『レミー・コーション / 毒の影』La mome vert-de-gris (Pathe Cinema'53.5.27)*93min, B/W : 日本未公開、映像ソフト発売
◎監督:ベルナール・ボルドリー(1924-1978)
◎主演:エディ・コンスタンティーヌ、ドミニク・ウィルムス、ハワード・ヴァーノン
○パリ警察から、ある殺人事件とその背景に潜む金塊輸送事件の捜査を依頼されたFBI。カサブランカを訪れた捜査官レミー・コーションは、事件の鍵を握る謎の美女カルロッタに近づくが……。
○解説(キネマ旬報映画データベースより) ベルナール・ボリドリー監督がピーター・チェイニーのベストセラー小説を映画化したハードボイルドアクション。FBIの腕利き捜査官、レミー・コーションは、犯罪組織に強奪された金塊を取り戻すため、モロッコのカサブランカに派遣されるが…。【スタッフ&キャスト】監督:ベルナール・ボリドリー 原作:ピーター・チェイニー 出演:エディ・コンスタンティーヌ/ドミニク・ウィルムス/ハワード・ヴァノン
――まず本作は舞台はカサブランカで、登場人物は西洋人と現地人ばかりであり、フランス映画と言えども一応本場ものなのが日活無国籍アクションと差をつけます。金塊密輸組織の潜入調査をしていた捜査官が消息を絶ち、FBIの捜査官レミー・コーション(エディ・コンスタンティーヌ)がダラス警察の刑事ペリー・チャールズ・ライスの偽名で金塊密輸組織の存在など知らないふりをして行方不明者を捜すためにカサブランカで捜査を始めるのですが、賭博場を兼ねたナイトクラブでどうも複数の組織が抗争しているらしい。主人公はナイトクラブのボス(ハワード・ヴァーノン)とクラブのダンサー兼歌姫カルロッタ(ドミニク・ウィルムス)から情報を訊き出そうとしますが、先に潜入捜査していた捜査官は死体で発見され、第2・第3の殺人が起こる。よく観ればわかるのかもしれませんが、これらの殺人の真犯人(実行犯)は話が進んでもよくわからず、結局真相はナイトクラブのボスが複数の金塊密輸組織の敵対関係を激化させておいて壊滅状態に追いやり、自分がちゃっかり金塊を戴こうという陰謀だったのがわかってくる。カルロッタはその陰謀の捨て駒で弟を殺されており、弟の復讐のためにナイトクラブに勤めていたことがわかり、危機一髪でコーションの味方につきます。ナイトクラブのボスとの対決になり、建物の屋根に逃れたコーションとカルロッタを追うボスは屋根から転落して死にます。コーションはカルロッタに愛を打ち明け、屋根の上でキスして抱擁しあう二人をカサブランカ市街の全景にロングでとらえて映画は終わります。結局いろんな事件は細部の解明がされないまま全容の大雑把な判明だけで決着がついてしまうので、93分は長くて80分未満でも良かろうと思われるような大味な作品で、007映画のプロトタイプとしてもあまりにアメリカのB級映画のそのままの模倣のような映画ですが、今どきのマンガにもおよばないようなこのアクション映画が当時のフランスでは大ヒット作になったので、国産映画でこの種の映画がよほど新鮮だったのでしょう。ドイツ資本の大手映画社パテ作品ですから日本でも検討はされたはずですが、こんな映画ならアメリカ映画にもっといい映画が公開しきれないほどある、日本の娯楽映画の水準にもおよばないと日本公開を見送られたと思われるのはもっともな話で、傑作『アルファヴィル』にキャラクターと俳優を提供したという功績がなければかつてのフランスのローカル・ヒット・シリーズのまま忘れ去られても仕方のない作品です。それでもこうやって実物を観ることができるのはありがたく、さして取り柄のない凡作とはいえ凡作だって映画には違いないではありませんか。しかもこれが大ヒット作というのですから、映画が身近で観客が大らかだった時代を感じさせてくれるだけでも憎めない気がしてきます。
●6月29日(土)
『この手紙を読むときは』Quand tu liras cette lettre (Daunia=Jad Films=Lux Film=S.G.C.=Titanus'53.7.26)*104min, B/W : 日本未公開、映像ソフト初発売
◎監督:ジャン=ピエール・メルヴィル(1917-1963)
◎主演:フィリップ・ ルメール ジュリエット・グレコ、イヴォンヌ・サンソン
○修道院で暮らしていたテレーズは、母親が亡くなり残された店と妹ドゥニーズの世話をするために一般人となった。ある日、ドゥニーズが密かに恋心を抱いていたマックスに強姦され、ショックで自殺を図り……。
○あらすじ(英仏語版ウィキペディアより) 修道院で暮らす若いテレーズ・ヴォワーズ(ジュリエット・グレコ)は正式な修道女就任前に両親が交通事故で亡くなったため、妹のドゥニーズ(イレーヌ・ギャルター)の世話と家業の文具店の経営のために実家に戻ります。テレーズは無垢なドゥニーズを寵愛しており、妹が若いアマチュアボクサーのガレージ整備士マックス・トリヴェ(フィリップ・ ルメール)と交際を始めたのを心配します。マックスは色欲と金目当てにナイトクラブの女たちと次々と関係している、自己中心的かつ打算的で不道徳な流れ者です。マックスはまた、富豪のイレーヌ・フォジュレ(イヴォンヌ・サンソン)夫人に取り入ろうとしており、フォジュレ夫人の住むホテル「カールトン」のボーイであるビケ(ダニエル・コーシー)と内通して詐欺の共犯を企みます。整備士をクビになったマックスは夫人に気に入られ、夫人の運転手兼愛人になります。 マックスの素性を知らないドゥニーズはマックスに夢中ですが、配達に訪ねたホテルで偶然に出会って部屋に連れこまれ、ドゥニーズはマックスに強姦されます。取り乱したドゥニーズは帰宅後「この手紙を読むときは……」と遺書を書き置きし、遊覧船から投身して溺死自殺を図りますが、間一髪で救助されます。一方マックスはフォジュレ夫人からの詐欺の分け前を執拗にビケに要求され、ビケが豪遊のため勝手に使うはずだったフォジュレ夫人の高級車のブレーキに細工しますが、マックスの留守中に急用ができたフォジュレ夫人が車に乗りブレーキ故障のため事故死します。容疑を恐れたビケは国外へ逃亡しますが、ドゥニーズが回復した後、テレーズはマックスをフォジュレ夫人の自動車事故死の容疑者と脅かしてドゥニーズと結婚するように迫ります。テレーズはマックスとドゥニーズを教会で婚約させます。ドゥニーズは楽観的に将来を期待していますが、テレーズはマックスを軽蔑し疑いつづけています。マックスはテレーズへの誘惑を試み本当はマックスを恋しているだろうと迫り、テレーズは否定しますがマックスは執拗にテレーズを誘惑します。マックスはビケからの手紙で共犯者ビケがマックスの秘密を握ったままタンジェに逃亡し、新たな詐欺仕事のためにブラジルで合流するよう脅迫されます。マックスはドゥニーズの持参金とテレーズのパスポートを盗みテレーズに一緒に逃げるように強要します。マックスはテレーズとともにマルセイユ行きの列車に乗ろうと計画し、修道院に戻ろうと乗車していたテレーズが先に乗車したのを自分との逃避行の承諾と勘違いし、次の停車駅でテレーズに呼びかけようとして線路に飛び出して事故で轢死します。マックスの死を知ったテレーズは事態の決着を知り、修道女になるためにそのまま修道院に戻ります。
――と、まあ身も蓋もない話なのですが、ヒロインのテレーズを演じるジュリエット・グレコがきつい容貌で女優としてはまだまだ未熟なため演技にまるで表情がなく、それがかえって心底ルメールを嫌っているのか、自惚れの強いルメールが妹よりお前の方が俺に惚れているんだろうと迫るのを言葉では否定しながらまんざらでもなくルメールに惹かれていく様子もあるのか、棒立ち棒読みの演技なのではっきりしないだけに微妙なニュアンスを生んでいる。行動の上ではきっぱりルメールの誘いを拒んでいるのですが、メルヴィルはグレコの演技力も計算に入れた演出と筋運びにしており、優柔不断に見えるグレコを自惚れの強いルメールが誘惑が成功したと思わせる説得力がある。映画の結末は話としては出来すぎていますし唐突なのですが、ルメールのような男ならさもあらんという軽率な自業自得の事故死で、妹の方は強姦されても婚約できれば喜ぶといった具合にルメールにぞっこんなのですが強姦された直後には自殺を図ってもいますから、姉妹ともにルメールの存在は疫病神以外の何者でもありません。ルメールの死をもって映画はハッピーエンドを迎えるとはいえ結局いい事など何もなかったので、映画は振り出しに戻るのですが、悲劇でもなく喜劇でもない不思議なドラマを観た印象が残る。映画全体ではルメール演じる身勝手で貪欲で打算的な卑劣な青年マックスの視点で大半の場面が進みますが、感情移入どころかまったく観客の共感を呼ばない男性主人公が視点人物であるため、観客は決して共感してはいないのに騙される世間の男や女どもの方が悪いという男性主人公の視点から登場人物たちを見てしまうのです。ヒロインのジュリエット・グレコを視点人物にしてしまうとルメール演じるマックスの正体がなかなかつかめない、それこそサスペンス・ミステリー映画的な作りになってしまう上に、グレコの演技力では視点人物にするほどの明確なキャラクター造型ができず、またミステリー映画的でなくうさんくさく浅ましい人物の側から描いた映画にしたかったというのがメルヴィルの意図だったのでしょう。こうした指向はメルヴィルの前2作『海の沈黙』『恐るべき子供たち』にはなかったもので、本作の成果がより辛辣な次作以降の作風につながっていったのがわかります。女優としては素人同様のグレコの起用はブレッソンの職業俳優の排除まで徹底しておらず、効果もブレッソンの映画とは違いますが、本作でのグレコは人間的魅力皆無なのが映画を魅力的にしている不思議な存在感があり、この嫌な映画が大ヒットしたのは数年後の日本の太陽族映画のヒットと似たような厭らしさに面白さがあったからではないかと思えます。ともあれ本作は'50年代フランス映画の知られざる秀作としてメルヴィルの映画のファンのみならずお薦めできる逸品です。
●6月30日(日)
『嘆きのテレーズ』Therese Raquin (Paris Film Productions-Lux Film'53.11.6)*103min, B/W : 日本公開昭和29年('54年)4月20日 : ヴェネツィア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞 : キネマ旬報ベストテン1位
◎監督:マルセル・カルネ(1906-1996)
◎主演:シモーヌ・シニョレ、ラフ・ヴァローネ、シルヴィー
○人妻のテレーズは恋に落ちた運転手と一緒に、病弱な夫の殺害を実行する。警察によるテレーズに対する厳しい尋問はあったが、夫の死は事故として扱われた。完全犯罪が成立するかに見えたが……。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より)「愛人ジュリエット」のマルセル・カルネが一九五二年に監督した作品で、昨年ヴェニス映画祭に出品され、銀獅子賞を獲得した。原作はエミール・ゾラの『テレーズ・ラカン』。カルネと「裁きは終わりぬ」のシャルル・スパークが脚色し、スパークが台詞を担当した。撮影は「七つの大罪」のロジェ・ユベール、音楽は「めぐりあい」のモーリス・ティリエ。シモーヌ・シニョレ(「肉体の冠」)のテレーズを中心に、「オリーヴの下に平和はない」のラフ・ヴァローネ、「巴里の空の下セーヌは流れる」のシルヴィー、「肉体の冠」のローラン・ルザッフル、舞台出のジャク・デュビイらが共演。
○あらすじ(同上) リヨンの裏町でラカン生地店の主婦になったテレーズ(シモーヌ・シニョレ)は、病弱なくせに傲慢な夫カミイユ(ジャク・デュビイ)、息子を溺愛するだけの姑ラカン夫人(シルヴィー)にはさまれて、冷たく暗い毎日を送っていた。貨物駅に勤めるカミイユは或日イタリア人のトラック運転手ローラン(ラフ・ヴァローネ)と知り合い、意気投合して家に連れて来た。逞ましく若々しいこの男の魅力にテレーズはみるみる惹かれ、ローランもまた彼女を思いつめて駆落ちを迫るに至った。危険な、あわただしい逢びきが重なり、二人はカミイユに真相をつげて離婚を承諾させよぅとしたが、夫は哀願と脅迫をくりかえして妻をパリの親類に閉じこめてしまおうと図った。その旅行の途次、あとを追ったローランがテレーズと車中で密会している現場にカミイユが現れた。二人の男は女を中に争い、ついにローランはカミイユをデッキから突落した。きびしい警察の訊問の間、テレーズは勿論口を割りはしなかったが、たえず彼女の脳裡を襲うのは惨死体となった夫の姿であり、息子の死以来全身不髄となってただ彼女を睨むだけのラカン夫人の眼であった。もはやローランの抱擁さえ、テレーズから死人の面影を消すわけにはゆかず、二人ば絶交状態におちた。一方、事件の夜、列車で夫婦と同室だった復員水兵(ローラン・ルザッフル)がいたが、彼は新聞でテレーズの住所を知ると同時にあの夜の記憶を呼びおこし、事業資金獲得と称して五十万フランの口止料を彼女に要求した。テレーズにはローラン以外頼る男はない。再び結びついた二人は折よく鉄道会社からおりた弔慰金を水兵に渡して国外に逃げようと計画した。しかしその金を二人から受取った瞬間、水兵はトラックに轢かれて即死した。その臨終を看とったローランもテレーズも、この時、かねての用意に水兵が検事への密告状をホテルの女中に托していたことは知らなかったのである。
――落ち着いたテンポながら冗長さを感じさせず、カルネの戦後作にあったいかにも戦後映画らしい世相風俗または超時代的ファンタジー(前作『愛人ジュリエット』'51)を描こうという無理もなく、かねてから丁寧な作りで定評のあったカルネらしい良さが戻ってきたような感じが本作にはあり、凄みの効いた演技になりがちなシモーヌ・シニョレの演技も抑制が効いていて、本作を高く買う評者が多いのもうなずけます。登場人物を最小限に絞ったのも効果を上げています。しかし映画の後半は原作小説とまったく異なる展開になり、ほとんどオリジナル脚本に置き換えたと言ってよいもので、これが必ずしも成功しているようには見えない。原作同様テレーズの亡夫の母のラカン夫人(フランス映画の婆さん役の第一人者シルヴィー)は口も利けない全身不随になりますが、原作小説ではテレーズとローランの愛情は後悔と被害妄想と罪悪感と自己憐憫に疲労し、いさかいを重ねるごとに徐々に生きていくことへの無関心に陥り、次第に憎悪に高まっていく。殺意にまで達した憎悪を確認しあった二人は無気力になり、ほとんど引きずりこまれるように服毒心中して果て、訪ねてくる人もない部屋で全身不随のラカン夫人がテレーズとローランの死体を見つめているのが小説の結末です。脅迫者が登場してサスペンス展開になるというような話ではなく、不倫・姦通のすえの夫殺しのあとで愛情が腐敗していく過程をじっくり描いているので、ゾラが描きたかったのはそこにあり、ゾラ原作のルノワールの映画『獣人』は同じような不倫・姦通話でありながら殺人以降の姦通関係の破綻の過程を描いて原作に忠実でもすごい映画になっていました。一般的には本作のカルネ&スパークの脚色による改変は原作通りでは映画では退屈だから工夫を凝らしたということになるでしょう。すると亡夫の母のラカン夫人の全身不随は脅迫者の登場以降はどうでもよくなり、この映画でも夫殺しのあとテレーズとローランの愛はいったん覚めてしまうのですが、脅迫者の登場で危機意識から再燃することになる。このあと老夫人はまったく映画に現れなくなるので、実際不必要な人物だから描かれなくなるのですが、原作小説ではテレーズとローランは常に唖者でもあれば全身不随の安楽椅子に座りっ放しの老夫人の視線を感じながら自滅していくので、読者がこのカップルの破滅の過程を追うのは全身不随の老夫人の視点からと言っていい。ゾラの小説が暴露的・露悪的なものではなく(原作小説は新聞の三面記事を題材に書かれたものでしたが)現実に即して夢幻的な眩暈感を感じさせるのはそうした力で、生ける屍のようになった人物の視点から破滅していく恋人たちの姿が描かれるというとんでもない想像力で、自然主義映画と言える『愛慾』(これはゾラ原作ではありませんが)や『獣人』もそうした現実と現実からの乖離感をともに描いていた。本作『嘆きのテレーズ』では後半は脅迫サスペンスになってしまって、脅迫サスペンスの次元のリアリティに映画がすり変わってしまう。前半と後半は別の映画になっていて、後半は後半で小ぶりにまとまっているだけに映画全体は単純な情痴脅迫犯罪サスペンス・メロドラマに収まってしまった観が否めません。103分の映画なのに80分もない小品に見えてくる。そういう映画としてはよくできた佳作でしょうが、だったらゾラの『テレーズ・ラカン』原作じゃなくて最初からオリジナル脚本でもいいんじゃなかったかと思えてくるのです。