人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

七ひき目の小やぎが助かったわけ(後編)

(19世紀末のドイツ版グリム童話本挿絵より)
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 前回の前編で引用した節までにほぼ、詩人・谷川雁によるグリム童話「おおかみと七ひきの小やぎ」についての1980年代初頭の考察エッセイ「時間の城にかくれた小やぎ」は、結論にまでたどり着いています。あとに続く後段の段落は補足のようなものですが、このエッセイ自体が現在はあまり手軽に読めるものではないので、最後までご紹介しておきましょう。「七ひき目の小やぎが助かったわけ」について、それは七ひき目の小やぎ「ピイプ」が日曜日の小やぎであり、しかも隠れたのが「時間の城」である時計だったからとする谷川雁の説は、お手数ですが前回に載せたエッセイ前半2/3分の引用文をご参観ください。

「これが〈ピイプはなぜ時計にかくれたか〉という問への私の解答ですが、何点ぐらいもらえたでしょうか。それにつけくわえたいことがもうすこしあります。絶望のなみだにかきくれた母やぎにピイプがそっと声をかけたとき、むろんかしこいピイプはおおかみにきこえるかもしれないような大声は出しませんが、時計がぼん、ぼん、ぼんと三時をうちました。お茶の時間でした」

 しかしこの時計の鐘は谷川雁の推定で、次の段落で「実は、ここも原作でははっきりしません」と明かしています。時計が鐘を打ったので母やぎが時計を調べて小やぎに気づいた、という記述にはなっているらしいのですが、谷川雁がそれを三時の鐘と考えたのは、文中におおかみが小やぎたちを軽い夕食(supper)のつもりで食べたとあり、つまり間食程度の時間帯であって晩ではなかったこと。また、何より七ひき目の小やぎ「ピイプ」(これも谷川雁による仮の命名です)が時計と一体化したことでおおかみの眼から逃れたとすれば、おおかみから逃れた時計はその時「ピイプの気持に寄りそって」、小やぎのいちばん好きな時間、つまり家族団欒を楽しむ日曜のおやつの時間を打ったのではないか。

「その瞬間、悲しみの峯がほんの少し崩れ、そのすきまから晩秋の日ざしがさしこみます。こどもたちにあまり長く緊張をつづけさせたくない、だがいっぺんに緩和するのでなく、ほんのりとした推移の中でそれを行いたい再話者の意図を察していただきたいのです」

 再話者とはもちろんグリム童話を俎上にのせた谷川雁自身のことです。次の最終段落はまるごと引用しておきましょう。

「でも、論客はこどもにもおおぜいいます。〈じゃ時計のまだなかった昔は〉と別の子が言うかもしれません、〈このお話はなかったの〉。十二時をうつ大時計がなければシンデレラの話はありえないか。そんなことはないでしょうね。時計にかわる鐘とかラッパとかがありますから。しかし、この話ではどうでしょうか。時計がなかった頃のこの物語の古形は、欲ばって食べたこどもの重みでおおかみが水におっこちたり、食べられたこどもがおなかの中で石に変ったりしたようです。いずれにせよ七番目の小やぎの活躍は、時計の出現とともにはじまったと思われます。」

 さて、前回とあわせて考察エッセイ全編をご紹介しましたが、難解で攻撃的なイメージが強い詩人・批評家の谷川雁が、児童教育者としては平易な文体を心がけ、しかし子どもの想像力をあなどらずに、妥協せず真摯に伝承童話の文化的解明を行い、子どもの想像力の開拓に教育者としての手応えをつかもうとしている姿勢がよく表れた好エッセイだと思います。

 しかし、谷川雁の論法自体はかつての政治活動家時代の強引な発想とつながるのが、この平易なエッセイにすら見られるので、かつて谷川雁は自分の論法を「断言肯定命題」と称していました。同時代の戦後詩人・鮎川信夫(1920-1986)が谷川雁に対して「戦後版の日本浪漫派」と揶揄的に批判的距離をとっていたのはその強引さに対してであり、このエッセイは好編ですが仮定に仮定を重ねることで論法が成り立っています。七ひき目の小やぎを日曜日、とするのも仮定なら、そこから次々と導き出される解釈もすべて仮定の上に成り立っている観が否めません。全体を最初の仮定によるムードに統一したことから説得力はあっても、それは解釈のムード的統一感の次元にある説得力であって、確かな論理性とは別物です。「断言肯定命題」という発想が、谷川雁では反体制政治活動家=批評家から啓蒙的な児童教育者としての転身にいたっても引き継がれている、と見られるのはその点にあり、向きあった対象や読者が政治運動家や学生たちから子どもたち、児童へと移っただけ、ともとれます。

 谷川雁(1923-1995)は30代半ばで詩作を辞めて全詩集を刊行し(全詩集のあとがきで「私のなかにあった<瞬間の王>は死んだ」と述べています)、政治活動家=批評家に専心したのち40代前半で執筆活動そのものを辞め、さらに児童教育者に転身して50代終わりに文筆発表を再開、60代で25年ぶりの詩集を刊行し、晩年までエッセイストとして活動した人ですが、最後にご紹介する第1詩集の巻頭詩からこのエッセイまでそうした強引さが谷川雁の発想の原点にあり、谷川雁の政治活動批評集のタイトルに『原点が存在する』というのもあります。しかし普遍的な原点など存在し得るのか。断言肯定命題という発想そのものに虚構はないか。仮定の上に成り立つ仮定の累積を英語では「Spanish Castle(スペインの城、スペイン貴族は皆な領地に城を持っていると虚勢を張る)」や「Castles Made of Sand」、和訳すれば空中楼閣や砂のお城ですが、レトリックによって看破される真実性とはレトリックの中でしか真実ではなく(鮎川信夫が「戦後版の日本浪漫派」と批判したゆえんです)、谷川雁はあまりにレトリックの強度、強引さにのみ足場を置きすぎていたように思われてもきます。


(全詩集『定本 谷川雁詩集』潮出版社・昭和53年=1978年2月刊、国文社・初版『谷川雁詩集』昭和35年=1960年1月刊)
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商 人   谷 川 雁

おれは大地の商人になろう
きのこを売ろう あくまでにがい茶を
色のひとつ足らぬ虹を

夕暮れにむずがゆくなる草を
わびしいたてがみを ひずめの青を
蜘蛛の巣を そいつらみんなで

狂った麦を買おう
古びておおきな共和国をひとつ
それがおれの不幸の全部なら

つめたい時間を荷造りしろ
ひかりは桝に入れるのだ

さて おれの帳面は森にある
岩蔭にらんぼうな数学が死んでいて

なんとまあ下界いちめんの贋金は
この真昼にも錆びやすいことだ

(第1詩集『大地の商人』母音社・昭和29年=1954年11月刊より)