスチャー』'41、ハサウェイの『チャイナガール』'42、ルビッチの『天国は待ってくれる』'43、プレミンジャーの『ローラ殺人事件』'44と名作連続出演なのでそれらと較べると物足りないですが、どんどん花火が上がるアメリカ独立記念日の夜の屋外のティアニーとジョン・サットンのラヴ・シーンなどヒッチコックの『泥棒成金』'54より控えめで趣味の良さを感じます。イギリスの英米合同空軍基地を描いた作品にはウォルシュに『特攻戦闘機中隊』Fighter Squadron (ワーナー'48)がありますが、ウォルシュ初のテクニカラー作品でカラー撮影が見事という以外に取り柄のない散漫な戦後作品でした。これも空軍題材に血の通った描写が撮れるウェルマンに分があったと言うことでしょう。本作は小細工なしに十分に愛すべき軍隊人情映画の小品になっています。
●5月19日(土)
『英雄を支えた女』The Great Man's Lady (パラマウント'42)*90min, B/W; 日本未公開(テレビ放映、映像ソフト発売)
○説明(メーカー・インフォメーションより) 監督:ウィリアム・A・ウェルマン 主演:バーバラ・スタンウィック/ジョエル・マクリー/ブライアン・ドンレヴィ ホイト・シティの開拓者で英雄のイーサン・ホイト。イーサンの在りし日を唯一知る100歳の老婆ハンナの回想という形で物語は進行する。1848年、2人は出会った瞬間から恋に落ち永遠の愛を誓うが……。
音楽ヴィクター・ヤング。落ち着いたB/Wの映像(解像度も良く階調も鮮明な上質画質)にタイトル・ロールからほっとします。新聞社の窓から双眼鏡で覗く小太りの社長「今日はイーサン・ホイトの日で銅像が建つのに、あの婆さんは35年間同じ椅子に座りっぱなしで何もしゃべらん」。そしてホイト・シティの創設者の国会議員イーサン・ホイトの銅像建立記念式典が描かれ、在りし日のホイトを知る唯一の生き証人、100歳の老婆ハンナ・センプラーの家を新聞記者たちが訪ねます。若い女性記者だけが他の記者たちの質問攻めを抑えて追い返し、辞去しようとする女性記者を老婆は呼び止めて居間から自室に移り、「それは1848年のことよ、私はフィラデルフィアの若い娘だった……」と語りはじめます。10代のハンナ(バーバラ・スタンウィック)は実業家の父(サーストン・ホール)の共同事業者の息子(ロイド・コリガン)と婚約させられていますが気がむきません。そこにミシシッピ川を越えた開拓を計画している青年、イーサン・ホイト(ジョエル・マクリー)がヒロインの父を訪ねてスポンサー協力要請の熱弁をふるい、ヒロインは青年の情熱に魅了されます。青年が訪ねてきた時に取り次いでいたヒロインをその夜青年が窓から呼びかけ、蔦を登ってヒロインと「二人きりになろう」と馬で荒野に連れ出します。イーサンはさっそくプロポーズしてヒロインも承諾し、駅馬車を呼び止めて牧師をつかまえると夜中の嵐の荒野でふたりだけの挙式をします。イーサンは未開拓地に家を建てて「ホルト・シティ」の縄張りを立てていましたが先に入った土地所有者だという男が現れて売買契約を持ちかけ、イーサンはサインを交わそうとしますがヒロインは大変な剣幕で男を追い返します。イーサンはギャンブラーのスティーリー(ブライアン・ドンレヴィ)にあり金を巻き上げられてしまい、イーサンとヒロインはホルト・シティを守りつつイーサンは近隣の鉱山採掘に、ヒロインはサクラメントで宿屋を経営して貯蓄しますが、スティーリーはイーサンが銀の鉱山を掘り当てるまで8年間ヒロインに求愛を続け、その後も見守り続けます。銀山発見の報にヒロインは夫の採掘費のためスティーリーから借金をしますが、イーサンはスティーリーからの借金と見抜いて怒り、二度と帰らないと言い放って、銀山のありかを問い詰めに殺到する暴徒を振り切り馬で走り去ります。身重だったヒロインは双子を生み、スティーリーの世話で双子を連れヴァージニア・シティの銀山の夫に会うためサンフランシスコに向かいますが、嵐で駅馬車は川の氾濫に押し流され、ヒロインは双子を失います。駅馬車の事故を知ったスティーリーはハンナの死をサンフランシスコのイーサンに告げに行き、激昂したイーサンはお前が殺したんだ、とスティーリーを撃ちます。回復したスティーリーはサクラメントに戻ってハンナの生存を知り、イーサンの再婚を知ったハンナはスティーリーとサンフランシスコで賭博場を経営して姿を隠します。ハンナの生存は議員に当選したイーサンの支持者の耳に入り、支持者たちの訴えから重婚のスキャンダルを恐れたハンナの父はハンナに東部への帰還を強要してハンナは激昂します。ハンナはホイト・シティにイーサンの演説を聞きに訪ね、イーサンは聴衆の中にハンナの顔を認め、ふたりが新婚家庭を持った最初の新居の小屋を訪ねたハンナに遅れてイーサンが現れ、十数年ぶりの再会を果たします。ハンナはスティーリーへのイーサンの誤解を解き、イーサンはハンナを一生の伴侶にすると懇願しますがハンナは出向いて離婚の手続きは取ったからイーサンの理想を実現して、と申し出て小屋を後にします。ハンナは女性記者にイーサンと夫婦の頃の話はこれで終わりとした上で、引退し、子供も親戚もなく後妻にも先立たれて年老いたイーサンがハンナの家に身を寄せて、末期を迎えた話をつけ加えます。そして女性記者を送り出したハンナは夜のひと気の失せた広場に行き、イーサンの銅像の前で立ちつくします。
本作は女性映画ですが、ウェルマンが世に送り出したと言ってよい(見いだしたのはフランク・キャプラですが)バーバラ・スタンウィック(1907-1990)の資質の良さが最上に発揮された作品のひとつでしょう。スタンウィックの良さは非常に抑制のきいた演技で表現力の幅とニュアンスの微妙さを表現できることで、映画全体への高い把握力を感じさせる知的かつ情感豊かな存在感のある女優で、本作は日本盤DVDはコスミック出版の10枚組1,500円の廉価版DVDボックス『西部劇パーフェクトコレクション~オクラホマ無宿』の巻に収録されている以外のリリースがなく、またこれが世界初DVD化らしく筆者が初めて観たのも同ボックスが発売された昨年なので印象が鮮明ですが、観直してもますます良さが伝わってくる作品でアメリカ近代100年史を女性視点で描いて誇張や単純な図式化もなく、大きく名作傑作というとなじみませんが、心のこもった佳作という感じがしみじみしてきます。英語版ウィキペディアでは100歳で登場するスタンウィックも本人のように記述していて、まさか代役としても本当に100歳の女優は使えないでしょうし老けていても若々しい80代くらいに見えますが、老けメイクのスタンウィック自身ならば16歳(くらい)から100歳までを演じているので大変なものです。スタンウィックの演技が説得力があるのは役柄への理解力が高く、その理解力の高さから自然で自発的な演技が力まず生まれてきているので、本作のような女の一生ものは監督ウェルマンにはもちろんスタンウィックにとっても、ハンナという19世紀中葉~20世紀中葉の100年間をひとりの男を愛し、その男の影になって長い生涯をまっとうしてきた女性を一から創造することで、これはウェルマンという監督とスタンウィックという女優、もちろん夫役のジョエル・マクリー、ハンナを助けるギャンブラーのブライアン・ドンレヴィの好演も大変な貢献ですが、アメリカには映画監督も無数にいれば女優となれば星の数ほどいる中で、ウェルマン以上に才能に溢れ優れた映画監督もいるでしょうし女優としてのスタンウィックまたしかりですが、例えばこれをハワード・ホークスの監督とキャサリン・ヘプバーンまたはキャロル・ロンバードの主演、あるいはウィリアム・ワイラーの監督とベティ・デイヴィスまたはジョーン・クロフォードの主演でなど考えただけでもこそばゆくなってくるようなもので、ウェルマンとスタンウィックの相性は無欲恬淡という点で物語自体は『風と共に去りぬ』以上のスケールの話をつつましく描いて人生の真実性を的確にとらえるには最高の組み合わせだったと思えます。女性映画を作る映画監督は女優選択でまず決まってしまうのは洋の東西南北を問わず、監督が女性であってもまたしかりでしょうが、スタンウィックにメロドラマでも社会派作品でもフィルム・ノワールでも通用する存在感があったのは自然な生活感を備えており、監督でも共演者でもスタンウィックほど肩肘張らず仕事をともにできる、よく気のまわる家庭的感覚のある女優だったと評判がありました。ウェルマン好みの男ふたりに女ひとりの設定はここでも生きていて、女性視点の男性映画という見方をしても深い哀感のあるものです。これは隠れた佳作、観る人によっては大事な名作になり得る映画です。