人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

小野十三郎詩集『半分開いた窓』大正15年(1926年)より

[ 小野十三郎(1903-1996)、大正15年=1926年、第1詩集『半分開いた窓』刊行の頃、23歳。]
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第1詩集『半分開いた窓』(私家版)
大正15年(1926年)11月3日・太平洋詩人協会刊
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 「林」

秋になつて
郊外の林の中へ入つて行つた
林の中でみたものが魚の骨
林の中から丘の方をみると
あゝあゝたくさんの子供が赤青黒白で
赤青黒白が黄色い顔をちらちらさしてゐた


 「盗む」

街道沿の畑の中で
葉鶏頭を盗もうと思つた
葉鶏頭はたやすくもへし折られた
ぽきりとまことに気持のいゝ音渡ともに
――そしてしづかな貞淑な秋の陽がみちていた
盗人め! とどなるものもない
ぼくはむしろその声が聞きたかつたのだ
もしその時誰かが叫んでくれたら
ぼくはどんなに滑稽に愉快に
頭に葉鶏頭をふりかざして
晩秋の一条街道をかけ出すことができただろう
しかしあまりたやすく平凡に暢気に
当然すぎる位つまらなく盗んだ葉鶏頭を
ぼくはいま無雑作に
この橋の上から投げ捨てるだらう


 「街道にて」

田舎の街道を行つたときに
ぼくは電柱を数えてゐた
一本でも数え損ねないやうにと
おちつかない散歩をつづけて行つた
そして二里ばかりきたときに
そんなにはつきりしてゐた総計が
ふいと頭脳から消えて失つた
しかし電柱はずーとはるかに
街道に添ふて地平線にうすくつづいてゐた
ぼくは不気味な電柱の誘惑に圧倒されて
ついに苦しくなつた
そして田舎の悪臭に一層ものうくされたとき
すこしでも郊外にあこがれて出てきたぼくがなさけなかつた
遠い畑のはてで
玩具の電車が動いた。


 「十一月」

ぼくが畑にゐると
大きな爆音がして
赤塗の自動車が街道をまつしぐらにかけて行つた
小さな黒点となつて消えたくらゐに迅い
風がまひたつて家屋はしんがゐした
畑の菊は落ちた
崖はくづれ
橋はおち
工場はやぶれ煙突もへし折れた
太陽がずるりと西方にひきづられた
十一月の午後のひなかのことである
ぼくは発狂しないやうにとつとめたが
最後に
どんなたいどで
ぼくはぼくの晩秋と
その場に来合した一人の野良女にむかわねばならなかつたか


 「無蓋貨車」

ぼくのあたまの中に
赤土を搬ぶ無蓋貨車がとまつてゐる
一台
気鑵車なんか忘れてしまつて


 「この秋」

女の悲鳴がする
枯蘆の中から

――さうかしら
静かだ


 「大砲」

雑木林のかなたで
大砲が鳴つた
殷々秋の空にひびきわたつた


 「菊」

秋の陽ざしに光るのは
黄色い菊です
季節を去るころ
因襲的に無気力に
大きなのや小さなのが
あちこちに
ぎらぎらと ぎらぎらと 無数にきらめく
顔にまで映えわたる
菊 菊
菊には幻がない
つゝましやかなただそれきりの花である
ぜんりやうに身をまもる人のやうである
菊がぼくをみてゐる
顔を外らしても菊
眼をつむつても菊
十月のものうさは
たまらなくみぢめなものだ。


 「風船と機関車」

隣の庭をみつめてゐる
小春日和
池の中の金魚が光る
ひそやかな縁側に
いまゼンマヰ仕掛の機関車がスタートを切るところ
そして西洋花卉の中から
いつのまにか奇声をたてゝ
ふくらみはじめた風船がある
しだいに大きくなつてゆく球形に
きれぎれの物象がするどく光る
池も 花も 青空も
俺らしいちつぽけな顔も
暖日の無風帯である
つかれきつたぼくの眼一ぱいに
ふくらみきつた風船の赤のおそろしさ
指を切るゼンマヰの強靭が身にせまる
陽の中の庭園にすら
見よ危険のせまつた情熱があるぢゃないか


 「倦怠」

陽の中からぬっと出た女の白い踵
夾竹桃の葉の上に狂ってゐる大きな蛾
その蛾のはばたき
黄金の粉がちる空間が晴れてゐる
ポッと硫黄のやうに湧いた痴呆症
午後三時の庭園だ

女の踵よ 大きな蛾よ
きみらの魅力すら
いまは たいくつだ
グワン! と照れ 太陽。


 「畑の欠呻」

赤と黄の畑の中で
若い農夫のものうさは
さんらんと むらさきの麝香をただよはす
うらゝかにたちのぼる土いきれ
にぶい接吻がねばりつく
肉色にねばりつく
いま
この明るい畑の一方におこつた欠呻の肉感が
まぶしい世界をだきすくめ
世界のまひるを抹殺した。


 「中空の断層」

ぼくのゆく街道の前方の空で
大きな断層が光つた
丘のやうな円みもない
また懸崖と云つた風景じみた感じでもない
樹一本 草一本ない
地盤の赤むけのやうに
鋭くそがれて
中空にギザリとすべりおちた赤土層だ
あゝ それはちよつと計りしれない高さだ

――オヤッとぼくがゆきどまつてゐる
おい、皆もみえるか
すばらしいのがみえるか
駄目?
ではせめてあれを凝めてゐるぼくの輝かな眼をみろ
おい、皆、ぼくの眼つ玉をぢつと視るんだ

東京市が一斉に汽笛を鳴らしてるじやないか


 「急止」

青光るリノリユームの空に
赤蜻蛉がはりつけにされて
もはやその翅はぴりともしないとき

その瞬間だ
生物が千種百態の姿勢のまゝで
活動がきかなくなつてゐた
恋人を眼の前にすえて
しかも最初の接吻をしない男
なんだい そのおどけた格好は


 「白昼」

青空に風船がただよふてゐた
それを知つてゐるのはぼくだけだ
誰ひとり気のつくものはない
通りがかりの人をつかまえて
空を指しても
見えないよとどなつて相手にもならない
高い樹の間の空に
ちよつぴりさつきの風船が見えてゐる

赤い風船が浮いてゐる
皆んなはほんたうに見えないのか
それとも問題にしないのか
馬鹿野郎! どちらだ。


 「野の楽隊」

ケームリモミエズ…………クモモナク
太鼓ばかり嫌にひびかせて
四五人の赤い楽隊が街道を行く
はしやいだ子供や犬なんかも行く
街道に沿ふた細いあぜみちでは
カーキの軍服をてらてらさした在郷軍人
口笛で合奏しながら歩いてゐる
少し離れた丘の草路をふんで行くのは
ぼくだ
くすくす笑つてゐるぼくだ
あの楽隊を聞いてゐると
なんだかなまあたゝかな情熱が
胸もとにぞくぞくはひあがつてきて
くすぐつたくなる
ぼくはいよいよ笑ひだした
ぼくは自分をどなりつけた
しかしぼくの歩調は
あの太鼓の歌にあつてゐる
いくら乱さう乱さうとしても
いくらもがいてももがいても太鼓につりこまれる
ぼくはついにたまらなくなつて兎のやうに
黄色い草むらにもぐりこんで
長い耳をたゝんだ
そしてまたこんどは
ゲラゲラと笑ひを吐きだした。


 「クライマツクス」

キャッ!…………
うららかに陽の照つた郊外の
黒い畑の畦
静かな だがあまりに間の抜けた午後
因襲的な平凡な光景の
人糞肥料の空気のなかを
ま二つにひきさいた叫び!
悲鳴じやない
ぼくと
ぼくの女によくある例のクライマツクスといふ奴さ


 「レンズの中」

空では
ひばりの奴が光つた
河沿の小径を空ばかりみつめながら
晴衣をつけたうら若い女があるいていたが
あぶないッ! と思ふまに
ざぶりと おつこちた
発狂でもしたやうな顔つきで
ずぶぬれの裾をつまみあげて
やうやく河の中からおきあがつたが
それから…………
ぼくが木橋の上から
双眼鏡でそれを見てゐる
大きな眼をもつたぼくが
笑ひながらむさぼるやうに女の動作を見てゐる
春めいた広汎な風景の中で
やつぱり平々凡々な郊外散策地で
たつた一つこのレンズの中がすこしばかり狂つてゐる
さあそこで
ぼくはこの女をもつともつと笑つてやらう


 「或恐怖」

いくら行つても行つても赤い蘆である
こんな路をゆくのはよくない
陽も落ちさうで弱りました
こんな路をゆくのはよくない
陽も赤けりや路も赤い
ぼくの背中はむずがゆい
みんなが熱病のやうに赤い
頭脳も赤い
呼吸も赤い
嫌な赤さだ
赤いものは赤い
赤いものは赤い
笑つても赤い
こんな路をゆくのはよくない
赤けりや赤くなれ
赤けりや赤くなれ


 「赤い雀」

赤い雀がゐないとたいくつだ
冬のみち

ぼくの頭脳から
白い絹糸のやうなものが二本のびて一本は
すりがらすの空の太陽をひつかけて
もう一本は
ずつとはるかにのびてのびて
遠方でくつせつして
尖で半円を描いて
赤い雀をさがしてゐる


 小野十三郎(明治36年1903年7月27日生~平成8年=1996年10月8日没)の第1詩集『半分開いた窓』'26(大正15年11月・私家版)は163ページに64編の収め、非売品として領布された自費出版詩集で、20歳で詩作を始めた大正12年(1923年)以来23歳までの作品集です。詩集は第一部に比較的短い詩編が43編、第二部に比較的長い詩編が21編収められており、大正15年と言えば前年に八木重吉(1898-1927)が第1詩集『秋の瞳』を公刊し、また三好達治(1900-1964)が第1詩集『測量船』'30(昭和5年)に収められる詩編で商業詩誌にデビューした年でした。この『半分開いた窓』は高橋新吉(1901-1987)の第1詩集『ダダイスト新吉の詩』(大正12年=1923年2刊)の大反響から始まった日本のダダイズムアナーキズム詩の潮流に位置づけられる詩集であり、大正12年萩原朔太郎の『青猫』(1月)、佐藤春夫の『我が一九二三年』(2月)、室生犀星の『青き魚を釣る人』(4月)に代表される大正詩の爛熟の年でもありましたから新旧交替の年にもなりました。金子光晴(1895-1975)の『こがね虫』(7月)、佐藤一英(1899-1979)の『故園の葉』(10月)もこの年です。『ダダイスト新吉の詩』以降の代表的な日本のダダ、または新傾向の詩集は大正13年(1924年)の宮沢賢治(1896-1933)の生前唯一の自費出版詩集『春と修羅』(3月)、草野心平(1903-1988)の『空と電柱』(3月)、竹内勝太郎(1894-1936)の『光の献詞』(7月)、春山行夫(1902-1994)の『月の出る町』(7月)、陶山篤太郎(1895-1941)の『銅牌』(9月)、大正14年(1925年)には北川冬彦(1900-1990)の『三半規管喪失』(1月)、遠地輝武(1901-1967)の『夢と白骨の接吻』(7月)、萩原恭次郎(1899-1938)の『死刑宣告』(10月)、尾形亀之助(1900-1942)の『色ガラスの街』(11月)、大正15年・昭和元年(1926年)には大鹿卓(1898-1959)の『兵隊』(8月)、村野四郎(1901-1975)の『罠』(10月)、小野十三郎(1903-1996)の『半分開いた窓』(11月)、吉田一穂(1898-1973)の『海の聖母』(11月)、北川冬彦の『検温器と花』(10月)が続きました。昭和2年以降にはアナーキズム=新傾向の詩人たちはより理論的なモダニズムコミュニズム、抒情詩に作風を移してしまうので、大正末の数年間は日本の現代詩がもっとも混沌とした可能性の模索期にあった時代と目せます。

 小野十三郎の第1詩集『半分開いた窓』はまさにそうした時代の混沌を反映した詩集で、今回抄出したのは詩集巻頭から20篇ですが、同時期に書かれた八木重吉の『秋の瞳』や三好達治の『測量船』と並べると発想の狭さ、表現の未熟さは歴然としています。高橋新吉の若書きの詩集『ダダイスト新吉の詩』よりもずっと拙い詩集です。普通詩集が編まれる際には巻頭と巻末には自信作を据えるのが一般的ですが、巻頭の20篇がこれではいかにも貧しく、巻頭詩「林」は、尾形亀之助の大正15年の佳作、

 「白に就て」
 尾形亀之助

松林の中には魚の骨が落ちてゐる
(私はそれを三度も見たことがある)

 ――とは偶然の類似としても簡潔さと凝縮度では格段の開きがあります。『半分開いた窓』は小野十三郎が後年「カスだ」「抹殺したい」とまで表明した若気のいたりの詩集なのですが、この未熟な詩集にも良さがあるのは若さを露呈した拙さにも真情があり、あまり豊かでない発想にも若々しい反抗心や自意識への嫌悪感、世界との違和感が率直な文体で表明されていることで、文学や芸術に染まらない健康な青年の感受性による詩であり、文学的な美意識や完成度に積極的に抵抗した態度で書かれた詩集であることです。ここには文学や詩に託してナルシシズムに耽溺した新体詩以来の悪習はなく、まったく従来の詩から切れて何の詩的伝統にも拠らない独立不羈の精神があり、それがこの詩集の若さ、未熟さを補ってあまりある美点になっています。ただしそれはのちの小野十三郎の大成あらばこそとも言えるので、もし『半分開いた窓』しか残さなかった詩人であれば大正末年の珍品で済まされてしまうような出来ばえなのも否定はできません。

(旧稿を改題・手直ししました)