人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

1中原中也「冬の長門峡」「渓流」昭和12年(1937年)

中原中也明治40年(1907年)4月29日生~
昭和12年(1937年)10月22日没(享年30歳)、逝去1年前
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冬の長門峡


長門峡(ちやうもんけふ)に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。

われは料亭にありぬ。
酒酌(く)みてありぬ。

われのほか別に、
客とてもなかりけり。

水は、恰(あたか)も魂あるものの如く、
流れ流れてありにけり。

やがても密柑(みかん)の如き夕陽、
欄干(らんかん)にこぼれたり。

あゝ! ――そのやうな時もありき、
寒い寒い 日なりき。

(「文學界昭和12年=1937年4月)

渓流


渓流(たにがは)で冷やされたビールは、
青春のやうに悲しかつた。
峰を仰いで僕は、
泣き入るやうに飲んだ。

ビシヨビシヨに濡れて、とれさうになつてゐるレッテルも、
青春のやうに悲しかつた。
しかしみんなは、「実にいい」とばかり云つた。
僕も実は、さう云つたのだが。

湿つた苔も泡立つ水も、
日蔭も岩も悲しかつた。
やがてみんなは飲む手をやめた。
ビールはまだ、渓流の中で冷やされてゐた。

水を透かして瓶の肌へを見てゐると、
僕はもう、此の上歩きたいなぞとは思はなかつた。
独り失敬して、宿に行つて、
女中(ねえさん)と話をした。
 (一九三七・七・五)

(未発表詩稿より)


 青年時代にイギリス留学で古典から最新の現代詩までを徹底的に学んだ西脇順三郎(1894-1982)は「日本人の詩の趣味は悪い。中原中也の詩などちっとも良くない」と放言してはばかりませんでしたが、西脇順三郎の詩集によって現代詩を書き始めた戦後詩人の鮎川信夫(1920-1986)も当初はまた同様の意見を持っていたようです。鮎川が一転して中原中也を高く評価する批評を発表したのが昭和50年(1975年)に刊行された思潮社の『現代詩文庫・中原中也詩集』の解説で、鮎川は同書を編集するとともに長文の巻末解説「中原中也論」を書き下ろし、「二十数年前にはじめて読んだときには、なんとも拙劣で、オッチョコチョイで、いい気な奴だと思い、それを読まされたことに閉口してしまったものであるが、私も変れば変るものである。」と率直に中原の詩を認め、「中原中也は、まだ現代詩の渦中に生きているのである。」と「中原中也論」を結んでいます。この鮎川信夫の「中原中也論」は中原の詩と心情に成心なく向き合った丁寧で理解に富んだ批評で、中原中也詩集は各社の文庫版詩集で出ていますが、鮎川信夫の「中原中也論」を読むためだけでも「現代詩文庫」版を読む価値はあります。鮎川は「中原中也論」冒頭で、

中原中也の詩集を読んだ人なら誰でも気がつくはずだが、どんなバカにでもわかる詩がある反面、どんなに怜悧な人でも、解くことができない詩がある。」
「また、出来、不出来の落差の烈しさという点でも、ちょっと類を見ない詩人である。」

 とし、鮎川が考える中原中也の全詩集からAクラスの詩を6篇、Bクラスの詩を33篇数えあげ、

「その他は、なくもがなと思われたものであった。」
「しかし、こうした分類があまり厳密なものでなかったことは別として、詩人自身が、作の出来、不出来にそれほど拘泥しなかったことを考えると、たいして意味がないかもしれない。」

 と面白い書き出し方をしています。青年時代の鮎川なら40篇ほどの中原中也の詩のタイトルを上げただけで一般的な中原の詩への過大評価を一蹴し、論ずるに値しないと切り捨てたでしょうが、ここでは鮎川自身がかつての中原中也への偏見を洗い流しているのです。そこで鮎川がもっとも紙幅を割いて丁寧に味読しているのが遺稿詩集『在りし日の歌』に収められた中原最晩年の作品「冬の長門峡」で、鮎川自身の中原中也再発見の感動が伝わってくるような名文です。この詩は長男の文也を亡くした後、「八歳の子供程度」と診断されるほどの朦朧とした精神疾患に陥って1か月間精神病院に入院し、退院後の翌々月に発表され、同年10月の急逝(結核性脳膜炎)までに発表された最後から二番目の詩篇に当たります。

「普通ならせいぜい紋切型の抒情詩にしかならないところだが、痩せても枯れても中也は中也で、情緒の本質を忘れてはいない。彼は、蜜柑のように夕陽のイメジを懐中にして帰った。寒い寒い日の小さな収穫だったが、いくらか心が慰められたと言っているのと同じである。目立たないようであるが、「やがても」の「も」に強い臨場感の喜びがこめられており、「こぼれたり」で夕陽が身近くたぐりよせられているのである。」
「この詩の初稿は、「やがて蜜柑の如き夕陽、/欄干に射しそひぬ」であったらしいが、これでは前の四連と同様、単なる叙景にしかならないので、とても決定稿のような効果は得られなかったろう。」

 この指摘はさすがで、中学生の頃から40年あまり詩作を続けてきた鮎川ならではの、詩の書き手だからこその精密な読解です。そして鮎川は、

「「冬の長門峡」に関連して思い出す詩として、『在りし日の歌』に収められていない「渓流」があるが、これもなかなかの秀作である。」

 と「渓流」全文を引いています。ちなみに中原中也が詩友の安原喜弘と長門峡を訪れたのは昭和7年(1932年)3月のことだそうですから、「冬の長門峡」も「渓流」も5年前の思い出を現在に引き寄せて詠った詩です。「渓流」は没後に発見された未発表詩稿ですが、末尾の「(一九三七・七・五)」が創作日だとすると「冬の長門峡」発表から3か月後、逝去3か月半前の作品になります。鮎川は「渓流」について、

「よくもまあ、同じような題材でこれだけ違った詩が書けるものだと感嘆するしかない。無技巧すら完全な技巧の一部と化しているこの詩の場合は、「冬の長門峡」とは詩意識においてもまったく対極をなしている。具体的な体験をまるごと紙の上にぶつけたような、とでも言ったらいいのだろうか。この口語による詩語の動き、率直さ、美しさは無類であり、悲しみが跳ねて躍っているような、それでいてあくまでも透きとおったゆるぎない現在感には、それこそこちらが泣き入りたくなるほどである。」
「そして、最終行で「女中(ねえさん)と話をした。」と書くだけで、泡立つような悲しみをぴたりと抑えてしまっている。その悲しさが、また無類なのだ。このような表現の大手腕を、彼はいったいどこから得てきたのだろうか。」

 と身も蓋もないほどの絶賛を寄せています。これにはかつての「橋上の人」や「繋船ホテルの朝の歌」の思想詩人だった鮎川が、「WHO I AM」を含む『宿恋行』(昭和53年=1978年)の詩人に変貌した自然な人生観の推移を思い合わせられますが、「冬の長門峡」と「渓流」を併せて味読する鮎川が「中原中也論」を「中原中也は、まだ現代詩の渦中に生きているのである。」と結んでいるのは鮎川自身に中原中也の詩が生きているのを確認したということで、これほど愛情と共感のこもった讃辞はめったにないでしょう。55歳になった鮎川氏が息子ほどの年で亡くなった中原中也論を「どんなバカにでもわかる詩がある反面、どんなに怜悧な人でも、解くことができない詩がある。」とわざと知識人ぶった露悪的で傲慢な書き出しから始めたのは、「冬の長門峡」と「渓流」への暖かく優しい理解で結ぶための一種の照れだったのがわかります。また中原中也の詩が鮎川信夫に見事な「中原中也論」を書かせるほどのものだったのは、伝記的興味によらず純粋に文学としての観点によるだけに、学ぶところの大きなものです。