人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

小野十三郎「古い春」「貨物列車」「雀」(『詩集大阪』昭和14年=1939年より)

[ 小野十三郎(1903-1996)、40代前半頃。]
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小野十三郎第4詩集『詩集大阪』
昭和14年(1939年)4月16日発行 定価1円
四六判 87頁 角背フランス装 装幀・菊岡久利
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「古い春」

 小野十三郎

柳が芽をふき
菜種の花が咲き
鶏がゴミ溜を漁つてゐる。
高架線の向ふに淡霞のかかつた山々が見える。
線路に沿ふた煤ぼけた長家の物干台に
鉢植の白梅がつゝましくおかれてゐる。
明け放たれた二階から陽はなゝめに畳に射しこみ
窓際に堆高く積まれた紙函の山の間に
赤ん坊がひとりボロ蒲団からはみ出して眠つてゐる。
立ちならぶ錻力の小煙突。
梁をゆさぶつて終日せつかちに廻転する動力の音。
歯刷子、ハンケチ、タワシ、軍手、一銭玩具
足袋のコハゼや蝙蝠傘の骨たち。
仰ぎみれば
舞ひ上つた炭塵の微粒子は青空の深みにキラキラ光り
古い春はこゝにも還つてゐた。

「貨物列車」

 小野十三郎

頭の上でけたゝましくベルが鳴つてゐる。
とたんに遮断機の白黒だんだらの横棒が顎のところにガタンと墜ちた。
「おい、危ない!止せよ」
でれでれに酔つぱらつて奴さん正体がない。
安焼酎のにほひがぷんと鼻をつく。
仲間の肩に寄りかゝり大声で何ごとかわめきながら片方の腕をやたらに降つてゐる。
カツと夕映える健脳丸の頭蓋骨。
一瞬、轟然たる地響とともにその前を夕暮の貨物列車が通過する。
四、五、六、七八九……
横倒しになつた巨(でか)い材木なども斜めに宙をきつて。

「雀」

 小野十三郎

眼が醒めるとベンチの上に臥ころがつてゐた。
誰だか遠慮会釈もなくドカンと頭の先に尻を据えてやがる。
しやうがねえや、買ひきりじやねえんだから。
おや、もう灯がついてゐる。
ところで何処へゆくあてがあるでなし。
夕暮の黒い木立の中に雀がたくさん潜つて囀つてゐる。
何十羽何百羽かわからない。
ときどきパツと弾き出されたやうに二三羽が飛びたつ。
ここは何処だ……
なあんだ、やつぱりいつもの公園(ここ)じやないか。
畜生!そんなうまい話はないと思つた。
話がよすぎる。
肘枕をしたまゝ眼をしよぼしよぼさせそいつは白い坂のあたりを見廻した。

(『詩集大阪』より3篇)


 今回『詩集大阪』から引いた3篇は前回ご紹介した「北陸海岸」「焚火」「戸籍」に続く詩集の12~14篇目に当たる詩篇で、15篇目に角川文庫版『現代詩人全集』第六巻「現代II」の小野十三郎小詩集に選ばれた「冬の夜の詩」があります。全35篇からなる『詩集大阪』の中盤にさしかかった詩篇がこれらで、「古い春」は「焚火」「戸籍」につづく大阪ミナミの在日朝鮮人住居区域と関連していると思われますが、「貨物列車」は酔った男たちが踏切で立ち止まった情景、「雀」は眠りから醒めた浮浪者を描いた作品で、小野初期のダダイズム的文体を『古き世界の上に』『詩集大阪』の達成を通過して再び試してみたような詩篇です。

 一般に詩人や小説家が独自の文体や手法を確立したあと、初期の習作期の文体に回帰したような作品をものす時は、習作期の文体の再検討によって初期習作に自分が生かし得なかった内容、習作期に書き得なかった題材を再び初期の文体で現在の自分の詩の地点と同様に書き得るかを試したものと考えられます。それは初期習作期にさかのぼった発想の確認の意味も持つので、小野十三郎の場合も「貨物列車」や「雀」ではかつて初期のダダイズム的文体で当時書き得なかったことをやっています。小野の場合それは第1詩集『半分開いた窓』(大正15年=1926年)の文体ですが、第1詩集では小野が対象にしていたのはもっぱら自己の内面的乖離状態か明確な他者への抵抗や批判でした。『古き世界の上に』を経て『詩集大阪』では小野は内省でもなければ単なる抵抗・批判でもなく、対象と自己をもっと融通無碍な感覚でつなげています。「古い春」や「貨物列車」「雀」はさりげない詩篇ですが、詩の質は『詩集大阪』の日常的な立脚点にしっかり根ざしていることで詩集の世界を確かなものにしています。これが叙景詩やダダイズム詩への回帰に終わっていないのはそうした小野の詩的直感力によるものです。