人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

千家元麿「わが児は歩む」(詩集『自分は見た』大正7年=1918年より)

千家元麿(明治21年1888年生~昭和23年=1948年没)
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わが児は歩む

 千家元麿

吾(わ)が児は歩む
大地の上に下ろされて
翅(はね)を切られた鳥のやうに
危く走り逃げて行く
道の向ふには
地球を包んだ空が蒼々として、
底知らず蒼々として日はその上に大波を蹴ちらして居る
風は地の底から涼しく吹いて来る
自分は児供を追つてゆく
道は上がり下り、人は無関係に現われ又消える
明るく、或(あるひ)は暗く
景色は変る。

わが児は歩む
地の上に映つた小さな影に驚き
むやみに足を地から引離そうともち上げて
落ちてゐるものを拾つたり、捨てたり
自分の眼から隠れてしまひたい様に
幸福は足早に逃れて行こうとする
われを知らで、
どこまでも歩いて行く。その足の早さ、幸福の足の早さ。
道の端の蔭を撰んで下駄の歯入れ屋が荷を下ろして居る
わが児はそこに立止まる。
麦藁帽子のかげにゐる年寄りの顔を覗き込み
腰をかゞめて、ものを問ふ
歯入れ屋は、大きな眼鏡をはづして見せ、
気嫌好く乞はれたまゝに鼓をたゝく。
暫くそこでわが児は遊ぶ。

わが児は歩む
あちら、こちらに寄り道して、
翅を切られた鳥のやうに
幸福の足の危ふさ
向ふから屑屋が来る。
いゝ御天気で一杯屑の集つた大きな籠を背負つて来る。
わが児は遠くから待ち受けて居る。
屑屋はびつくりして立止まる。
わが児は晴々見上げて居る。
屑屋は笑つて、あとからついて行く自分に挨拶をする。
『可愛ゆい顔をしてゐる。』と、

郵便配達が自転車で来る、『あぶない』と思ふ間に、
うまく調子をとつて小供の側を、燕のやうにすりぬけて行く
わが児はびつくりして見送つて居る
郵便配達は勢ひよく体を左右に振つて見せ
わざと自転車をよろつかせて
暁方の星のやうに消えてゆく

わが児は歩む。
嬉々として、もう汗だらけになつて。
掴まるまいと大急ぎ
大きな犬が来る。彼よりも背が高い
然しわが児は驚かない、恐がら無い
喜んで見て居る。
笑ひ声を立ゝて犬のうしろについてゆく。

わが児は歩む、
誰にでも親しく挨拶し、関係のある無しに拘らず
通る人には誰にでも笑顔を見せる。
不機嫌な顔をした女や男が通つて
彼の挨拶に気がつかないと
彼は不審相に悲しい顔付をして見送る
がすぐ忘れてしまつて
嬉々として歩んでゆく。幸福の足の危さ。
幾度もつまづき、
ころんでも汚した手を気にし乍(なが)らますます元気に一生懸命にしつかり
歩こうとする。

未だ小学校へ入らない
いたずら盛りの汚ない児供が
メンコを打ち乍ら群れて来る。
忽(たちま)ち彼はその中に取り囲れる。
皆んなから何か質問される
わが児は横肥りの小さな体で真中に一人立つて小さい手をひろげて
小供を見上げて何か告げて居る
小供等は好奇心と親切を露骨に示しメンコを彼に分けてくれる。
何にでも気のつく小供等は彼の特色を発見して叫ぶ
『着物は綺麗だが頭でつかちだ』

かくして尚(なほ)も先へ先へと歩み行く
わが児をとらえて抱き上ぐれば
汗だらけになり、上気して
観念した様に青い眼をぢつと閉じて力がぬける
自分は驚いて幾度も名を呼びあわてゝ木蔭へつれこむそこにはひやひやと
火をさます風が吹いて来て、
彼は疲れ切って眠り入る。
一生懸命に歩き
一生懸命に活動したので、
自分の眼には涙が浮ぶ。

(初出・同人誌「愛の本」大正6年=1917年11月、詩集『自分は見た』より)


 大正時代に華族や名家の子息が創設した同人誌「白樺」は主に小説家・劇作家・画家を生み出しましたが、千家元麿(1888-1948)は「白樺派」唯一の専業詩人として優れた作品を残した人です。「白樺」では武者小路実篤が天衣無縫な詩を書き、有島武郎ウォルト・ホイットマンの詩集『草の葉』の立派な訳詩集を刊行しましたが、生粋に詩人として名を残しているのは千家元麿に尽きると言ってよく、生涯に10冊の詩集、1冊の自伝的長編叙事詩、生前未刊の遺稿詩集1冊の他に大東亜戦争中の翼賛詩集1冊がありますが、翼賛詩集に関しては戦時中の詩人が報国義務として執筆刊行を強いられたものでした。没後に『千家元麿全集』が上下巻でまとめられましたが(昭和39年・40年、彌生書房刊)、二段組500ページの大冊2巻に収録されたのは全詩集・創作(小説・戯曲)・散文(批評・エッセイ・書簡)の1/3程度に過ぎず、完全な全詩集も全集も編まれていないので本格的な評価が進んだ詩人とは言えません。しかし千家元麿が兄事した武者小路実篤が第1詩集『自分は見た』(大正7年=1918年7月・玄文社刊)を「日本一の詩集」と激賞し、「楽園の詩人」と愛して止まなかった千家の資質は明治・大正・昭和三代の日本の現代詩でも珍しいのびのびとした大陸的性格を持ったもので、人道主義・民衆詩派と呼ばれた大正時代の流派の詩の中でも現在なお読むに足りる数少ない詩人のひとりです。この「わが児は歩む」はもう100年以上昔の詩篇ですが、ようやく外を歩けるようになった初めての幼児を連れて散歩する父親の喜びを市井の人々との交流とともに描き、ここに描かれた幼児と市井の人々の姿はさり気ない生活の喜びに満ちていて、大正6年の東京の下町をそのまま伝えてくれる千家元麿の心の美しさがそのまま見事な詩になっています。

 千家元麿は埼玉・静岡・東京知事・司法大臣を歴任した男爵・千家尊福の長男に生まれました。千家尊福明治26年に元旦が祝祭日に指定された時に「一月一日」(「年の始めの例とて……」)を作詞した人でもあります。元麿の母は名門の料亭の一人娘で、尊福の正妻には先に三女がありましたが男子は初めてだったので、庶子として正式に千家尊福長男の籍が与えられました。元麿は芸術家志望の青少年時代を過ごし、もともと父親同士が親友だった武者小路実篤が「白樺」を創刊した後で知遇を得ることになりましたが、「白樺」影響下の同人誌で活動していた元麿は直接の「白樺」同人との交友からそれまでの美術批評や戯曲・小説から詩作に進み、25歳の大正2年(1913年)から詩を発表するようになりました。また同年彫刻家の令嬢と両家の反対を押し切って恋愛結婚し、実家を離れて家庭を持つことになります。大正5年(1916年)には長男が生まれ、この頃から詩集刊行に向けて本格的に詩作に専念するようになりました。大正7年(1918年)1月には父・尊福が逝去し、7月刊行の第1詩集『自分は見た』には「此の初めての詩集を/亡き父に捧ぐ」と献辞があります。元麿は長男でしたが庶子のため家督を継がず、生業に就かなかったので、多作な詩人でしたが生活は折々貧窮し、千家家と夫人の実家からの援助を仰がざるを得なかったことも多々あったようです。夫人と間には次男も設けていましたが、大正11年(1922年)7月には生後2週間で新生児を亡くし、この出産後から夫人の体調が思わしくなくなります。また昭和4年(1929年)には松沢病院(単科の精神病院)に半年間入院し、退院後は10年間一切外出せずに自宅療養を送りました。『千家元麿全集』も千家元麿についての文献もまだ関係者の現存中当時のものばかりなので、私生活の推移については詳細がつまびらかではないのです。

 10冊目にして生前最後の詩集となった『蒼海詩集』の刊行は昭和11年(1936年)で、昭和16年(1941年)には長男が徴兵、昭和17年(1942年)には次男も徴兵され、同年に翼賛詩集『大東亜戦争戦曲』が刊行されています。昭和19年(1944年)2月には長男、この「わが児は歩む」に書かれている愛児がビルマで戦死、千家夫妻は遺骨の到着を待って疎開しましたが、病弱だった夫人は敗戦後半年の昭和21年(1946年)3月に疎開先で逝去しました。同年7月に次男が復員し、父子二人の四畳半生活が1年半続いたあと夫人の逝去から満2年後の昭和23年(1948年)3月、2週間病床に就いたのち、長男と夫人の後を追うように病没しました。享年59歳、晩年に書かれていた未刊詩集『燦花詩集』は昭和40年刊の『千家元麿全集』下巻で初めてまとめられました。この『千家元麿全集』上下巻が詩集・創作(小説・戯曲)・散文(批評・エッセイ・書簡)とも全著作の1/3の選集であり、私生活や故人の不名誉(戦時下のエッセイ、翼賛詩集など)に配慮した編集なのは前記した通りです。戦前には精神科入院があるのは鬱病双極性障害のみでなく統合失調様の病相があったと推定され、昭和期に詩作が激減したのは統合失調から長期の鬱病寛解したと思われますが、年譜や解説では最小限の略述しかないため断定できません。「わが児は歩む」を始めとして素晴らしい詩が並ぶ詩集『自分は見た』の詩人もまた、無垢な感性ゆえに大正~昭和の日本社会の激動に痛ましい生涯を送った人でした。しかし千家元麿の詩はその理想主義的な高さから現実との抵抗感を持ち、それが人生論詩や教訓詩、心境詩とは一線を画した純粋な詩ならではの感動を湛えているのも確かです。