人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

頭の中の映画/レネ、フェリーニ

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アラン・レネの『去年マリエンバートで』(61年・仏)とフェデリコ・フェリーニ『81/2』(63年・伊)は、ほぼ同時期にリヴァイヴァル公開で映画館に観に行きました。もう30年も前になるので、初公開から再上映までよりも、再上映以降の時間の方が長くなります。80年代初頭『マリエンバート』や『81/2』はゴダールトリュフォーの『勝手にしやがれ』『大人は判ってくれない』(ともに59年・仏)同様に、ヨーロッパ映画の新しい古典としてまだ手垢のつかない新鮮な魅力を湛えていました。

ただしレネとフェリーニでは大衆的な知名度では大きな差があり『81/2』は有楽町のスバル座で二回先の入場整理券が出るほどの盛況でしたが、『マリエンバート』は新宿のミラノ座分館で席数50人が閑散としていました。フェリーニ作品は一度観ればスッと入ってきます。レネ作品は初見ではすっかり翻弄され、二度目に観るとパズルのピースがばちばち填っていく面白さはフェリーニ作品以上でした。現実と仮想が入り混じる映像表現でこの二作の類似はよく指摘されますが実際の印象はかなり異なります。それを技法的にプルーストジョイスの相違になぞらえて評した英文学者もいましたが、それらの小説家の技法とも違う。

その後さらに多くの映画を観て、この二作の相違はルノワールゲームの規則』(39年・仏)とウェルズ『市民ケーン』(41年・米)に近いのではないか、と思い当りました。しかしルノワールやウェルズと較べるとレネもフェリーニも柄が小さい。ゴダールトリュフォーはもとより革新性でもロッセリーニ無防備都市』(45年・伊)・アントニオーニ『情事』(60年・伊)、小津安二郎『晩春』(49年・日)・溝口健二西鶴一代女』(53年・日)に敵わず、無声映画期でもグリフィス『イントレランス』(1916年・米)・シュトロハイム『グリード』(23年・米)やチャップリン『黄金狂時代』(24年・米)、またムルナウ『最後の人』(25年・独)・エイゼンシュテイン戦艦ポチョムキン』(25年・ソ)・デンマーク人監督ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』(28年・仏)などが遥かに尖鋭的な試みに成功しています。
しかしそれは先にフェリーニやレネで慣れていたからでもありました。革新ではないが洗練された応用がそこにはあり、いわば職人芸を楽しめる作品でしょう。