●8月30日(木)
『奇跡』Ordet (Carl Theodor Dreyer-Filmproduktion'55.Jan.10)*120min, B/W; 1955年ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞・1956年ゴールデン・グローブ賞最優秀外国語映画賞受賞 : 日本公開1979/2/10 : https://youtu.be/-uQEPjRog84 (Trailer)
[ あらすじ ](同上) 1930年頃のデンマーク。ボーエン農場の家長モルテン・ボーエン(ヘンリク・マルベルイ)は、妻に先だたれたが3人の息子や孫たちにかこまれて悠悠たる老境を過ごしていた。彼は一代で農場をたて、信仰心あつく、人々の信頼を集めていたが、信仰が奇跡をもたらすと信じる彼を冷笑している者もいた。長男のミケル(エミル・ハス・クリステンセン)は神を信じようとはせず、次男のヨハネス(プレベン・レルドルフ・ライ)は神を信じすぎ、自分をキリストと信じていた。三男のアーナス(カイ・クリスチャンセン)は、モルテンとは宗教で対立する仕立屋ペーター(アイナー・フェーダーシュピール)の娘アンネ(ゲルダ・ニールセン)に恋していた。モルテンにとって、救いはミケルの嫁で、2人の孫娘(アン・エリザベット・ラッド、スサンネ・ラッド)の母であるインガ(ビアギッテ・フェザースピール)だけだった。インガはボーエン家のささえで、夫と養父の対立を気づかい、今生まれようとしている3人めの子供がモルテンの願い通り男の子であることを祈っていた。彼女はモルテンを説得して、アーナスのアンネへの求婚を認めることに成功するが、ペーターはこれを拒絶した。怒ったモルテンがアーナスの家にのりこんだ頃、ミケルが電話で、インガが産気づき、母子の生命が危い難産になりそうなことを知らせてきた。ヨハネスの不吉な予言通り、一時、助かると思われたインガは子供ともども死んでしまう。悲しみにつつまれたインガの葬式。ペーターはアンネをつれて和解を申し出た。インガの枢のふたが閉じられようとした時、奇跡が訪れようとしているかのように、正気に戻ったヨハネスが帰ってきたのだった。
溝口健二の『西鶴一代女』が監督賞を与えられたのが'52年のヴェネツィア国際映画祭(同年の金獅子賞は『禁じられた遊び』)で、これは新東宝作品でしたが溝口は大映専属になった翌'53年の『雨月物語』では銀獅子賞(同年は金獅子賞受賞作なしのため事実上グランプリ)、'54年の『山椒大夫』でも銀獅子賞(同年の金獅子賞は『ロミオとジュリエット』)と、初の同映画祭3年連続受賞監督になります。'55年のグランプリがこの『奇跡』なので、ドライヤーとのニアミスが幸いしたとも、'56年には溝口は急逝してしまうので'55年に溝口がヴェネツィア出品作品があって渡欧していたら伝説的な『裁かるゝジャンヌ』の巨匠の新作『奇跡』を観て、さらに面談する可能性もあったと思うと悩ましくなりますが、溝口の『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』を同じ敗戦国であるイタリアでは戦争経験の反映抜きに観たとは思えませんし、そこにエキゾチシズムを超えた普遍性と強烈な訴求力を認めたからこその受賞だったでしょう。溝口より10歳年長のドライヤーが溝口よりさらに徹底した1シーン・1カットの映画を作るようになったのは溝口とは別の考えからたどり着いたとしても、両者がともに限界まで追いつめられた、極限状態にある人間のドラマを描く映画監督であり、それを言えば恋愛映画、スリラー映画や犯罪映画、戦争映画はみんなそうですが、ドライヤーや溝口の映画ではエゴイズム、罪、反抗、贖罪などの要素がじわじと真綿でクビをはじめとする締めるように迫ってくる。決して観客にカタルシスを与えるとは言えない結末に向かって収斂していきます。その結果登場人物の能動性が欠け、観客の感情移入を許さない突き放したドラマにもなる、という大衆性の稀薄な作風になりがちです。ドライヤーも溝口も基本的にはメロドラマの映画監督なのですが、映画は観客が普通メロドラマに期待するのとは違った方向に向かって進むので、登場人物たちへの共感よりはもっと映画全体を見渡す見方をしないと見所自体を見逃してしまいます。『奇跡』の1シーン・1カットは長いショットではありますがほとんどが室内なのでゆったりした左から右へのパンで撮られ、人物はロングで、場面への入退場はドアから入ってくる、出ていく、という具合で、パン以上の長いトラヴェリング・ショットはなく、トラヴェリングが必要なほどの人物の移動はカットを割っています。そうした手法で全編が描かれているため切り返しショットによって登場人物たちの視線が交差する映像は一切ありません。また感情移入を誘うメロドラマほどクローズアップは多用されますが、『奇跡』で唯一のクローズアップはクライマックスの告別式のシーンで急死した母に対面した少女のクローズアップだけで、この少女がメシア妄想症から正気に帰った叔父とともに母の蘇生を祈る時だけ少女のバストショットのクローズアップが映ります。これは感情移入に誘導するためというよりも視点人物すらなしに進んできたこの映画がこの時だけは少女を視点人物にしたので、死んだ母の蘇生を疑わない唯一の立会人がこの少女だということです。台詞やト書きを原作戯曲に忠実に映画化すると言っても映画としての映像化はどのようにも演出可能なので、この映像手法は『怒りの日』で確立したものにせよホームドラマ『奇跡』の達成はめざましいもので、かつてのやはり家庭の中心である嫁を描いた『あるじ』の30年後に本作が製作されたのはテーマの追求、深化とともに途方もなく気の長い一貫性を感じさせます。そして9年後の次作『ゲアトルーズ』がドライヤーの遺作になるのです。
●8月31日(金)
『ゲアトルーズ』Gertrud (Film-Centralen-Palladium'64.Dec.19)*112min, B/W; 1965年ヴェネツィア国際映画祭国際批評家連盟賞受賞 : 日本公開2003/10/12 : https://youtu.be/7m6gPBen4cs (Final Scene)
[ あらすじ ](同上) 弁護士である夫(ベント・ローテ)との夫婦生活に失望した妻・ゲアトルーズ(ニーナ・ペンス・ローデ)は若い作曲家(ボード・オーヴェ)に愛情を求める。しかし、その想いが理解されることはなく深く傷ついた彼女は……。
[ 解説 ](日本盤インフォメーションより) 愛を求めて苦悩する女の姿を通して、魂の渇望を描いた、 カール・Th・ドライヤーの遺作にして、集大成。 弁護士の夫との結婚生活に失望したゲアトルーズは、若い作曲家に愛を求める。だがその想いは理解されることがなかった。深く傷ついた彼女は……。 空間構成と陰影の様式美に溢れた、芸術的な作品。 1964年に発表されたドライヤーの「ゲアトルーズ」は、従来の映画美学とは根本的に異なった様式によって展開される、現代映画芸術概念の展開の端緒を作った記念碑的作品である。ここには劇映画の芸術が持つ可能性のもっとも純粋な形があり、現代映画が実は古典的劇芸術の本質と一致していることが明白に示されている。すなわち、登場人物の人生の光景のいくつかの場面が演じられ、彼らの語る言葉によって、観客は場面上には見えない時間と空間を想像的に体験していくのだ。 原作はスウェーデンの作家ヤルマール・セーデルベルイの同名舞台劇。主人公ゲアトルーズ(ニーナ・ペンス・ローデ)は著名な弁護士カニング(ベント・ローテ)の妻。夫カニングはもうすぐ国務大臣に任命されようとしているが、ゲアトルーズは夫に満足していない。そのような状況の中で、彼女の前に若い作曲家エアラン(ボード・オーヴェ)が現れる。彼女の愛は一時的に、この作曲家のほうに向かう。次の日の夜、かつてのゲアトルーズの許婚者であった著名な詩人ガブリエル(エッベ・ローデ)が久々に外国から戻り、祝賀会が催される。カニングがスピーチをしている間、気分が悪くなったゲアトルーズは席を外す。そのあと彼女はエアランの伴奏で歌を歌うが、その途中で倒れてしまう。翌日エアランが自分を愛していないことを知ったゲアトルーズは、彼と別れる。そして彼女はパリで勉強をするために、夫のもとを去る。 セーデルベルイのこの舞台劇に、ドライヤーはエピローグを付け加えた。このエピローグにおいて、ドライヤーは数十年後の年老いたゲアトルーズを見せる。彼女は、愛がすべてであり、自分は愛を体験したのだと語る。 ドライヤーは室内劇的な舞台空間を選ぶことで、現実の中にある劇にとって不必要な事物を取り払い、映画空間を必要最低限の空間にまで純化する。登場人物は会話を続けるが、目と目を合わせることはほとんどなく、まさしく俳優が舞台上で観客に対して向かっているように、そのような意味で<演技>をする。登場人物たちの姿勢、身振り、空間内での位置は、あたかも映像による動くレリーフ、もしくは彫刻のような造形感にあふれている。絶え間なく語られる言葉には、現実感や日常性が削がれたような、ひどく人為的な抑揚が込められている。ドライヤーはあらゆる意味で、この映画の演じられ、語られる光景を、演劇的なものにした。映画と演劇の対立、映画史においては映画がいかに演劇的な足枷から逃れられるかが、議論されてきた。ドライヤーは一見、そうした映画史の方向とは反した世界に入って行ったように見える。しかし、「ゲアトルーズ」のこの上ない美しさは、この映画をいかなる大スペクタクル映画以上に密度の濃い、慎ましく、静寂に満ち、それでも大いなる内なる情熱を秘めたものにしている。
ドライヤーは『奇跡』の次作をカラー作品で作りたかったそうで、また『ゲアトルーズ』の企画はフォークナーの『八月の光』か四福音書のキリスト伝と平行して検討され、実現可能なものとして『ゲアトルーズ』をB/Wで先に製作したそうで、『八月の光』とキリスト伝をカラー作品で映画化する企画は先送りになりましたが、本作を遺作として4年後ドライヤーは79歳で逝去しました。長寿でキャリアの長い映画監督ならドライヤー以外にも思い当たりますが、サイレント時代ただ中から75歳まで作品があり、後半生35年の間には『吸血鬼』『怒りの日』『奇跡』と本作の4作しかない、しかもいずれもが10年に1作という名作、とは尋常ではなく、ドライヤー・プロダクションのこの4作はB/Wフィルム時代の映画でも映像の「白さ」で際立っています。カラー映画ではもっとも強い色は黒ですが、B/W映像では白ほど強い色はないので、この「白」は『裁かるゝジャンヌ』のクローズアップ技法に伴って発見され、同作と同じカメラマンのルドルフ・マテが白いガーゼをフィルターにして撮影した『吸血鬼』で積極的な手法になり(同作では吸血鬼の手下は小麦粉に埋もれて死にます)、近世デンマークが舞台の魔女狩り映画『怒りの日』ではコントラストの強い映像で現れますが、ホームドラマ『奇跡』では室内劇的趣向は『怒りの日』と同様ですがこれほど白いB/W映画はちょっとないくらい白く、『吸血鬼』とは違う一見素朴なリアリズム映画なのでその白さに気づくのは映画がしばらく過ぎて、狂人の次男が行方不明になり家族全員で野原に探しに行き、風に揺れる白い草原や晴れた空の白い雲を映すあたりです。室内劇『ゲアトルーズ』の白さはやはり戸外でヒロインが愛人の若いピアニストと密会する場面で背景の白さで気づき、以降は室内場面もほとんどが白いのがわかり、1シーン・1カットも『怒りの日』『奇跡』以上に徹底していてヒロインが過去の婚約者の詩人と再会し、過去の思い出を語り合うシークエンスは10分以上の長いショットが続きます。この映画でヒロインをめぐる男性は大臣職就任を控えた現在の夫、若手ピアニストの愛人、過去の婚約者だった詩人の3人と学生時代からの友人アクセルですが、原作戯曲は不案内ですが約30年後にアクセルと再会して晩年の予感から生涯を回顧し、自分の生涯は愛こそがすべてだったと語るエピローグはドライヤー自身による追加場面で、本作が『怒りの日』のテーマを継承した作品であることを示します。若いピアニストはひどい男で、社交パーティーで上流階級夫人を落としたことを吹聴し、駆け落ちの提案を即座に断るような軽薄な奴だと判明するのですが、もはや夫を愛しておらず若いピアニストへの愛も一方通行だったと知ったヒロインは現在の生活を投げ打ち、旧友アクセルが心理学履修のため留学するパリにともに留学することを決めます。夫からも愛人からも高慢な女と罵られますが、ヒロインにとって純粋に大切だったのは自分自身の愛の感情だったので、過去に婚約者の詩人への愛が消えたのも愛を犠牲としても詩作への精進に覚悟する婚約者の決意を知ったからで、今や功成し遂げた詩人が今では人生に空虚感しか抱いていない、とヒロインに打ち明けてもヒロインは慰めしか与えません。『怒りの日』の田舎牧師未亡人ヒロインは魔女審問に対して悪魔との取引を認めて死を選ぶ、という激越な方法で秩序に抵抗しましたが、『ゲアトルーズ』のブルジョワ女性はブルジョワ上流階級のサークルから決別することで虚偽の愛を拒否するので、人間性の不寛容と罪のテーマは『裁かるゝジャンヌ』から(『吸血鬼』は違いますが)一貫したドライヤー映画のテーマなので、『奇跡』は宗教性、『怒りの日』や『ゲアトルーズ』ではヒロインの頑なさで共感を阻む要素に満ちている、と言えます。しかし映画の真実性ではこれほど徹底したものはないので、この感情移入を拒否した視点人物不在の1シーン・1カット手法の強度は極端に白い色彩設計によってなおのこと厳粛さを増しています。『八月の光』をドライヤーがカラー作品で製作する機会は余命4年では実現できなかったのですが、アメリカ20世紀文学でも難解さ・複雑さ・構想の広大さでは屈指の同原作にはこれまでの10年1作以上のインターヴァルを必要としたに違いなく、未完に終わった企画に『八月の光』、そしてキリスト伝があったというだけでドライヤーは生涯現役意識を持ち続けていた証座になるでしょう。『ゲアトルーズ』のヒロインは嫌な女ですが、徹底した生き方を貫いたヒロインであることは否定できません。この映画はそういうヒロインを描いて完璧な作品です。これはつまり、75歳の遺作にいたってもドライヤーが観客への強烈な挑戦を挑んでいたことの例証に異なりません。