人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

集成版『戦場のミッフィーちゃんと仲間たち』第六章

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 第六章。
 初めて車輪にペダルをつけた自転車の一般販売はフランスで1861年、ペダルによって後輪をチェーンで回転させる現在のような自転車が発売されたのはイギリスで1869年のことでした。それらに先立ち、直接足で地面を蹴って進ませる自転車の元祖が商業発売されたのは1817年のドイツで、これが近代自転車の始まりと見做されています。ただしここでは自転車の歴史をたどりたいのではありません。一般に販売された自転車は、1817年の初期モデルすらすでにサドルを備えたものでした。これがペダル式の1861年モデルが出ると一気に普及したのですが、当時にあっては最新式の個人移動車両である自転車は現代の自動車並みに高価なものであり、ブルジョア階級や貴族階級以上の財力がないと購入できないものでした。
 このフランス製ペダル式自転車の普及から、婦人用自転車のサドル盗難が急増しています。自転車そのものを盗むのではなく、サドルだけを狙った盗難が相次ぎました。もちろん自転車のサドルだけでは換金性が目的とはほとんど考えられません。つまりこれは婦人用自転車のサドルに対するフェティシズムを背景にしたものであり、その動機は見も知らない貴婦人のドテがぐりぐりと押しつけられたサドルであることに偏向した性的フェティシズムが刺激された結果によるものと思われます。現代でも婦人用放置自転車のかなりがサドルを持ち去られている現象があり、自転車の発明とともに婦人用自転車サドル窃盗犯が発生したのは歴史的事実となっています。おそらく人類の男女比と婦人用自転車の比率が今後も変わらない限り、婦人用自転車サドル窃盗犯も人類の数と比例した数だけ潜在することでしょう。
 そんなのん気なことを考えながら、スヌーピーウッドストックを呼び寄せて、この休戦地にやってきてからの見聞をエッセイ風の小説にまとめようとしていました。書き出しだけはとっくに決まっています。「嵐の吹く暗い夜でした……」それは町のいたるところで婦人用の放置自転車からサドルが盗みとられる時刻です。スヌーピーにとってそれは理解を絶していましたが、理解のできないことを書くうちに包括的な認識にたどり着くのが優れた作家というものです。チャーリーたちで試してみるのもいいかもしれないな、とスヌーピーは思いました。変態とは案外身近なところに潜んでいるものなのだと、スヌーピーは予感していました。


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 しかし精神年齢面ではるかにパインクレスト・キッズより成熟したスヌーピーから見ると、まず連中には貴婦人というものがいない。庶民のガキどもですから仕方のないことですが、素質としてはかろうじてマーシー(スヌーピーはつきあいの良いマーシーについては点が甘いのです)くらいのもので、貴婦人としてのルーシーなどを想像するとへそが茶を沸かします。ですがサドル泥棒とは特定の女性の婦人用自転車サドルを狙うのではないのですから、痴漢や覗き見のような色情狂的行為と見做す方が自然でしょう。ならば彼らのうちに色気に満ちた女の子がいなければサドル泥棒が発生しない、とは言い切れません。
 ですがスヌーピーから見ると、チャーリーたちには永遠に第二次性徴期などやってこないのではないかと思われてならないのでした。なるほどルーシーはシュローダーにぞっこんですし、チャーリーやライナスもシーズンの行事ごとにロマンスが芽生えそうになってはしくじっています。ですがあれは、ついこないだ知りあったばかりの日本人の幼稚園児たちがやっているようなリアルおままごとなのではないか。そうした環境からは、理解はできないが全世界的に普遍的な現象らしい婦人用自転車のサドル窃盗という現実を認識すらできないのではないか。つまり死という概念のない世界では誰も他人の死を認識できず、自分の死を想像することもできませんが、それと同じなのではないか。
 スヌーピーは愚鈍について考えをめぐらしました。愚鈍、それは知性や理解力、理性や機転、または判断力の欠如を指すものでしょう。それは先天的だったり、擬態であったり、状況に反応して起こったりするものだったりします。そしてそれは、悲しみや精神的外傷などの状況に対する反応として自分を防御するものでもあるのです。この場合、愚鈍は無垢(イノセンティ)と呼び替えることもできそうです。それがパインクレスト小学校の子どもたちにとっての無垢に他ならないでしょう。
 その頃パインクレスト町のブラウン理髪店では、チャーリーのお父さんがお客さんのひげを剃っていました。お父さんの名前もチャーリーでしたから(つまりチャーリーはジュニアで、お父さんはシニアです)、お客さんにはチャーリー・ザ・バーバーと呼ばれるチャーリー・シニアは、入念にボウルに泡立てたしゃぼんをお客さんの顔面に塗ると、よく研いだ剃刀を手慣れた手つきで斜めに当てました。


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 私たちに欠けているものは何かしら、とデイジーは私って不幸モードに入っているハローキティに言いました、例えば博識や哲学よね。それに本当の意味で成熟した女の魅力や母性、包容力にも欠けているかもしれない。洗練された物腰や気品、溢れる才能にも欠けているかもしれない。でも、そんなものが私たちに本当に必要なのかしら?
 もちろん、とデイジーは続けて、ツキというのは誰だって必要よ、そして私たちは今ツキに見離されていると認めるしかない。でもそれって自分でどうにかなる場合と、自分ではどうにもならない場合があるじゃない?これまで私たちはついていたのよ、それが今ではついていない。こんなことを嘆いていたって始まらない、私たちの仕事はお客さんの入り不入りで賃金を下げられるわけじゃないし、これまでもらえていた特別手当がつかなくなるかもしれないけどもともと大した額じゃあなかったじゃあない?基本給だけで十分稼げている上に、ヒマならヒマで働いている分以上にお給料をもらっていると考えればいいのよ。少なくとも私たちには不満はないわ。どうかしら?
 私が不幸なのはそんなことじゃない、とハローキティ、お金とかお客さんの入りとか、そんなありふれたことだってもちろん大切だけど、私の不幸はそんなことじゃないのよ。
 それはもうみんなわかっているから、とデイジーはのど元まで言葉が出かかりましたが、それを言ってはお終いです。ハローキティの不幸の核心をつつくことになってしまいます。めんどくさい女、とデイジーは妹の親友で自分も親友ということになっている、このカマトトこねこの表情を斜めにちらりと眺めました。
 キャシーはそのやりとりを聴いているうちに、自分の姉は本当はキティを追い詰めるのが目的でまくしたてているのではないかと思わずにはいられませんでした。年長者でもあり実質的にお店の営業を任されているだけあって、本来ならキティの苦境はデイジーの苦境でもあるはずです。しかしデイジーはキティの自虐癖につけこんで、同情し慰める様子をしながらも、こうなったのはすべてハローキティのせいであるようなムードに持ち込んでいました。自分の実姉とはいえ、そのあざとさには目にあまるものがありました。
 もしキティの不幸をみんなで解決できれば、今までどうりになるかしら、と思い切ってキャシーは口にしてみました。それはこれまで誰も、思いつかなかったことでした。


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 どう、いつもの私と違う気がしない?とミッフィーちゃんは化粧台から振り向くと、下士官たちの注意を惹きました。下士官たち、つまりアギーやメラニー、バーバラやウインはおのおのの流儀で顔を上げると、つまりアギーはおどおどと、メラニーはふてぶてしく、バーバラはのん気に、ウインは無表情に師団長を見つめましたが、とたんに全員に気まずいような、しかし何かしら無難な反応を見せてこの場をやり過ごさなければならない空気が流れました。われらがミッフィーは賛同以外のどんな反応も求めていないことは明らかでした。彼女は左耳に赤いリボンを蝶結びにしていたのです。どうかしら、とミッフィーは重ねて訊きました。
 可愛いんじゃないの、とメラニー。彼女は要らないことまで口にする性格ですが、自分以外に口火を切る仲間がいないのに気づいたので損な役を買って出たのです。普段はわずらわしがられている短所がなせる業ですから、どんな人でも美点はあるものです。なんだかハローミッフィーっていう感じもするわね。
 言っちゃったよ、とアギーはびくびくしました。メラニーの性格ならばストレートなもの言いはいつものことなのですが、それにしてもあまりにそのものずばりを言ってしまうにはまだ時期尚早すぎるのではないだろうか、とアギーには思われました。たとえば1714年7月20日、金曜日の正午に、ペルーでもっとも美しい橋が崩落し、ちょうど橋を渡っていた男女5人が深い谷間に落ちて即死しました。イタリアのイエズス会から派遣されていた宣教師がその時、橋につながる広場で宣教をしていましたが、事故の瞬間を目撃した彼は派遣期間の6年間を、神父職のかたわら5人の事故死者の親族や関係者に面談し、膨大な記録を残しました。それは神父に、人間は偶然に生まれ偶然に死ぬのか、神の御心によって生まれ神の御心によって死ぬのかを、この橋の崩落事故が問いかけてきたからです。メラニーなら間髪入れず、関係あるわけないじゃん、と一笑に付すでしょう。
 ハローミッフィー、それもいいわね、とあっさりミッフィーが受け流したので、他ならぬメラニーもおや、と思いました。メラニーが思うにミッフィーには一定したキャラクターがなく、幼児の自我が場面場面で大きく変わるようにいくつかの引き出しがあるような状態だと考えられるのです。ですが今左耳にリボンを結んだミッフィーは、いつもの彼女とは違っていました。


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 目が醒めて枕もとの時計を見ると、長短二本の針は5時半をまわったところだった。カーテンごしの光からは屋外はどんより曇っているように思われた。数分間、それまで眠っていた頭にまだねむ気があるか探っていたが、どうやらもう眠くなさそうだと思うと友だちのことが心配になってきた。電車で30分ほど離れた町に住むその友人とは6年前に入院先の病院で同じ病室になって知りあい、偶然だが入獄・離婚・発症と似たような経歴でもあり、退院後もたまに電話で話したり会って食事したり、ピンサロやヘルスに行ったりする仲だった。
 4年前まではおたがい半年ごとに入退院をくり返すほどの障害二級の病人だったが、こちらがようやく入院するほどの病状の悪化がなくなり満4年を過ぎても、友人の方は相変わらず毎年決まって入退院をくり返していた。障害等級も現在は一級だという。普通、障害一級でひとり暮らし、自由に町を歩いている病人はいないと言われる。介助が必要か、または入院が推奨される病状と診断されているのだ。
 それからは電話するとついこの間まで入院していたり、突然入院先から電話をかけてきたりというのが2年に3回くらいの頻度であった。急性症状の入院は平均入院期間は3か月が単位だから、24か月のうち9か月は入院生活を送っていることになる。
 先週、ひさしぶりに元気か様子を見ようかと電話すると、お客さまの都合で電話ができなくなっております、というアナウンスが流れた。メールを送ってもReturnd Mail、ユーザーが見つかりません。@以前をご確認ください。User Unknown、という自動返信しかこない。また入院したのだろうか。こないだの退院は昨年11月下旬、まだ半年程度しか経たない。
 5時半なら早からず遅からずちょうどいいだろう。やはり確かめなければ心配になる。急性入院なら3日間~1週間も隔離室で安静にさせられればもう病棟に出られているはずだし、こないだの電話は滞納して止められていただけかもしれない。恐るおそる電話してみた。
 はい、とモゴモゴした声で友人が出た。良かった、電話つながらないから入院かと思ったよ。滞納してたんです。やっぱりそうか、ところで体調は大丈夫、少し舌がもつれてないか?いや、こんな時間だから、と彼。
 そこでようやく、昼寝から起きた夕方5時半ではなく、早朝だと気づいた。自宅療養中の病人どうしなんて、こんなものだ。


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 顔が割れてないのはあなただけだから必要はないかもしれないけど、とデイジーはまじまじと相手の顔を見つめ、でもやっぱり変装はしていった方がいいかもね、何がきっかけであなたがうちの店から来たってバレないか、予期できないから。あなたがうちの店と何か関わりがあるんじゃないかと疑われたら、探り出したいものも探れない。警戒されるに決まっているわ。あなたが私たちと同じ種族だと思えば、そういうブランドに見えてくるのはどうしても隠しきれないでしょう。だから用心のためにも変装していった方がいいわ。
 マイメロ変装なんかしたことないから、どうすればいいかわからないよ、とマイメロディは言いました。このカマトトうさぎ(のぬいぐるみ妖精)、とデイジーは苛立ちましたが、あなたの場合簡単よ、とずきんを脱がせにかかりました。いやーん、とマイメロが悶えて逃げようとするのでデイジーが目くばせすると、左右からキャシーとミミィがマイメロの腕を取って押さえつけました。ひい、とマイメロはうめき声をあげると大声で泣き出しましたので、心優しいキャシーとミミィは罪悪感に責められましたが、今さら乗りかかった船というものです。デイジーは頭をぐらぐらさせているマイメロにはかまわず、ずきんに手をかけて力まかせに脱がせようとしました。
 ところが一見単純な構造のかぶり物のように見えて、なかなか上手くいきません。ずきんは頭の後ろと顔の側面を覆って、あごの下で左右が襟のように合わさっていました。見たところホックやボタンもないので、ずきん自体が伸縮性に富んでいてすっぽりとかぶるような仕組みになっていると思われます。それならかぶる時と同様に引っ張れば伸びるはずなのですが、耳の部分を引っ張っても、頭の部分を引っ張っても、あごからめくり上げようとしてもマイメロの顔ごとついてくるので、脱がすどころかまったくらちがあきません。
 ミミィはお客さんが置いていったマンガ雑誌侵略!イカ娘を思い出しました。イカ娘のヒレつきの帽子は彼女の頭部の一部なのです。ひょっとしたら……それ、彼女のからだの一部なんじゃないかしら?えっ、じゃあ脱げないの?マイメロは泣きじゃくってまともに返答が返せません。それじゃあマイメロってバレバレじゃない?役にたたない子!
 いや、でも他にも使いようはあるか、とデイジーは企みをめぐらせました。ミッフィーの店に潜り込ませればいいんだわ。


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 チェブラーシカとわにのゲーナにやみ酒を仕入れさせているシャパクリャクおばあさんは謎のいじわるおばあさんで、悪いことをしなければ有名になれない、とまわりの人間の嫌がることをしては喜ぶ性格でした。冷戦時代にはアメリカに渡ってスパイ活動に暗躍していましたが、東西の壁が崩壊した現在でもスパイ時代にバットマンの自動車のタイヤをパンクさせ、バッグス・バニーのにんじんに農薬をかけてだめにし、ネズミーマウスのしっぽに空き缶をゆわえつけた容疑でFBIから国際手配手配されているため、国外には出られないのです。
 チェブラーシカとゲーナがやみ酒を仕入れての帰り道、すれ違ったスヌーピーは人間の数万倍の嗅覚でチェブラーシカたちから間接的にシャパクリャクおばあさんの臭いを嗅ぎつけました。それはチェブラーシカたちがシャパクリャクおばあさんから賃金と一緒にロシアの郷土料理をふるまわれているからで、かつてスヌーピーの自慢の犬小屋が何らかの目的で就寝中に滅茶苦茶に荒らされた時も(スヌーピーは閉所恐怖症のため夜は屋根の上で眠るのです)、翌日の昼間に留守中むざんにも犬小屋が爆破されていた時も、確かにこの臭いが現場に残されていました。バットマンやバックス・バニー、ネズミーマウスの件も同じ頃に起こった事件でしたが、スヌーピーはマスコミ全体に裏から圧力をかけ自分の事件だけは漏洩しないようにしました。バットマンやバックス・バニーはまだしも、ネズミーランドでボロ儲けしているあのネズミーマウス、生意気にも飼い犬まで飼っているあのねずみと同列に並べられるのは撃墜王のプライドが許しませんでした。
 もちろんスヌーピーにはいかした大学生ジョー・クール、小説家、辣腕弁護士、ビーグルスカウト団長など他にもさまざまな顔があります。天才外科医、登山家、船長、ロックスター(の天才マネージャー)、危険物取扱者、簿記三級そろばん二級、チェス名人、ビーグル・オブ・フェイム(ビーグル犬の殿堂)、Ph.D.(哲学博士)、考古学博士、美術品鑑定士、天文学教授。これだけの才能に恵まれ素人探偵の素質がないわけはあろうか、というものです。ここで会ったら百年目、ついに屈辱の犬小屋爆破事件の真相をつきとめる糸口がみつかり、あの時はチャーリーらに犬小屋が気に入らないからって爆破しちゃ駄目だよ、もっと気に入る新しいの作るからね、と犯人あつかいまで受けたのです。


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 捕まえておいて、数か月間監禁しておき、適当に事務処理したら何のフォローもなく放り出す……〓〓〓〓〓はこうして効率良く再生産される……〓〓〓とは〓〓〓というだけで数か月を正当な法的効力で監禁できるので、世間ではそれなりに根拠があるんだろう、と思うだけだ……それは法の適用が無謬であり、自分は法に守られている側にいると盲信しているからで、そんな無謬はどの国のどんな法でもあり得ない……法はいつでも無作為に無辜の個人を蹂躙し得る……法に守られた個人など存在しない、常に法に拘束されているだけだ……これを言えるのは、尻の穴をガラス棒で探られ、大きな指で潰される蟻のようにむき出しで法と対峙した経験のある個人だけで、お前らにはそれを否定できる権利も賛同する資格もない……これは言葉の真の意味での戦争なのだ……完全な勝ち目はない、殺るか殺られるか、という対照性すらない……相手が巨大すぎるので(それは民意に支えられたもの、すなわちわれわれそのものだから)、いかに回避して低い程度の懲罰で済ませるかしかなく、そのための自由を奪い事態を不利にさせるために任意拘置という名目の強制的監禁がある……親指に否が応でも朱肉を当てられ任意拘置同意書に拇印を捺印させられ、10日ごとに期限が来ればそれがまたくり返される……夏でも冬でも5日おきの入浴、衣類の替えと洗濯は下着も含めて10日おき……カレンダーも時計もない……ベルトと靴紐も取り上げられる……捕まえられた時の格好、トランクスにTシャツ、ジーンズのパンツで夜も昼も過ごす……毛布はじゅうたんみたいにごわごわして、タグを見ると20年前の日付が書いてある……食事のトレイは足もとの横長の小窓から出し入れされて、三度の食事以外に時間の感覚がない……空間の感覚もおかしくなっている……自由に出入りもできず好きな気晴らしもできないと……一応図書はあるが、牢獄の蔵書に推理小説ばかりとは笑わせる……空間の感覚、日常生活では正常な遠近感を喪失していくのがわかる……ついこの間まで毎日普通に会話していたのだが、監禁されてからは定時の点呼以外には一日じゅうひと言もしゃべらない毎日が続く……3036番、ここでは番号が名前の替わりに与えられる……取り調べ室への移動にも手錠と腰縄で拘束される……これが人が人にすることか?……これらすべてを容認しているのはわれわれ自身なのだ……経験してみるがいい。


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 お客さんが減ってから客の質も悪くなったわ、とキャシーがぼやきました。さっきなんか女ひとりに男ふたりの3人組みのお客さんだったんだけど、〓〓〓〓なんか帰化させるな、帰化〓〓〓は恥も仁義も知らない野蛮人で八百万の神を畏れないから事件を起こす、あいつらの蛮行がこれ以上ないように身を清めて着物で神社に参拝してきた、だってさ。古式ゆかしく信仰篤い日本人は大昔から大陸の文化を敬っていたはずでしょう?大らかな八百万の神がおわして、日常的に謙虚に参拝するくらいの人なら、隣国からの帰化人を〓〓〓〓だとか帰化〓〓〓呼ばわりして、恥も仁義も知らない劣等民族なんて決めつけるようなはしたないことはしないわ。こないだデイジーが言ってた……
 ああ、共産主義ユダヤ人陰謀説ね、とミミィが受け、あれは私が相手したお客さんよ。そのお客さんの説だと共産主義は全世界のユダヤ人支配のための陰謀だったんですって。ナチ政権がユダヤ民族のホロコーストに取り組んでいたのとまったく同じ論拠よね。デイジーが聞いた話っていうのは……
 ジョン・レノンはFBIによって偽装策殺された(笑)……真面目な顔でそう言われてもねえ、どうしたらいいっていうのよ。世界は陰謀と人種抗争に満ちている、というのが酔っ払いの思考パターンなのかしら。酔っ払うと普段は用心して塗装している差別意識固定観念になっている疑念がだだ漏れしてしまうのかしら。何にしろ、主張する内容が荒唐無稽なのは知性の欠如で済むことだけれど、それを主張する本人に誠意や主張の一貫性が欠けている。ただの思いつきだけで、発言に責任感がない。そうなるとますます手に負えない、としか言いようがない。私たちはそうですねえ、そうなんですか、勉強になりましたぁとフンフン聞き流してお客さんを悦に入らせるのが仕事なんだから。
 それにしてもいまだに〓〓〓〓だとか〓〓〓とか〓〓〓とか、本心から蔑称のつもりで、憎悪と悪意をこめて口にする人がいるのね……私たちはどこの国でも愛されているのに、とミミィがつぶやくと、劣等感の裏返し、それと品格と教養のなさ、要するに馬鹿なのよ。でも馬鹿のご機嫌取ってなんぼの私たちには批判的なことは言えた資格はないわ。せめて本心まで汚染されないように馬鹿を見抜くだけの観察力と教養がなくては。これは自分たち自身を守るために必要なことよ。劣等民族と口にするような劣等人種からね。


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 行進曲はぴたりと止みました。あれはなんじゃい?とジョースターさんがマイメロディに訊くと、マイメロはさあ、と困った顔になりました。ちょうど食器を下げに通りかかったメラニーが、軍楽隊がたまにああしているんですよ、この子は入ったばかりの新人なのでよく知らなくてすいません、と替わりに答えました。一応答えはしましたが、メラニーのおざなりの回答はかえってジョータロー一行の疑念を深めました。ここは今休戦中なわけだろ、とポルナレフ、じゃあ今この地帯を統治しているのはどこの国なんだ?で、あの軍楽隊はどこの国の軍隊だ?普通に考えれば、とアヴドゥル、古典的な戦争では植民地化や領土拡張、資源奪取というのが主な目的になる。ここは本来自治区としてどこかしらの大国と同盟を結んでいて、大国どうしの争いでそれまでの政情が大きく崩れた。大国Aの衛星国から大国Bの衛星国に、またはまったくの独立国化に対して大国Bから干渉を受け、それを大国Aが妨害しようとする場合もあるだろう。この地帯ではどうなのかね、マイメロディさん?
 マイメロは困って近くに替わって答えてくれる先輩はいないかきょろきょろしましたが、メラニーはさっきのひと言だけでとっくにムーミン谷ご一行さまの接客についてしまい、アギーやバーバラもふたば幼稚園ひまわり組やパインクレスト小学生たちを相手におおわらわでした。マイメロディはこのお店をスパイするためにアルバイトに入ったので、接客のノウハウどころかここがどういうお店かも知らずにハローキティたちに送り込まれたのです。もしマイメロディに接客の心得があったとしても、ムーミン谷の人たちやチャーリー・ブラウンたち、ひまわり組の幼稚園児たちならまだしもジョースターさんたちをお相手するのは手にあまることでした。マイメロはずきんの中が冷や汗でびっしょりになりました。あの、とマイメロはメニューを広げて、こちらもお薦めになっていますが召し上がりませんか?
 トンビのズンドコ揚げとボンジリのパッパラ炒めを人数分のホッピーと追加注文すると、しかしそれは古典的概念の戦争でのことですよね、と花京院。うむ、とジョースターさん、われわれが追っている相手には、従来の価値観では予測できない目論見があるかもしれん。それを忘れてはいかん。
 それはどんなものでしょう?予測できないからわしにもわからん。やれやれだぜ、とジョータローは言いました。
 第六章完。


(五部作『偽ムーミン谷のレストラン』第三部・初出2015年4月~8月、全八章・80回完結)
(お借りした画像と本文は全然関係ありません)